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信長包囲網は足利義昭主導だったのか

 さて、姉川の戦いでは徳川の本多忠勝が無双し、浅井長政は帰蝶の無限弾倉携帯ミサイルランチャー連射によって宇宙旅行へ行く羽目になって、結局もう一度降伏した。


「これで暫くは静かになるか」


 俺がそういうと帰蝶はうなずいた。


「はい、そうあってほしいものでございます」


 犬も同意のようだ。


「動き回ると腹が減るだけなんで、平穏な方がいいっすわ」


 しかし猿はつまらなそうだ。


「まことつまらぬ。

 我が拳を交わすことができる強きものはどこにおるのだ!」


 まあそんな猿はおいておこう。


 足利義昭を奉じて上洛した織田信長は義昭を傀儡にしようとしたため、その義昭の送った密書により信長に敵対する連合を組んで信長を何度も苦しめたとされる。


 しかしこれはかなり怪しい。


 元亀元年(1570年)の第一次信長包囲網は本願寺、雑賀衆、三好三人衆とそれに同調した荒木村重や池田知正、浅井長政、朝倉義景、六角義賢といったメンバーとされるが、三好三人衆と敵対している足利義昭が浅井によって京と美濃の通路を遮断されれば自分の命が危ないのでこれは足利義昭が手動したものとは思えない。


 少なくとも浅井・朝倉と連携した六角、それを後ろ盾した比叡山延暦寺と、本願寺、雑賀衆、三好三人衆とそれに同調した荒木村重や池田知正たちは連携したわけではないだろう。


 浅井朝倉によって京と美濃の間が遮断されたことを好機と捉えて三好三人衆などが動いたのだろうとは思うが、これは一旦年末までに和解にこぎつけてもいる。


 元亀2年(1571年)からの第二次包囲網も微妙なように思う


元亀2年(1571年)は、義昭は自らに対する信長の影響力を相対的に弱めようとして、浅井・朝倉・三好・石山本願寺・延暦寺・六角氏・甲斐の武田信玄らに御内書を下しはじめたというが、武田信玄が足利義昭に、勝頼への一字拝領を求めたが、それは実現しておらず、この時足利義昭は武田信玄の要求を断っている。


 信長の影響力を弱めたいならばそんなことはしないはずだろう。


 この年に織田信長は浅井長政の重臣である磯野員昌を調略して佐和山城を自らの勢力圏に入れて近江南部の支配を確固たるものにし、伊勢の長島一向一揆を攻撃しつつ、比叡山延暦寺の門前町である坂本を焼き討ちし浅井朝倉を庇い立てした延暦寺の影響力を大きくそいだ。


 しかし三好三人衆の一人である篠原長房が浦上宗景、宇喜多直家の要請に応じ備前児島に上陸し、これに対して毛利・織田・将軍足利義昭が三好三人衆やそれに内応する浦上や宇喜多に対して共闘している。


 篠原長房はその後畿内に再上陸し、畠山昭高の高屋城を攻撃し、摂津の荒木村重と池田知正は足利義昭方の茨木重朝、摂津三守護の伊丹親興、同じく和田惟政を攻め、重朝と惟政を討ち取っている。


 翌年元亀3年(1572年)織田信長は北近江へ出陣し、浅井長政の居城である小谷城に対して付け城を築いて包囲し、長政はほぼ活動できなくなっている。


 信長はこの年に足利義昭と武田信玄を通じ石山本願寺及び長島一向一揆との和睦交渉を進めているが、これは結局成立しなかった。


 そして同年の10月に武田信玄が上洛を開始三方ヶ原の戦いで徳川家康と信長の連合軍は信玄の前に大敗を喫した。


 これにより足利義昭は信長との対立を決意し信玄が上洛すると確信して自ら二条御所に篭って挙兵した。


 そして信長はは義昭との講和を望んだが、拒絶されたことで信長は京都へ出兵し、摂津の荒木村重と、義昭の配下だった細川藤孝が信長に転属した。


 しかしここでに信玄が病死し、篠原長房が主君三好長治、十河存保に攻められ自害。


 和睦した義昭が再挙兵したが信長は槇島城に篭る義昭を攻め、追放。


 更に三好三人衆の岩成友通を討ち取っている。


 そして信長は朝倉と浅井をそれぞれ滅亡させ、三好義継を自害させ、松永久秀も降伏させ、 長島願証寺は天正2年(1574年)に焼き討ちを受けて壊滅し、ここに包囲網は完全瓦解したとされる。


 天正3年(1575年)には長篠の戦いで武田勝頼が壊滅的打撃を受け武田は包囲網から完全位脱落した。、


 ただこのときも足利義昭が主導したかというとかなり怪しい。


 足利義昭が主導したと言ってもいいのは第三次包囲網だろう。


 天正4年(1576年)追放された足利義昭は毛利氏を頼り、備後の鞆に動座して毛利輝元の庇護を受けた。


 この時の義昭はいまだに形式的には征夷大将軍であり、将軍として御内書を出して各地の大名の糾合に務めている。


 本願寺、雑賀衆、毛利輝元、宇喜多直家、上杉謙信、松永久秀による包囲網が完成したと言われるがまずは本願寺への攻勢を強め、越前及び加賀の一向一揆は柴田勝家に鎮圧させている。


 さらにそれまで信長と同盟関係にあった上杉謙信が石山本願寺と和睦して信長と敵対することになった。


 謙信が本願寺と講和に踏み切ったのは、毛利輝元に庇護されていた足利義昭が謙信に幕府再興を要請したからとされるが実際は能登・加賀にまで進行してきた信長と越中で境界が直接接したことが理由だろう。


 信長は本願寺と上杉謙信、武田勝頼と言った者たちに東西から挟み撃ちを受けた格好になった。


 しかし翌年天正5年(1577年)に信長は紀州征伐を行っって雑賀衆は壊滅的打撃を受けた。


 ここで松永久秀が謀叛を起こしたが、信長は嫡男信忠率いる一軍を大和に派遣し謀叛を鎮圧した。


 柴田勝家は手取川で上杉軍の襲撃を受けて敗北している。


 しかし翌年天正6年(1578年)上杉謙信が病没し、甥の上杉景勝と上杉景虎による上杉氏の跡目争いである御館の乱が発生。


 上杉氏は事実上包囲網から脱落した。


 天正7年(1579年)になると、離反した荒木村重は有岡城にて、別所長治は三木城にてそれぞれ織田勢の包囲下に置かれることになり、石山本願寺も海上補給が途絶し孤立。


 丹波の波多野氏、赤井氏なども織田勢の攻勢を受け、徐々に織田軍が優勢となっていった。


 翌天正8年(1580年)に三木城が陥落し別所長治が自害すると、本願寺法主顕如は石山本願寺を明け渡し、信長との講和に合意し石山本願寺の陥落を持って第三次信長包囲網はほぼ瓦解した。


 そして天正10年(1582年)武田勝頼は甲州征伐で自害したが、信長が本能寺の変で横死したことで信長包囲網は終焉した。


「やっぱ本能寺の変は起こるんかね……」


 俺は明智光秀とまだ出会ってないのでなんともいえんのだがある程度は史実通りに進むのがこの世界のようだ。


「その前に長島一向一揆との闘いだな……」


 一般的に思われているものであれ史実のものであれ一向一揆との闘いは非対称戦であるから凄惨にならざるを得ないので気が重いぜ。

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