第3話
私とゼノン公爵の、静かで満たされた研究の日々は、突如として終わりを告げた。
王都に、異変が起きたのだ。
最初は、些細な兆候だった。
庭園の花が理由もなく枯れ始め、井戸の水が淀み、街の片隅で原因不明の病が流行りだした。
やがて異変は、誰の目にも明らかな脅威となって王都を覆い尽くした。
灰色の瘴気が、まるで生き物のように街を蝕み始めたのだ。
瘴気に触れた人々は次々と病に倒れ、豊かな大地は生命力を失い、ひび割れた。
王国の心臓である王都が、ゆっくりと死に向かっている。
その光景は、悪夢以外の何物でもなかった。
「……やはり、こうなったか」
離れの窓から瘴気に沈む王都を見下ろし、ゼノン公爵が低く呟いた。
その冬の空色の瞳には、予測が的中したことへの苦々しさと、静かな怒りが宿っている。
『この瘴気は、一体……?』
石板に問いかけると、彼は私に向き直った。
「君が王城の大聖堂から去ったことで、力の均衡が崩れたのだ。あの大聖堂は、古代の龍脈の真上に建てられている。龍脈から漏れ出す強大なエネルギーを、君は無意識のうちに、その聖なる力で浄化し、抑え込んでいた」
……私が、無意識に?
「そうだ。君という『蓋』を失った龍脈は、今、制御不能の瘴気を吐き出している。大神殿の連中は、君のその役割を知りながら、己の権威のために利用していたに過ぎん」
だから、私を王城から出したくなかったのか。
すべては、私を便利な道具として使い続けるための欺瞞。
込み上げてくる怒りに、体内の魔力が小さく揺らぐ。
エドワード殿下と、新たな婚約者となったリリアナ嬢は、当然、この危機に立ち向かおうとした。
リリアナ嬢はその強大な魔力で瘴気を焼き払おうとし、大神殿は大規模な浄化の儀式を執り行った。
だが、すべて無意味だった。
龍脈から溢れ出す根源的なエネルギーの前では、個人の魔術など焼け石に水。大神殿の祈りも、真の聖女を失った今、何の力も持たなかった。
状況は日増しに悪化していく。
民衆の不安は募り、やがてその矛先は、無能な為政者たちへと向き始めた。
追い詰められたエドワード殿下が、そして大神殿が、次に打った手は――。
卑劣極まりない、責任転嫁だった。
「この災厄は、聖女の座を追われたアリスの呪いである!」
王の名の元に発せられた布告は、瞬く間に国中に広まった。
「自らの罪を悔い改めず、国と民を逆恨みしたアリスが、禁忌の魔術を用いてこの瘴気を生み出したのだ!彼女は聖女にあらず!国を滅ぼす、邪悪な魔女である!」
民衆は、わかりやすい敵を求めていた。
自分たちの苦しみの原因を、誰かになすりつけたかった。
昨日まで「偽りの聖女」と罵っていた彼らは、今日、「邪悪な魔女」という新たな物語に飛びついた。
そして、私のもとに、王都からの使者が訪れた。
彼らが携えてきたのは、一枚の羊皮紙。
魔女アリスの、火刑による処刑を命じる、王の命令書だった。
『……ふざけないで』
石板に浮かび上がった文字は、怒りに震えていた。
けれど、隣に立つゼノン公爵は、どこまでも冷静だった。
「案ずるな。すべて、想定内だ」
彼は使者を冷たく追い返すと、私の肩にそっと手を置いた。
「アリス。君は、君の成すべきことを考えろ。奴らの茶番は、私が終わらせる」
彼の瞳には、絶対的な自信と、私への揺るぎない信頼が宿っていた。
その眼差しに、私はただ、こくりと頷くことしかできなかった。
◇
処刑の日は、三日後と決まった。
王城前の大広場には、私の最期を見届けようと、数えきれないほどの民衆が詰めかけていた。
憎悪、好奇心、そして恐怖。
渦巻く負の感情が、まるで瘴気のように広場を満たしている。
私は粗末な囚人服を着せられ、広場の中央に建てられた処刑台へと引きずられていった。
その上では、エドワード殿下と、彼に寄り添うリリアナ嬢が、勝ち誇った顔で私を見下ろしている。
「罪人アリス!貴様の悪逆に終止符を打つ時が来た!」
エドワード殿下が、高らかに私の罪状を読み上げる。
その言葉の一つ一つが、民衆の憎悪をさらに煽っていく。
(くだらない……)
私は、ただ冷めた心でその光景を眺めていた。
恐怖はない。
ただ、この愚かな芝居を終わらせた後、どうやってこの国を救うか、それだけを考えていた。
「魔女に死を!」「国を救え!」
民衆のシュプレヒコールが、地響きのように広場を揺らす。
そして、処刑人が掲げた松明の炎が、私の足元に積まれた薪へと振り下ろされようとした、その瞬間――。
「茶番は、そこまでだ」
