天下布武とは武力をつかっての天下統一を意味していたのか
さて浅井・六角・細川連合を壊滅させたことで、近江も俺の支配領域にはいったが何やかやしてるうちに年が明けて永禄2年(1559年)になった。
「はあ、やれやれ、それにしても京の街が汚いのはなんとかならないのかね」
その頃俺は先頭を切って道路の掃除などを行っていた。
道端に落ちてる人糞など木の棒で挟んで便壺に入れて回っているのだが、本当にこの時期の京都の道は汚いのだ。
この頃の京の都は遺体は河原での鳥葬だったり、西洋のように道端に糞尿が普通に捨てられていたりする。
なので洪水などが起きれば当然ながら疫病も蔓延するわけだ。
ああ、さすがに皇族貴族が多く住んでいる地域は見た目だけは綺麗だけどな。
そして俺は尾張・美濃・近江・和泉を支配することなったわけだが、いつの間にか大和・山城・河内・和泉の畿内地域まで俺が支配してることになってるんだが、なんでだ?
「これも21世紀現代人のイメージのせいか」
本来信長が足利義昭を奉じて上洛した際には、山城国には守護を置かず、将軍が直接統治を行い、摂津は守護の池田勝正を筆頭として伊丹親興と和田惟政の3人が統治し、大和は松永久秀が、河内半国はそれぞれ三好義継と畠山高政が支配しているが、彼らはあくまでも足利義昭の進化であって信長の臣下ではない。
そのはずなんだが彼らは信長に下ったと間違って認識してる人間も多いんだよな。
それと稲葉山城を陥落させて、岐阜城に改築した直後に信長は天下布武の朱印を使用し始める。
この朱印の天下は、日本全国を指すものではなく、あくまでも畿内を意味していて、室町幕府再興の意志を込めたものであったはずなんだが、それを信長は室町幕府をぶち壊し、己の武力で日本を制圧するという信長の意思の現れと勘違いしてるやつはまだまだ多いらしいし、信長が魔王だという勘違いが現れてるのが今の俺なんだよな。
そして、信長は実際に天下布武を行い、五畿内に足利将軍家の統治を確立させることを目指したからこそ、自分自身は美濃にすぐ戻っていたりするわけだ。
まあこれは三好三人衆や斎藤龍興による攻撃などもあって、結局信長は京と美濃を往復したりしてるわけだが。
「とりあえず京都の民が飢えないように炊き出しをしつつ、死体を河原に放置するのと、糞尿をそこらに放置するのも辞めさせないとな」
史実の信長は長島も含んだ伊勢への対応をさっさとしたかったようだが、今の所は伊勢でなにかがすぐに起こる気配はないしまずは京をまともにしておかなくては。
後、京都の物価がばかみたいに高くなる原因なんで尾張・美濃・近江経由の山城までの道の関所は帰蝶に、淀川水系の関所は猿に全部壊させた。
無論のこと帰蝶や猿に歯向かった奴がひどい目にあったのは言うまでもない。
「そして結局俺がやるのはうんこ掃除だけかい」
まあ、大事なことではあるんだがな。