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Sショウブ

作者: rainvibration

 もう随分長く乾燥機のお世話になっていて、久しぶりに陽光の下に洗濯物を干した美世は機嫌がよかった。最後のシャツを広げているときに鳴ったチャイムに

大慌てで物干し竿にシャツを引っ掛けると、小走りにモニターまで向かった。映っている配達人が手に持っている箱のサイズを見てにんまりとした美世はさらに輪をかけて上機嫌になった。

 玄関口で元気のいい好青年の配達員から荷物を受け取った美世は包装を破るのももどかしく、ダンボールを開けて緩衝材の中から桐箱を取り出した。送った時にはサラシに巻いて新聞紙で包んだだけの物が

箱を新調されて届けられたのだ。箱の蓋には三つ揚羽撫子紋が刻まれている。床に膝をついてガラステーブルの上に箱を置いた美世にソファーに座っていた鷹山が視線を流した。

 美世が箱を開けて型を抜くように納められていた包丁を取り出した。白銀に輝く白刃は鏡のように顔が映りこむほど磨かれていた。

「刺身包丁?」

 鷹山の問いに美世はぴくりとも動くことなくぼんやりとした口調で答えた。

「ショウブや」

「ショウブ?そういう種類なのか、どんな字書くんだ?」

「知らん」

 そう言いながら満足そうに笑う美世はどこか心ここにあらずという様子で包丁をチラチラと動かした。

「明日はお造りにしよな、鳴門に電話せな」

「鯛か?四国から取り寄せる気かよ」

 鷹山が呆れた口調で言ったがその声は既に美世には届いていなかった。時間は激しく、速く逆向きに流れて美世は地下鉄の中にいた。


 床に届かない足をブラブラとさせながら美世は神田を見上げた。にっこりと笑いながら見下ろした神田が言った。

「おじょはん、ここからはチンチン電車に乗り換えですわ」

 動物園の文字に少しばかり期待していた美世はがっかりとした表情になった。しかしすぐにぱっと笑うと聞き返した。

「えべっさん行くん?」

 神田は少し固まると、厳しい表情を作って人差指を立てた。

「違います、それとおじょはん、串かつを食べた事は内緒でっせ、ばれたら私が旦さんに殺されますよって」

 美世は首をかしげて艶のあるオカッパ頭をさらりと波打たせると、言葉の意味を噛み砕きながらやや目を泳がせつつ頷いた。

 神田は普段の料理人の姿とは違い、チェックのジャケットと淡いブラウンのセーター、そしてマフラーを首にひっかけていた。

 神田とお出かけをする度に、美世は別人を見るような気持ちでしげしげと観察した。マフラーの先に垂れ下がる毛糸を指でいじっていると

にこにことしてそれを見ていた神田と目が合い、照れくさそうにはにかんだ。

 未練がましく象のロゴマークを見つめていた美世は神田に手を引かれて阪堺線に乗った。

「すみよっさん行くん?」

「いいえ、もっと向こうです」

「仁徳さん?」

「それ電車が違います、もうちょっと近くです」

 大和川を越え、高須神社を過ぎれば綾ノ町がある。ここで電車を降りた二人は通りから入り込んだお好み焼き屋に入った。出かけようとする神田を発見しては

ついて行きたがる美世の期待に応えられるような場所は少なく、仕方無しに神田は美世が喜びそうなイベントを捻り出していたのだ。もちろん串かつ屋もその一環である。

 大阪人なら常識であるコテを使って鉄板から直接食べるというシステムが美世にはことのほか斬新だった。もたもたと不器用に切り分けるために熱を持ったコテと格闘

しながらも美世は楽しそうに食べた。幼稚園児と言えば年相応だが、あまりの手際の悪さに我慢しきれずに神田が手を出そうとすると美世は顔を真っ赤にして怒った。

 半分ほど残ったぐちゃぐちゃのお好み焼きを神田がきれいに寄せながら食べていると、美世がその様子をしげしげと見ながら言った。

「なあ、しんちゃんは彼女とかおらんのん?」

 ギクリとして手を止めた神田が美世を見た。その反応に逆に驚いた美世が慌てて下を向いた。

「あ、あはははは、こんななりですよって女の人とはかいもく無縁ですぅ」

 取り繕うように笑った神田に顔を上げた美世が訝しげに様子を伺う。後に思えば神田は小太りで坊主頭でじゃがいものような男だったが人懐っこい笑顔で人々からは好かれていた。

