第2話
硬い石の床、湿った空気、そして鉄格子の嵌まった窓から差し込む、細く頼りない月明かり。
それが、偽りの聖女アリスに与えられた新しい寝床だった。
王城の北の果てにそびえ立つ、忘れ去られた古塔の最上階。罪人を幽閉するための、簡素な独房。
しかし、不思議と心は凪いでいた。
むしろ、歓喜に打ち震えていると言ってもよかった。
(やっと……やっと、自由になれた)
豪華なドレスも、重たい装飾品もない。
傅役の侍女たちの監視の目も、エドワード殿下の見せかけの優しさもない。
ここには、私と、私の内に渦巻く膨大な力だけがある。
誰にも邪魔されず、誰の目も気にすることなく、この力の研究に没頭できる。
これ以上の理想的な環境が、他にあるだろうか。
私は床に座り込み、意識を内側へと集中させた。
体内でぶつかり合う、聖なる力と魔力。光と闇の奔流。
今までは、ただ蓋をして、抑え込むことしかできなかった。
けれど、これからは違う。
この二つの力を理解し、分解し、そして再構築する。
いつか、この声で言葉を紡いでも、世界が壊れないように。
私自身の声で、私の意志を伝えるために。
夜会での断罪劇は、私にとって絶望ではなかった。
それは、私が私であるための、最初の扉を開ける鍵だったのだ。
そんな静謐な思索の時間は、突如として破られた。
カツン、と。
背後の扉から、硬質な音が響く。
衛兵の足音ではない。もっと重く、冷たく、そして圧倒的な存在感を放つ音。
振り向くと、そこに一人の男が立っていた。
鉄格子の扉は、まるでそこだけ空間が歪んだかのように、静かに開かれている。
夜の闇を溶かして固めたような、漆黒の髪。
触れれば凍てつきそうなほど白い肌に、すべてを見透かすかのような、冴え冴えとした冬の空色の瞳。
その身に纏うのは、最高位の魔術師であることを示す、銀刺繍の施された黒衣。
この国で、その姿を知らぬ者はいない。
ゼノン・アークライト公爵。
王国最強の魔術師にして、その冷徹さから「氷の貴公子」と畏怖される男。
戦場では一人で一個師団に匹敵すると言われ、王族ですら彼の前では言葉を失う。
なぜ、そんな彼がここに?
ゼノン公爵は、一切の感情を読み取らせない瞳で私を捉えると、ゆっくりと口を開いた。
「やはり、噂は当てにならんな」
彼の声は、その見た目通り、低く、静かで、氷の結晶が触れ合うような冷たさを帯びていた。
「悲劇に打ちひしがれる、か弱き聖女。そう聞いて来てみれば……その瞳は、まるで獲物を前にした獣だ」
心臓が、大きく跳ねた。
この男は、見抜いている。
私が演じていた悲劇のヒロインの仮面も、そしてその下に隠した本当の私をも。
私は警戒を最大に引き上げ、無言で彼を睨みつけた。
言葉を発することはできない。だが、この瞳が雄弁に語っていたはずだ。
『何の用だ』と。
ゼノン公爵は、私の敵意を意にも介さず、悠然と歩みを進めてくる。
「単刀直入に言おう、アリス。君の力が欲しい」
(……私の、力?)
聖女の癒しの力のことだろうか。
それならば、大神殿を通すのが筋だ。
私が首を傾げると、彼はまるで私の思考を読んだかのように、フッと唇の端を吊り上げた。
「大神殿が喧伝するような、ありふれた癒しの力ではない。私が欲しいのは、君がその沈黙の奥底に隠している、もう一つの力だ」
雷に打たれたような衝撃が、全身を貫いた。
知られている?
私の魔力のことを、この男が?
