5 良い夢を
街を見渡す小高い丘に作られた城。今日も国王の執務室にもほど近い城の中枢にある宰相筆頭補佐官執務室で机に向かっていたライネルはようやく今日中に決済したいと思っていた書類にサインをして顔を上げた。
就業の鐘がなってから数刻程、すでに執務室に詰めているのは彼の秘書官と自分のみ。月明かりが指し始めた窓に視線をやったライネルはついで秘書官に声をかけた。
「よし、きょうはそろそろ帰ろうか。会議も入っていないことだし、宰相閣下も引き上げたそうだ」
「かしこまりました、ではこちらの書類は宰相執務室へ回して置きます」
「悪いね、頼むよ。執務室に書類を置いたらそのまま上がって良いからね」
「かしこまりました。良い夜を」
「あぁ、良い夜を」
そう言って秘書官が部屋を出ていくのを見送るとライネルは執務室に備え付けのクローゼットにかけてあった外套をかけベルを鳴らす。すぐにドアの前を守っていた護衛が入室してきた。
「今日は帰ることにするよ。供を頼めるかい」
「かしこまりました、魔法伯爵」
学園を出てすぐに王城で働き始めたライネルにとって王城の中でも特に政務省は庭のようなもの。迷うはずもないが、宰相筆頭補佐官ともなれば護衛は必須らしい。やや面倒に思わなくもないが、それが立場、というものかと受け入れ、兵の先導で王城を歩いていた。
(あぁ、しかし 案内がないと王城なんて歩けないって言っていた人もいたな)
そう思い出すのは最近訳あって結婚したばかりの妻だ。下町暮らしが長かった彼女は元来方向音痴らしく、似た作りの多い王城ではよく迷っていた。そんな彼女が王城の造りを覚えるのに付き合ったこともまた、思い出の一つだ。
そんなことを考えつつ歩いていると馬車寄せに着く。すでに連絡が向かっていたのだろう、用意の良いことに馬車寄せにはイーストル魔法伯爵の紋章が入った馬車が止められている。同時刻に馬車を使う人の中では自分が一番高位だったのか、馬車寄せでももっとも真ん中の良い位置だ。
ライネルもまた元は貴族ではないから、こうした処遇はくすぐったい気分なのだが、流石に慣れた。護衛に軽く礼を言って馬車に乗り込むとすぐに軽い揺れとともに馬車が動き出す。
ライネルが王城に入った際に雇った馬丁は自分と同じ年齢だからなかなか若いが運転は丁寧で気にいっている。エリーも乗るようになった今はなおさらだ。
夜道を馬車に揺られ少しすると、また少しだけ馬車が揺れて止まる。相変わらずどっしりと構えるのは城の西に位置するイーストル邸だった。
「到着しました。旦那様」
「お疲れ様、あとは予定はないからゆっくり休んでくれ。明日も同じ時間に屋敷を出るからよろしく」
「かしこまりました、旦那様。良い夜をお過ごし下さい」
「ありがとう。ブロンクスも良い夜を」
主人に挨拶をしてから彼は屋敷の奥にある馬小屋へと馬車を走らせる。
するとそのやり取りを待っていたかのように近づいてきた新たに従僕として雇った青年の先導で玄関に入ると、馬車の音を聞いていたのだろう。すでに部屋着に着替えたエリーが出迎えに来てくれたのだった。
「おかえりなさいませ、ライネル様」
「ただいま戻りました、エリー様」
遅くなることが多いライネルだから毎日出迎えなくても良いし、先に食事をしていて構わない、とライネルは言ってあるが、エリー曰く
「旦那様のお帰りをお迎えするのも完璧な仮面夫婦になるためには大事だそうですわ。それに同じ屋根の下で暮らしているのですから、お帰りの挨拶はしたいですわ」
と、よほど遅くなる時以外は必ず玄関に出てきてくれていた。
エリーの後ろには彼女の侍女を始めとした使用人たちも集まっている。その広さに対してあまりに人が少なく幽霊屋敷、とすら噂されていたイーストル邸はきちんと屋敷に戻るようになった主人と、新たな女主人を得て賑わいを取り戻していた。
実を言うと、現状でもかなり少ないくらいなのだが、もともと下町生まれのエリーと、父親は不明で母も赤ん坊の頃に亡くしており、物心がついた時から孤児院で育ち、学園の寮生活も経験したライネルは共に身の回りの世話をされるのがやや苦手だ。結果まずは屋敷の維持をする使用人が中心となり、侍女や従僕の数は控えめになったのだ。
そんな彼らのうちの一人である先程の青年に荷物と外套を渡すと、ライネルは着替えのために私室へ向かう。それでなくてもエリーを待たせているのだから、とやや足早に部屋に向かったライネルはさっと着替えを済ませダイニングに向かうのだった。
