信長は残忍ですぐに癇癪をおこす独裁者気質の人間だったのか?
さて、信長の一般的なイメージは「鳴かぬなら 殺してしまえ 不如帰」という言葉で表されているような、冷酷残忍ですぐに癇癪をおこし人を殺すことをためらわず行えるサイコパスじみた独裁者気質の人間だろう。
それこそ、そうでもなければ魔王とよばれたりしないって思うヤツのほうが多いだろうな。
しかし、実は信長はかなりがまん強い努力家で、結構腰が低く、なかなか人を殺すようなことはしない人物であったらしい。
たとえば信長の婚姻外交で有名なのは浅井長政と信長の妹のお市の方だが、これは永禄10年(1567年)ごろの話だ。
これは永禄8年(1565年)5月の永禄の変で、第13代将軍であった兄の義輝と母の慶寿院、弟で鹿苑院院主であった周暠などが松永久通や三好三人衆らによって暗殺され、弟の義秋が六角を通じて三好や阿波公方義栄に対抗するために浅井氏と織田氏を和解させるために行ったようだ。
このときの信長は、美濃斎藤氏との戦いの膠着状態を打破するためにも同盟の条件をかなり浅井側に有利な条件で提案したが、浅井の家臣の中では同盟に対して賛否両論があったらしい。
もっとも永禄10年(1567年)は信長は龍興を美濃から追い出していて、六角は観音寺騒動により衰退し、六角hの領地をほしい浅井との同盟は成立するのだが、義昭は上洛のために浅井と織田の同盟はなんとしてでも結ばせたかったのだろう。
結局、浅井長政は信長を裏切って敵対し最終的には織田に上を責められて殺されて、天正2年(1574)の正月、朝倉義景、浅井久政、長政親子の頭蓋骨で作った盃に、酒をなみなみと注ぎ、家臣の間を回し飲みしたといわれるが、実際は義景、久政、長政三人の頭蓋骨が出されたが、それを盃にして酒を注いだと言うのはでっち上げだしな。
なお、その前の永禄6年(1563年)、数え5歳で織田信長の娘の五徳(徳姫)と徳川家康の嫡男の徳川信康は婚約し、その後、永禄10年(1567年)5月に結婚している。
また永禄8年(1565年)信長は信長の養女を、武田信玄の息子の勝頼に嫁がせており、永禄7年(1564年)には織田信長は上杉謙信に対し、関東での勝利を祝し贈り物を送り、そこで息子を養子にさせることを願った手紙を上杉謙信に願っているがその手紙の内容はかなりへりくだっている
結局の謙信の養子の話自体は実現していないが、革新的でプライドが高くて誰にも頭を下げす最終的には天皇の地位を狙っていたとかまで言われる信長だが、本当は伝統的権威を尊重し、諸大名や世間の評判を非常に気にして、身分に強くこだわり、神経質で、心配性で、身分の高い相手には相当低姿勢であったのは間違いない。
徳川家康は今川からの独立後に、すぐさま松平元康から徳川家康へ名前を改め、三河守を叙任しているので名目上は源氏として三河の国主であることが正式に認められているが、あくまでも国一揆のリーダーでしかない浅井家はいまだ公的には京極家の被官という立場であって、しかも家督相続のゴタゴタで家中の統制も取れてないくらいだから他の国人への影響力もしれている。
ならば浅井が朝廷や幕府へ金銭などの工作をして正式に近江守や近江守護などの地位に就けたのかというと、京極家と六角家という佐々木の本家がまだ普通に存在していた近江では守護と守護代も両家で持ち回っていたし、浅井の石高はそこまで高いものでもなかったからほぼ無理だったろう。
結局の所、信長は近江守護に京極氏を復活させようとしていたので、その臣下に来見込まれそうになった浅井としては信長に反旗を翻さるを得なかったのだが、信長は美人の妹を嫁がせたたかが国人の浅井長政の裏切りを許せなかったし、長政はせっかく北近江から放逐した京極氏をわざわざ呼び戻して復権させ浅井を京極の家臣に戻そうとした信長を許せなかった。
信長の浅井に対しての最初の同盟の申し出のときは低姿勢だったからなおさらだが、信長は世間の評判を気にしつつ、自分にとって十分な態勢が整うまでは低姿勢で頭を下げ、姉妹や養女を婚姻させるなど、ありとあらゆる手段を使って状況を整え、状況が変化して優位になったらそこからは割と酷い扱いをする面もあったようだがこれは荒木村重や明智光秀に対しても同じようなことが言えると思う。
「現状だと三好残党を機内から駆逐したら六角や細川がどう出るかだよな」
六角は三好三人衆などと通じてしまったので結局信長に滅ぼされるのだが、細川晴元はその前に三好長慶と和睦するも、摂津の普門寺城に幽閉されそのまま死んでる。
永禄元年(1558年)に六角義賢の仲介で義輝と三好長慶が再び和睦を結んだときは坂本に止まッテ機会を伺ってるのだが六角に浅井も加えて攻めてくるかもな。
「やれやれ厄介なことになったな」
最悪尾張や美濃に戻るには大和や伊賀を通ればなんとかなると思うが、思いつきと勢いで京都に来て三好と松永を倒してしまったから、この後どうなるのかどうにも予想がつかんのだよな。
ああ俺は「室町殿御父」の称号をもらった上で尾張領有の公認と旧三好領であった堺を含む和泉一国を与えられて尾張守護並びに和泉守護に任じられた。
さらに、斯波に変わる管領の地位と朝廷に対す征夷副将軍への推挙があったのでとりあえずそれを俺は受けておいた。
さらなる地歩がためのために義輝と一緒に今上陛下に謁見して贈り物を送っておくべきかね。
もっとも元亀3年(1572年)に信長は義昭に対して17条の意見書を送付しケチョンケチョンにしてるが、将軍の地位を得たことで好き放題している義昭を忍耐強く諌めてるという方が正しいはずなんだが義昭も同じ様になる可能性が高いんだよな。