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斎藤道三はなぜ美濃を信長に譲ろうとしたのか

 さて、天文23年(1554年)、信長の嫁である帰蝶の親の斉藤利政は家督を子の斎藤義龍へ譲り、自らは常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し、鷺山城に隠居したとされる。


 この時代の隠居は必ずしも現役引退を示すわけではなく、むしろ内政の権利は息子に渡しても軍事の権利は手放さずその後も実質的当主として振る舞うことが多い。


 ただし斎藤道三お隠居は当時の資料にはなく江戸時代から出てくるものであるため信憑性は薄いらしい。


 道三は義龍よりも、その弟である孫四郎や喜平次らを偏愛し、ついに義龍の廃嫡を考え始めたとされ、道三と義龍の不和はあっというまに顕在化し、弘治元年(1555年)に義龍は弟達を殺害し、道三に対して挙兵する。


 これまでの美濃の少守護代、守護代の家の乗っとりに、守護家の追放という国盗りの経緯から道三に味方しようとする旧土岐家家臣団はほとんどおらず、翌弘治2年(1556年)4月、17,500の兵を率いる義龍に対し、2,500の兵の道三が長良川河畔で戦うが、娘婿の信長が援軍を派兵したものの間に合わずに衆寡敵せず、戦死した。


 斎藤道三といえば戦国時代における下剋上を行った代表的人物とされるが、これは娘が信長の嫁になったというのが大きくて記録に残りやすかったからだろう。


 道三の先祖は、代々内裏の警護を行う北面の武士を務め、藤原北家日野家一門の松浪基宗の子である松波庄五郎の血筋である。


 要するに斎藤道三も日野家という公家の名門の生まれであって、豊臣秀吉のような生まれの素性のわからない農民ではないということだ。


 松波庄五郎はもともとは僧侶だったが、還俗して油問屋の奈良屋又兵衛の娘を妻とし、油商人となり行商として成功したが、坊主時代の伝を頼り、美濃守護土岐氏の小守護代であった長井長弘の家臣となる。


 そして西村勘九郎もしくは庄五郎と名乗った彼はその才覚で次第に頭角を現わし、土岐守護の次男である土岐頼芸の信頼を得るに至り、頼芸が兄政頼との家督相続に敗れると、勘九郎は政頼を急襲して越前へ追放して、頼芸の守護補任に大きく貢献した。


 しかし、政治の実権は長井長弘らが請け負っており、土岐頼芸を守護にしただけでは彼には実権は手に入らなかったため、享禄3年(1530年)もしくは天文2年(1533年)政務怠慢などを理由に長井長弘夫妻を殺害し、同家を乗っ取って、長井新九郎規秀を名乗って、本拠を稲葉山城に移動。。


 さらに天文7年(1538年)に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った。


 さらに天文11年(1542年)に利政は頼芸の居城大桑城を攻め、頼芸とその子の二郎(頼次)を尾張へ追放して、事実上の美濃国主となった。


 しかし、織田信秀の後援を得た土岐頼芸は、先に追放され朝倉孝景の庇護を受けていた土岐頼純と連携して、土岐氏の美濃復辟を名分として朝倉氏と織田氏の援助を得、美濃へ侵攻した。


 その結果、頼芸は揖斐北方城に入り、頼純は革手城に復帰した。


 しかし天文16年(1547年)加納口の戦いで織田信秀の軍へ大損害をあたえ、斉藤利政は織田信秀と和睦し、天文17年(1548年)に娘の帰蝶を信秀の嫡子織田信長に嫁がせた。


 この和睦により、揖斐北方城に留まっていた頼芸を天文21年(1552年)に再び尾張へ追放し、その他の反抗的な勢力を滅ぼして美濃を完全に平定したとされる。


 しかし彼は息子の斎藤義龍によって討ち取られることになる。


 有名なのは「義龍は誰かから”あなたは実は土岐頼芸様の息子なんですよ”と吹き込まれ、それを信じた義龍が親の恨みを晴らすために道三を殺した」というものであるが、事実彼の母親である深芳野は土岐頼芸の愛妾であったが、大永6年(1526年)12月に下贈され、規秀の側室となる。


