信長と信行(信勝)兄弟は和解することは出来なかったのか
さて、秀吉と義龍が夕日が見える河原で殴り合って、仲良くなったことで、道三は死亡せず、美濃斉藤と俺は再び和平協定を結んだ。
とはいえお互いの不戦同盟のようなもので、道三の時のように援軍をたのむようなことはないだろうな、今暫くは、だが。
そして細々とした始末などをいろいろしている間に年も変わり、翌年の弘治2年(1556年)には信長の暗殺未遂及び稲生の戦いが起こり、信長と信行(信勝)の対立が決定的になる。
少し時をさかのぼって見てみると、二人の父である信秀は、晩年において美濃では斉藤、三河では今川にたびたび敗れ、戦の強さを求心力としてきた信秀の支配大勢は弱体化していた。
そして、天文18年(1549年)に信秀は、那古野城主となっていた俺こと信長を政務に関与させるようになり、末森城の信秀と那古野城の信長が共同で領国支配を行うという二元体制となった。
しかし、天文20年(1551年)頃になると、信秀は病床に伏しそれに替わって政治の舞台に登場したのが信秀とともに住んでいた信行で、織田弾正忠家の領域支配を、信行は信秀の代わりに信長と共同で担うことになった。
あくまでもこの時期の信長や信行の発行した書類は、いずれも信秀の右筆により書かれているので、信行と信長はいずれも信秀に従属する立場で、信秀の存命中は信行と信長はどちらも信秀の代理人的な立場で、その権限に大きな差はなかった。
しかし、天文21年に信秀が信長と信行の権限を分けたまま死んでしまうと、信秀の家督は嫡男の信長が間違いなく継いだなどということはないのだ。
この信秀の葬儀の際、名義上の喪主は信長と信行の双方であったが、実際の葬儀に関しての運営や参列客への文の送付を取り仕切ったのは、経済と外交を担当していた平手政秀などで、信長方の武将たちはほぼ参列しておらず信長にできることはほとんどなかった。
この葬儀の時に信長は信秀の位牌に抹香を投げつけ、一方の信行は正装をして礼儀正しく振舞っており、その行動や印象は対照的であったとされるが、事実上葬儀から家来がハブられていた信長がそういった行動をとったのはおかしくなく、しかも信秀の葬儀に参列した連中は実際には信秀の死を惜しむよりも、その死を内心歓迎し、復権を狙う者や信行(信勝)を担ぎ権力掌握を狙う者、信秀の死を契機として信秀の勢力を弱体化させ自分たちの勢力拡大を目指す者等で、表面上は神妙にしているが、心中ではその死を喜び歓迎している者ばかりだったと思われる。
田分けは戯けというが、信秀が弾正忠家の明確な後継者を定めることなく死去し家臣である平手などがそれをいいことに権力拡大を図ろうとしたのが信長には許せなかったのであろう。
そして信秀の死後に、当主である信秀の居城の末森城を継承したのは、信行で柴田勝家、佐久間大学、佐久間次右衛門らに加えて、村木砦攻撃のときに離反した林秀貞とその弟林通具などが信行を支持していた。
この時点では信秀の家督の継承者は信長ではなく信行であると思っていたものも多かっただろう。
信長は弾正忠家の当主として認められていたとは言いがたかったのであったが、それを支えていたのが斎藤道三だった。
しかし信長の政治的武力的後ろ盾であった斎藤道三が嫡子義龍との戦いで敗死するとその後ろ盾もなくなり、さらに尾張岩倉城主の織田信安は犬山城主の織田信清と所領問題で争い、そのこじれから信長とも疎遠となって、信安は義龍と呼応して信長と表立って敵対するようになる。
そして天文22年(1553年)頃になると商業地である熱田の権益を巡って信長と信行は表立っての争いを開始。
この頃、信行(信勝)は達成と改名したが、「達」の字は守護代の織田大和守家の当主の通字であり、滅亡した守護代家を引き継ぐ意思の表明であったが、それとともに官途名として「弾正忠」を明確に名乗って自分こそが弾正忠家の当主であるという立場も表明した。
史実においては信長は斯波義銀を擁立することで自分の正当性を表明したが、それにより信行と信長は対決せざるを得なかった。
そしてそれがはっきりしたのは弘治元年(1555年)に弟の秀孝が叔父である信次の家臣の洲賀才蔵に誤殺されたときに信行は、守山城の城下を焼き払わせを攻撃し続けたが、信長は「無防備に単騎で行動していた秀孝にも非がある」と言って、信次を処罰しようともしなかったことで、結局信次は逐電したため、守山城主の地位には、織田安房守信時ないし秀俊がついたが、、翌年の弘治2年(1555年)に安房守は守山城年寄衆・角田新五によって殺されたのだが、角田は全く処罰を受けておらず、後の稲生の戦いでは信行の側について参戦していることから、安房守殺害には信行が関与していた可能性が高い。
