なぜ信長は延々と石山本願寺と闘い続けることになったのか
さて、突如上洛しようとしてきた武田信玄を猿が殴り倒したことで、その後は武田勝頼がついだが、当面の間は東方面の脅威はなくなったと思う。
朝倉とも和解したので上杉謙信と国境を接することも当分ないだろうし、武田が体制を立て直すのには時間がかかるはずだ。
ちなみに俺も知らない間に伊勢は俺の領域になっていて北畠なども降伏したことになってるし、志摩の九鬼水軍も俺の配下になってる。
「伊勢攻略とかこの辺は一般的にはあんまり知られてないからしょうがないのかもな」
浅井や朝倉、松永久秀などに比べれば北畠は影薄いしな。
そして本来の信長は美濃と京を行ったり来たりしてるのだが、俺は京にずっと滞在してる。
なんか義昭と一緒に上洛した後はそういう方が一般的なイメージなんだろう。
「まあ今は京もだいぶきれいになったから問題はないがな」
史実の信長は元亀元年(1570年)頃は足利義昭と一緒に相撲を観たり、鷹狩をしたり、猿楽(能楽)を観たりもしていて結構仲良くしてるが、俺と将軍義輝も今の所はそんな感じだ。
まあ俺は官位を進められた時それを受けているが、それが京に滞在している理由の一つかもしれないな。
史実では元亀元年(1570年)には石山本願寺が挙兵して浅井・朝倉が、これに呼応し近江の宇佐山城を落とし、その時に織田信長の弟で城主の織田信治や森可成らが戦死したり、伊勢長島の一向一揆が、尾張小木江城を攻め落としてこれまた信長の弟の城主織田信興が自害したりしていたりするが、元亀3年(1572年)には浅井の救援のため近江に進出してきた朝倉義景と激戦を繰り返したが、これを撃退し、kの時に斎藤龍興を討ち取っている。
そして浅井朝倉もこの年に滅ぶのだ。
そして石山本願寺と織田信長の闘いである石山合戦は、元亀元年(1570年10月11日)から天正8年(1580年)までかかる長い戦いとなるわけだが、これもずっと闘いつずけていたわけではない。
もっとも元亀元年(1570年)に顕如が「信長が本願寺を破却すると言ってきた」として本願寺門徒に檄を飛ばし、三好三人衆攻略のために摂津福島に陣を敷いていた織田軍を突如攻撃したときは織田軍優勢のうちに終わり、本願寺の兵は石山に戻り篭城の構えを見せたが、このころは浅井朝倉との闘いである志賀の陣でそれどころではなかったのもあって、実際の戦闘はすぐさま終わった。
ただし石山の挙兵とほぼ同時に伊勢長島や北伊勢・美濃・近江などで一向一揆が発生し信長はその対処に苦慮している。
顕如は武田信玄や朝倉景高、毛利輝元などと同盟を結んでいて、信長包囲網を構築していた。
信長はそれに対して上杉謙信への友好工作などを行っている。
天正元年(1573年)ごろまでは、石山本願寺と信長は直接的な闘いには至っていなかったが、武田・浅井・朝倉・足利義昭などの勢力が脱落すると、信長はまずは尾張近辺の北伊勢・伊勢長島・美濃・近江などの一揆を殲滅し始める。
石山本願寺は伊勢長島・加賀越前・石山でそれぞれ信長と戦っていたが、それぞれが政治的に半ば独立していて、からなずしも連携が取れているとは言いがたかった。
信長はまず伊勢長島を補給路を封鎖して兵糧攻めにして、彼らは降伏しても裏切って攻撃してくること重みに染みてわかっていたため一揆勢を根切に処した。
しかし、この頃の信長にとって越前はさほど重要でなかったのか、保守的な彼らしく朝倉の家臣が引き続き収めるべきだと考えたのか、越前には義景の元家臣であった前波吉継を守護代に任じて統治させたがこれは失敗で、吉継は粗暴な振る舞いが多くなり、国人領主と結んだ一向一揆によって殺され、さらに一向一揆と結んだ国人領主も次々と一揆により織田方の役人を排斥し、越前は一向一揆の勢力下にはいってしまった。
とは言え美濃が本拠地の信長にその水運の根本である長島と違って越前が一向一揆に制圧されてもさほど問題にはならなかったろうが。
天正3年(1575年)には、本願寺と結託した高屋城主三好康長を降伏させ、武田勝頼を長篠の戦いで破り、その後兵を十分に休めた後で、越前に向けて侵攻を開始したが、越前では、下間頼照ら坊官らが重税を課した事などにより、越前で一揆をおこした民衆との関係は悪化していた。
こうした一向宗内部の内輪もめに乗じ信長は瞬く間に越前を制圧し、さらに加賀の南部まで攻め込んで越前加賀の一向一揆を殲滅した。
