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朝倉義景はなぜ将軍や信長の要請があっても上洛しなかったのか

 さて将軍義輝とともに三好・松永・六角・浅井などを倒した後京都の道のうんこ掃除を黙々とやっていたら年も開けて永禄3年(1560年)になった。


 本来ならこの年に桶狭間の戦いがあって今川義元と戦ってるはずなのになんで俺は京都の道路のうんこ掃除をしてるんだろうか?


 まあそれはともかく、正月だし諸国の大名へ文を出し、上洛して将軍へ挨拶をさせるように俺は手配を整えている。


 史実では永禄11年(1568年)に織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、朝倉義景に対して義昭の命令として2度にわたって上洛を命じるが、義景はこれを拒否し、信長が越前ヘ攻め込む原因となった。


 では朝倉義景はなぜそれを拒否したのかといえば、朝倉家が織田家に従うことを嫌ったためといわれるが、この時点ではあくまでもトップは足利義昭であって、信長とは同格の臣下でしかないから的はずれな意見だ。


 最も序列的に織田の下になるのを嫌ったという可能性はあるけどな。


 むしろ、上洛することで朝倉義景が長期間に渡って本国の越前を留守にすることで一向一揆が加賀から攻めてきたり一門が謀反を起こすことの不安からの拒否のほうが大きかったろう。


 さらには朝倉義景のもとには、応永25年(1419年)に足利義満の子義嗣が上杉禅秀の乱に連座して自殺し、その子嗣俊が越前に逃れて鞍谷館に住んだことによりはじまった鞍谷公方の子孫である足利嗣知もいたから、なかなか義昭に頭を下げるわけに行かなかったのもあるだろう。


 そして朝倉宗滴が有能すぎたというのもあるだろう。


 今川義元を太原雪斎が軍事政治の両面においてほぼ一人で補っていて、彼bの死後にその大きすぎる穴を埋めきれなかったように、内政や外交では朝倉義景は無能ではなかったが軍事で朝倉宗滴の後継者になれるものはいない状態では加賀一向一揆の侵攻に備えるのは必要だったのだ。


 そもそも上洛という行為自体が掛かる金の割りに得られるメリットが少ない事が多いし、信長は度々岐阜に帰っていたのも事実だ。


 でも、将軍義輝は朝倉義景が上洛して自分に頭を下げないことにたいそうおこらしい。


「信長よ、朝倉義景の首に縄をつけてでも連れててきて予に頭を下げさせるのだ。

 そして我が妹の婿である武田義統を手助けせよ」


「は、はあ、かしこまりました」


 足利義輝も義昭もかなりプライドが高かったし、若狭武田氏の武田義統は足利義輝より偏諱を受けているし、義晴の娘で足利義輝・義昭の妹を正室に迎えているから朝倉よりずっと関係性が強いんだよな。


 史実で浅井長政が信長に対して反旗を翻さなければ、敦賀郡の郡司で一門衆筆頭であった朝倉景恒と対立していた朝倉義景は信長を深追いすることはせず和解して、朝倉も滅びることはなかったかもしれないのだが……。


「犬、猿、帰蝶、でるぞ!」


「うーっす」「承知」「わかりましたー」


 俺はいつものごとく十傑集走りで、犬は四足で地を駆けながら俺に追随し、猿は淀川から琵琶湖を驀進しているし、帰蝶はパラグライダーで空を飛んでいる。


 そして金ケ崎に到着したらやっぱり連絡が来た。


「大変です、一度我らに下った浅井長政が兵を挙げてこちらへ向かってきています」


「あ、やっぱりか、すまんが猿! 殿をたのむ!」


「ふっ、よかろう、我に任せよ」


 猿に殿を任せて、俺達は一度京へ引く。


 どうやら金ヶ崎の退き口から姉川の闘いになるのは確定らしいが、そういう運命なんだろうな。

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