第一章19 蛇闘編『リーガの違和感』
俺は咄嗟にその人影を追いかけた。人影は路地裏に消えていったため、路地裏を確認したが、忽然と姿を消していた。
リーガはこちらを不思議そうに見ていた。
「何かあったの?」
「いや……なんでもないよ」
言葉に詰まり、それ以上喋らなかった。どこかで「話してはいけない」と小さな声が言っている気がしたのだ。
二人はそのまま寮に戻り、夕食を摂ってから各々寝床に入った。しかし、身体は疲れているはずなのに目は冴え、先ほどの人影が頭に張り付いて離れない。
翌日、学院に出るとクラスは騒然としていた。最近、学内で生徒が行方不明になる事件が立て続けに起きているという。しかも被害者の中には、同じクラスの人も含まれているらしい。
学院は事態を重く見て騎士団へ通報し、全生徒に
「怪しい人物を見かけたらすぐ報告する」
よう指示が出された。俺は迷わずアリアに相談することにした。
「アリア先生、怪しい人影を目撃したんですが」
「分かったわ」
アリアはすぐ執務室へ案内した。机の上で手早くメモを取りながら、顔を上げる。俺はアリアに事情を話した。
「紋章があった……ね。どんな模様か覚えている?」
「確か…蛇のような紋章だったと思います」
「蛇ね……調べておくわ。君は今日はなるべく外の行動を控えて。危険を回避するのが最優先よ」
その返答がどこかよそよそしく、胸に小さな不安を抱いた。自分にできるのは強くなることだけだ――そう決めた瞬間、授業が始まるベルが鳴った。
授業中も、休み時間も、リーガの様子は気になった。いつもより口数が少なく、目が泳いでいる。理由は意外と早く判明した。放課後、リアナが俺を呼び止めた。
「ジンさん。少しだけお時間もらえますか? リーガさんについての話があるんですが」
「ああ。俺も少しリーガの様子に気になることがあるんだ」
リアナと並んで歩きながら、リーガのことを尋ねる。すると、彼女は少し躊躇してから切り出した。
「あれは……リーガさんではないです」
先に切り出したのはリアナだった。その回答は想定外のものだった。俺は反射的に聞き返す。
「リアナ、それは一体……どういうことだ?」
「彼から別の気配が感じました……私の家系は人の魔力の気配を感知できるんです。と言っても少し分かる程度ですが……」
リアナの言っていることが本当だと自分の直感が言っていた。
「彼はリーガさんではありません……どちらかと言うと邪悪な人間以外の気配です」
「魔物ってことか?」
「いや違います……それよりももっと何か別のものの感じがしました」
リアナは不安が抑え切れないのか、手が震えていた。俺とリアナは無言で寮の前まで来ていた。翌日、二人でリーガに接触する約束をして、それぞれ解散する。
だが寮に着いても、リーガの姿はなかった。遅くなっても帰らず、心配になった俺は寮監に報告だけして床についた。
翌日。リーガはクラスに来ていた。だが、前日よりもその表情は硬く、どこか遠くを見ている。リアナに報告すると、彼女は眉を寄せた。
「今日のリーガ、俺でもわかるくらい違和感があるな……他のやつは気づかないのか?」
「気づいてないんだと思います。ジンさんも私と同様、感知する力が強いのでしょう。おそらく普通の人は分からないのかと」
夕暮れ、俺たちは剣を携え、あえて二人でリーガの後を追うことにした。彼はいつもよりゆっくり歩き、人気のない路地へと入っていった。
リーガは角を一つ曲がると、古びた扉の前で立ち止まった。そこで、彼は立ち止まり、誰かを呼ぶように片手を掲げた。
薄暗がりの中、黒いフードの人物が静かに現れる。二人の間で交わされる言葉は聞こえない。だが、僅かに漏れ聞こえたものが俺の鼓動を早めた。
――「紋章」「準備」「魔獣」
リーガがその人物に近づく。フードの男の袖が捲れ、腕に小さく刻まれた赤い蛇の紋がちらりと見えた。息を詰める。あの時見た紋章と同じだ。
リアナが小さく肩を震わせる。俺も一歩前へ出たとき、リーガがこちらを振り向いた。薄暗い顔の下から、不気味な笑いを浮かべる。瞳は人のそれではない――黒い縁取りの中に薄紅の光が宿っていた。
その吐息は、路地の空気を震わせる。
「見つかったか」
声は低く、背後でフードの男が固まる。リアナの手が震え、短剣の柄を握り締める。
次の瞬間、街灯が一斉に消えた。闇が落ち、路地を満たすのは三人の呼吸だけだった。
フードの男は、ゆっくりと手をひらき、掌の内で黒い蝋のような塊を転がした。塊の表面に細い線が浮かび、その線がゆらりと蛇の形を描く。
リアナの瞳が見開かれた。
「あれは――」
言い終わらぬうちに、塊から鋭い光線が走る。俺は反射で身を投げ出した。地面を滑り、膝と掌が石に擦れた。だが、リアナの声が耳を裂く。
「ジンさん! 離れてください!」
暗闇の中、何かが唸った。遠く、低く、――それは始まりの音だった。
俺は泥まみれの膝を抱え、振り向く。フードの男の背後で、リーガの影が変わっていくのを見た。彼の肩から、ほんの一瞬だけ、冷たい光がにじんだ。
――リーガの目の奥に見たものは、確かに彼のものではなかった。
背筋を走る寒気。足元で、何かが微かに震えた。
そのとき、路地の突き当たりから――低く、魔物のような唸りが迫ってきた。地面が小さく震える。影が揺らぎ、光が一瞬ほとばしった。
リアナと目を合わせる。二人とも、同じ言葉を飲み込んだ。
「駄目だ、ここにいると何かまずいことになる!逃げ――」
言い終わらぬうちに、背後から冷たい掌が首筋へ触れた。誰かに押される感触。振り向く間もなく、視界に一筋の黒い紋様が落ちた――それは蛇の形をした影だった。
心臓が、耳鳴りのように高鳴る。暗闇の中で、何かが、ゆっくりと近づいてくる足音が聞こえた。
(――魔物か?)
その問いは、答えを待たず、現れたそれの咆哮によってかき消された。




