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織田信長は兵農分離をしたのか

 アレコレしていたら天文24年(1554年)となってしまった。


 さて織田信長といえば従来は戦国時代の革命的リーダーで兵農分離をいち早く実行し、常備軍を創設。


 その他楽市楽座を奨励し、自由経済を推進。


 合戦においては長槍や鉄砲をいち早く取り入れて長篠の三段撃ちのような鉄砲戦術を取り入れたからこそ天下人にもっとも近い位置まで行けたと言われていた。


 常備軍がいたから織田軍は、兵農分離が進んでいない他の大名よりも有利だったといわれていたが最近はこの説はだいぶ疑問視されている。


 まず、農繁期に軍を動かさなかったと言われているのは島津氏と長曾我部氏のみでほとんどの大名は農繁期でも普通に合戦を行っている。


 これは悴者(かじもの)もしくは加世者(かじもの)などと呼ばれる、傭兵集団を銭で雇うことができたからで鉄砲傭兵として有名な雑賀衆などと同じような集団は日本各地にいた。


 ただし基本的に彼らは戦のときだけ契約を結んで戦い、戦が終われば契約は解除される。


 この加世者を足軽として常時雇用し戦の有無にかかわらず生活が保証され、仮に討ち死にしても残った家族の面倒を見てもらえ、衣食住保証の終身雇用とした信長は、兵に加世者つまり戦時のみ雇用な傭兵も多かった弟の織田信行(信勝)やその他の同族との戦い、そして今川義元との戦いの桶狭間などでも、一時的に雇われただけの傭兵達よりもずっと戦意も訓練度も高かった。


 そして誰が誰を倒したかで倒されたものの土地を倒したものが得るという地侍や国人など土地に関わる人間と違い、あくまでも銭で雇われ続けた加世者を倒しても敵には得られる土地もなく旨味がない。


 もっとも下尾張の西側を信長、東側を信行が相続したが、東側が昔からの田畑が農地として多く恵まれた土地で地侍なども多かったのにたいし、西側は津島の河港を含んでいるので金が入って来ても兵力となる地侍などは少なかった。


 織田信長は一日二食と月に十文、後は生活のための家と衣服を保証して、加世者や牢人などを三百人も那古屋城内で雇ったが彼らは、「小屋の者」と言われて重臣たちからは眉を潜めて見られていた。


 平手政秀は”このようなことはおやめください、父上同様にお金を各将に分ければ戦の時には武将が各村の働き盛りを連れてきくれるはずです。兵が戦いでがんばるのは、戦国大名が好きな訳でも、立つという使命に燃えている訳でもなく、戦のあとで村に帰ったとき、一番に逃げたのはあいつだ、真っ先に崩れたのはあの村の衆だ、といわれることが怖いからです。ですから訳の分からないゴロツキを雇っても、戦の役にはたちませんし、帰る故郷のない者など、戦になれば皆逃げ散るのは明らかです」


 と諌めたが信長はそれを聞かずに赤母衣衆、黒母衣衆を育成し、兵士も一時雇いの傭兵ではなく正規雇用しつずけることで、士気が高く訓練度も高い常備兵を作り上げた。


 なお武士と一括りにされがちだが基本的には支配者層に含まれるのは守護や守護代、元は荘官や地頭であった国人など徴税権を持っているものであって、地侍は加地子(地代=中間得分)の徴収権を持つ事により武装した惣村の名主である。


 守護や守護代、国人領主などと地侍は主従関係を結び、合戦のときは自らに加えて村から兵力を出して戦ったが、守護や守護代、国人領主などから見れば、地侍はあくまでも在地百姓の有力者に過ぎず、被支配者でしかなかった。


 このあたりこの時代の武士は半農半兵と言われるゆえんであるが、後に秀吉により行われた兵農分離によって加地子の権利や帯刀名字を剥奪されて、庄屋・名主になるか、武士階級の足軽として城下に住んで禄をもらうかの選択をすることになるが、身分は武士のほうが上とされたが生活は庄屋・名主のほうがずっと上であった。


「というわけで、戦に備えて名古屋城で加世者に衣食住を支給して、盛況な兵士として訓練を置こうことにするぞ、できれば忍び集も常時雇いにしたいところだな」


 この時期には滝川一益が津島にいるからそのあたりから伝を得たいとこだな。


 ともかく常備兵募集のために辻看板を立てたなお触れを出すことにした。


「来たれ若人!

