そうだ、暇だし京都へ行こう!
さて、年が明けて永禄元年(1558年)になった。
このとしには将軍足利義輝と三好長慶は六角の仲介で和睦して将軍様は京都へ帰っていってる。
そして織田信長は桶狭間の合戦のあと、完全な尾張の統一とその後の美濃攻略で永禄10年(1567年)には尾張美濃をほぼ平定し、11月9日には、正親町天皇より信長は「古今無双の名将」と褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが、信長はそれに対して丁重に「まずもって心得存じ候(考えておきます)」と返答したのみだった。
実際その頃の信長はそれどころではなく、足利義輝の死亡に伴う次期将軍として擁立する足利義昭を奉じては上洛を行おうとしていたわけだが、元来近江公方方であった南近江の六角義賢・義治父子が三好三人衆側について織田と争い、大和まで遠征していた三好三人衆とも闘ってようやく上洛を果たした。
もっとも当時はようやく尾張・美濃を平定したばかりのもとは守護代の奉行でしか無かった信長が除雨宅の中心であった実力者とは見ておらず、最初のうちは義昭が畠山高政、三好義継や松永久秀などの有力な諸将を率いて上洛したもので、信長はせいぜいその供奉の将という認識であったがそれはまあ事実だったのだろう。
であれば松永久秀は信長の臣下ではなく、同等の幕府の臣下でしかないのだから、足利義昭を追放した信長に従属するいつ妖精はなく、むしろ包囲網により危機にあった信長から離れるのも当たり前であって信長を裏切ったというのは筋違いである。
足利義昭が第15代将軍として正式に認められると義昭から信長は上洛の恩賞として尾張・美濃領有の幕府による公認と旧・三好領であった堺を含む和泉一国の支配を許可され和泉守護に任じられた。
さらに、信長には斯波家の家督継承とそれに伴う管領の地位、そして朝廷への副将軍への推挙を申し入れたが信長はそれは受けず、弾正忠への正式な叙任の推挙のみを受けた。
これは信長の軍事力経済力を持ってして細川六角畠山に変わる将軍直属の忠実な軍事力として機内のゴタゴタに巻き込もうとする将軍とそれを拒んだ信長というのが正しい図式だろう。
そもそも義昭の本命は越後の上杉輝虎だったが、そのころは武田信玄との本格的な対立や揚北衆の反乱などにより、上洛のために本格的な出兵などはまず不可能であった。
実際に越前で足止めを食っていつまでも上洛できない義昭に対し、京都の実質的支配者であった三好三人衆が擁する阿波公方こと足利義栄は、義輝によって取り潰された伊勢氏(元政所執事)の再興を約束することで朝廷や京都に残る幕臣への説得工作を続け、その結果、永禄11年(1568年)2月8日に義栄は摂津国滞在のまま将軍宣下を受けけいる。
であるからこそ、足利義昭は織田信長という尾張の管領代の奉行でしかないものまで使わざるを得なかったのだな。
そして永禄12年(1569年)には、信長率いる織田軍主力が美濃に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の仮御所である六条本圀寺を攻撃したが、これは細川藤賢や明智光秀らの奮戦により、三好・斎藤軍は撃退されている。
信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけ、義昭の為に二条に大規模な御所を築いたのだ。
ちなみに正親町天皇からも「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長はそれにたいして何の返答もせず、事実上無視したのだ。
これは朝廷の目的が官位に応じた金や宮廷凝視の復活であることが明白だったからだろうが、将軍も天皇ももうチョット信長の周りの空気を読むべきだと思う
それはともかく今はやることがなくて暇すぎる。
なにせ俺のステータスは体力・攻撃力・防御力しかないのだから。
普通は統率とか武力とか内政とか智謀とか外交とか魅力とか義理って文字が並ぶんだがなぁ。
「うんやっぱ暇だし京へ行くか。
犬・猿・帰蝶行くぞ!」
「うーっす」「承知」「わかりましたー」
俺はいつものごとく十傑集走りで、犬は四足で地を駆けながら俺に追随し、猿も地響きを立てながら疾走し、帰蝶はパラグライダーで優雅に空を飛んでいる。
尾張から京まではこの時代の徒歩でおよそ4日から5日だが、俺たちの足ならおよそ2時間だ。
「ふう、ようやくついたか」
犬が粗利を見渡して言う。
「なんかずいぶんとぼろっちい家ばかりっすな」
「まあ今の京には租税や消炎お上がりをお狭に来るものがほとんどいないからな」
京にせよ鎌倉にせよ政治の中心であったときは栄えていても、そこから外れると途端に寂れてしまうのだがそれは要するに政治機構に必要な官吏という存在のあるなしとそれを支えるための税金制度が機能しているかどうかというのが大きい。
京は唐の首都である洛陽を模倣して作られ、だからこそ京へ上ることを上洛というのだが、奈良時代や平安時代初期は安泰だった朝廷の権力も平安末期には警察権が及ばない状態になっており、それもあって鎌倉に武家政権の成立を許すことになった。
その後の承久の乱、建武の新政の失敗による南北朝の成立で朝廷はその荘園をどんどん失っていき、応仁の乱の最中の文明7年(1475年)に、能登守護畠山義統と越後守護上杉房定が政長の分国越中を侵略した際には、足利義政が「諸国の御沙汰は毎事力法量(諸国の沙汰は力次第である)」と述べ、守護が他国を侵略することも是認されたが当然朝廷領などはまっさきに狙われたからこの頃は朝廷も幕府も困窮の極みあーだったわけだ。
ちなみに内裏や花の御所も応仁の乱で焼けてるので義輝は斯波武衛家旧邸に室町幕府の拠点を移している。
俺は斯波武衛家旧邸の京都二条御所で将軍と謁見した。
「将軍様、どうぞこちらを。
山吹色の菓子でございます
「ふむ、誠に素晴らしい。
尾張の織田信長とやら、よく来てくれた」
なおこの時点では将軍ではなく大樹とか公方と呼ぶのが本当だが、世間一般のイメージから俺は彼を将軍様と言ってるのだ。
史実の信長と義輝との謁見でも、信長は義輝へ金品や銘刀を献上したと思われ、その見返りとして実質的にに尾張を支配する許しを得たようである。
そしてそんなところへ唐突に開けられた、襖の奥から男が現れた。
「将軍、その命、この三好長慶が頂戴する」
あれ? 史実では三好長慶は義輝殺害前に死んでるんだけど、この世界だと三好長慶が将軍殺害を行ったことになってるのか?
