信長と将軍義昭はなぜ決裂したのか
さて京の都の道路の清掃作業もなんとか完了した。
「これで疫病の流行なども少なくなるだろうな」
魔王信長が自ら道路に落ちてるうんこを拾って水をまき、道路を掃除してる図はシュール極まりないが、犬猿帰蝶はこういったことは手伝ってくれないのでしょうがない。
「おお、都がきれいになっておるな、ご苦労である」
「はっ」
そして将軍義輝も京の道路がきれいになったことを喜んでいる。
さて、織田信長と足利義昭がなぜ決裂したかと言えばだが、信長は天下布武を記したように幕府の影響力のある畿内だけでも戦がなくなり平和になるようにしたかったわけだが、足利義昭は将軍という権力が継続的に欲しかっただけで、畿内を平和にしたいという意思はなかっただろうからだと思われる。
織田信長は足利義昭を傀儡にするべく担ぎ上げたというのは嘘というか間違いで、信長は義昭を必死に立てようとしていた、そして元亀2年(1571年)に武田信玄が足利義昭に、勝頼への一字拝領を求めたが、それは実現しておらず、この時足利義昭は武田信玄の要求を断っている。
元亀3年(1572年)に信長は義昭に対して17条の意見書を送付し、これによって義昭と信長の対立は抜き差しならないものになったと言われているが、実のところ義昭が信長と手を切る決断をしたのは、同年に三方ヶ原で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦いで、上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を徳川・織田の連合軍が迎え撃ったが大敗したこと。
このままでは自分の身が危ういと判断した義昭は信長を切り捨てて挙兵し、二条御所の周囲に新たな堀を巡らし、弾薬を運び込むなどして信玄が上洛するのを待っていた。
これに対して京都を戦場にしたくなかった信長は義昭に朝山日乗・島田秀満・村井貞勝らを使者として送り、娘を人質にすることを条件に和睦しようとしたが、義昭はこれを認めなかった。
信長の方はともかく義昭の方は口うるさく何やかや言ってくる信長を煙たく思っていたのは間違いない。
そのため信長は義昭を徹底的に攻撃することに決めた。
義昭は二条御所の周囲に新たな堀を巡らし、弾薬を運び込むなどし、淀城には足利義昭の重臣となった三好三人衆の1人であった岩成友通が入って、近江の今堅田・石山には山岡光浄院、磯谷久次、渡辺昌らを入れ砦を構築していた。
これに対して信長は柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆らを派遣して、石山砦に攻撃をかけ、守備隊には山岡光浄院が率いる、伊賀衆・甲賀衆が在番していたが、砦がまだ完全に出来上がっておらず、あっさり降伏して退却、四将は砦を取り壊した。
続いて今堅田砦を攻撃するとこちらもあっさり陥落した。
ここでついに足利義昭自身が松永久秀や三好義継、三好三人衆らと結んで挙兵し、公然と信長と戦う姿勢を見せたが、京都では「武田信玄は3~4万人を率いて信長に近づいている」「朝倉義景は"もし信長が京にくれば2万人を率いてその背後を襲う"と公言している」「三好軍と石山本願寺勢の計15000人が京に向かっている」「赤井直正が義昭方として京に出陣する」などの噂が流れており、義昭も含めて京の人々は信長が京に進軍して来ることが可能であるとは思っていなかったが、信長は足利義昭の兵を討つため岐阜を出陣し、それが伝わると、京の町は混乱に陥り、義昭はすぐに兵を二条御所に引き入れた。
一方の信長は義昭を見限った荒木村重・細川藤孝ら加えて大兵力で到着したが、義昭は名目上とはいえ征夷大将軍であるため、世評を考慮した信長は、光秀と藤孝を使者として義昭のもとに送り、自らの剃髪および人質を差し出すことを条件にして和睦を求めた。
しかし義昭はこれを拒絶し、信長方の京都所司代であった村井貞勝の屋敷を包囲して焼き払った。
これに対して信長は和睦交渉を続けつつも、上京と下京への焼き討ちを命じ、驚愕した京の町衆は焼き討ち中止を懇願し、上京は銀1500枚、下京は銀800枚を信長に差し出したが、信長は下京の市民を気遣い、銀を受け取らずに焼き討ちは中止したが、幕臣や幕府を支持する商人などが多く住居する上京は許さず、二条御城を包囲し、上京に対し徹底的な放火を行って灰燼に帰した。
信長はさらに二条城の周囲に4つの砦を築いたが、正親町天皇から和睦の勅命が出されると、信長と義昭はこれを受け入れていったん和睦した。
信長の比叡山焼き討ちがやたらと喧伝される割に京都の焼き討ちに知名度が低いのは、徳川幕府が天台宗を重用したからだろうと思うが。
信長は六角義賢が立てこもっていた鯰江城を攻撃し、このころ武田信玄が信濃駒場で病死したため、武田軍は本国の甲斐に退却した。
一方の義昭は二条御所から丹波の八木城に移り、松永久秀の弟の松永長頼の子、八木城の城主である内藤如安を二条城に入れようと考えたが、内藤如安がそれを諌めて義昭は渋々それを受け入れた。
その後義昭は勅命を破棄して再度挙兵し、二条城に三淵藤英、伊勢貞興らの他日野輝資、高倉永相などの武家昵近衆を入れて守らせ、自らは槇島城に立て籠もったが、信長が二条御所を包囲すると三淵藤英を除く武将や公家衆は皆退城してしまい、藤英も柴田勝家の説得を受け入れ、二条城を開城した。
信長は続いて槙島城へ進軍し、城は壁を破られて放火され、義昭は嫡男の義尋を人質として差し出して降伏したが、義昭は妹婿である三好義継の居城・河内若江城に送り届けさせた。
そして義継が信長に討たれた後、義昭は僅かな近臣と共に堺、次いで紀伊へと流浪・亡命し、後に毛利輝元を頼って備後の鞆にまで落ち延びた。
こうして後に室町幕府は滅亡したと言われるわけだが、この当時では将軍が京を追放されるのは日常茶飯事だったから、またか嫌いなイメージだったろう。
いずれにしろ足利義昭は京の民衆にも朝廷にも見限られていたので戻ってこれなかったろうが。
今の所この世界の義輝は三好、細川、六角などを倒してからはおとなしくしている。
「刀の手入れですか?」
「うむ、手入れは大事だからな、そして数が多いと大変なのだよ」
ああ、実際は刀の手入れに忙殺されてるだけかもしれないが、無駄に京都を焼いたりしないですめばそれに越したことはないな。
とは言えそろそろ本願寺や朝倉が動き出す頃かもしれないが。