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信長はなぜ小牧山城を築城したのか

 さて、桶狭間での今川義元との討ち死にとその後の徳川家康との和解と同盟成立で信長は美濃の斎藤義龍との戦いに専念できるようになった。


 徳川家康の方も今川氏真がいる間は、まずは三河、そして遠江の統一に集中できたからヲタが老いメリットが有るように見える。


 ただ、家康は早かれ遅かれ武田と全面的に戦うことになるわけであったが、信長も本来三好と戦うことになっただろう。


 もっとも美濃の攻略に時間がかかったり、その間に三好が自壊していったりしたため、信長は意外と簡単に京や堺などを抑えることが出来たように見えるわけだが、実のところ尾張での戦いではほとんど負けなかった信長は美濃攻めでは何度も敗北をしている。


 まず信長は永禄3年(1560年)の桶狭間合戦から10日ほどで、美濃へ侵攻しましたが敗北、その二ヶ月後にもにも再度侵攻したがやはり敗北。


 しかも、永禄4年(1561年)には義龍は死んでいて、その二日後には信長は美濃に攻め入ったが龍興と戦って負けてる。


 斉藤龍興も今川義元と同じく信長に負けたことで暗君愚将と認識されているが、実はそこまで合戦に弱いわけでもない。


 彼にとって運が悪かったのは父義龍が死んだのが早すぎ龍興がまだ若すぎたことだな。


 そして翌年永禄5年(1562年)にミニ攻めに苦戦する信長の様子を見た上に、龍興の調略を受けた織田信清は突如として信長と敵対。


 織田信清は南進して信長方の楽田城を奪取、これに対して信長は楽田の西に位置する信清方の小口城を攻撃したが、この戦いで将来を期待されていた家臣の岩室長門守が戦死した。


 小口城はその後も信清方の城として機能しており、信長軍はこの時に城を攻め落とすことができなかったとみられる。


 これにより信長は犬山城への付城として、小牧山に城を築城を開始、丹羽長秀を城奉行として築城させた小牧山城は、永禄6年(1563年)には完成して自分や主要な家臣は小牧山城へ移動した。


 この時清須城から北方の城へ移転するという噂が織田家中で囁かれ、多くのものが不服に思っていた。そこで信長は小牧山よりさらに北方の丹羽郡二ノ宮山に城を築きそこへ移転すると布告しが、これは強い反対を受けた。


 そして信長は反対意見が十分に出た頃を見計らい、家中の意見を吟味した結果として、二ノ宮山よりは清洲城に近い小牧山への移転に変更することを申し渡し、今度はほとんど反対意見もなく、皆が小牧山への移転に同意したという。


 これがほんとうかどうかは疑問も多いが、約80年間にわたって守護所として栄え、家臣らが各々の屋敷を持つ清須から他の地へ移ることはそうとう抵抗が大きかったのも確かだろう。


 信秀や信長は必要に応じて城をどんどん移動したがこれはどちらかといえば例外だったりする。


 そんな感じで当初は織田信清が優勢だったし、美濃東部の遠山家は元々斎藤道三の支持者であり織田信清や信長とも近しかったが、遠山家は隣国信濃を治める武田信玄を頼ったため、信清は遠山や武田からの支援も当てにしていたのだが、織田信清が逃げ出した永禄7年(1564年)は武田が上杉との全面戦争に入った時期であって織田信清の救援に迎える状況ではなかった。


 結局小牧山に城を築いた信長軍の圧力で、小口城は丹羽五郎左衛門長秀の調略によって信長に降伏。


 同じく織田信清の家臣である和田新助が城主だった黒田城も、丹羽五郎左衛門長秀の調略により信長方に寝返ったことで、犬山城は裸同然になった。


 小牧山城の石垣は防御のためではなく信長の動員力の高さを見せつけるために築かれたれたんだな。


 そして寝返った者たちの手引きで信長は犬山領へ侵攻し、織田信清は犬山城を捨てて、甲斐の武田信玄の元へ亡命した。


 こうして完全な尾張統一を完成させた信長は調略で織田信清の支城を攻略し、犬山城を裸にしたが、その戦略は、この後の美濃攻略戦にも活かされそれまでの力押しから有力な国人の調略へと方法を変えていく。


 そのころ斉藤龍興の居城である稲葉山城が家臣の竹中半兵衛重治と北方城主の安藤守就にあっさりと奪われるという事件が起こった。


 そして竹中半兵衛と安藤守就が斎藤龍興の居城・稲葉山城を乗っ取る大事件が起き、竹中安藤のに名はは半年以上に渡って美濃の国政を取り仕切ったが、竹中半兵衛は後に浅井で隠棲し、安藤守就は信長につくが斎藤道三の時代から援軍として織田信長の留守の清洲城を守るなどをしていて、浅井や織田による支援があった可能性も高そうであったりする。


 軍記物では美濃攻めの功績では木下秀吉によるところが大きいように見えるが実際は丹羽長秀のほうが大きかったのだな。


 その後、美濃の中部の、関城・加治田城・堂洞城という反信長3つの城のなかで、加治田城主・佐藤忠能が丹羽長秀を介し、信長に寝返った。


 そして信長は鵜沼城・猿喰城などを次々に落としていったが、加治田城の南の堂洞に、斎藤方の長井道利が付城を築いた。


 信長は加治田城救援のため、そこからほど近い斎藤方の堂洞城を包囲攻撃し、堂洞城を陥落させ、帰路についた信長軍を最東軍が攻撃したが、最終的には斎藤軍を跳ね返した。


 そして翌年の永禄10年(1567年)、稲葉山城は落城し斎藤龍興は伊勢長島へ逃亡。


 信長は稲葉山城を岐阜城と改名してそこへ拠点を移し、小牧山城の城下町の機能を全て移転させたため、小牧山城はあっさり廃城となった。


「で、今の俺は俺は猿のおかげで龍興と敵対してないし、そのおかげで信清とも敵対してないからやることないんだよな、そもそも一般には小牧山の存在じたい知られてないし……東美濃の遠山だって知られてないしなぁ……」


 しかしいつまでも那古野城が本拠なのもどうかと思うんだが。


 ああ、ちなみに子実では信長が西美濃と中美濃を制圧した後は、遠山は武田から離れて信長に従った。


 そして織田と武田の争いでは多くは織田に味方して、武田と戦ってるんだが西美濃三人衆や竹中半兵衛に比べるとやっぱ地味だよな


「、無駄な人死が出ないのはいいことなんだが……なんかなぁ……」


 なんか不完全燃焼だ、たまにはスッキリ戦いたいと思うのは贅沢かね。

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