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信長の水軍は毛利の水軍に鉄甲船を使って大勝したのか?

 さて、長篠の戦いに前後して天正4年(1576年)天王寺砦の戦いののち、佐久間信盛ら織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し、物資を入れぬよう響狼攻めを計ったが、毛利輝元が石山本願寺の要請を受けて派遣した毛利水軍など700~800隻程度が、本願寺の援軍として大阪湾木津川河口に現れた、この戦いで毛利方の水軍の使用する焙烙玉・雑賀衆の使用する焙烙火矢の前に織田方の水軍は、真鍋七五三兵衛、沼野伝内、沼野伊賀、宮崎鎌大夫、宮崎鹿目介、尼崎の小畑氏、花隈の野口氏がすべて討死するという壊滅的な打撃を受け、石山本願寺への兵糧など物資の搬入も成功してしまいという当初の目的を毛利方が果たす結果となった。


 織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧・弾薬が運び込まれたが、陸上では織田軍が優勢で以後、本願寺軍は討って出ようとはせず、籠城戦に持ち込んだ。


 また、この戦いで本願寺攻撃の主将格であった塙直政が戦死し、佐久間信盛がその後任となって対本願寺戦を指揮したが、対本願寺戦において非積極的であったと信長に折檻状を突きつけられ失脚し、代わって信長の実質的本拠地たる畿内で大軍団を率いることになったのが、明智光秀であった。


 この時、信長は正三位・内大臣に昇進し、天皇の安土行幸が計画されて、それはその翌年の天正5年に実行されるはずだった。


 また、正親町天皇が誠仁親王に譲位し、親王が新たな天皇として行幸する予定だったが、譲位も安土行幸も実現しなかった。


 はっきり言えばもう信長には金に余裕がなかったのだ 。


 天正5年(1577年)に雑賀衆の頭領・鈴木孫一らを降伏させ、紀伊国から撤兵し、松永久秀が信長に謀反を起こし、その本拠地の信貴山城に籠城したが、これは織田信忠が鎮圧し、久秀は自害に追い込まれた。


 なおこの時平蜘蛛に爆薬を詰めて自害をしたいうのも捏造である。


 能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻し、柴田勝家が手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出したというが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは実際は不明。


 しかし、加賀南部も上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。


 正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させ、翌年天正6年(1578年)にはさらに正二位に昇叙され、足利後継の武家の棟梁の地位は織田信長が引き継いだと言って良い状態であった。


 そして同年天正6年上杉謙信が急死したが、謙信には実子がなく、はっきりとした後継者を定めなかったため、養子の上杉景勝と上杉景虎が後継ぎ争いを始めた、信長は斎藤利治を総大将に、飛騨国から越中国に侵攻し、上杉軍に勝利し、柴田勝家が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せ、北陸でも上杉に対して優位にたった。


 かと言ってこの頃の信長に、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力があったというかというと疑わしく、各軍団長に兵は自前で揃えろ、だが武田の家臣などは使うななどの無茶な命令が増えていた。


 このころの実質的な各方面軍だが


 美濃・尾張・飛騨の抑えは織田信忠・斎藤利治・姉小路頼綱

 信濃・甲斐の武田方面は滝川一益・織田信忠・河尻秀隆

 本願寺に対しては佐久間信盛軍

 北陸方面の上杉に対しては柴田勝家・前田利家

 丹波攻略は明智光秀

 山陰・山陽の毛利に対しては羽柴秀吉

 四国方面は織田信孝・丹羽長秀

 伊勢・伊賀方面は織田信雄・織田信包

 そして東海道の抑えは徳川家康がになっている。


 天正6年の11月6日、九鬼嘉隆率いる織田水軍が、毛利水軍に勝利し、本願寺への兵糧補給の阻止に成功した。


 信長が焙烙玉・焙烙火矢に対抗するために鉄を貼り付けた鉄甲船を用いて勝利したと言われる第二次木津川口の戦いである。


 だが信長公記では、九鬼嘉隆の建造した6隻の黒い大船に加えて、滝川一益の建造した白い大船1隻が、伊勢から出航して雑賀・淡輪の水軍と戦い、堺湊で艦船式を行い、木津川口で九鬼嘉隆の6隻が海戦を行ったことが記載されているだけで、鉄を貼った船とは一言も書いておらず、鉄張りの船を指すとされた『多聞院日記』の「鉄の船なり」というのは実際は南蛮船を指す言葉で、つまりガレオン船風の大砲3門にさらに大口径の抱え筒つまり鉄砲を備えた船を表したらしいのだ。


「6隻の大安宅船が敵船を間近に寄せ付けては、ことごとく大砲で打ち崩した」


 としか書いているので大砲が役に立ったのは間違いないのだが。


 なお豊臣秀吉は文禄・慶長の役時に鉄の装甲を持った大型船を建造したのは事実であるようだが、それもどれくらい役に立ったのかというとこれまた疑問だ。


「まあこの世界だと普通に作っちゃうんだけどな」


 鉄甲船どころか太平洋戦争の駆逐艦みたいなのが出てきても驚かんぞ。


「というわけで、焙烙玉・焙烙火矢に対抗するため帰蝶様のお力も借りてこの九鬼嘉隆、戦艦大和を作ってみました!」


「おい! 戦艦大和? 帰蝶?」


 帰蝶はにっこりいう。


「これで毛利水軍に完全勝利間違いなしですよ」

 

 たしかにその後、毛利水軍に完全勝利したが最初になぜか積まれていた大砲の弾と石油がなくなったらなんの役にたたない鉄くずになっちまったぞ。


 まあ史実の信長の鉄甲船と言われる船もその後一切活躍することなく朽ち果てていったらしいけど。

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