信長が魔王を名乗ったとか三方ヶ原の戦いの家康の脱糞の説話などは果たして真実か
さて比叡山の焼き討ちは俺がやらんといったせいか、結局行われないままだが、姉川の戦いで浅井を降伏させた、俺は若狭と越前の最西部も制圧し朝倉とは一旦和睦して手打ちとした。
「そろそろ武田信玄が動き出すはずだからな」
比叡山の焼き討ちの翌年の元亀3年(1572年)京への上洛を目指す武田信玄は、遠江の三方ヶ原で徳川家康と織田信長派遣した援軍の連合軍と戦い、これに圧勝し上洛に王手をかけるが間もなく病死している。
ただしその状態に至るまではいろいろと動きもある。
海を求める武田は長い間、越後の上杉謙信と対決していたが、永禄4年(1561年)の川中島の戦いの後は方針を転換し、それまで同盟国であった駿河の今川への侵攻を開始する。
今川義元が討ち取られたことで今川の勢力は大きく弱体化していると武田信玄は思ったし実際に今川は弱体化していたのも事実だ。
しかし、駿河侵攻により武田信玄は駿河において今川の同盟国であった相模国の後北条に攻撃されたが、武田は後北条を退けて駿河を制圧した、遠江への侵攻を開始。
徳川家康とは今川領の挟撃のため武田・徳川で同盟交渉を行って大井川を境に駿河を武田、遠江を徳川とする約束をしていた。
後々これに反して、信濃から秋山勢を遠江に派兵し、遠江まで狙おうとしたことに家康が抗議。信玄はこれを詫びて一度は兵を引いているのだが……。
しかし、まだ武田と織田は婚姻による同盟関係を維持していたため、この時点では信長は徳川家康に援軍を送らなかった。
まあ、実際は送らなかったというか、浅井や朝倉、三好三人衆や長島一向一揆などとの闘いで信長も窮地だったから、援軍を送るだけの余裕がなかったというのもあるだろうが。
そして北条氏康の死をきっかけに、後北条は武田と和睦して甲相同盟が復活し、信玄は元亀3年(1572年)に西上作戦を開始した。
そして三方ヶ原の戦いで武田信玄は圧勝して、日和った足利義昭が信長と敵対するわけだ。
ともかく徳川家康は武田に対して徹底的に抵抗し、信長が武田と徳川の間に入ることもなく、信玄はそれにも不満を募らせ、とうとう遠江に攻め込んだが、ここで信長は明確に武田ではなく徳川に肩入れしたため、三方ヶ原の戦いの後に武田と織田の同盟は完全破棄された。
この少し前に信長が「第六天魔王」と名乗るやり取りがあったと言われているが、実はこの第六天魔王発言自体は、日本に残る当時の書状や日記、歴史書などには記載はない。
ただしルイス・フロイスが、日本布教長であったフランシス・ガブリエルに宛てた日本の情勢などを記した書簡の中に書かれてはいたらしいが、これは捏造であった可能性がある。
そうなった理由は信長の比叡山焼き討ちにより逃げ出した延暦寺の天台座主であり正親町天皇の弟であった覚恕法親王が武田に保護されたからはじまって、武田信玄から信長に宛てて、焼き討ちを糾弾する書状が送られたが、その時に「天台座主沙門信玄」と言う署名があったというが、これはこれで問題なんじゃ?
本当にそんなことをしていたら朝廷から非難されるのは間違いなく信玄の方だ。
天台座主には基本的に皇族しかなれないからな。
ちなみに大六天は欲界で魔王とはその主である他化自在天で波旬、つまりマーラのことで男女を誘惑して妊娠させることができる力を持っていたりするらしいが、これは比叡山の僧兵の堕落ぶりに対しての嫌味でもあっただろう。
それはともかく三方ヶ原の戦いでは兵力で圧倒的に勝っていた武田は浜松城を無視して素通りしようとするが、家康はそれにきれて城からうって出て攻撃を仕掛けたが、待ち構えていた武田の軍勢に兵力差もあっってこてんぱんに叩き潰され、この時家康は脱糞しながら逃げたと言われてる。
この闘いで徳川軍に出た人的被害は小さくなく、鳥居忠広、成瀬藤蔵、本多忠真、田中義綱といった有力な家臣を失い、織田も平手政秀の子か孫の平手汎秀を失い、同じ杭だから援軍に出された林秀貞・佐久間信盛・水野信元らはこの時に平手汎秀を見殺しにしたと責められ、水野信元は佐久間信盛の讒言により武田勝頼の武将の秋山信友との内通や兵糧を輸送した疑いで、信長の命を受けた甥家康によって殺害され、林秀貞・佐久間信盛は後に追放されていたりする。
それはともかく三方原に関してもいろいろ捏造なども多いのが問題だったりする。
家康のしかみ像は、三方ヶ原合戦とはまったく関係が無く、そもそもこんな古い服を家康が来ているはずがなく、しかも雪の降る冬の中の服装ではありえないということで、そもそもしかみ像の人物が家康かどうかも怪しい、三方ヶ原の脱糞の話も改正三河後風土記という軍記物による捏造。
小豆餅という徳川家康が、三方原の戦いで武田信玄に敗れ浜松城に逃げ帰る途中、ここにあった店で小豆餅を食べたが、武田軍が追ってきたため金も払わずあわてて浜松城方向へ逃げ、食い逃げされた店の婆さんが急いで家康を追いかけ、銭を取ったとされる話しも嘘。
このあたりは司馬遼太郎の覇王の家や山岡荘八の徳川家康が元になったらしい。
しかしまた司馬遼太郎か、三国志演義が当時の事実だと思うくらい司馬遼太郎の小説が事実だと思ってはいけないといういい例だな。
本当に歴史小説の話が歴史的事実だと思われてるのはどうなんだかな。
そんなな所で空をたんで北本多忠勝の肩に乗って家康が泣きついてきた。
「助けてー、信玄が僕をいじめるんだー」
「もうホントしょうがないな~家康くんは」
ていうか泣きついてきた家康がうんこくさいんだがここはそういう世界だからかなぁ。
そして唐突に現れるごついおっさん。
「この儂の前に出るとはいい度胸じゃのう、
我こそは甲斐の虎、武田信玄よ! さあかかって来い!」
「面白い……ならばウヌの力、我自ら見極めてやろう!」」
あ、猿が乱入してきて信玄に殴りかかっていった。
「ぬうん!」「ぬうん!」
”ゴガア!”
「ふん!」「ふん!」
”ドゴォ!”
おたがいノーガードの殴り合いになってるがなんか楽しそうだ。
「うぬぬぬ…この儂としたことが…甲斐の虎の名が…笑われるわ」
”ずううん”
そして先に倒れたのは信玄の方だった。
「世に拳王はひとりのみ!
ゆえに我が拳は如何なる敵をも打ち砕く!
だがウヌの拳もよい拳であったぞ」
なんだか猿は満足に言ってるが周りはポカーンだ。
とりあえず武田信玄は撃破したってことでいいんだろうけど、やっぱり俺の出番はないのかよ