2 そのお話、乗りましょう
「わかりました。そこまでおっしゃるならそのお話、乗ることにしましょう」
その言葉にエリーの表情がパァッと明るくなる。
「本当に? 良いのですか?」
「良いも何もそれはこちらのセリフです。後悔しませんか?」
「えぇ、もちろん」
そうはっきり言い切るエリーに一つ息をついたライネルは指を鳴らす。するとライネルの背後にある戸棚から白い紙がフワフワと飛んできた。それを手に取ったライネルはそこにペンでなにやら書き始めた。
「あの? それは?」
「契約書ですよ。契約結婚するのであれば予めしっかりと決めるべきことは決めて置かなければトラブルの元です。ほら、目を通してみてください。一応エリー様が困るような内容にはしていないはずですが」
この短時間で書かれたとは思えないびっしりと字で埋まった紙を手に、エリーはライネルに促されるままその中身を読み始める。
その内容は、契約期間から期間中の財産の帰属、そして解消の際の手法まで網羅されていた。
「いかがですか? どこか問題があれば直しますので仰ってください」
「いえ、問題などありませんわ。この短時間で書かれたとは思えません。さすがライネル様です。ただ契約解消の部分にはライネル様の非で離婚するようにする、といったようなことが書かれているようなのですが……」
「えぇ、その通りです。この国ではなんだかんだと言って離婚したあとに風当たりが強くなるのは女性の方ですからね。出来るだけ私が悪いと思わせてちょうどよいくらいなのです」
「しかし、それではライネル様の将来に影響が」
「そこはお気になさらず。私は特に結婚を考えていませんし、このぐらいの不祥事で足をすくわれるならばその程度の人間だ、ということです」
そう言い切るライネルにエリーはそれ以上の反論を封じられる。なにより彼女の知るライネルはたしかに多少の逆風などものともしない優れた官僚だ。エリーが気にするのもむしろ失礼か、と考えた彼女はその辺りは彼に任せることにする。
「でしたらライネル様に甘えることに致します。この一番下にサインをすれば良いのですか」
「えぇ、そうです。私も一筆書いてから、魔法金庫にしまっておきましょう。我が家にはかなり厳重なものがありますから誰かに見られる心配はありません」
「では契約成立ですわね。完璧な仮面夫婦を目指しましょうね、ライネル様」
「わかりましたーーって仮面夫婦に完璧とかどうとかあるのですか?」
「アデレード王女殿下がおっしゃっていたのです。契約結婚するなら、周りから一寸の疑いもされない完璧な仮面夫婦を目指しなさい、と。そのために色々と教えて下さるそうです」
その言葉にライネルは顔をしかめる。
「色々と教えて下さる、と。なんだか嫌な予感しかしないのですが。エリー様も殿下のいうことを全て真に受けてはいけませんよ」
「まぁ、ライネル様ったら」
「本当に気を付けて下さいね。それはさておき、諸々の手続きは私のほうで勧めましょう。準備が整ったらお伝えしますので、エリー様は王宮の部屋から引き払う準備を進めて下さい」
「分かりましたわ、旦那様」
その言葉にライネルとエリーは視線を交わらせてから、どちらともなく笑顔になるのだった。
それから数日後、エリーの怒涛の日々が始まった。決まったことはさっさと実行すべし、という信条のライネルが迅速に準備を進め、驚くべき短時間でエリーとライネルの結婚が決まったのだ。
もともとライネルはエリーの結婚相手候補の一人であったことも理由かもしれないが、二人の結婚はすぐに認められ、国王立会のもと結婚が承認された。
結婚式自体は
「それはあなたが本当に愛する人を見つけたときのために取っておくべきです」
とライネルが強固に主張したために行わなかったが(国王陛下には国のゴタゴタがもう少し落ちついて、全ての憂いがさってから行いたいと言って認められたらしい)それでも陛下の前で宣誓をした際には流石に手が震えた。
そうして夫婦として認められたあとは、なんだかんだ住み慣れた王宮の一室を引き払い、新たな住処となるイーストル邸に向けて馬車に揺られることとなったのだった。
イーストル邸があるのは王都の南にある邸宅街の一角。馬車を使えば30分ぐらいだが、ライネルは執務が忙しいから、と普段は週に一度程度しか戻っていないらしい。
「周りの貴族たちに舐められないように、とそれなりの大きさの屋敷を購入したのですが、これまで私一人でしたからほとんどの部屋は使っていないのです。通いの使用人は何人か雇っていていつでも使えるようにしてくれてはいますがこれからエリー様の住みやすいようにしてくだされば良いですよ」
と、いうことらしい。
ちょうど30分ほどで馬車が止まる。ライネルの手を借りて馬車を降りると、そこにはエリーの想像の数倍は大きな『お屋敷』が鎮座していた。
「ライネル様? これがライネル様のお家ですか?」
「えぇ、そしてこれからはあなたの家でもあります」
「こんなに大きいのですか?」
「上流貴族の屋敷としては標準サイズですよ。もともと古い伯爵家の持ち物だったそうなのでデザインは古めですが。今まで住んでいたお城に比べればたいしたことないのでは?」
「お城は大きすぎますし、あのお城全体が家、という感覚ではなかったのです。それまでは下町住まいでしたし」