 そんな神田に美世は自分では理解できない感情を抱いていた。

「あ、あんな、もしウチが大人になってもずっと彼女がおらんかったらウチがなったげよか?」

 意外そうな表情で固まった神田だったがすぐににこりと笑って言った。

「そらおじょはんやったらべっぴんさんになるやろうし、願ったり叶ったりですわ」

「ね、願ったり、なんて?」

 神田はさらに笑顔を深めると、息を整えて言った。

「そんときはよろしゅうたのんますて意味です」


「坂田のおじょうはんがいらはったで!」

「お茶入れろや!玉露やで!」

「あほか、そんな渋いもん出すな、ちょっと藤本はんまで行ってニッキ水買うてこい!」

「今日日の子ぉがそないなもん飲むかいな!」

 上を下への大騒ぎに苦笑いしながら立つ神田の後ろに美世は隠れた。招き入れられた和室で縁側から見える小さな日本庭園がある。うなぎの寝床のような堺の商家にあっては

相当無理をして作られた坪庭だ。

 商家といっても元々刀匠の流れを汲む鍛冶屋だったのだが、戦争で鉄が消えた日本で、政府からの厳しい取立てから守るために坂田家が今の形で庇護下に置いたそうだ。何がどう抜け道になっているのか詳しいカラクリは謎だが、坂田家と共に生きてきた家の一つだ。

