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【アップ】2025年2月16日 公同礼拝/讃美歌とMy noteもあります

初めまして、天川裕司です。

ここではシリーズでやってます『夢時代』と『思記』の原稿を投稿して居ります。

また、YouTubeドラマ用に仕上げたシナリオ等も別枠で投稿して行きます。

どうぞよろしくお願い致します。

少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。

サクッと読める幻想小説です(^^♪

お暇な時にでもぜひどうぞ♬


【アメーバブログ】

https://blog.ameba.jp/ucs/top.do


【男山教会ホームページ】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【YouTube】(不思議のパルプンテ)

https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos


【ノート】

https://note.com/unique_panda3782


【カクヨム】

https://kakuyomu.jp/my/works


【YouTubeドラマにつきまして】

無課金でやっておりますので、これで精一杯…と言うところもあり、

お見苦しい点はすみません。 なので音声も無しです(BGMのみ)。

基本的に【ライトノベル感覚のイメージストーリー】です。

創造力・空想力・独創力を思いっきり働かせて見て頂けると嬉しいです(^^♪

出来れば心の声で聴いて頂けると幸いです♬

でもこの条件から出来るだけ面白く工夫してみようと思ってますので、

どうぞよろしくお願いします(^^♪



【本日のメッセージ】

※機材の不具合で動画の録画が出来ておりませんでしたので、

同箇所の聖書メッセージとドラマをアップして居ります。


(ハーベストタイム)

30日でわかる聖書「マタイの福音書」 マタイ15章

https://www.youtube.com/watch?v=-Jsy4cMZj4k


LUMO-マタイの福音書11章2節~11章19節「ヨハネとイエスの違い」

https://www.youtube.com/watch?v=ic9yjEIokN8


【ブログ】

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12887566912.html

(ブログを見てくださると聖書を閲覧できます)



2025年2月16日 礼拝説教 聖書箇所


「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」

マタイによる福音書15章11節


わたしは弟子たちと共に証しの書を守り、教えを封じておこう。

イザヤ書8章16節


はじめに

信教の自由を守る日を覚えつつ、平和シャロームを求める祈りを吟味したい。

1

「そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て」とは、隠れた悪意ある者たちのイエスへの接近。すでに多くの不思議な業を聞きながら、誠実に、主のもとに来ることができない。イエスを試す問いは「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗っていません。」「手を洗う」とう仕草は、モーセ律法では、汚れたものに触れた人が手を洗うように命じられる(レビ15章11節、申命記21章6節)。詩編では「主よ、わたしは手を洗って潔白を示しあなたの祭壇を廻り感謝の歌声を響かせ驚くべき御業をことごく語り伝えます」(26編6,7節)、「わたしは心を清く保ち手を洗って潔白を示したが、むなしかった」(73編13節)とあるように、礼拝をささげる心を証しするもの。ピラトは、イエスを十字架刑に処した時、「手を洗って言った。『この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ』」(マタイ27章24節)。このように、「手を洗う」心がどこにあるのか、が、聖なる神、主、イエスの御前に問われる。「食事の前に」とは、人の言い伝えであって、神の掟ではないが、何らかの宗教的意味(異邦人の触れたものに触れて汚れる、全身が汚れる、等)が付加されていた。つまり、それを守っている事に意味があることに事の軽重、真偽がすり替えられた(マルコ7章4節)。

「そこで、イエスはお答えになった。『なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、「父と母を敬え」(出エジプト20章12節、レビ記19章3節、申命記5章16節)と言い、「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきであるとも言っておられる(レビ20章9節)」。」レビ記24章(10節以下)には、「イスラエル人を母とし、エジプト人を父にもつ男」「が主の御名を口にして冒涜し」、主の裁きがモーセによって告げられ、死刑に処せられたことが証言される。つまり、父または母をののしるとは、主を冒涜するに等しい罪。さらに、主イエスは「それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物(コルバン:マルコ7章11節)とする」と言う者は、父を敬わなくてもよい(父を敬ってはならない(新改訳2017))』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉(掟、命令、戒め)を無にしている」と答えられた。ここにある一つの供え物の誓いは、神の掟を骨抜きにする程に上位に置かれる。

「偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ」。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。(イザヤ書29章13節)』それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」「偽善者」とは、もとは、自分自身が決めたにもかかわらず、他者が言っていることを取り上げて答える者、隠れたところで裁く者、善を装い、なりすまして演技する者。じつに「あなたたちを訴えるのはあなたたちが頼りにしているモーセ」(ヨハネ5章45節)。

ヨブは「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と宴会が一巡しするごとに、息子たちを呼び寄せ聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた(ヨブ1章5節)。わたしたちのささげている礼拝の心は、どこにあるのか。主の御前に吟味したい。

おわりに

エルサレムの都と神殿にたよっていた民を前に、まことの預言者イザヤは、主の教えを封印した。それは御言葉に期待しない、神の民の罪ゆえ。闇の中の光キリストの教えは。



(My note)


二〇二五年二月一六日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を、神様に感謝する。

(公同礼拝)

【聖書】

『マタイによる福音書』(第一五章一〜一一節)

『イザヤ書』(第八章一六〜二三節)

この箇所では、いつでも神様の御前みまえに忠実であり、神様が初めから教えて居る事をどれだけ信仰を以て守れて居るか?その教えが人から来たものになく、神様から来るものとして受け入れる事が出来て居るか?が問われる。