凛とした、氷のように冷たい声が、すべての喧騒を切り裂いた。
人々が振り返った視線の先。
そこには、黒衣を翻し、悠然と歩みを進めるゼノン・アークライト公爵の姿があった。
「ゼノン公爵!貴様、何のつもりだ!魔女を庇うのか!」
エドワード殿下が狼狽の声を上げる。
だが、ゼノン公爵は彼を一瞥だにせず、処刑台へと上がった。
「私が庇うのは、魔女ではない。この国を、陰ながら守り続けてきた、真の聖女だ」
彼はそう言うと、一つの記録魔道具を高く掲げた。
「ここに、すべてが記録されている!大神殿が、アリス嬢の類稀なる聖なる力を独占し、龍脈の浄化という危険な役目を、彼女一人に押し付けていた証拠がな!」
魔道具から、大神官長と先代国王の会話が音声として流れ出す。
アリスの力をいかに利用するか、その魔力をいかに隠蔽するか、生々しい会話が広場に響き渡った。
「なっ……!そ、それは捏造だ!」
大神官長が顔面蒼白で叫ぶ。
だが、ゼノン公爵は冷笑を浮かべた。
「捏造だと?では、大神殿の地下に隠された、龍脈のエネルギーを私的に転用するための魔法陣は、どう説明する?」
彼の言葉に、民衆はざわめき始める。
どちらの言葉が真実なのか、疑心暗鬼が広がっていく。
エドワード殿下とリリアナ嬢の顔からも、余裕の笑みは消えていた。
「黙れ、黙れ、黙れ!たかが公爵風情が、王家に楯突く気か!衛兵、何をしている!ゼノンを捕らえろ!そいつは魔女の共犯者だ!」
エドワード殿下がヒステリックに叫んだ、まさにその時だった。
ゴオオオオオッ!!
大地が、咆哮した。
王都を覆っていた瘴気が、それまでとは比較にならないほどの濃度で、広場の中心から噴き出したのだ。
龍脈が、完全に暴走を始めたのだ。
「「「ぎゃあああああ!!」」」
瘴気は形を成し、禍々しい異形の魔物を次々と生み出していく。
騎士団の剣は魔物の硬い皮膚に弾かれ、リリアナ嬢が放った炎の魔法は、瘴気の中に虚しく吸い込まれて消えた。
阿鼻叫喚の地獄絵図。
誰もが、王国の終わりを悟った。
その、絶望の只中で。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
もう、迷いはない。
私は、この忌まわしい力を制御するために研究を続けてきた。
まだ完璧ではないかもしれない。
けれど――やらなければ。
この地獄を終わらせるために。
そして、私を信じてくれた、ただ一人の人のために。
私は、隣に立つゼノン公爵の瞳を、まっすぐに見つめた。
言葉はいらない。
視線だけで、私の決意は伝わったはずだ。
彼は、ただ静かに頷いた。
その瞳には、絶対の信頼が宿っている。
それで、十分だった。
私は、ゆっくりと息を吸い込む。
体内で渦巻く、聖と魔の力。
光と闇。
相反する二つの力を、意識の糸で一つに束ねていく。
そして――私は、声を発した。
生まれて初めて、自らの意志で、世界に向けて言葉を紡いだ。
「――光よ」
その声は、囁くように、か細かった。
けれど、不思議なほど、戦場の喧騒の隅々にまで響き渡る。
次の瞬間。
私の体から、太陽が爆ぜたかのような、眩い純白の光が放たれた。
それは、ただの聖なる力ではない。強大な魔力によって増幅され、指向性を持たされた、浄化の奔流。
光に触れた魔物たちが、悲鳴を上げながら塵となって消えていく。
人々が、呆然と私を見上げていた。
エドワードも、リリアナも、大神官長も、信じられないものを見る目で、ただ立ち尽くしている。
私は構わず、二つ目の言葉を紡ぐ。
「――闇を、祓え」
今度の声は、絶対的な意志を宿した、女王の号令だった。
私の足元から、黒い衝撃波が円形に広がる。
それは、ただの破壊の魔力ではない。聖なる力によって秩序を与えられ、浄化の概念を付与された、破邪の波動。
衝撃波が通り過ぎた後には、瘴気の一片すら残っていなかった。
空を覆っていた灰色の雲は消え去り、澄み切った青空から、優しい陽の光が降り注ぐ。
静寂。
死んだような静寂が、広場を支配していた。
やがて、誰かがぽつりと呟いた。
「……言霊、だ」
「聖なる力と、魔力を同時に操る、伝説の……」
「……聖魔女様……」
人々は、もはや私を魔女とは呼ばなかった。
畏怖と、そして感謝の念を込めて、新たな名を口にする。
偽りの聖女アリスは、今日、完全に死んだ。
そして、この断罪の広場で、王国を救う「言霊の聖魔女」として、新たに生まれ変わったのだ。
絶望の色に染まったエドワード殿下の顔を、私は、ただ静かに見下ろしていた。




