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姉川の戦いの双方の目的は何だったのか?

 さて、姉川の戦いは信長が関わっている合戦としてはかなり有名な合戦だ。


 史実においては元亀元年(1570年)の金ヶ崎の合戦最中に浅井の裏切りにより越前と北近江の前後からの挟撃を受ける危機におちいった信長は速攻で京へ逃げ帰った。


 浅井長政が裏切ったという情報がどうやって入ったかはいまいち定かではないが、この時点ではまだ六角義賢・義治父子もゲリラ的に南央美で活動しており、本来はそちら方面の動向を見ていた柴田勝家、佐久間信盛ら美濃から近江近辺にいた者による連絡ではなかろうかと思う。


 お市の方が両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送り長政の裏切りを知らせたと言う説話はおそらく俗説で事実ではないだろう。


 また通説ではこの時、秀吉が殿軍に自ら名乗りをあげたと言われているが、実際には秀吉より地位が高い摂津守護の池田勝正がいたため、秀吉が殿軍の大将であったというわけでもないらしい。


 まあこの世界では普通に猿が殿を務めているがな。


 この時の被害は最小限と言えるもので朝倉の動きはいまいち鈍かったようだ。


 そして信長は京から岐阜へと戻り、軍勢を立て直してまず野洲河原の戦いにて六角義賢・義治父子と織田家臣の柴田勝家、佐久間信盛が激突し、織田方が勝利している。


 そしてその後に姉川の合戦が行われて織田徳川連合は浅井朝倉連合に勝利するわけだ。


 ちなみに信長が越前への侵攻を開始すると、朝倉氏との縁が深かった浅井長政は信長から離反し、織田軍の背後を襲ったとされるが、実のところ浅井と朝倉の間というのは長年敵対関係でしかなく軍事的な敗北による服従と裏切りしかない関係で、恩だの縁だのというものはないし、本来であれば浅井は朝倉攻めを手伝いたかったろうし、朝倉は浅井を簡単に信用できなかったろう。


 長政の祖父である浅井亮政以来の浅井朝倉同盟を裏付けるような軍記物ではない史料はまず存在していない。


 軍記物では大永5年(1525年)に浅井亮政が南近江の六角定頼に小谷城を攻められたとき、朝倉宗滴が浅井氏救援に駆けつけ難を逃れたとされているが、朝倉家伝記には朝倉教景は六角定頼に合力するために出陣し、小谷城の浅井亮政を攻め小谷城を落とし、翌年に六角定頼が朝倉に宛てた書状にも、前年の教景の出陣への謝意が表されている。


 つまり、浅井は朝倉に助けられたという事実はなく、一乗谷にある浅井の屋敷はある意味人質を取るための施設だったといえる。


 もっとも朝倉と織田は斯波氏の被官の守護代同士だったが、朝倉が応仁の乱のどさくさで斯波と織田を追放して守護になってることからもともと仲は悪いのだが、家格が朝倉の方が高いかというと実のところそうでもない。


 そうはともかく浅井が織田と協力して朝倉を攻めなかったのは、浅井長政の方は信長と同盟を結んだ時にこれで最低でも旧京極領あるいは六角領の一部は自分のものになると思っていたが、信長は近江に京極氏を守護として復権させ、浅井長政にはそれに従うように指示したし、さらに愛知川を境にした浅井領との境界確定や将軍の住居たる二条御所普請への動員も当然と指示したわけで、おそらくお互いの身分差の認識の違いが大きかったように思う。


 信長は一般的に思われている革命児という印象からはほど遠いほど実は保守的なのだ。


 では、朝倉がこの時浅井と共に動いたというか動けたのはなぜかと言えば、浅井ではなくて本願寺との関係が影響している。


 元亀元年(1570年)に織田信長と石山本願寺の間で石山合戦が始まるとその翌年の元亀2年(1571年)には顕如の長男の教如と朝倉義景の娘である三位殿が婚約しているが、その話はおそらくもっと前、具体的には永禄11年(1568年)に信長が本願寺から矢銭を徴収したときぐらいから行われて、実際にまとまったのがこの年だったのだろう。