「ふ、そう簡単に余の命を取れると思うな。
余の積み上げてきた研鑽がどれ程のものか見せてくれよう。
そして長慶、兵の貯蔵は充分か?」
義輝がそういう畳の上にザザザと刀が現れ突き立っていく。
「ふ、兵のそなえならば山ほど用意してあるわ!」
長慶がそういうとワラワラと周囲から雑兵が現れた。
「その田舎者と図り俺を追い出そうとしてもそうはいかぬ。
まとめて始末してくれる!
あれ、田舎者って俺だよな、もしかしてこれって俺のせい?
「ならば存分に暴れてくれようぞ!」
スラリと義輝が刀を抜くと棒暴れん坊上様のテーマが流れてきた。
「なら俺も俺も暴れるとしようかね!」
俺も妖刀村正をさやから抜き放つと雑兵と向き合った。
「余はこの戦いが終わったら近衛の娘と結婚するのだ」
「死亡フラグ立てんな!」
足利義輝は銘刀である童子切安綱、大般若長光、大典太光世、鬼丸国綱、九字兼定などと言ったものを惜しげもなく抜いては雑兵を切り捨て、切れなくなってはそれを捨てて新しい銘刀を抜き放っては雑兵を切り捨てている。
日本刀というのはよく斬れるが血脂がつくとあっという間に切れなくなるからな。
「お命頂戴!!」
そう言って俺に爆弾を投げつけてきたのは松永久秀か?
「そうかんたんにやられはせん!」
”ラウンド1、ファイト!”
「喰らえ!、これが俺の奥義!”眼から破壊光線”だっ!」
”ドゥシューン ”
俺の目から破壊光線が松永久秀一直線に伸びていく。
”チィドドドドーン”
「ぐわあああ、ぐわあああ、ぐわああっ」
そしてまともに破壊光線を浴びた松永久秀が懐に忍ばせていたらしい爆弾に引火して奴は木っ端微塵面なった。
「ふん、土は土へ、灰は灰へ、塵は塵へと帰るがいい」
そしてその直後に松永久秀は爺は何事もなかったかのように再生して立っていた。
”ラウンド2、ファイト!”
「喰らえ!、これが俺の奥義!”眼から破壊光線”だっ!」
”ドゥシューン ”
俺の目から破壊光線が松永久秀一直線に伸びていく。
”チィドドドドーン”
「ぐわあああ、ぐわあああ、ぐわああっ」
そしてまともに破壊光線を浴びた松永久秀が懐に忍ばせていたらしい爆弾に引火して奴は木っ端微塵面なった。
「ふん、土は土へ、灰は灰へ、塵は塵へと帰るがいい」
幸い奴はそれ再生することはなく木っ端微塵になったままだった、こいつはエグいぜ。
「ぬうう、これだけの兵がありながら義輝はまだ討ちとれぬのか!」
そんな事を言っている間に雑兵はすべて俺と義輝の手で斬り伏せられていた。
「後は長慶お前のみだ。
潔く腹を切るがいい!」
「ぐぬぬ、こうなれば!」
自ら刀を脱いた長慶を義輝が一刀のもとに切り伏せた。
「成敗!」
「無念…だ」
三好長慶はそういうと倒れて動かなくなった。
「ふ、これよりは余の時代である。
信長よ余のために力を貸すが良い」
「その前に御所の外がどうなってるか確認したほうがよろしいかと」
「うむ、それもそうであるな」
とはいえ外にいた三好三人衆とその率いていた兵は犬・猿・帰蝶の手で全滅させられていたが。
「あー、大暴れしたから腹減ったっすわ」
「他愛もない連中だ、なんとつまらん」
「か弱い女である私を狙ってくるとは困った者たちでしたわ」
なお一番雑兵をいちばん多く撃破した上に家屋などの被害を一番大きくしたのは他ならない帰蝶であることを付け加えておこう。
「うむ、なんとも頼もしき者たちであるな」
義輝はそういって笑ってるが笑い事じゃない気がするんだがな。