 庭園を眺めながら感慨深げにお茶をすする神田をよそに、おおかたの予想を裏切りニッキ水に食いついた美世が、また新しい味に少し顔を顰めながらも無心に飲んでいた。

 ほどなくして現れた17代目、時信孫三郎こと政隆は40歳半ばの若さで当代を継いだ。18歳で坂田家に奉公し始めた神田とは20年ほどの付き合いになる。

「これはこれはおじょはん、こんなむさくるしい所へようこそ」

 恵比須顔でそう言った政隆は笑顔を引きずりながら神田に顔を向けて言った。

「どないした、わざわざ出向くぐらいやから重症なんか」

 神田は手提げの中からサラシに巻いた包丁を取り出して座卓の上に置くと、パタパタと刀身を返しながらサラシを解いた。現れた柳刃を見て政隆は本当に嫌そうに顔を顰めた。

「なんしたらこないなんねんヘボが、縁起も悪いしケタイも悪い、こんなんでは坂田家は任されへんで」

 そう罵倒された神田はぐうの音も出ないといった表情ですまなそうに言った。

「漬物石の上に落としてもた」

 包丁の切っ先は米粒ほどの鉄片が欠け、飛んで失せたといった状態だ。もどかしそうに煙草を取り出して火をつけた政隆がすぐに灰皿に押し付けて苛立ちを露にした。

 その様子を目だけで観察していた美世に気づいた政隆が引き攣り笑いを作りながら言った。

「五厘ほどみじかなるで」

「頼むわ、もう二度とないようにするし」

 その様子を見ていた美世は政隆に敵意の表情を向けた。焦った政隆が取り繕うように言った。

「心配すな、これぐらいお茶の子さいさいやがな、明日にはきれいに元通りなるで、ちょうど明日市立大学に納入があるからお屋敷に届けたるわ」

「ほんまかいな、そら助かるわー」


 包丁の研ぎ直しを依頼した神田と美世は再び綾ノ町駅を目指した。美世の記憶がはっきりしているのはそこまでだった。

 この後、起こった事を美世が噛み砕くのには数年を要した。


『おじょう…おじょうはんを…だれか』

 血まみれの手が美世の腕からぬるりと滑って落ちた。集まってくる人だかり。誰の物とも知れない騒ぎ声。

『おい、救急車や』

『だれぞここ押さえとけ!』

『う…おぇええ』

『あかん、これは厳しいで』

『見たらあかん、こっちきぃ!』

『う、ううううう」

 車から降りて膝をつき、頭を抱えて泣いている男の人がいる。

 信一の悲壮な声と、その姿を見たとき、不意に自分の中から声が聞こえた。

『しんちゃん、何してんの?』


 黒い服を着た大人達、普段とは少し違うかしこまった格好をさせられた自分。美世は死んだような表情でお膳を前に座っていた。誰かが言った。

「おじょうはん、食べな体に毒でっせ」

 美世はまんじりともせず視線だけで善の中の椀に目をやると、おもむろに手にとって一口すすった。そして長い沈黙の後、ぼそりと言った。

「おみおつけがからい」

「そんなことおまへんで、気のせいでっしゃろ」

「からいもん!しんちゃんどこいったん!」

 激高して椀を畳に叩きつけた美世を誰も咎めなかった。冷静な表情を保ったまま飛び散った椀を片付ける人がいる。

「ううう」

 低く唸りながら美世は誰が悪いのか必死で考えながら回りの大人を見た。だが答えが見つかるはずもなく美世はさらに膳の中にある松皮造りに目をつけた。

「これどこの鯛なん!」

 困惑しながらも横にいた親戚のだれかが言った。

「どこの鯛かわからへんけど美味しいで、おっちゃんさっき食べたからわかんねん」

「鳴門やないとあかん!しんちゃん言いよったもん!鯛は鳴門、タコは明石て!」

「おお、そやそや、確か鳴門やて言うてたわ」

 一つ置いた隣から聞こえた声に美世は鋭い視線をやると、立ち上がって祭壇に向かった。

「嘘や!しんちゃんに聞いてみる!」

 驚いた大人達が立ち上がって美世の周りに集まった。

「やめなはれ、神田くんはもう喋られへんねやで」

 神田の状況は酷かった。美世は現場にいてその惨状も見ていたはずだがその事実関係を確かめる勇気を持った大人はいなかった。

「なんで!なんでなん!出したげな!出したげな!」

 大人達に囲まれて腕を掴まれ、激しく抵抗していた美世だが突然動きを止めた。涙を一杯にためた神田の母が美世の両肩に手をかけて訴えるような表情をしているのに気付いたからだ。


 そうや、他の誰でもない、ウチが悪いんや。ウチがこの人からしんちゃんを奪うたんやん。

 美世は思い出した。急に強く手を引かれて腕がちぎれそうだった。路上に転がりながら見たのは神田の背中と青い空だった。神田だけを白い何かがが引ったくるように持っていった。残ったのは青い空だけだった。

 信号機からとうりゃんせのメロディーが鳴り続けていた。


『とうりゃんせて言われたら渡るんでっせ』


「い…言われたもん…とうりゃんせ言われたもん」

 それは本当に目の前の信号だったのだろうか。

「うわあああああん!ごめんなさい!堪忍してえ!」




「とーりゃんせとうりゃんせ、こーこはどーこの細道じゃ…」

 美世は再び綾の町駅に立った。お台所の人達が自分の裁量で使えるお金が仕舞ってある水屋から盗んで電車賃を確保した。記憶を頼りにお好み焼き屋の前まで行き、じっと暖簾を見つめた後、踵を返して

時信へ向かった。駅から大通りを真っ直ぐ行ったほうが近いのだが、美世はその道を知らない。路地から大通りに出て歩道上を歩く大人達の足をかわしながら暫く歩くと、時信の灯篭が見えて来た。

 店の前まで来て立ち止まり、ふと振り返ると遠くにあの交差点が見えた。じっとりと汗が滲んできて足が震え始めたが、美世はなぜか交差点に向かって歩き始めた。信号機の近くのガードレールに

花が結びつけてあり、カップ酒や果物が道路にはみ出すように置かれている。信号機からとうりゃんせが聞こえてきて美世の足は再び大きく震えはじめた。

「行きはよいよい…帰りは…怖い」

 うわ言のように小さくつぶやくと、美世はその場にへたりこんでしまった。

「おじょうはん!」


 通りかかった時信の若い衆に発見されて座敷に担ぎ込まれた美世は、身を起こすほどの気力を取り戻した後、知らせを聞いて慌てて出先から戻って来た政隆に言い放った。

「しんちゃんの包丁返して」

 それを聞いて少し顔を曇らせた政隆は無理やり笑顔を作って言った。

「わかってます、でもまだ研ぎ直しが終わってまへんのででき次第お屋敷の方にお持ちしますわ」

「しんちゃんの包丁返して」

 同じ言葉を繰り返す美世に再び顔を曇らせた政隆は、できるだけ優しい口調で言った。

「今家の人が迎えにきますよって、ちょっとお待ちにならはってください、包丁は出来てるかどうかちょっと見てきますわ」

 そう言って畳に両手の親指を立てて腰を上げると、廊下にでて工場とは逆の店舗の方へと歩いていった。美世は座卓の上に出されたニッキ水を一瞥すると、すっと立ち上がって廊下に出た。

