長篠の戦いは少数の織田徳川軍が鉄砲三段撃ちで武田勝頼に勝利したのか
なんだかんだでまた歳がめぐり永禄5年(1562年)になった。
史実における織田信長は天正3年(1575年)楽ヶ原で武田勝頼を破り、これが武田勝頼と甲斐の武田家にとどめを刺した戦いになった。
所謂俗説では織田信長の考案した鉄砲三段打ちを鉄砲隊三千に行わせて、馬防柵に突っ込んでくる戦国最強の武田騎馬隊を壊滅させた歴史的な戦いで、無能な武田勝頼が有能な老臣の諌言を聞かず、弱兵と言われる尾張兵と侮って、鉄砲のはsyys感覚に時間がかかるとからと断続的に攻撃を仕掛けたが、三段撃ちによってぞの発車時間を短くされて、騎馬隊がやられて戦力が低下したところを柵より打って出た織田・徳川連合軍によって殲滅されたとされ、結果的にこの闘いの大敗北で武田家が滅亡する原因となった戦いとされている。
だが武田軍は早朝から昼過ぎまでの長時間にわたって攻撃を続けており、この「長篠の織田軍の勝利は鉄砲を多数揃えた火力による騎馬隊に対しての勝利」とか「戦国時代において、織田軍は他大名より鉄砲を重視した」という説はすでにほぼ否定されていたりする。
そもそも信長公記では鉄砲奉行5人に指揮を取らせたとだけ書いてあり、まり三段撃ちを行ったという記述はなく、これも江戸期に出版された軍記物からだ。
それを明治期の陸軍が教科書に史実として記載したことから、それが常識として広まったらしい。
この闘いではまずそもそもとして、双方の兵力差に大きながあったのだが、そのあたりはなぜか教科書などで無視されているのも問題である
織田軍が3万、徳川軍8千の4万近い連合軍に対する武田軍は1万3千程度。
もっとも実際の兵力はこの半分程度だったのではないかと言われているが、武田軍は織田・徳川連合軍の三分の一程度で戦っていたのだが双方の鉄砲西宇bi率は1割弱くらいで割合だけで言えば差はなかったらしい。
そしてが武田軍は織田徳川連合の三分の一の兵力で騎馬にによる突撃を繰り返したと言われれいるが、そもそも武田の兵力が全部騎馬隊だったわけでもなく、突撃自体をやりたくてやったわけではない。
この闘いの直前に徳川軍の酒井忠次等が行った鳶の巣山の武田軍の兵站基地への夜襲の成功によって、武田軍は正面の織田・徳川連合軍を撃破または撤退させなければ、そもそも撤退すらできない状況になっており、そもそもでいえば三方ヶ原の戦いの時のように信長の本援軍は少数で1万五千の兵であれば十分対処できると勝頼は予想していた可能性が高い。
さらにここまで武田勝頼は連戦連勝であったため彼が軍事的に無能な指揮官であるとは決して言えない。
だが、もともとかれは諏訪勝頼として武田の後継者になる予定はまったくなかったが、永禄10年(1567年)に武田に本来跡継ぎとなるはずであった嫡男義信が廃嫡されたことで急遽、その代理として立たされたが、それでも信玄は勝頼の嫡子である武田信勝が成人するまで、勝頼に家政を代行させたに過ぎなかった。
そんな状況で、天正元年(1573年)に徳川方から武田方に転じていた奥三河の国人の奥平貞昌は武田信玄の死を疑う父の貞能の決断により一族を連れて徳川方へ寝返って、家康からは武田家より奪還したばかりの長篠城に配属された、、まあつまりは対武田の前線に置かれいざとなれば死んでも構わないと思われていたのだろう。
天正2年(1574年)武田勝頼は2万5000人を動員し、遠江東部における徳川方の重要な拠点である高天神城を攻撃し陥落した。
そして翌年天正3年(1575年)に武田勝頼はもう一度軍を率いて三河へ侵攻し、長篠城を包囲した。
勝頼は高天神城を落としていたため、攻城戦でも行けると自信過剰になっていた可能性が高い、だが武田軍は長篠城に猛攻撃をかけたが、ここで寝返ったら家康に間違いなく殺されると、貞能の子である奥平信昌必死に抵抗したために長篠城は落ちず、そのあいだに長篠城の救援に援軍として現れた織田信長と徳川家康の連合軍3万8000が到着。
ここで兵糧蔵の焼失により食糧を失い、落城必至の状況に追い詰められたが、貞昌の家臣である鳥居強右衛門を家康への密使として放ち、彼は岡崎城にたどり着いた。
そして翌日にも家康と信長の大軍が長篠城救援に出陣することを知らされた鳥居は、これを一刻も早く長篠城に伝えようと引き返すが、捕らえられてしまった。
そして、武田側から「お前を磔にして、城の前に突き出す。そこで『援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ』と叫べ。そうすれば、お前の命は助ける」といわれた彼はこれを承諾した。
そこで彼は
「俺は、使いに出された鳥居強右衛門だ。敵に捕まり、この始末になった。城中のみな、よく聞け!。
あと二、三日で、数万の大軍が救援にやって来る。それまで持ち堪えよ」と武田との打ち合わせとは逆の内容を叫んでかれは殺されたが、それにより長篠城の兵は織田徳川連合軍が武田軍を撃破するまで、城を守り通した。
救援が来るかわからない状態であれば長篠城は落ちていた可能性が高い。
では何故武田軍といえば騎馬隊というイメージになったかと言えば?