このときには信光もすでに殺害されており、織田弾正忠家内の家督争いで生き残ったのは、信行と信長の2人となったといってよかった。
そして弘治2年(1556)4月に斉藤道三が敗死すると、翌月の5月には信長が異母弟の織田信時と2人だけで那古野城を訪れるた時、林通具は好機到来とばかり信長を切腹させようと主張したが、兄秀貞が反対したため、信長と信時はそのまま帰ることが出来た。
しかし信長の直轄領である篠木へ信行は兵を派遣して押領、信長は佐久間盛重に命じ庄内川を渡った対岸の名塚に砦を築かせ、その後稲生原での合戦に至った。
林秀貞は那古野城、信行は末森城を守り、信勝の名代として柴田勝家は織田信安の兵も合わせて1000人、林通具は700人の兵を引き連れ、名塚砦目指し出陣し、一方の信長も700人の親衛隊を率いて清州を出陣。
両軍は稲生原で激突、信長軍の約半数が柴田軍に攻めかかったものの、大きな兵力差に加えてその時すでに戦上手で知られていた柴田勝家の活躍もあって、信長方は苦戦を強いられ、柴田軍が信長の本陣に迫った時には、わずか40人ばかりしかいないという危機に立たされたが、織田信房・森可成の両名が前線に立って戦い、信長が敵に対して大声で怒鳴ると、身内同士の争いだったこともあり、柴田軍の兵たちは逃げていったという。
そして残った林軍に攻めかかった信長は自らが、林通具を槍で突き伏せて討ち取った他にも主だった武将など500人近くを打ち取り林軍を文字通り壊滅させた。
末盛城・那古野城の残存兵力は篭城したが、信長は両城の城下を焼き払った。
結果的に信行は、信長と信行の双方の母である土田御前の取りなしにより助命され、清洲城で信長と対面して許された、林秀貞、柴田勝家も信長に謝罪、改めて忠誠を誓った。
稲生の戦いにおける敗北により、信行は「弾正忠」を名乗ることはなくなり]、「武蔵守信成」と改名している。
しかし、家臣たちは信長に乗り換えればよかったが、担ぎ上げられた信行はそうも行かず、斎藤義龍、織田信安らと共に信行は再び篠木三郷を押領しようとしたが、柴田勝家がこれを信長に密告し、信長は仮病を装って信行は見舞いに行った所で殺されてしまった。
「結局の所、信行は傀儡にして織田弾正忠家の権力を手に入れたい連中に踊らされてるだけなんだと思うが、どうにかならんかな?」
それを聞いた猿がおもむろに言った。
「漢同士ならば拳で語り合えばわかりあえるものだ」
「あ、うん、そう……かもな」
拳で殴り合えば誰とでもわかりあえるなら苦労しない気がすんだがな。
何れにせよ信秀の後年の対外戦争の敗北は信秀の権力を弱め、平手や林といった側近による後継者レースにおいて御しやすい信行が担ぎ上げられているから、葬儀が終わったあとからでは信長と信行はどうやっても仲良くなれないんでどうしようもない。
「殿! 信行の名代である柴田勝家が篠木三郷を横領しようとしております」
小姓からそう聞いた俺はうなずく。
「そうか、わかった出陣しよう」
信行名代の柴田勝家と林通具の兵力は2千。
一方の俺は……。
「犬、猿、帰蝶、でるぞ!」
「うーっす」「承知」「わかりましたー」
いつものごとく十傑集走りで、守護邸ヘ向かい、いつものように犬は四足で地を駆けながら俺に追随し、猿は川を驀進しているし、帰蝶はパラグライダーで空を飛んでいる。
そして戦場について早々に帰蝶の攻撃が始まった。
「さーあ、今回は弾丸祭りですよー」
「うぎゃあああー!」
戦場に到着した途端、帰蝶が無限弾倉ミニガンで敵兵をなぎ倒しまくっている。
「ふっ、これは負けちゃいらんねえな!
なあ柴田のおっさん!」
「俺はおっさんではない!」
犬は柴田勝家とタイマンを始めた。
「もうひとりの侍大将は我が拳で砕く!」
「え、ちょっとまっってくれ」
「いや、またぬ!」
秀吉は林通具をボコボコにしている。
そして一番奥で俺を待ち構えていたのは弟信行だった。
「兄上、今こそ我らの決着をつけましょう」
「ああ、そうだな、行くぞ」
「来いっ!」
”ラウンド1、ファイト!”
突如として夕日の指す河原での俺と信行のタイマンが始まった。
「行くぞ信行ー!」
「兄上ー!」
”ドス! ジュギュンジュギュンジュギュン”
俺の右手の妖刀村正が信行を捉えるとその魂を吸い上げていった。
「ぐわぁァァァァ!」
そして信行はどさりと地面へ倒れた。
「クックック、ハッハッッハ、ワーハハハハハ!
信行よ、我が愛刀の中で永遠に生き続けるがいい!」
あれ、なんか俺、魔王みたいしゃね?
その後妖刀村正から夜な夜な、か細い声で”ニーサン……”という声が聞こえるようになったんだが、甲冑にとりつかせたら動いたり喋ったりするようになるかなこれ。