こうして長島と越前の一向一揆が撃破され、武田勝頼も長篠の戦いで大敗したことで、石山本願寺は、顕如が信長に対して自らの行為を侘び、さらに条書と誓紙を納めることで信長と再度和議を結んだ。
その一方で中国地方では毛利氏が勢力を伸ばし、播磨まで侵攻する事が可能になり、海路でも瀬戸内海の制海権を確保しており、大坂の本願寺との連携が模索され正式に協力関係が結ばれた。
そして、天正4年(1576年)顕如は毛利輝元に庇護されていた将軍足利義昭と与して挙兵し、それに対して信長は明智光秀らに命じて石山本願寺を三方から包囲したが、包囲後も本願寺は海上を経由して弾薬・兵糧を補給しており、織田軍が木津を攻めると、本願寺軍は逆に1万を超える軍勢をもって木津の織田軍を蹴散らし、信長の包囲軍の主将であった塙直政を戦士させている。
しかし信長は、すぐさま諸国へ陣触れを発して天王寺を包囲している15000余の本願寺軍に攻めかかり、包囲を突破して砦に入ると、すぐさま光秀はじめとする砦内の兵等と合流して討って出て包囲していた本願寺軍に攻撃を加えて敗走させ、石山本願寺の四方に付城を設け、塙直政の後任の司令官に佐久間信盛を任命して本願寺を完全包囲下に置いた。
こうして封鎖された本願寺は、毛利輝元に援助を要請し、輝元は要請に応じ、村上水軍などを派遣し木津川河口で信長は九鬼水軍などでこれを迎え撃ったが、毛利水軍の焙烙火矢で船を焼き払らわれて敗北。
信長はここで一度兵を引いている。
翌年の天正5年(1577年)信長は敵対する雑賀勢の篭る和泉・紀伊に攻め入って、鈴木孫一の居城を包囲し降伏させている。
そして昨年の木津川での敗戦後、信長は九鬼水軍の長である九鬼嘉隆に、大砲を装備した黒船を建造させた。
これの完成をもって九鬼嘉隆らは伊勢大湊を出発し、大坂へ向かって、雑賀衆はこれを迎え討つべく、海上でこの船団を取り囲み、鉄砲や火矢で攻撃しが、大砲による反撃によりも使って雑賀衆の多くの船をを撃沈し石山本願寺への海路を封鎖した。
毛利水軍は再び木津川河口に現れたが毛利水軍の焙烙火矢での攻撃は大砲による先制攻撃を受けて失敗、毛利水軍は破れて逃げ出した。
天正6年(1577年)荒木村重の離反によって、信長の対石山本願寺戦略に重大な計画な狂いが発生したが村重の反乱は周辺の織田方武将の呼応を伴わなかったため、反乱自体は長期にわたったものの石山本願寺攻略への影響は最小限に留まった。
そして第二次木津川口海戦での毛利水軍敗退を受けて本願寺は将来の弾薬や食料の欠乏を恐れ始めたが、天正7年(1579年)10月には有岡城が陥落し、三木城の情勢もすこぶる悪くなっていた。
そして天正8年(1580年)に、三木城が落城したこと本願寺は石山から撤退することを条件に信長と和睦した。
しかし雑賀や淡路の門徒は石山に届けられる兵糧で妻子を養っていたため、この地を離れるとたちまち窮乏してしまうと不安を募らせ、信長に抵抗を続けるべきと教如に具申し、教如もこれに同調し、顕如が石山を去った後も石山は信長に抵抗する教如勢が占拠し続けこれがのちの本願寺分裂につながる。
しかし、荒木村重が花隈城の戦いに破れ去るなどの情勢悪化や近衛前久の再度の説得工作によって、石山の受け渡しを教如派も受け入れて結局は雑賀に退去し、石山は信長の支配下となった。
のだが、結局引き渡し直後に石山本願寺は出火し、三日三晩燃え続け石山本願寺を完全に焼き尽くしたらしい。
ちなみに佐久間信盛は信長から折檻状を突きつけられて織田家から追放されたが、その理由の1つに石山本願寺を包囲するだけで積極的に戦を仕掛けなかったことを挙げているがこの人あんまりちゃんと戦ってなかったというのが他の合戦でも結構言われてるので信長もこいつ使え無いと思っていたのだろう。
なお石山合戦は当時最大の宗教一揆でもあったため、それが終結したことで、それ以降は各地の宗教一揆は激減することになった。
結局この戦い石山本願寺との闘いがながくなったのは、一向宗の実質的な支配地域がかなり広くなおかつその地域をアジールとして利用したりしたことから泥沼の殲滅となってしまい、最終的には国境を接した毛利が本願寺に手を貸したというのも大きかっただろう。
まあ、今の所は俺は本願寺とは戦ってないがその前に長篠の戦いだろうな。