これも江戸時代の軍記物の影響が強いようだが、今川や北条などは比較的騎兵の比率が高く武田も同様に取られていた可能性が高い。
そして信長と家康の連合軍は長篠城手前の設楽原に着陣し、30,000の軍勢を武田から見えないよう、途切れ途切れに布陣させ、川を堀に見立てて防御陣の構築に努め、接近戦になると脆い鉄砲隊を馬防柵や土塁で守り、武田の突撃を迎え撃つ用意周到な準備をしていた。
信長は武田勝頼を決してあなどっていなかったのだ。
更に佐久間信盛が偽って勝頼に内通し、裏切りを約束していたため勝頼はそれを見越した行動をとっていた可能性も高い。
また武田勝頼もこの場で野戦築城を行っており、ほんんらいは長篠城落城までの時間稼ぎをおこなおうとしていた可能性が高いのだが、それはうまく行かず勝頼への不満や侮りがある老臣たちが暴走してしまった可能性も高かった。
ちなみに待ち構える鉄砲隊に歩兵や騎馬が突撃を敢行そいて勝利した例もある。
島津の沖田畷の戦いや戸次川の戦いでは大量に鉄砲を装備した龍造寺軍や豊臣軍に対して島津軍は弓の援護による太刀による突撃を繰り返し、弾の装填に時間のかかる鉄砲衆だけでなく最前衛の長槍隊もなぎ倒して勝利している。
これは島津がおかしい特別な存在であるとも言えるが、そもそも信長も雑賀衆との闘いで鉄砲隊に対して鉄砲の装備率や兵数で劣りながらも、突撃を敢行して窮地を脱した事もあるのだ。
「大変です!
武田勝頼が三河に攻め込んできたので至急援軍をと徳川家康殿から急使が来ました」
「わかった、犬猿帰蝶、長篠へ向かうぞ」
犬・猿・帰蝶行くぞ!」
「うーっす」「承知」「わかりましたー」
俺はいつものごとく十傑集走りで、犬は四足で地を駆けながら俺に追随し、猿は海を驀進し、帰蝶はパラグライダーで優雅に空を飛んでいる。
「常勝不敗の武田軍筆頭!
勝頼ここに見参!
者共突撃せよ!」
武田騎馬兵の突撃に対して帰蝶はミニガンで迎撃。
更に戦国最強の本多忠勝は武田騎馬隊のやりを受けても、びくともせず槍は粉々に砕けて、槍をつきこんだ騎馬兵のほうが転げ落ち、死ぬ。
「ふん、我も負けるものか」
なぜか忠勝にライバル心を燃やす猿も自らの戦国最幸の頭脳で槍を受け止めて、槍は粉々に砕けて、槍をつきこんだ騎馬兵のほうが転げ落ち、死ぬ。
「あいつら人間じゃないっすわ」
犬はそう行って高く跳躍して騎兵を頭上から倒しまくる。
「たまには俺も活躍せねばな!」
俺はショットガンで雑兵を撃ち倒しまくった。
ちなみに武田勝頼はなぜか走りまくって体当たりで敵兵を吹き飛ばし、粉々にしまくった忠勝と猿にサンドイッチされてぺちゃんこになっていた。
「俺の援軍、必要なのかこれ?」
なんか忠勝がいればそれだけで勝頼に勝てたんじゃねえのかって気がする。
あ、でも忠勝も猿も地味にダメージはうけてるらしい。
やっぱり忠勝単独じゃ無理だったかな。