第1話
「沈黙の聖女」アリス。
それが、この国で私を指し示す言葉だった。
陽光を透かす銀糸の髪。静かな湖面を思わせるアメジストの瞳。神殿の純白の衣を纏い、祈りを捧げる姿は、誰の目にも神々しく映るらしい。
けれど、それはすべて偽り。
人々が私に抱く幻想。私が演じることを強いられた、虚構の偶像。
私の唇は、祝福の言葉を紡ぐためにあるのではない。
この沈黙は、聖性の証などでは断じてない。
これは、呪い。
そして、私自身が私に課した、戒めなのだ。
「アリス、顔色が優れないようだね。無理はしなくていいんだよ」
目の前で完璧な微笑みを浮かべるのは、私の婚約者であり、この国の第一王子であるエドワード殿下。陽の光を溶かし込んだような金髪に、空の青を映した瞳。絵画から抜け出したような美しい人。
彼の声は蜜のように甘く、その眼差しは慈愛に満ちている。
少なくとも、周囲の目にはそう映っているのだろう。
けれど、私に向けられるその瞳の奥には、温度のない侮蔑が横たわっていることを、私は知っている。
(……また、この目だ)
彼は、私が祈りを捧げる以外の役立たずだと思っている。言葉も交わせない、意思薄弱な飾り物だと。
私は返事の代わりに、そっと目を伏せて小さく頷いた。
それが、私に許された唯一の意思表示だったから。
「ああ、健気だ……。君のその心根の美しさが、国を清めているのだよ」
エドワード殿下は満足そうに頷き、私の手を取る。その仕草はあくまで優雅で、見惚れる侍女たちはうっとりとため息を漏らした。
馬鹿な人たち。
この男が、昨夜も別の令嬢の部屋を訪れていたことも知らずに。
私の本当の姿も知らずに。
◇
私、アリスには、生まれつき二つの相反する力が宿っていた。
一つは、万物を癒し、浄化をもたらす「聖なる力」。
聖女と呼ばれる所以であり、大神殿が私を国の至宝として担ぎ上げる理由。
そして、もう一つは――。
聖なる力を遥かに凌駕する、強大な「魔力」。
光と闇。秩序と混沌。
本来、決して一つの器に収まるはずのない力が、私の内側で渦巻いている。
このアンバランスな力は、私の「声」をトリガーにして暴走する。
幼い頃、感情の昂りに任せて発した一言が、周囲の森を半壊させたあの日から、私は言葉を捨てた。
話せないのではない。話さないのだ。
たった一言で、この城すら塵芥に変えてしまえる危険を、誰よりも私自身が理解しているから。
この真実を知るのは、私を大神殿に売り渡した両親と、私の力を利用する大神官長のみ。
彼らは私の魔力を「聖女が背負った聖痕の痛み」と偽り、私の沈黙を「神への絶対的な帰依の証」だと喧伝した。
おかげで私は、自由と引き換えに、偽りの聖女という安寧を手に入れた。
この息の詰まる鳥籠の中で、今日も私は完璧な偶像を演じ続ける。
夜会が、心の底から嫌いだった。
きらびやかなシャンデリアの光も、華やかな音楽も、貴族たちの空虚な笑顔も、すべてが私を苛立たせる。
建国記念の今宵は、一年で最も盛大な夜会が開かれる。
エドワード殿下の隣で、私は作り物の微笑みを浮かべ、ただ静かに佇んでいた。
「まあ、アリス様!今宵も本当にお美しいですわね。まるで人形のようですわ」
甲高い声と共に、甘ったるい香水の匂いが鼻をつく。
炎のような赤いドレスに身を包んだ、公爵令嬢リリアナ。彼女こそ、エドワード殿下が最近ご執心のご令嬢だ。
リリアナは、私とは正反対の存在だった。
快活で、饒舌で、そして国内でも有数の魔力の持ち主。彼女の放つ生命力は、静謐を求められる私とはあまりにも対照的だった。
「リリアナ、失礼だろう。アリスは聖女なのだ。その清らかさを、軽々しく口にしてはいけないよ」
エドワード殿下がリリアナを窘めるが、その声には何の棘もない。それどころか、彼女に向ける眼差しは熱を帯びている。
「ごめんなさい、殿下。でも、わたくし、思うのです。これからの時代、国に必要なのは、ただ祈るだけのか弱い聖女様なのでしょうか、と。わたくしのように、その力で国を守れる存在こそが、殿下のお隣に立つべきではないかと」
リリアナの言葉は、その場にいた多くの貴族たちの本音でもあった。
近年、隣国との緊張が高まり、武力――すなわち、魔力の重要性が増している。
そんな中で、ただ存在するだけの聖女(私)は、時代遅れの遺物なのだ。
(それで結構よ)
私は、誰の隣にも立ちたくない。
ただ、静かに、誰にも干渉されず、この忌まわしい力を制御する方法を見つけたいだけ。
そう願う私に、運命は最悪の形で微笑んだ。
音楽が止み、会場が静寂に包まれる。
スポットライトのように、すべての視線が中央に立つエドワード殿下と、その隣でか弱く震えるリリアナに集まった。
そして、その指先は、真っ直ぐに私を捉えていた。
「皆、聞いてくれ!」
エドワード殿下の声が、ホールに響き渡る。
「今、我々の目の前で、決して許されざる罪が犯されようとした!この国の聖女であるはずのアリスが、その聖なる仮面の裏で、公爵令嬢リリアナを呪い、その類稀なる魔力を奪おうとしたのだ!」
……は?
