絲選集
『最果て』
こんな寂しい海があるか
降りそそぐ日の光も
波間にはじける虹の玉も
揺らめく白い帆も
甘くかおる潮風も
裸足の少女が笑う声も
何もかもを
諦めで塗りつぶしてしまったような
灰色の海
雲のまぶたは
だるくふたがり
遠い島影は
亡霊のごとく
水は
だらしなく温み
立ち並ぶ工場は
うつむいたまま
始終
恨みを垂れ流している
労働の
疲れにまみれた吐息が
生活の
倦み棄てられた時間が
誰にも
顧みられなかった魂が
寄り集まり流れ着いた
灰色の海
この荒んだ
海の最果て
『人形』
逆巻く緑の奥底に
忘れられた
西洋人形
幼い頬は
傷つき汚れ
金の巻き毛は
強ばりほつれ
けれども
ほんのりと赤い唇は
もの問うように
葡萄の瞳を
明るく見開いている
あの日
ブランコを揺する
手のやさしさ
小川のせせらぎにも似た
短い歌のリフレイン
野の花の笑う声
そんな幸福が
たしかにあったと信じたくて
そんな幸福が
どこかにあると思いたくて
私たちは
藪の中に細々と迷い込み
あちこちを腐らせていくけれど
お前は
日々を惜しむことも
悼むこともせず
今を嘆くことも
恐れることもなく
ずっと
そこにいて
深い深い緑の底から
からっぽの
光る空を見上げていたのか
『薔薇』
今 この瞬間にも
次々と死に また 生まれている命の
刻々と消え また 結ぶ世界の
奔流
その狭間に咲いた
奇跡の薔薇
ほんのりと匂い立つ
白い薔薇よ
冷たい雨が降り
花弁の上に
水玉は
ふるふると揺れるばかり
辺りを舞っていた蝶は
みな消え失せ
柔らかな葉は 風に翻り
茎は つる草に締め付けられても
どうか 薔薇よ
やさしい薔薇よ
すべて忘れて 咲いておくれ
閉じた目に
金の木漏れ日を映し
塞いだ耳に
恋の鳥のさえずりを残し
永遠に幸福であるかのように
幸福な水辺で
まどろんでいるかのように
こころもち首を傾げ
薄紅色に頬を染め
どうか ずっと
微笑んでいておくれ
『直線』
都市まちは直線で溢れている
縦や横や
上や下や
挙句斜めや
間隔を空けたり
狭めたり
果ては交差したりして
区切りたいのか
示したいのか
飾りたいのか
整えたいのか
急がせたいのか
合わせたいのか
真面目なのか
横着なのか
単純なのか
意味もわからず伸びていて
ただただまっすぐ走っていて
それがなにやら
ひどく指図がましくて
私は知らず知らず
「へいへい 左様でございます」と
卑屈な様子で頭を掻き
張り巡らされた直線の
林立する直線の
ただなかを
腰をかがめて歩いていくのだった
『カラスアゲハ』
身に常闇を宿した蝶が
ひとつふたつみつよつ無数
梅雨の晴れ間の
昼下がり
あれは
私の心で生まれたのです
君の口から這い出たのです
やがて
美しい微笑みの
小さな足跡の
人知れず咲いた花の
胸に揺れる十字架の
うえを
ひらりひらりと
不吉な鱗粉を散らして
饐えた匂いの
風を巻いて
慌てて口を押えても
遅いのですよ
ご覧なさい
私はもう
こんなに溶けているのです
不可逆なのですよ
Metamorphose
さて いま
輝く夕星は雲に滲み
たちまち
蝶はことごとく
影に満つ
『熱帯夜』
ほどけそうになりながら
歩いていた
しっかりと
巻きつけたはずのものは
年月に
半ば綻び
半ばひきつれている
薄笑いを浮かべ
首を振り振り
あきらめたように
面倒は懲り懲りとでも
何を問われても
もう
答は見つからない
目は
開いていて
何も映さず
内側の
ぼんやりとした影を
追うだけで
耳は
あらゆる
音を拾ってはいても
片端から
零れ落ちて
そこにいようと
どこにいまいと
同じなのならば
乾ききった輪郭を
ほどけるにまかせ
ちぎれるにまかせ
思いきり舞い上がろうか
暑く
熱く
アスファルトの風の中を
『金の波 銀の波』
きんのなみ
ぎんのなみ
まあるいつきが
でてました
ひらめく
きんとぎんのなみ
こぶねがいっそう
ゆきました
なにがあるとも
わからずに
どこへゆくとも
いわないで
わかいこころの
たぎるまま
ひろがるうみに
あこがれて
うしろもみずに
ゆきました
たゆたうみなもに
こきみよく
かいのきしみが
ひびきます
かえすかいの
はしたから
つきのしずくが
ちりました
きんのなみ
ぎんのなみ
やがて
あけゆくそらのした
ふねは
ちいさなかげとなり
そして
みえなくなりました
『孤独の毒』
こどくのどくを
あびたのだ
ぴりぴりと
はだをさすそれは
すがすがしい
あさのくうきのようだった
どくを
みにうけつつ
いきることで
つよくなるようにも
おもわれた
けれども
それは
すこしずつ
すこしずつ
からだのふかくに
しみこんで
めをくもらせ
みみをふさぎ
したをもつれさせる
いきはあさくなり
てあしはこわばり
かんがえがとどこおる
きづけば
すっかり
こどくのどくに
むしばまれている
そして
このあざやかな
あきのおわりに
かげをきりぬいたような
いびつのとりとなり
よごれたこえで
なきながら
かえるばしょを
さがしているのだった
『糸を切る人』
ぷつんぷつんと
音がしたなら空耳だ
糸はあまりにも細くて
だから
絡まってしまったのだから
気づけば
至る所に張り巡らされ
あらゆるものにつながって
身動きが取れなくなっている
どうやって解ほどけばいいのか
途方に暮れて
一面
玻璃のようにきらきらと
光るさまに見とれていた
もう切るしかないでしょう
切り離すしか
はさみは
手に包めるほどの
繊細な刃の
一筋一筋
慎重に選り分けて
けれども そのうち
ひたすら切ることが
仕事であるかのように
目を凝らし
背を丸め
震える指で
切ることだけが
ほんとうの仕事のように
そうしてばらばらに
そうして冴え冴えと
ああ 今日もまた
霧のような雨が
降っている