魔女の娘の独り立ち
カ-ギルの魔女、といえば誰もが一度は聞いたことのある位、有名な魔女だ。
曰く、誰もが見惚れるほどの妖艶な美女。
彼女の魔法にかかれば、大国も一瞬で灰塵に帰す。
そして、彼女といられるのであれば国を傾けても構わない、とまで言わしめるほど人を魅了する力。
人々に崇められ、畏怖され。
時の大国であったオルド-ル帝国が傾いたのは、一説に彼女が原因と言われている。
そして、オルド-ル帝国が傾いたのち、カ-ギルの魔女は一切表舞台に出てこない。
オルド-ル帝国の王であったジョセフ3世がカ-ギルの魔女に入れ込んだあげく、国の金を使い込んだにも拘らず素気無く振られた為に逆上した王に殺された、というもの。
はたまた、ジョセフ3世との一世に一代の恋に破れ、傷心のあまり世を儚んでしまった、というもの。
噂だけでも色々ある。
最果ての地、カ-ギル。
誰も足を踏み入れたものがいない地。
足を踏み入れたが最後、迷いの森から出てこれずに一生森で過ごす羽目になる、と言われる森の先にある場所。
その、カ-ギルの森のちょうど西端側の湖の傍に、そこらの町にあるような特に代わり映えのない家が一つだけぽつんと建っている。
高名な魔女の終の棲家とは誰も思わないだろう、その小さな一軒家。
その一室で、年齢不詳な美女がフウ、と妖艶に煙を吐き出す。
そう、その年齢不詳な美女こそ、かの有名なカ-ギルの魔女。
誰も見るものがいないというのに、タバコから煙を吐き出す、ただそれだけの仕草でさえも気品に溢れ、見るものがいたら誰もがその色気に充てられるだろう。
そう、見るものがいたら。
ただし、この場にいるのは同居している娘だけ。
紫煙がもうもうと部屋内に立ち込める中、一人の少女が声を上げる。
「ちょっと、お母さん、いい加減にしてよね!
家の中がタバコ臭くて仕方ないじゃない、もう本当にサイテ-」.
そう言うや否や、バンバンとわざとらしく窓をあけて空気の入れ替えをし始める。
身体にピッタリの黒のドレスは彼女のなまめかしい姿態を想像させるようなラインをおしげもなく晒し、ストレ-トの黒髪を無造作にかきあげ、濡れるような黒目は相も変わらずに色っぽい。
そして綺麗に紅が塗ってある口元に笑みを浮かべたカ-ギルの魔女はけだるそうに娘を見た。
「うるさいわねぇ、一体誰に似たのかしら、その口やかましさ。
煩わしいったらないわねぇ。
あんたも、少しは落ち着きなさいよ、そんなんじゃ、男の一人も引っかけられないわよ」
対する娘は、フワフワしたアッシュブラウンの髪は軽く一つに纏め、グリ-ンの瞳は生き生きと輝き、紅など塗っていないにもかかわらず血色がよいからピンク色だ。
まだ体つきは幼いが、全身から若さがみなぎっている。
「お母さんねぇ、男って言ったって、このカ-ギルの地のどこに男がいるのよ、生まれてこのかた父さん以外の男になんてお目にかかったことがないわよ」
魔女は、娘を上から下まで舐めるように見た。
「そういえば、あんた、一体いくつになったんだっけ?」
気がついたら娘は、そろそろ年頃と呼ばれる年齢に差し掛かっている。
娘盛りだ。
その事に魔女は気がついていたけど、気が付かないふりをずっとしていたのだ。
「何よ?
…まさかと思うけど、娘の年まで忘れたの?
本当に信じられない。
それとも、もうぼけたの?