ライネルがダイニングに入るとすでにテーブルの上はセットされており、エリーは席についていた。ライネルが席につくとすぐに前菜が運ばれてきて、食事が始まった。
「今日は何をしていたのですか? エリー様」
「午前中は執事のロベルトさんにイーストル家の収支帳簿の見方を教えてもらっていました。一応街にいる時に少し勉強してはいたのですが、実践は違いますね」
「そういえばエリー様はもともと高級使用人志望でしたよね」
「はい、ただ侍女を希望していたので、帳簿は基礎しか習っていないのです。あとは父にすこし教えてもらった程度で」
エリーの父親はとある伯爵邸の執事だ。朝早くから夜遅くまでの仕事のためほとんど顔を合わせることがないのだが、たまに勉強を見てもらうことがあった。
「なるほど。この前ロベルトが、エリー様は筋が良い、って褒めていましたよ」
「まぁ、きっと女主人だからお世辞を言っているのですわ」
そう言ってエリーは少し顔を赤らめる。自身の能力を褒められるとくすぐったそうな顔をするのは城にいる頃から変わらなかった。
「そんなことはないと思いますよ。午後はどんな風に?」
「午後からは料理長のランスさんとお話したり、厨房を見せてもらったり。そう! 今度、厨房を借りてもよいって言ってくださったんです」
「そうでしたか。エリー様は料理が上手ですからね。楽しみにしておきます」
ランスはライネルが知り合いの貴族の屋敷で勤めていて、独り立ちを考えていたところを紹介してもらった料理人だ。彼もまたまだ若いが、料理人としての経験は豊富だし、海の向こうでの修行経験もある。そして何よりライネルが気に入っているのは、彼が元は下町の生まれで、料理が好きで、エリーが厨房に示す興味を好意的に受け止めてくれることだった。
貴族の屋敷に務める料理人はプライドの塊であることが多く、聖域たる調理場には主人であれ入れることを嫌う者もいる。上流の人間が料理などしない、という考えも関係しているだろう。しかしライネルはエリーが城にいる時に息抜き、と称して作る料理が好きだった。
「王女殿下にもせっかく料理が出来るんだから、ライネル様に差し入れをするのはどう? って言われているのでもう少し落ち着いたらライネル様の執務室を訪問しても良いですか?」
「もちろん。城に住んでいらっしゃった時はよくいらしてましたから。きっと部下たちも歓迎しますよ」
その後も色々と話をしながら食事を進め、デザートまでいただく頃にはすっかり夜も更けているのだった。
食後のお茶はそのままダイニングでいただくこともあるが、結婚初日以来、ライブラリーが気に入ったらしいエリーとライブラリーで飲むことも多い。
相変わらず、暖炉のパチパチと弾ける音は眠気を誘うらしく、少し目がトロンとしてきたエリーの手からそっとカップを抜き取る。
まるで子供がお気に入りのおもちゃを取られた時のようにイヤイヤと首を振るエリーに苦笑いしながら、そっとライネルは肩を撫でる。
「さ、エリー様。もう寝そうになっていらっしゃいますよ。そろそろ寝室に向かいましょう。それともまたお運びしましょうか?」
「もう! ライネル様はいつも私のことを子供扱いしますわ」
「実際、城ではあなたの保護者でもありましたからね、それで自分で向かわれます?それとも運んで欲しいですか」
「自分で歩けます……」
そう言いつつ、眠ってしましそうなエリーの肩を片手で支えつつ、もう片方の手を鳴らす。部屋に置かれた魔道具であるベルは、ライネルの魔力に反応してチリンと鳴り、すぐにエリーの侍女とライネルの従僕が現れた。
「そろそろ寝ることにするよ。エリーはもう半分夢の中だから、僕が送っていくよ」
「かしこまりました、旦那様」
ライブラリーでエリーが寝そうになるのは結婚してからの短い期間でも幾度もあったため、優秀な彼女の侍女も心得ている。さっとドアを開けるとそのまま二人を寝室へ案内した。
「じゃあ、あとは頼みますね。良い夢をエリー様」
「はい、よいゆめを」
寝室に着く頃にはさらにうつらうつらし始めたエリーの夜の挨拶を聞いて、ライネルも寝室へ向かう。
求婚避けのために初めた仮の夫婦生活だが、ライネルは思っていた以上にこの生活を心地よく感じている。出来ればこのままずっと続いてくれれば、などと感じたライネルだが、
「いや、私が決めたことだからな」
と、エリーを手に入れることを拒絶した過去を思い出して苦笑いしつつ、寝室に入ったのだった。