 そして、翌年大永7年6月10日に20歳で豊太丸(のちの斎藤義龍)が産まれているため斉藤利政が深芳野を下贈される前から土岐頼芸の子を懐妊していた可能性は実際高い。


 道三が「美濃は倅ではなく婿殿に譲る」というような手紙を信長宛てに書いていたり、あからさまに次男・斎藤孫四郎や三男・斎藤喜平次を可愛がって、義龍を廃嫡しようとしたりしたのはおそらくこれが理由であろう。


 そして義龍への家督譲渡は、合戦と謀略で権力を手に入れ、商業政策はともかく農業政策的な内政をほとんど顧みなかったことと(ただし年貢などは特に厳しくはなかった、むしろ土地争いなどの調停に恣意的なところが大きかったらしい)、土岐家を慕う旧臣は多く、微罪の者を牛裂き、釜茹で、鋸引きなど明らかに見せしめの極刑に処することを行なっていること、そしてわざわざ尾張に兵を送り込むなど信長に肩入れし過ぎな道三にぶち切れたであろう、長井道利やその他の国人達が義龍を御輿に担ぎ上げて無理矢理に剃髪・隠居させた可能性が大きい。


 実際に浅井長政は、父である久政を竹生島に追放し、隠居を強要して浅井の家督を相続している。


 道三の統治下の美濃国は、戦国大名化・集権化が全国で最も遅れていたようだが、土岐一族で何十年も内乱を繰り返しており、権力を手に入れた道三に対しての妬みも大きい状態であったから、内政する時間がある訳が無いのではあるが。


 しかし隠居させられた道三は義龍を排除し、道三の正室である小見の方が産んだ弟の孫四郎を嫡子としてあとを継がせ、末弟の喜平次には名門一色家として「一色右兵衛大輔」と名乗らせ権力を取り戻そうとした。


 その結果、弘治元年(1555年)に、長井道利と共謀した斎藤義龍は弟の孫四郎、喜平次らを自身のいる稲葉山城の奥の間に「自分は重病で先は長くない。対面して一言申し上げたいことがあるので、おいで願いたい」と伝え、それに道利が口添えをしたため、弟たちは承知して義龍のところへ出向いてき、長井道利は道利が刀を置き、それを見た弟二人も同様に刀を置いた。


 そして奥の間に入れて酒を振る舞い、酔った所で日根野弘就が上座にいた孫四郎を切り伏せ、続いて喜平次を切り殺してしまい、この時鷹狩をしていた(もしくは麓の屋敷にいた)道三はそれを伝え聞くと即刻軍勢を集めて城下の町を焼き払い、火煙に紛れて城下から、長良川を超えて山県の大桑城にまで逃れ、その年はそのまま暮れた。


 そして、道三、義龍ともに兵を集め弘治二年(1556年)の長良川の戦いに至るがそこにて道三は敗死することとなった。


 この敗死する前日に道三は二人の息子に信長へ「美濃を譲る」という遺言状がたくされ、信長も戦場さほど遠くない大良に陣を構えていたが、この時期はまだ岩倉織田家や弟の信行とも争っていたこともあり、道三を討ち取った義龍軍が、信長の陣を襲撃し、それに応戦していた所で道三が敗死しているとの知らせが届いたうえ、岩倉織田軍が、清洲城に攻め込んだこともあって軍を退却させざるを得なかった。


