S歯科医院4号診療個室の幸福な悪夢
その日も私は歯がシクシクと痛んでいた。
その女医、斉藤はいつものように眼鏡越しの冷たい眼で私を見下ろした。
私は歯科医院独特のあの椅子に座り、彼女の顔を逆さまに見上げていた。
(綺麗な顔だ。整っていて、理知的なだけでない何かがある。もっと彼女について知りたい)
私の内心の思いはもちろん患者の範疇を超えたものであり、報われないことだと判っていた。
でも、でも、私には密かな期待がある。
「本日はいよいよ親不知の抜歯を行います。体調は・どうですか」
なぜか彼女は「体調」と「どう?」の間を空けて私に問う。これだって何かのサインではないのか。
「万全です。昨日はお酒を抜いてきました」
いくぶんおどけた口調でいってみたのだが、彼女はまったく表情を変えなかった。
小さく「フン」という息の音がしたように感じたが、気のせいだろうか。
「そうですか」
彼女は私と眼も合わさないで言う。その後マスクの下の口が「それがなにか?」と動いているように感じる。私は斉藤女医のそのサディスティックな受け答えに早くも胸を高鳴らせる。
今日の施術では何かが起こるかもしれぬ。
そもそも歯の痛みが我慢できず、歯科医を訪れたのは9月のとある月曜日、雨がそぼ降る日であった。この医院を選んだのも、ただ単に私の通勤路であった以上の理由はない。
受付で保険証を出し、初診であることを告げて診察の順番を待つ間も、私の奥歯はズンズンと顎から頭部すべてに響くような強烈な痛みとなっていた。
「澤村さん、どうぞ」
丸顔の看護師に言われて『ナンバー4』の個室に入る。荷物をあみカゴに置いて、椅子に座った。
そこへ入ってきたのが斉藤医師であった。
マスク越しでもわかる美形ぶり、白衣の下は縦ストライプのシャツと黒のタイトスカートが見え、シャツの細い縦縞はその大きくて形のいい胸のラインにそってカーブを作っていた。
タイトスカートは膝下5㎝ほど、豊かな腰の曲線と中央の大きなスリットから歩くたびに見える艶めかしい膝小僧が眩しい。
私は歯痛で頭がガンガン、斉藤医師の色香で胸がドキドキ、全体的に身体のリズムが忙しい状態となった。
「右下の奥歯が痛むのです。もう3日ほど痛くて痛くて、我慢できずに歯医者さんに来たのです」
私の子供のような訴えに斉藤医師は眉のひとつも動かさない。
「そうですか。歯が痛いので歯医者に来たのですね」
「…」
私はいかに自分が馬鹿なことを言ったのかと恥ずかしくなったが、彼女の冷たい言い方には一種の快感を覚えた。
「よく3日間も我慢しましたね」
「我慢強いとよく言われます」
おどけて答えたつもりだったのに、斉藤医師はもちろん瞬きもしない。
マスクの下の鼻からはっきり「フン」という音が聞こえた。
私の歯痛は親不知が原因であった。右下の奥歯を圧迫するように横から伸びてきた親不知が虫歯になっているらしい。
「今日は痛み止めの応急処置をします」
「お願いします」
「口を開けてください」
上から覗き込む斉藤医師、薄い医療用のゴム手袋が私の口の端をつまむ。先端が尖った何らかの器具が私の奥歯付近を触った。
「あう」
痛みに私が呻くと、彼女は私の左の頬を優しく覆い、顔の左半分を撫ぜた。
「少しだけ我慢なさい」
頬を覆っていた彼女の左手の指先が右奥歯に伸びていく。器具がさらに私の右奥歯をガリガリと探った。私の頭には彼女の豊満な胸が押しつけられている。柔らかすぎず堅すぎず…。
「アハハア、ウフン」
私は痛いのと得も言われぬ興奮の両方で思わず声を漏らした。
彼女は初めて表情を現した。マスクの上の大きくて潤んだ眼を細め、眉を八の字にして私を見下ろす。
マスクの下の口が「この豚野郎」と動いた…ような気がする、いや多分。
痛み止めの処置が終わって、私は個室を出るよう指示される。
「ありがとうございました」
礼を言う私を一瞥もせず、彼女は私の腰の後ろ側をゆっくり撫ぜた。
思わず斉藤医師を見たが、処置台の付近を片付ける彼女は振り向きもせず、ひとこと言っただけだった。
「お大事に」
2回目の通院でX線の撮影を行い、椅子の上でその写真を見せられる。
レントゲン写真の私の顎を斉藤医師と二人で見つめる。
裸よりもスケスケのその顎写真、しかも虫歯に犯された骨格をこの美人の斉藤先生に見られている…私はまたも胸が酸いたらしい思いで一杯になっていくのを感じた。
「抜きましょう」
「えっ、ここでですか?」
別のことを考えていた私は思わぬ答えを返してしまい、赤面した。
私の恥ずかしい受け答えにもまったく反応しない彼女は淡々と治療計画を示す。
「次回、親不知を抜いて根本治療を行いましょう。いいわね」
『いいわね』ではなく普通『いいですね』か『いいですか』ではないのだろうか、と私は思うがこの彼女の口調にまたゾクゾクが止まらない。
「抜いてください、センセイ。あ、あなたが抜いてくれるのですか」
私は気がつくと大変卑猥な質問をしていた。いや卑猥でも何でもないかもしれないのだが。
初めて斉藤医師はニコリ…ではなくニヤリと笑う。
「抜いてあげるわ。私が抜いてあげる」
…私は昇天した。
…気がつくと怪訝な顔をした斉藤医師が私を見ていた。
「私が抜くかどうかは医院のシフトもありますので返答しかねます」
あれ?幻聴だったのか?