『イザヤ書』では同じく、人の間の習慣・言い伝え・道義・律法(掟)に従って生かされる時、その人は、「飢える時に怒りを放ち、自分達の王、自分達の神を呪い、且つその顔を天に向ける。また地を見ると、見よ、悩みと暗きと、苦しみの闇とが在り、彼等は暗黒に追いやられる」(『イザヤ書』第八章二一〜二二節)と在り、人の間だけで通用し崇められる習慣・言い伝え・道義・律法(掟)に従う中で、その人達は夜明けを見ずに、悩み続け、不安と恐怖と苦しみに喘ぐとある様だ。

そして『マタイによる福音書』ではパリサイ人達と律法学者達とがイエス様のもとへやって来て、

「あなたの弟子達は、なぜ昔の人々の言い伝えを破るのですか。彼等は食事の時に手を洗って居ません」

と先ず非難し、イエス様の反応を試す場面が語られる。これに対しイエス様は、

「なぜ、あなた方も自分達の言い伝えによって、神の戒めを破って居るのか。神は言われた、『父と母とを敬え』、又『父または母を罵る者は、必ず死に定められる』と。それだのに、あなた方は『誰でも父または母に向かって、あなたに差し上げる筈のこのものは供え物です、と言えば、父または母を敬わなくてもよろしい』と言って居る。こうしてあなた方は自分達の言い伝えによって、神の言葉を無にして居る。偽善者達よ、イザヤがあなた方について、こう言う適切な預言をして居る、

『この民は、口先では私を敬うが、その心は私から遠く離れて居る。人間の戒めを教えとして教え、無意味に私を拝んで居る』」

とこの様に答えた。

詰り当時の信仰に厚いとされて居た筈のパリサイ人や、それに準ずる人達は、神様の初めの教えを途中から自分達の解釈により曲解する様に曲げ、その曲げた解釈に更に自分達の教えを吹き込み、それをそのまま民間に伝え、その伝えた「人間の教え」のみを正義と肯定して居た。そしてその事を頑なに正当化して、悔い改めず、なおもこの時イエス様を試そうと近付き、その失脚を狙って自分達が優位に立とうとして居た。挙句、パリサイ人達を含め、多くのユダヤ人、ローマ人達の手により、イエス様は十字架に付けられ、葬られたのである。そしてイエス様が陰府に下り、三日目に死人の内より甦り、天に上り、全能の父なる神の右に座し給えり…と言うその事も信じず、死してもイエス様に依る民間への影響を恐れ、その墓外に見張り番を立たせた程である。

ここに、神様とイエス様の教え、そして民間の教えとの間に絶対的な差があり、その差なる壁は、譬え信仰厚い人々の間でも簡単に出来、自分達だけでなく、周りの人達をも洗脳し、神様とイエス様の側から引き離してしまう。これは総じて、悪魔の為す業に在ろう。

この事は今でも変わらず、人々の間で続いて居る。

この「手を洗う」と言う行為は当時に於いて特別の作法を示すものであり、昔からの身を清める際の習慣である。その行為を半ば儀式として用いて居た。かのイエス様が引き渡された総督ピラトも、イエス様の裁判を行う時、

「ピラトは手の付けようが無く、却って暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、『この人の血について、私には責任が無い。お前達が自分で始末をするが良い」(『マタイによる福音書』第二七章二四節)

と手を洗った上で言い、その身の潔白とユダヤの法に触れる上で、自分の真摯を頑なに守った。詰りこのピラトの「手を洗う行為」を見ても分かる様に、その習慣は民間に広く知れ渡って居た。

しかしイエス様が言われた通り、その手を洗う行為も含め、当時の信仰厚い人々は宗教を自分達の手で作り上げ、人の決まり事の決定のみを正義とし、イエス様の口から聴いた「神様が初めに人々に対して戒めた事・神様の教え」をすっかり忘れて居た。そして『イザヤ書』に在る様に…「夜明けが無い」地上を経て歩き、良い時はそれを守るが飢える時には怒りを放ち、自分達の王、自分達の神を呪い、且つその顔を天に向けて歩いて居る。その人達は悩みと暗きと、苦しみの闇との中を迷い歩き、ただ闇黒に追いやられるだけの存在と成る…人が自分達で、知らず内にその様にして居たのである。

これは又『ヨブ記』の内にも語られて居る「人と霊との葛藤」即ち、どれだけ人がその逆境に於いて神様に忠実であるか?が問われ続ける場面にも似て居り、この事はやはり、現代にも通じる人の間の信仰のエピソードに在る。

信仰に正しく生かされる為には先ずイエス様の跡を歩まされ、人にではなく常に聖書に信仰の真実を聴き、神様の御前にどれだけ純粋な心を持ち信仰に歩んで居るか?…その事を、他人を非難する前に自分を非難し、その同じ測りで測らねば成らないのである。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Caffe〜


榎本保郎牧師 ミニ説教1 「まず第一にしなければならないこと」

https://www.youtube.com/watch?v=q0lc_w0zV-I&t=1s


「わたしはよみがえりです。いのちです。」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=7bqAl-LCXzQ


イエス・キリストの生涯をたどる旅 II (1)

https://www.youtube.com/watch?v=vPB9SBXalPA


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@不思議のパルプンテ/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)

少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。

サクッと読める幻想小説です(^^♪

お暇な時にでもぜひどうぞ♬


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