やだ、母さんったらソファの上でゴロゴロしているだけだもんね、そりゃぼけるか…魔女ってぼけたらどうなるの?」
本当に失礼な事ばかりいう娘だ。
こんなんだから、心配で外に出せない。
そう。
そうずっと言い訳をしていた。
「今度の満月で150歳よ」
その娘の答えを聞いた時、魔女は決断した。
もう、これ以上娘をこの地に縛り付けることは無理だ、と。
もう、娘は魔女の独り立ちの年齢に達したのだ、と。
手放さなければいけない時が、来てしまったのだ。
「そう、それは重畳。
あんたも独り立ちの日が来たのね。満月の夜に独り立ちしなさいな。
こんな田舎で燻ぶらせて悪かったわね」
驚愕のあまり目を見開く娘に気にせずに、魔女はスイと指を動かす。
現れた地図が空に浮く。
「ここがカ-ギルと呼ばれている場所。
そして、ここが、あんたの父親が生まれ育ったオルド-ルがあった場所。
今は小さな国だらけで一つにまとまってないらしいわね
あぁ、ここね、へぇ、クレイトンって国なのね、今は」
魔女は何の感慨もないのか、眉一つ動かさない。
地図上のクレイトンの場所が赤く光る。
「…お母さん、覚えていてくれたの…?」
娘の質問に答えず魔女は首だけ竦め、視線を娘に向ける。
彼女は必死に赤く光っているクレイトンの場所を見ていた。
「私が独り立ちするときは、お父さんの生まれ育った場所に行きたいって言ってたの」
喜びで胸が一杯という娘の表情を目にした魔女は、鬱陶しそうに眼を細める。
「本当、お母さんって可愛げのない性格してるよね。
娘がこんなに喜んでいるのだから、素直に受け止めたら良いのに」
真正面から娘に真顔でそう言われても、魔女は涼しい顔をして娘から視線を外す。
「人間は、やめときな。
すぐ死ぬよ」
魔女は娘にそれだけ言うと、起き上がって外に出て行った。
何かを言わないと、と思っていたが、まさか口から出てしまったのは言わなくてもよいはずの、本音。
フラフラと歩いて大きな樹の根元に着く。
幹に手を当てると、今でも簡単に思い出せる。
年月が経ても褪せることのない愛しい男との日々を。
「ねぇ、ジョセフ、あんたの娘は、あんたの生まれ育った場所に行きたいってさ。
そこで生きてみたいんだと。
小さな頃に言っていたあのセリフがまだ有効だとはね。
心変わりするかと思っていたけど、変わんなかったわね」
狭い檻のようなこの地に娘を閉じ込めていたのは、他でもない自分なのを魔女は知っている。
魔女は祈っていた。
願っていた。
最愛の娘に傷ついてほしくなくて。
ずっと幸せでいて欲しくて。
ずっと笑っていてもらいたくて。
今はもう、それだけが魔女の望みだから。
魔女の影に、違う影が重なる。
「でも、お母さんはお父さんの事、大好きだったのでしょう?」
魔女は小さく肯定する。
「私にも、そんな人が出来るといいな」
娘は歌うように可愛らしい少女の希望を言う。
魔女は娘の軽やかな声を背中で受け止める。
「今度の満月までに、あんたの魔法のおさらいをするよ。
あんたは、いい加減に魔法を使うから。
その癖を直しなって何度も言ったのにちっとも治らなかったわね」
振り向いた魔女の顔をみた娘は驚いた顔をして母親をみつめ、そして抱きついた。
「お母さん、大好き…」
小さかった娘は、既に魔女よりも背が高くなっていた。
抱きしめると柔らかくミルクの匂いがした娘は、今ではラベンダ-の匂いがする。
そう、母の後を追い泣いてすがった小さかった娘は、既にいない。
逆に、魔女の方が娘の後を泣いてすがりたかった。
出来たらずっと一緒にいて欲しい、と。
「あんたは、いつまでたっても甘えん坊だわねぇ」
けだるそうに言う口調とは裏腹に、魔女は優しく抱きしめ返す。
娘は云々と頷いた。
「…お母さんさぁ、最近少し太ったんじゃない?
なんか、背中周りが太くなった気がす、あいたっ」
バシンと背中を叩かれた娘が小さく悲鳴を上げる。
「そんな本気で叩かなくてもいいじゃないの、本当の事を教えて上げただけなのに…」
ブツブツと文句を言う娘を見て魔女は苦笑する。
こんなんだから、あんたを手放したくなくなるのよ。
本当に、嫌になる。
「さ、あんたの苦手な過去を視る魔法を今からおさらいするよ、綺麗に展開出来なかったら黒羽虹トカゲを捌いてもらうよ。わかったね?」
「え?黒羽虹トカゲを捌くのは、ちょっと…」
娘が口籠るのを見て見ぬふりをして先を歩く。
彼女の好物でもあるが、小骨に魔力が多いので魔法で捌くことが出来ない少々面倒くさい食材なのだ。
「最初から失敗前提で話をしない」
魔女がピシャリと言うと、娘は小さな声ではぁい、と渋々と返す。
こんな平凡なやり取りが出来るのも、あと少し。
満月の日が来るその日までが、魔女と娘の最後の優しい時間。
魔女は知らずのうちに歌を口ずさんでいた。
その歌はかつて娘の父親が口ずさんだ今は無きオルド-ルの民謡。
その歌声に気が付いた娘も口ずさむ。
もし、娘が父親の生まれ育った場所で幸せになれたのなら。
その時は、もう一度、訪れてみるか。
もう2度と戻りたくないと思ったあの場所に。
最愛の人を追い出したあの地へ。
そして彼が、最後まで気にかけ、愛していたあの地に。
その時、このオルドール民謡をあの地で娘と歌えたら。
あの人は、喜んでくれるだろうか。
そんな事を思ったら、娘が旅立つ寂しさも楽しみに変わる気がした。
歌を口ずさみながら自然に口角が上がる。
何時しか娘は隣を歩いていた。
鳥のさえずりの中、二人の澄んだ小さな歌声がカ-ギルの湖畔に静かに、静かに流れた。
終