 鍋を空焚きしたような独特のにおいがする薄暗い廊下を歩いていくと、途中から土間になっていた。踏み石の上に揃えられた大人用のつっかけを履いて、ぺたんぺたんと音を立てながら歩いていくと

住吉大社の札を貼った刺又の刀身がドアの上に飾られている入り口があった。ドアを開けると、全体がくろがね色の部屋があり、無骨な工作機械が鎮座して鉄の道具がずらりと壁にかけられていた。

 ここが工場のようだが火は入っていない。美世はぐるりと見回すと、吸い込まれるように木製の作業台に向かった。黒い帯がかけられた包丁が置いてあり、切っ先は欠けている。側面には

美世が辛うじて読める神田真一の文字。包丁を手に取り、回りをきょろきょろと見回しながら歩き出そうとして足を止めた。

 再び辺りを見渡した美世は作業台の上に置かれていた麻布を見つけ、包丁に巻きつけ、それをしっかりと胸に抱えた。急いで入り口に向かおうとしたが、その時やいやいと騒ぐ人の声が聞こえてきた。

 反転した美世は工場の中を見回すと、勝手口を見つけて走り出した。外に飛び出した美世は、広い通路を避けて建物と壁の間にある子供にしか通れないような隙間に滑り込んだ。

 出てきた先は見覚えのある日本庭園。縁側からそっと室内を覗きこむと、工場の方に人の気配はするが、表の方には人気が無いように思えた。つっかけを弾き飛ばすように脱いで

縁側に上がると、急いで店舗の方を目指した。店舗に降りるためのかまちの向こうにきれいに揃えられた自分の靴を見つけると、飛び乗るように履いて店舗を駆け抜けて外に出た。

「行きはよいよい帰りは怖い、行きはよいよい帰りは怖い」

 呪文のようにつぶやきながら神田が跳ねられた交差点から目を背け、一心不乱に早足で歩いた。運よく駅を発見した美世はチンチン電車に乗って恵比寿町方面を目指した。

 座席に座り、何度も110円がポケットの中にある事を確かめていると、対面の席に座っていた老婦人がにこやかに話しかけてきた。

「お穣ちゃん1人でお使いか?」

 一瞬固まって上目遣いに老婦人を見て、首を横に振りつつ、包丁をより深く胸に抱え込んだ。

「あめちゃんやろか?」

 そういって膝に抱えたバッグから巾着を出して笑っているが、再び美世がチラリと視線を向けて顔を伏せると、それ以上話かける事を断念したようだ。

 恵美須町について駅を出ると、ビルの間から見える通天閣を見上げながら神田との思い出を辿った。しかし目的地と思われる付近が近づくにつれて美世は不安になった。

 神田と一緒の時は感じなかった町の雰囲気だ。粗野に見える中年の男性が多く、何か卑下たような口調で話しかけて来たりする。大きな手押し車に薄汚れた荷物を満載し、両サイドに

トートバックを鈴なりにぶら下げた老人がすれ違いながらじっと見てくる。

「しんちゃん…しんちゃん…なんでおらんなったん」

 美世はぽとぽとと涙を落としたが、それが回りにわからないように俯いて髪の毛で隠した。


 通天閣に書かれている文字とビルの関係を頼りに以前神田と一緒に来た串かつ屋に辿りついた。幼いとはいえ一度見た風景を高精度に覚えている美世の成せる技だった。恐る恐る引き戸を