 その後、義龍は合議制を取り入れ、家臣の意見も良く聞いて統治したとも言われるが独裁者に近かった父と違い合議制にせざるを得なかったというのもあるのだろう。


 というわけで道三が信長に美濃を譲ろうとしたのは、すでに孫四郎と喜平次が殺されていたことやすでに自分が死ぬのが間違いない状態であったのも大きい。


 とはいえ斉藤家の内部での権力争いに簡単に首を突っ込めるほど距離は近くないのも事実だが……。


「殿! 美濃の斎藤義龍が病気と称して弟の孫四郎、喜平次ら稲葉山城へ呼び寄せたようです」


 そのように報告するのは滝川一益。


 甲賀の出身である彼は信長の諜報活動を請け負っている。


 信長のもう一つの情報源は馬借商人である生駒と川波衆の蜂須賀党。


 馬を使って荷物を運ぶ馬借と木曽川水系の水運を行う川波衆は諸国の事情に通じていた。


 生駒氏は藤原氏系列の武士と言われているが、尾張生駒氏はなく武装商人である。


「ならば、孫四郎、喜平次らは助けられぬかもしれないが姑殿は助けねばな。

 犬・猿・帰蝶、稲葉山城へ向かうぞ!」


「うーっす」「承知」「わかりましたー」


 いつものごとく十傑集走りで、守護邸ヘ向かい、いつものように犬は四足で地を駆けながら俺に追随し、猿は川を驀進しているし、帰蝶はパラグライダーで空を飛んでいる。


 それからと俺は帰蝶に向き直って言う。


「帰蝶、今回も稲葉山城ごと攻撃したりするのは禁止な。

 美濃のそのほかの国人や家臣や兵士まで巻き込みかねんからな」


「またですか……なるほどそれもそうですね。

 今回も拳銃によるガン=カタだけにしておきましょう」


 全力ダッシュで俺たちがかけつけたときには稲葉山城の城下に火の手が上がっていた。


「やはり間に合わなかったか」


 とはいえ道三は無事だった。


「帰蝶と婿殿か」


「大丈夫ですか父上?」


 帰蝶がそうきくと道三はがっくりと肩を落とした。


「まさか、弟がバカ息子と組んで謀反をおこすとは」


「蝮と呼ばれるお父様にしては甘いですね」


「う、うむ、我が娘なれど厳しいものよな」


「とりあえず稲葉山城へ行きましょう」


 そして犬猿帰蝶は稲葉山城へ突っ込みやがった。


「おい、お前ら?」


 稲葉山城は後に岐阜城となるが関ヶ原の合戦前にあっさり陥落している。


「じゃまだ!」


 犬の三又槍が振るわれるたびに雑兵が薙ぎ払われる。


「雑兵ごときで我の行く手を阻むことはできぬ!」


 猿の豪腕が唸るたびに雑兵が吹き飛び、頭突きを食らったやつは文字通り粉々に粉砕されていく。


「はいはい、邪魔よ、どきなさい」


 帰蝶は正確無比な射撃で雑兵たちをなぎ倒していく。


 そして稲葉山城にたどり着いた所で仁王立ちしていたのは。


「ふん、帰蝶よ、なぜ父に味方する」


 そういう身の丈2メートルをこす巨漢は弟を殺害させた斎藤義龍。


「あれでも父は父ですので」


 そこへぬっと進み出たのは豊臣秀吉。


「うぬは強いな、だが世に覇者はひとりでいい」


「ほう、確かにそこそこできるようだ、……だが我の敵ではないわ!」


 ”ラウンド1、ファイト!”


 突如として夕日の指す河原での秀吉と義龍のタイマンが始まった。


「おい、ここは稲葉山じょ……」


 どごぉ!ごがぁ!というお互い拳が肉を叩きつける音が響く。


「もはやこの我を対等の地にたたせる男はおらぬと思っておったが、血が騒ぐぞ!」


「ならばなぜ弟を殺した!」


「兄より優れた弟など存在せぬ! だがあの老耄はそれを認めなかった!」


 義龍の言葉に俺はうなずく。


「ああ、たしかに兄より優れた弟など存在せんな」


 そこへ呆れたように犬がツッコミをいれてきた。


「殿だけにはそれ言われたくないと思うっすわ」


 そして秀吉と義龍、二人の拳が交差して両者は地に倒れ伏した。


”ダブルKo!”


 そして二人はムクリと起き上がりとがっちりと手を取り合った。


「うぬはなかなかやるな」


「ああ、我が拳を持って服従させることが出来ぬものがいるとは」


 夕日の見える河原で殴り合った後に両者の間には殴り合ったものだけがわかる連帯感と友情が芽生えたのだった。


「あれ、俺全く出番なくね?」


 そして今回俺の出番はまったくなかった。


 雑魚どころかボスとのタイマンの機会さえなかった。


 それはともかく秀吉と義龍による殴りあいによって、織田と斉藤は再び講和してともに戦うことになったのだ、めでたしめでたし。

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