 これ以前の弘治3年(1557年)に顕如は、六角定頼の猶子であり実父は三条公頼の如春尼と結婚したが、如春尼の実の姉は武田信玄の正室である三条夫人であり、信玄と顕如は義兄弟にあたり、こういった婚姻関係を結ぶことが有効であることは当然わかっていたであろう。


 そして本願寺と婚姻関係が出来たことによって、朝倉は長年悩まされてきた加賀・越前の一向一揆の心配をさほどしなくても良くなったから、浅井長政と共に、織田信長の攻撃に加わったわけだ。


 そして姉川の戦いそのものだが、実のところ浅井朝倉は岐阜城と二条城を結ぶルートを切断するのが本来は最大の目的のはずだった。


 足利義昭、そして室町幕府の権威の後ろ盾として、織田家の軍事力はすでに必須となっていたからな。


 佐久間信盛と柴田勝家により六角などの南近江はとりあえず落ち着いていたが、観音寺城の北の佐和山城や横山城は浅井家が奪取しており、南近江から美濃の岐阜城へ至る大軍が高速で移動可能な幹線道路はここで完全に断たれてしまっていたから、ここで三好三人衆などが動けばまた京から将軍が追い出される可能性は十分あった


 一方の浅井長政だが彼にとっては北近江の旧京極領と琵琶湖の水運管理によるを通行料の権利を維持することが目的だ。


 琵琶湖の水運は日本海から敦賀へ陸揚げされ琵琶湖まで運ばれた後に京や大坂まで物資が輸送される。

 信長の金ヶ崎攻撃もこの敦賀の商業利権を求めたものであったかもしれない。


 浅井は水運業者でもある湖賊の権利を保証し、彼らの信仰の中心でもある竹生島を抑えることで琵琶湖の水運をある程度支配している。


 ただし琵琶湖南部に関しては延暦寺の管轄であるが。


 であるので、横山城と佐和山城を保持しつつ、信長がこの時点で維持している、織田方諸城の陥落を最優先とするべきだったのだな。


 実際に浅井は六角家や南近江の国人や寺社勢力に対してもその権利を保証することで次々と味方にしており六角義賢と連携し信長の挟撃を図った、とりあえずそこまではうまく行っていた。


 そして美濃の交通の要衝である関ヶ原を抜ける伊吹山周辺の防衛のために刈安尾城と長比城を築城し美濃から北国街道へ出る道と美濃から京へ向かう東山道を封鎖し、さらに横山城を改修して北近江と美濃の国境も封鎖した。


 しかしここで美濃へ進む姿勢をはっきり見せなかったのが浅井長政の戦略の失敗だった。


 これにより信長は美濃を守ることを考えずにすみ、六角も孤立して打ち破られ、京までの交通路の再度の確保だけを考えれば良くなったのだ。


 ただし刈安尾城と長比城の築城を行ったのが浅井ではなく越前の朝倉によるものとの記録に従えば、浅井家にとっては北近江の専守防衛敵作戦は失敗でも朝倉家にとってはおそらくは問題のない選択であった。


 朝倉家にとってもともと北近江は越前防衛のための緩衝地帯でしか無かったからだ。


 浅井長政が朝倉の考えに気がついていたのかどうかは正直わからないが、朝倉は浅井は利用できるだけ利用して使い潰すつもりだったのだろう。


 浅井長政は信長が金ヶ崎から岐阜城にたどり着く前にさっさと美濃に侵入して岐阜を落としてしまうか、全軍を率いて関ヶ原の隘路で待ち構えてそこで信長を迎え撃つべきだった。


 実際に長政が小谷城にこもっているだけであったことから信長は朝倉軍が越前へ戻ったすきに南近江に配置された堀秀村や樋口直房らを調略して城を落とし、小谷城の城下町を広範囲に渡って焼き払わせ、横山城を包囲している。