開けると、男性の尻が並んでいる。顔だけを店内に突っ込み、左右を見て開いている席を探していると、目の前の男性が振り返りながら怒鳴った。

「寒いわ、はよ締めろや!」

 そう言いながら背後に誰も居ない事に気づき、視線を落として美世を見つけると素っ頓狂な顔をした。

「す、すんまへん」

 慌てて店内に入って戸を閉めると、小走りに空いているスペースに滑り込んだ。大人達が体を捻ったり、大きく後ろに反りかえったりしながら美世に注目している。

 美世はカウンター越しに顔も見える事のない店主に向かって言った。

「串かつください」

 大人達がカウンターの中に向き直って目で何か会話すると、また美世に注目した。

「串かつください」

 カウンターの向こうから店主がひょっこりと顔を出した。

「くださいて、お嬢1人か?」 

 美世は店員の顔を確認すると、包丁をしっかり抱きなおしてたすきがけにしたポシェットをごそごそと探ると、9千円を握ってさし上げた。

「お金ならあります、エビください」

 必死の表情でじっと店主の顔を見る美世の目に涙が溢れた。知らない大人ばかりの街中で、一度たりともやった事のない行為をしている事の重圧に押しつぶされそうなのだ。

 しかし神田と一緒に味わったものを思い出すために美世は諦める気などさらさら無かった。

「二度漬けもしませんから」

「お前何やっとんねん、はよ出したれや」

「お、おう」

 カウンターの客の言葉に店主が慌ててエビを差し出す。野次を飛ばした男が受け取り、腰を屈めて美世に差し出した。

「ほら、ソースもあるで」

 差し出された容器にかつをとぷんと漬けると美世は頭を下げた。

「おおきに」

「お母ちゃんは?近くで買いもんか?」

 そう言う男から目を背けて無言でかつをもぐもぐと食べていると、カウンターの中から店主の声が聞こえて来た。

「おう俺や、儲かっとるか、アホかそんな試しいっぺんでもあったんか、それはそうとやな、お前今日非番か、うん、うん、ほうか、実は迷子がおってな」

 一瞬で血相を変えた美世が串を投げ出して店を飛び出した。

「ちょちょちょ!」

 店主が耳から電話を離し、手を差しだしてぶらぶらと振った。店を飛び出した所で急停止した美世はポシェットに手を突っ込んで札を店内にばら撒くと宛ても無く走り出した。

 串かつを食べた事がばれると神田の立場が悪くなると思ったのだ。しかし、立場が悪くなるもなにも本人はもうこの世にいない事を思い出して足を止めた。

 道行く人の目を避けるように端っこを歩き、やがて見つけた路地で室外機の陰に隠れて座り込んだ。


「おい、おったぞ」

 まばゆい光に照らされて美世は目が覚めた。様子のおかしい少女がうろついているという多数の通報から警察に保護されたのは日もとっくに暮れてからの事だった。

 連れ戻された自宅で美世は一切口を噤む事を覚悟していたが、父も母も何も咎めず、何も聞かなかった。ただ、腹が減っているだろうと母が食事を用意してくれた。

 あまり食欲も無かったが、色々聞かれたくない事を聞かれるよりはマシだと思い、出された椀に口をつけた。鯛のお吸い物だった。美世は口の中に広がる味に涙がこぼれた。

 神田の味だったのだ。お台所に残されていた神田の料理手帳は、ただの美世の好みの研究書であったと、後に母晴世から明かされた。その手帳は晴世の手を経て今は美世の手元にある。


 先日、体力の衰えた神田の母から、体が動くうちに二十三回忌をやっておきたいと連絡があった。それに合わせて愛用していたショウブ包丁を時信本家に持ち込んで手入れをしてもらった。

 あの家出事件の後、ガンとして胸元から包丁を離さない美世に、神田の母からそんなに大事に思ってくれるなら使ってくださいと美世に送られたのだ。


 包丁をみつめながらそんな事を思い出し、急に泣いたり、急に笑ったりしている美世を、鷹山はわけがわからず生暖かい目で見守ていたが、ふと包丁の平に刻まれている名前に気がついた。

「神田って誰?」

 美世は鷹山に振り返ると、にんまりと笑った。

「へへーん、離乳食から今に至るまで、ウチの食を守ってくれてはる人や」

 意味深な言葉に釈然としない気持ちだったが、美世の謎をいちいち解き明かしていくのも疲れる。鷹山は適当にあしらった。

「あ、そう」

 

 翌日。休日の朝寝から鷹山が起きてくると、既に届いていた巨大な荷物を台所で美世が解いている所だった。

「トモ兄おはようさん、鳴門から活きのええ鯛が届いたで!」

 威勢良く宣言しながら巨大なトロ箱から引きずり出された鯛は70㎝はあろうかという大鯛だった。一瞬で目が覚めた鷹山が声を荒げた。

「オイ!大相撲かよ!誰が食うんだよそれ!」

「心配いらんでー!」

 そういいつつもう片手をトロ箱に突っ込むと、同クラスの大鯛を引きずり出した。

「トモ兄の分もあるで!腹合わせで縁起も完璧や!」

「人の話聞いてるか!?」


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