「……なぜ」
思わず、声なき声が唇から漏れた。
この男の前では、沈黙という鎧が無意味であるかのように感じられた。
「君が生まれた日、王都の魔力観測儀が振り切れた。記録上は原因不明の魔力嵐とされているがな。そして、幼い君が暮らしていた森が半壊したあの日も、同様の現象が観測されている」
彼は淡々と、事実だけを告げる。
「聖なる力と、強大な魔力。相反する二つの力が、一つの器の中で拮抗している。声を発すれば、その均衡が崩れ、制御不能の力が溢れ出す……違うか?」
すべて、見抜かれていた。
両親と大神官長しか知らないはずの、私の最大の秘密が。
絶望が、じわりと胸に広がった。
自由になったと思ったのも束の間、今度はこの男に利用されるのか。
私の表情から諦観を読み取ったのか、ゼノン公爵は静かに首を振った。
「勘違いするな。君を意のままに操ろうという気はない。私は、純粋な探究者として君に興味がある。その特異な力の構造を、共に解き明かしたいだけだ」
彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
そこには、びっしりと難解な魔法陣や数式が書き連ねられている。
「これは契約書だ。私、ゼノン・アークライトは、アリス嬢に最高の研究環境と身の安全を保証する。その代わり、君は研究パートナーとして、私に協力する。……どうだ、悪い話ではあるまい?」
研究環境。身の安全。研究パートナー。
その言葉の一つ一つが、乾いた砂に染み込む水のように、私の心に響いた。
この男は、私を聖女としても、魔女としても見ていない。
ただ、一人の類稀なる研究対象として、対等な立場で手を差し伸べている。
疑うべきだ。
こんな美味い話があるはずがない。
けれど、この男の瞳の奥に揺らめくのは、権力欲でも支配欲でもない。
未知の真理を追い求める、純粋な知的好奇心の光だった。
私は、生まれて初めて、賭けに出ることにした。
こくり、と。小さく、しかしはっきりと頷く。
その瞬間、ゼノン公爵の氷のような表情が、ほんのわずかに和らいだように見えた。
「話が早くて助かる」
◇
翌日、私は古塔から公爵邸の離れへと身柄を移された。
表向きは、「聖女の罪を悔い改めさせるため、公爵家の監視下に置く」という名目だった。
連れてこられた部屋は、私の想像を遥かに超えていた。
それは、部屋というより、一つの巨大な図書館であり、実験室だった。
天井まで届く本棚には、古今東西の魔法に関する文献がぎっしりと並び、中央の大きな机には、最新の魔道具や錬金術の道具が整然と置かれている。
「今日から、ここが君の城だ」
ゼノン公爵はそう言うと、一枚の石板を差し出した。
「声が出せない君のために用意した。魔力を流せば、思ったことが文字として浮かび上がる」
私は恐る恐る石板に触れ、魔力を込めた。
すると、淡い光と共に、滑らかな文字が表面に現れる。
『……ありがとうございます』
「礼は不要だ。合理的な判断をしたまでだ」
そう言って、彼は早速、分厚い本を机に広げた。
そこから、私たちの奇妙な共同生活が始まった。
昼は、それぞれの研究に没頭する。
私は、自らの力の制御法を探るため、古代の文献を読み漁った。
彼は、新たな魔法の開発に勤しんでいるようだった。
そして夜になると、私たちは一つのテーブルに向かい合い、筆談ならぬ〝石板談義〟を交わした。
『この古代魔法の理論、力のベクトルを逆転させれば、浄化ではなく破壊にも転用できるのでは?』
『面白い着眼点だ。だが、その場合、術式を維持するための魔力消費量が指数関数的に増大する。現実的ではない』
『では、術式に安定化のルーンを組み込むのは?例えば、この幾何学模様を……』
会話は、いつも魔法理論の深い部分にまで及んだ。
彼は、私が聖女としてではなく、一人の魔術師として意見を言うことを、心から楽しんでいるようだった。
私も、誰かと知識をぶつけ合う喜びに、胸が高鳴るのを感じていた。
彼は、私がこれまで出会った誰とも違っていた。
私の沈黙を、無能の証だとは決して言わない。
私の知識を、女の浅知恵だと見下しもしない。
ただ、ありのままの私を認め、その才能を評価してくれる。
それが、どれほど心地良いことか。
ある嵐の夜だった。
窓を叩く激しい雨音に紛れて、彼の部屋から微かな呻き声が聞こえた。
心配になってそっと扉を開けると、ゼノン公爵がベッドの上で苦し気に顔を歪めている。
額には汗が滲み、その表情は普段の冷静沈着な彼からは想像もつかないほど、弱々しく見えた。
『どうかなさいましたか?』
石板を差し出すと、彼は一瞬、虚を突かれたような顔をした後、自嘲気味に笑った。
「……古い呪いだ。戦場で敵の呪術師に受けたものでな。満月の夜や、こうして嵐で魔力が乱れる夜は、古傷が疼く」
王国最強の魔術師にも、弱点があったのだ。
強すぎる光は、濃い影を生む。
彼もまた、その強大すぎる力ゆえの孤独を抱えているのかもしれない。
私は、無意識のうちに彼の手を取っていた。
そして、私のもう一つの力――聖なる力を、そっと彼の体に流し込む。
温かく、柔らかな光が、私の手から彼へと伝わっていく。
呪いの疼きが和らいだのか、彼の苦しげな表情が、少しずつ穏やかになっていった。
「……君は、本当に面白いな」
しばらくして、彼はぽつりと呟いた。
その冬の空色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。
「破壊の力(魔力)と、癒しの力(聖性)。その両方を持ちながら、君はどちらにも溺れない。その魂は、驚くほどに澄んでいる」
彼の言葉は、私の心の奥深くに、静かに染み渡った。
呪いだと思っていたこの力を、初めて肯定された気がした。
この時、私はまだ気づいていなかった。
氷の貴公子と呼ばれた男の、その凍てついた心の奥で、小さな熱が灯り始めていたことを。
そして、私自身の心にもまた、彼に対する特別な感情が芽生えつつあることを。
私たちの契約関係は、静かに、しかし確実に、形を変えようとしていた。
そして、その変化が王国全体を揺るがす大きな嵐の引き金になることを、まだ誰も知らなかった。