 二名を調略したのは竹中半兵衛重治だが、竹中重治と樋口直房は顔見知りで、竹中重治が稲葉山城を乗っ取った後に斉藤家を出奔したときには、しばらく樋口直房の食客になっていたくらいだ。


 そして堀秀村は浅六角家についたり浅井家についたりを長年繰り返してきており大勢が優勢と見れば織田につくのが当然だった。


 しかし北近江の国人の代表でしか無い長政にはこの二人を移動させ、直臣を城に入れらるような権力はなかったんだな


 ここで徳川家康が織田軍に合流し、浅井と朝倉も合流して姉川の合戦が始まるのだが、やる気まんまんの徳川軍に比べて朝倉景鏡が一度越前に帰ってしまった朝倉は朝倉景健を新たな総大将に命じて小谷城の後詰めとして派遣したが、朝倉家にはこの時点では明らかにまともにやる気がなかった。


 実の所は有名な割には姉川の戦いは記録があまり残っておらず、信長の13段の構えを磯野員昌が11段まで崩したとかは江戸時代の軍記物が出典なので本当にあったかどうか怪しいのだが、この闘いで浅井長政の人的被害が甚大であったのは間違いがない。


 実際の名前をあげれば弟の政元に遠藤直経、今村氏直、弓削家澄、浅井政澄といった所でこれにより長政は家中の実権を父の久政に奪い返された。


 もっとも姉川の戦いの三ヶ月後に浅井はすぐに軍事行動を再開しているので、浅井長政にとっては大きな痛手ではあっても浅井久政にはそこまで大きな損実ではなかった可能性も高い。


 そして姉川の戦いで本体が破れたことで後詰めの来ない横山城は信長に降伏。

信長は横山城に木下藤吉郎秀吉と竹中半兵衛重治を入れて、続いて佐和山城の攻略に向かう。


 佐和山城は磯野員昌が守備していたわけだが、姉川から遠く離れた佐和山城の城主が姉川の戦いに参加できたかどうかかなり疑問だとは思うんだけどな。


 結局佐和山城の力攻めも調略も難しいと判断した信長は付け城戦術で城に通じるすべての道を付け城で遮断したが、琵琶湖からの水運による補給はまだ浅井が行えていたので佐和山城はこの時点では落城しなかった。


 とはいえ信長は横山城を落として京までの幹線道路の確保に成功して戦略的な勝利を得たのは間違いない。


 そして姉川の戦いになるわけだが……。


「行け! 忠勝! 朝倉軍を粉砕するんだ!」


「ガオン」


 家康が肩に乗った本多忠勝が朝倉の軍勢に突撃して雑兵共をなぎ払いまくっている。


「おーおー、派手にやってるねぇ」


 と言いつつ犬も浅井の雑兵を薙ぎ払っている。


「我が名は磯野員昌なり!」


「うぬは強いな……我は木下藤吉郎! 手合わせ願おうか」


「よかろう!」


 猿は磯野員昌とタイマンしている。


 そして俺の所には……。


「闇あるとこりに光あり! 悪あるところに正義あり!

 悪は即座に削除なりッ!

 浅井長政、ここに見参!

 朝倉とは戦わぬという約束を破った魔王よ!

 此の長政が貴様を倒す! とおっ」


 っと、浅井長政がやってきて垂直にジャンプしたところに、帰朝が無限弾倉の携帯ミサイルランチャーを打ち込んだ。


「さあ、宇宙旅行へいってらっしゃ~い」


「なぁにっ?! ぐがっ! ぐがっ! ぐがっ! ぐがっ! ぐがっ! ぐがっ! ぐがっ!」


 ひたすらミサイルを受け続けて、はるか上空まで打ち上げられていく浅井長政が地上に落ちてきたときにはぼろくずのようになっていたのは言うまでもない。


「あ、俺また出番なかったわ」


 最近俺の出番なくない?

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