「ありがとうございました」
私は今回も丁寧にお礼を言って、個室を出て行こうとする。
彼女が私の背中に手を触れた。尾てい骨の当たりから肩甲骨の真ん中まで人差し指と中指の二本を使い、スーッと擦り上げる。
「おうう」
私は思わず声を漏らし、後ろの斉藤医師を振り返る。
しかし、彼女は前回同様処置台の後片付けをしているだけでこちらを見ることはない。
「お大事に」
「本日はいよいよ親不知の抜歯を行います。体調はどうですか」
「万全です。昨日はお酒を抜いてきました」
「そうですか」
「静脈内鎮静法で麻酔をします」
斉藤医師が言う。
「すると私は意識を失うのでしょうか」
「どうでしょう。吸入法と違って、完全に眠ってしまうことはないと思いますが、手術中のことをほとんど覚えていない患者さんも多いようです」
私は痛みが少なそうなことにホッとしたが、手術中に斉藤医師に受けるであろう被虐的な行為に若干の期待をしていたこともあり、拍子抜けの面もあった。
「できるだけ痛くないようにお願いします」
愛想良く言ってみたが、例によって彼女の表情はピクリともしない。
「努力はしますが」
それだけ言って、ニヤリと笑う。
その後は?ねえ、その後は?『努力はしますが無理です』なのか『すごく痛いのよ』なのか『痛めつけてあげるわ』なのか。
麻酔注射が打たれ、私の意識がフワリと薄らぐ。
「これは…」
覚醒すると私の手足が椅子にくくりつけられていて、身動きが取れない。
「先生、これはどういうことなのです」
私の問いに斉藤医師がこちらを振り向いた。ニコリと魅惑的な笑みを浮かべる。
「あっ、先生。何ですか、その格好は」
彼女はマスクをしていない。しかしその替わりに、替わりなのかな、眼だけを覆う黒い仮面をつけている。全身は真っ黒のゴムタイツで覆われ、身体の線が露わである。
「抜いてあげるわ。約束だものね」
斉藤医師が片手にペンチ、片手に金槌を持って妖艶な笑みを浮かべ近づいてくる。
私は恐怖と快楽の狭間で顔を引き攣らせる。
「あ、あの麻酔は?」
「麻酔をしたら痛くなくなっちゃうでしょう」
私の顔を薄いゴム手袋でピタピタと叩きながら彼女が眼を細める。
「口を開けなさい」
私が口を大きく開けると彼女は自分の指をペロリとひと舐めし、私の右奥歯にこすりつけた。
「さっき口腔殺菌液でうがいをしたから、これで大丈夫」
何がどう大丈夫なのかよくわからない。
鉗子で固定され、閉じられなくなった私の口に彼女はペンチを差し込み、私の親不知をガギギと挟み込んだ。
「うがぎゃぎゃぎゃ」
挟み込んだ歯をギリギリとねじり上げるペンチ、歯茎に激痛が走り口の中に血の味が充満する。
「あああああああ、うがががが」
斉藤医師がウットリとした表情で金槌を握った。
「痛いの?ねえ、痛いの?」
歯を抜かれるのが痛くない人間がいたら教えて欲しい。
だが私は口を閉じることできない状態なのだ。ものを言うことも許されず私は呻く。
「ぎがび、ぼぐぐぎがび」
涎と涙がボタボタと診療個室4号の床に落ちる。
「ウフフフフ、可愛いわ」
斉藤医師が鮮血で真っ赤になったペンチをペロリと舐めながら、私の頬を撫で回す。
「ねえ、私の名前を呼んで。先生ではなくて」
「『ゆうこ』というのよ」
口を利けない状態のはずなのに、私は血まみれで彼女の名前を叫ぶ。
「びゅぶぼ!びゅぶぎょ!」
「ウフフフフフ。さあ、抜くわよ!抜くのよ!抜かせて!ゆうこに抜かせて!」
もう一度ペンチでガキッと挟まれた奥歯が金槌でガンガンと叩かれ、私は気を失った。
「はい、終わりましたよ。大丈夫ですか」
歯科助手の女の子が笑顔で覗き込む。
私はいつもの治療椅子の上で眼を開けた。
まだ何だか頭がボンヤリしているが、いつもどおりの診療室、いつもどおりの風景だ。
斉藤医師もいつもどおりの無表情である。
「施術中、眼を見開いていたから心配したけど、無事に終わったわ」
あれは幻だったのだろうか?だとしたら何と生々しく幸福な悪夢であったのか。
私は小声で呟く。
「ゆうこが抜いてくれたのかい?」
斉藤医師はピクリと眼を動かし、私を見た。
それからマスクを取って、私の口に人差し指を当て、小さな声で耳元に囁いた。
「約束だものね。ゆうこが・・抜いて・・あげたわ」
読んでいただき、ありがとうございました。来月親不知を抜く予定で恐怖のあまり、こんなものを書いてしまいました。