一瞬、思考が停止した。
会場が、蜂の巣をつついたような騒ぎになる。
呪い?私が、リリアナを?
馬鹿馬鹿しいにも程がある。そんなことをするメリットが、私に一つでもあるというの?
すると、リリアナがドレスの胸元を押さえ、苦しげに顔を歪めた。
「うっ……!殿下、体が……魔力が、うまく練れませんの……!」
見事な演技だった。
彼女の魔力が不安定に見えるのは、おそらく事前に何か特殊な薬でも飲んだのだろう。
「見たか、皆の者!これが証拠だ!アリスは己の無能を恥じ、リリアナの才能に嫉妬したのだ!聖女にあるまじき、醜い嫉妬心から、彼女は罪を犯した!」
エドワード殿下の言葉に、貴族たちは同調の声を上げる。
「なんてことだ」「聖女様がそんな……」「やはり、声が出せないのは呪われているからでは」
違う。
すべて、違う。
私は唇を噛み締めた。
喉の奥から、言葉が溢れ出しそうになるのを必死で堪える。
一言、否定すればいい。
たった一言、「違う」と、そう言えば。
――ダメだ。
言えば、すべてが終わる。
この茶番も、この国も、ここにいる全ての人間も。
私の内に眠る混沌の力が、すべてを飲み込んでしまう。
唇をきつく結び、俯く私を、エドワード殿下は勝利を確信した目で見下した。
「沈黙は肯定とみなす!聖女アリス!お前のその穢れた心では、もはや国の象徴たり得ない!」
彼は高らかに、断罪の言葉を紡いだ。
「よって、今この時をもって、貴様との婚約を破棄する!そして私は、真に国を支える力を持つリリアナを、新たな妃として迎えることをここに宣言する!」
おお、と歓声が上がった。
新しい時代の幕開けを祝うかのような、熱狂的な拍手。
婚約破棄。
結構よ、そんなもの。元より望んでいなかった。
リリアナを妃に?
お好きにどうぞ。あなた達は、お似合いの二人だわ。
罵声が飛ぶ。
侮蔑の視線が突き刺さる。
今まで私を崇め奉っていた者たちが、手のひらを返したように石を投げてくる。
私は、静かにそのすべてを受け入れた。
アメジストの瞳で、まっすぐにエドワード殿下を見つめる。
私の瞳に、絶望や悲しみの色を探したのだろう。しかし、そこにあるのは、氷よりも冷たい静かな光だけ。
(ありがとう、エドワード殿下)
心の中で、私は彼に感謝した。
(あなたのおかげで、私はやっと、この息苦しい鳥籠から出られる)
これは、終わりではない。
これは、私が私自身の人生を取り戻すための、始まりの儀式なのだ。
偽りの聖女アリスは、今宵、死んだ。
そして、この断罪の夜に――新しい私が、産声を上げる。
その瞳の奥で、まだ誰にも見えない冷たい炎を燃やしながら、アリスは静かに、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
それは、完璧な悲劇のヒロインの姿そのものだった。
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