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将軍義輝や三好長慶、織田信長がキリスト教を許可したのはなぜなのか?

 さて、京都に来た俺は二条御所に攻めてきた三好長慶と松永久秀を倒して征夷副将軍の地位を得た。


 日本において副将軍は大将軍の次席に位する武官の職であり、管領と違ってこの任命権は朝廷にあるのだが史実でも副将軍の打診は行われているが信長はそれを断っている。


 その理由ははっきりしないがおそらく血筋的に足利などに連なるわけではない自分がその地位につけば世間からの評判を落とすと考えたのだろう。


 三好長慶がどのように扱われていたかを考えればなんとなく察しはつく。


 奈良から平安中期くらいまでは征東副将軍や征夷副将軍の任官はそれなりに行われているが、蝦夷征伐が一応の区切りを見せて、大将軍の任命がなされなくなったのに伴い、副将軍の任命も稀になり、源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府を開き、武家政権が成立するようになった後も、副将軍を任ずる人事はほとんどなされることはなく、鎌倉時代には一度も副将軍が任ぜられる例はなかった。


 しかし公武合体を行った室町時代においても副将軍は常設ではなかったが、何度か任命された例はある。


 建武5年(1338年)には足利尊氏の弟足利直義が征夷副将軍に任ぜられているし、上杉禅秀の乱の鎮圧に功績があった今川範政が副将軍に任ぜられたといわれ、足利義尚の時代にも斯波義寛が副将軍に任ぜられたと記録される。


 しかしどれも足利の連なる家の出身だから、そうでない信長がためらうのも無理もない。


 一般的なイメージならばむしろ嬉々として受けそうだが、実際の信長は伝統的権威を尊重し、諸大名や世間の評判を非常に気にして、身分に強くこだわる人物だったし、この時点で受けたら反発も大きかったろう。


 足利義昭が信長によって京都を追放され、備後国の鞆にて毛利氏の庇護に入ると、義昭は毛利輝元を副将軍に任じて、鞆において幕府の再建を目指したがそれは有名無実に終わった。


 まあ、この世界だと世間の評判より、20世紀頃の一般人の信長像がどういったものかが問題で、世間体を気にする必要はあんまりないわけだが、どちらにしろ六角と細川は京へいつ攻めてきてもおかしくないし、浅井はその先鋒として出てきそうな気はする。


 というわけで俺はそれを犬・猿・帰蝶に話しておくことにした。


「俺が征夷副将軍を受けたことで細川や六角が俺を蹴落とそうとここに攻めてくるのは間違いないと思う。

 なんで何時攻め込まれても大丈夫なように迎撃の準備はしておいてくれ」


 俺がそう言うと猿がニヤッと笑っていった。


「浅井長政は巨躯にして豪のものと聞く。

 早く拳を交えて戦いたいものだ」


 猿が興奮気味にそういうのを俺は苦笑して言い返す。


「おい、猿よ、あんまり戦いばかり望まんでくれるかな」


「男ならば最強を目指すのは当たり前であろう」


 それを聞いた犬がめんどくさそうに言う。


「また多くの雑兵を相手すんのはつかれるし腹もへるんで勘弁してほしいっすわ」


 俺は犬に対しても苦笑していう。


「お前はもうチョットやる気出そうぜ」


 帰蝶もニコニコしながら言う。


「私は貴方様のために頑張るだけですわ」


「ああ、帰蝶の俺に対する心遣いはとてもありがたいが、周りの被害ももう少し考慮してくれるとありがたい」


「それは大事の前の小事ですわ」


 うんなんでみんな問題児ばかりなんだろうな?


 そして悪気や悪意はないのがもっと質悪い。


 ちなみに信長と京都といえばキリスト教の影響を大きく受けているイメージなのは間違いない。


 フランシスコ・ザビエルは天文20年(1551年)に京に到着し、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および征夷大将軍・足利義輝への拝謁を請願したが、献上の品がなかったためそれはかなわなかった。


  その後に永禄3年(1560年)にはガスパル・ヴィレラは足利義輝や三好長慶に謁見し砂時計などを献上してキリスト教の布教を許可されて布教活動を開始している。


 しかし永禄8年(1565年)に義輝が殺されると彼は京を追放となり、堺に逃れ、九州へむかった。


 ルイス・フロイスが京都へ入ったのは永禄7年(1565年)であったが、ガスパル・ヴィレラ同様一度鏡を追放されている


 その後永禄12年(1569年)足利義昭を擁して上洛し堺の統治者となった、織田信長と二条城の建築現場で対面し、既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可された。


 では足利義輝や三好長慶、織田信長がキリスト教の布教を許可したのはなぜだったのかだが、結局の所はポルトガルとの貿易の利益と鉄砲や黒色火薬を優先的に手に入れるためと本願寺や延暦寺などの仏教勢力に対する当て馬であったろう。


 キリスト教が宗教として素晴らしいから保護したわけではないのだな。


 フロイスは伊勢神宮について”我らの主が彼(キリシタン大名で伊勢の国の領主になった蒲生氏郷)に、天照大神を破壊する力と恩寵を与えるだろうと、我らは期待している”と書いており、これを蒲生氏郷が実行していたら信長は激怒してキリスト教の宣教師を追い出していただろう。


 信長は天台宗や一向宗などの坊主は確かに嫌っていたが、神道は尊重するべきものと考えていただろうからだ。

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