 働きによって被官から家老への登用制度有、衣食住完備の温かい家庭的な職場です。

 訓練方法は親切丁寧に指導します。未経験者も大歓迎。

 必要なのはやる気と笑顔、さあ夢に向かってともに頑張りましょう」


 そういった宣伝の甲斐もあり、常備兵を4000ほど揃えることができた。


 そして翌年の1554年になると、史実通りに三河の松平家を事実上支配下に置いた今川義元が、岡崎を拠点に、知多半島や尾張の領境へ侵攻を開始した。


 史実での流れはまず鴫原の重原城の山岡伝五郎を攻め滅ぼすと、鴫原城を拠点に、緒川城の水野忠政の城を狙って、村木に堅固な砦を築いた。


 これに呼応し、織田方だった寺本城が今川方に寝返り、信長の居城・那古野城と緒川城の間の道を塞いでしまったため寺本城を避けるために信長は船で海を渡って、村木砦を背後から攻撃することにしたのだ。


 だが留守中に敵対しているものの攻撃もあり得たので信長は義父の斎藤道三に使者を送り、援軍を求めた、それに対して斎藤道三は安藤守就以下1000人の兵を派遣し、安藤守就が、那古野城の近くに布陣すると信長はすぐ安藤に礼を述べ、出陣。


 しかし、ここで林秀貞・通具の兄弟が無謀な作戦であると言い離脱してしまうが、信長はいっこうに構わない、そのまま出陣し、非常な強風の中を渡海した。


 村木砦は北は要害、東は大手門、西は搦手門、南は甕型の非常に大きな堀であったが、東から水野忠分、西から織田信光、そして南から信長が攻撃をかけた。


 このとき信長は、鉄砲隊の者たちにそれぞれ受け持ちを決めて担当させ、鉄砲を撃つもの、弾を込めるものに分けて、鉄砲を取り替えてはすぐに撃たせ、その間に手勢に堀を登らせた。


 織田軍は暇なく攻め立てたので敵は負傷者・死者が増え、ついに降伏したが、織田側にも死者が多数出ており、また薄暗くなってきていたので、信長はこれを受け入れ、後の始末は水野忠分に任せた。


 安藤守就からこの戦いの話を聞いた道三は「すさまじき男、隣には、いや成人にて侯よ(凄まじい男だ。隣には嫌な奴がいるものだ)」と言ったという。


 そしてやはりというべきか今川義元は鴫原の重原城の山岡伝五郎を攻め滅ぼすと、鴫原城を拠点に、緒川城の水野忠政の城を狙って、村木に堅固な砦を築いた。


「村木砦を放置することはできん。

 出陣するぞ!」


 俺は求人広告で集めた兵を率いて……ではなく、援軍の犬と猿と帰蝶だけを引き連れて十傑集走りで海上を疾走し、海を割りながら驀進する猿の背中に乗る犬と、パラグライダーで飛んでいる帰蝶とともに海をわたってそのまま村木砦に攻撃を開始した。


 犬は高く跳躍して壁を乗り越え、猿は戦国最高の頭脳で頭突きを用いて城門を粉々に粉砕して中に突入。


「それじゃあ私達も続きましょうか」


「うむ」


 帰蝶は秒間100発のミニガンで城門と守備兵を文字通り蜂の巣にしてから蹴り開けて、無限弾倉のミニガン中の兵士もなぎ払い一層していく。


「あれ、これ俺いらなくね?」


 気がついたときには村木砦の敵兵は全滅していた。


「まあ、いいか」


 とりあえず史実通り村木砦の戦いに勝利したことで今川は尾張攻略に対しての方針を変えざるを得なくなったのだ。

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