信長はなぜ比叡山を焼き討ちしたのか
さて、年は明けて永禄4年(1561年)になった。
有名な歴史的な流れ通り伊勢長島で一向一揆が起こったんだが、これはサクッと帰蝶が長島へ向けて大量の榴弾や炸裂弾などの砲撃を加えて一向一揆の門徒や坊官も全滅させたので俺や犬猿の出番はまるでなかった。
「まあ、帰蝶相手に川の中州みたいな狭い場所に立てこもったらまあこうなるよな」
俺がそういうと犬や猿もうなずいた。
「俺は楽でいいっすけど」
「我は弱き者との闘いなど望まぬ」
猿、それは帰蝶が弱いものいじめしてるようで聞こえが悪いぞ。
もっとも俺も全面的に否定はできないけどな。
そして突然現れた男が俺にいった。
「どうか比叡山の焼き討ちなどおやめください!」
俺は驚いてそいつにいう。
「え、今そういう事になってんの?」
多分こいつは金柑頭こと明智光秀だな。
明智光秀は保守的で常識的で良識派だったから、革命的すぎて残虐な信長について行けずに叛乱に踏み切ったみたいなイメージは一般的にはまだ強いが、これのもとになるイメージはおそらく司馬遼太郎の『国盗物語』で、光秀は信長に焼討を思いとどまらせようと必死に諌める話があるためか、国盗物語のドラマ化の際にも光秀はそういう役割を持った存在として、くりかえし映像化されてきたことも強そうだが、その元は江戸時代に書かれた”明智軍記”で、残忍な信長を殺した光秀は正義、その光秀を殺した残忍な秀吉は悪、その豊臣を滅ぼした徳川は善という江戸時代的な発想から来ているような気がするんだな。
実際は逆で、比叡山の焼き討ちで坂本の町を焼いて住人の皆殺しを行ったのは誰でもない明智光秀なのだが。
また、発掘調査によってわかってきたことによると、信長の比叡山焼き討ちで実際に焼けているのは坂本の寺内町で、比叡山の山上の寺院はほとんど焼き討ちにあっておらず、そもそもその時期には比叡山には建物があまりなかったらしく、明応8年(1499年)に細川政元が行った大規模な焼き討ちにより根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍は全焼してそれらは復興されていなかったりする。
この人は大和北部の喜光寺・法華寺・西大寺・額安寺なども焼き討ちして大和北部を占領しているんだが、なぜか信長に比べると、あんまり話題に上がらなのだが、実際に細川政元による焼き討ちの被害も信長がやったとした可能性が高いんだよな、これ明らかに冤罪だろ。
ちなみに小説や大河ドラマでは保守的で寺を大事にしている明智光秀であるが、彼が築城した福知山城の石垣は近辺の寺社などから奪ってきた仏像や墓石などによる転用石だらけなのだが、この時代の城の中でも際立って転用石が多いうえに、明智光秀は再三にわたって比叡山の寺領を横領し、京都奉行職になった後も明智光秀は寺領を横領し、そのあまりのひどさに正親町天皇が勅使を出すことになり、彼が丹波に行っても変わらず、何度も信長に丹波の寺院から明智光秀の横領をやめさせてほしいとの苦情の書状が届いていたりする。
そして明智光秀の家臣の斎藤利三は長宗我部の使者として羽柴秀吉に接触しているのだが、この長宗我部も寺社を焼いたりする常習犯だったので多分気があったのだろう。
「いや、別に比叡山焼き討ちはやんないけどな」
「そ、そうなのですか?
それはまこと良いことですが、ここでキリスト教に魂を売り渡した魔王信長なら、そういうわけには行かぬ坊主共は皆殺しだ! というべきでは?」
「ああ、そういうイメージなのね俺」
信長が比叡山を焼き討ちしたことはキリスト教は全然関係ない。
もっともキリスト教の宣教師にはそうさせたい意図はあったかもしれないし、永禄12年(1569年)にはルイス・フロイスと信長はすでに出会ってるのだが。
、そもそもがなんで信長が焼き討ちをやることになったかというと、永禄11年(1568年)に信長が上洛し観音寺城の戦いの勝利で六角を追放した後に近江の南半国を織田軍の支配下に組み込んだのだが、ここには比叡山延暦寺の所領が多数散在しており、信長はこの時に山門領を次々と我が物としていった。
これに対し延暦寺は寺領を横領されたものとして、永禄12年(1569年)に天台座主の応胤法親王が朝廷に働きかけた結果、朝廷は「台嶺(比叡山)破滅に及び朝廷たちまち退転の条、嘆き思し召す所なり」と朝廷とすれば精一杯の強い調子で返還を求める綸旨を出したが、信長はそれに対して善処すると返答するだけで実際は何らの処置も取らなかった。
多分当時はそれどころじゃなかったんだろうし比叡山と石山本願寺は潰すべき敵とそもそも考えていたんだろう気はするけどこれはそれぞれが不快しているからではなく経済的な要衝にあるからのはずだ。
結局その後光秀が寺社領の押領をやって信長にそれをやめるように言われてもやめなかったのはお前も同じことしてるだけだろという気持ちもあったろう。
そして姉川の闘いの後に浅井・朝倉が再び攻めてきた志賀の陣で、信長は弟の織田信治と宇佐山城の森可成を失ったことで信長の怒りは収まらず、その怒りに矛先は比叡山に向けられたらしい。
延暦寺はその両者をかくまったことと、朝倉とはその時和解してるが延暦寺や浅井とは和解していないために三車の間に不信感が芽生えたのも大きいらしい。
このときの実際の軍事力で問題になったのは朝倉だけだったんだな。
延暦寺焼き討ちは比叡山の腐敗を正すという意味も一応あったかもしれないが、実際は琵琶湖の水運の権利と逃げ込んだら手を出せないという”聖域”を壊すためもあったろう。
ちなみに焼き討ちを行う1年以上前に予告し坂本からの退去を信長は促しているし、威嚇程度にいくつかの建物を焼いただけというのが本当のとこらしい。
聖域たる坂本の町に手を信長が本当に出す訳がないと比叡山の僧兵たちがたかをくくっった結果が実際の焼き討ちだったようなんだよ。
けど、そういう経済的な理由での焼き討ちをするわけではなく、ただ単に残虐な魔王の汚名をかぶるだけなら、焼き討ちする意味はないんだよな実際。