エリーが生まれてから暮らしてきたのは街の中心からやや南に位置する下町だ。もちろん名ばかりとは言え貴族だし、両親ともに名のしれた貴族に仕えていたからそれなりの家ではあったもののあくまで庶民の家だった。特別な魔法を使えることが分かってからはすぐに城に移ったので、エリーにとって一般的な上位貴族の家、というのを間近で見ることはほとんどなかったのだ。
美しく整えられた玄関に見入りつつ、あまりに場違いな空気を感じ動けずにいると、バタリ、と重い音がしてドアが開く。するとそこから恰幅の良いお仕着せの女性が出てきた。
「お迎えできず申し訳ございません。旦那様」
そう言って美しい所作で膝を折ったあとライネルが手にしていたカバンをサッと受け取った女性はそのまま玄関を明けて二人を中へと誘導する。
彼女が示すままに、エントランスに入ったエリーはまたしてもその天井の高さと、明らかに高そうな調度品の数々に目を白黒とさせた。
「お話は旦那様から伺っておりますわ、若奥様。初めましてこの屋敷の管理を担っておりますダリアと申します」
そう言うと、もう一度美しい礼を披露する。その所作に一瞬見とれつつ、すぐに我にエリーは自身も自己紹介をする。
「ご丁寧にありがとう。エリーよ。これからよろしく」
そう言って軽く膝を折るのを見届けてからライネルがダリアに話し出す。
「詳細は先程魔法電報を送った通りだ。とりあえず彼女は今日からここに住んでもらおうと思うんだが、どこか使える部屋はあるかい」
「えぇ、もちろん。奥様の部屋はすでに準備してございます。調度品などは古いままですので買い揃えなければなりませんが、生活するに不足はありませんーーが」
とそこで言葉を切ったダリアはじとり、とライネルに視線を向ける。その視線になんだか恐怖を感じエリーがそっと隣を伺うと、珍しくライネルが気まずそうに視線を外していた。
「旦那様、流石に話が急すぎます。奥様を屋敷に迎え入れるとなればそれ相応の準備が必要なのですよ。この屋敷は若い女性が住むには古めかしすぎますし、衣装の用意も殆どありません。使用人も揃えなければ」
「あぁ、わかっているダリア。急な話なのはすまないと思っている。だが私も早くこの話を進めたかったんだ。大変だと思うが協力してほしい」
「もちろんですわ。理由はどうあれこの屋敷が女主人様をお迎えできることは私もとっても嬉しいのです。それで取り急ぎエリー様の侍女を初め、新しい使用人を雇いたいのですが」
「あぁ、そうだな。早速募集をかけてくれないか?選定には私も協力しよう。それからエリー様は電報に書いた通りもともと下町暮らしで人に傅かれる暮らしに慣れていない。彼女につく使用人は出来れば少なめで、彼女の意見も取り入れつつ選んでほしい」
ダリアとライネルの会話にややおいていかれていたエリーだがその言葉にピクンと反応する。
「よろしいのですか? ライネル様? 上位貴族の生活になれるためには使用人の方との関係の作り方も学ばなければならないのでは」
「その通りですが、余り気を張っては疲れてしまいます。自宅なのに使用人の目を気にして生活するのも嫌でしょう?」
その二人の会話を聞いたダリアは、微笑みつつ声をかける。
「ある程度の身辺調査はこちらでして、あとはお二人に選んでいただけるよう致しますわ。多くなるとは言えまだ旦那様と若奥様だけですから使用人もそこまでの数は必要ありません。何なら最初は最低限にして、奥様が生活に慣れてきたら、増やしても構いませんし」
「そうしてくれると助かる」
「よろしくお願いします」
話が決まったところでダリアは一度エリーを部屋に案内したい、という。ここまで来ていた外出着を着替える必要もあったエリーはダリアに案内され、二階にあるという部屋に向かった。
「なんだか本当に突然のことでごめんなさい、ダリアさん。それに使用人を雇う、ということはダリアさんがその統括をしないといけない、ということですよね」
ライネルの話だと、ダリアはこの屋敷を購入して以降ずっとここを管理していたそうで今後はハウスキーパーとして働いてもらう予定だという。となるとほとんど主人のいない屋敷の管理から、大勢の使用人の管轄へと、仕事の内容は大きく変わるし、見たところある程度歳を重ねてそうなダリアには負担では無いか、と思ったのだが。
「先程もお話しした通り、この寂しい屋敷に新しい主人を迎え入れることが出来るのはそれだけで嬉しいことですわ。それが国をお救いになたエリー様でしたらなおさら。それに私の家名はシェルベリーと申しますの。お聞きになったことがございませんか?」
「シェルベリー……、もしかして王宮の侍女頭の?」
「えぇ、今侍女頭をしているマーサ・シェルベリーは私の娘でございます。その前はかれこれ10年程侍女頭を務めさせていただきました。代替わりの際に娘の下で働くのも気まずい、とおそれ多くも王妃殿下にこの職場を紹介いただきましたの」
「王宮で……、侍女頭を」
「はい、ですから使用人の管轄などお手の物。プライドの高い貴族子女も集まる上に数も多い王宮の使用人に比べれば、ここでの仕事はなんてことありませんわ。それに旦那様から依頼されたのですが、奥様に女主人としての仕事を教えることもある程度は出来ると思います」
「そうなのですね。とっても心強いですわ。よろしくお願いします」
そういって膝を折るエリーに、まずこの腰の低さからどうにかしないとな、とダリアは苦笑するのだった。