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月見に鬼  作者: 哀ノ愛カ
8/8

第終献

「おかえり〜」

玄関の扉を開いた瞬間、気の抜けた声と顔が脳を刺激した。いや、気を逆撫でた。

満面の笑みの明臣と憔悴し切った自分・・・

「遅い!」

自分に怒られるという不思議な感覚に正直辟易しながら、隆世は「悪かった」と言って印を切った。

隆世の姿を模した式神が消え、床に土人形が転がる。

また何かの機会に使えそうだ。

「で?隅田は本流になれたのかな?」

どうせ千里眼で全てを見ていたに違いないというのにあえて聞いてくる底意地の悪さに溜息を吐く。

「茶番劇で本流も何もないだろう」

「そうでもないよ」

拾おうとした土人形を明臣が先に取る。

「君の式神遣いとしての力が本物だと証明された。君が不在の間、この式神は君の業務を難なくこなしたよ」

「土御門のジジィ連中が見抜けなかったぐらいどうってことないだろ」

「狸ジジィ共を侮ったらダメだよ。奴らは戦いの手段を変えただけであって、霊力がないわけじゃない。陰陽術を磨く時間と努力を別のところに注いだだけさ。そうして、君を使ってるってこと、忘れたわけじゃないよね?」

明臣の目は真剣だった。

準分家の集まりといえども、陰陽家であることに変わりはない。安倍晴明の血を引かずとも、代々陰陽師として遜色のない者が養子として迎え入れられてきたのだ。陰陽総会二代目総代、土御門常彦は本家最後の当主、土御門明の従弟にあたるという。常彦に子はなかったが、養子にした安寅は見鬼の才を見込まれてのことだと専らの噂だ。しかし、実際は経営学を徹底的に叩き込まれ、常彦が興した安倍之財団の二代目会長に就任しているので、その片鱗を窺い知る機会はないに等しい。元政治家の白野井光太郎、法律事務所所長瀬尾十造、医療法人なぎさ会会長土御門和文においても同じことが言える。彼らは、そして彼らの子供ら孫らも皆、陰陽術ではなく違う方面に力を伸ばしてきた。経済、法務、医療各方面に広く深く根を生やし、日本を裏から操っていると言っても過言ではないほどの権力を手にした。そして、小間使いのように隅田を使い、表沙汰にはできない裏の仕事を任せているのだ。

「明臣の――――」

しかし、その中でも異質な存在として陰陽総会に鎮座する者がいる。

「明臣の親父さんはどうなんだ?」

途端に明臣の眉がピクリと上がった。

「あの人は、そういう立ち位置ではないからね。権力に執着しないくせに、長い物には巻かれろ的なというか・・・陰陽総会の末端。自分で自分のことをそう言ってるよ」

謙虚なことだ。権力主義の陰陽総会の中で、その名を連ねているからには何かしらの役目を負っているに決まっている。明臣が未だに陰陽総会のメンバーに正式に加われていない理由もそこに何かしらの要因があるのではないだろうか。

「実際のところ、お前の親父さんはどれぐらいの力を持ってるんだよ」

明臣は押し黙った。

言えないのか、知らないのかは分かりかねた。

隆世は大きな溜め息を吐いて、話題を変えた。

「山本五郎左衛門もいなくなっちまったなぁ。ホント使えねぇ奴だったから別にいいけど。結局、隅田にはあって土御門にはないものって何だったんだよ?」

「えーそんなこと僕の口からは言えないよ〜」

目の前にはいつもの明臣がいた。

「別に言わなくていい。どうせ大したもんじゃねぇんだろ」

明臣から土人形を奪い取り、屋敷の中に進む。奥の書斎について来ようとする明臣を払い除け、扉を閉める。

「おーい、隆世くーん。何で鍵閉めちゃうのさー」

ドンドン扉を叩く明臣を無視して呪文を唱えた。土人形の記憶を自身に移し替えるためだ。

「っ!?」

その時、流れ込んできた記憶の中に意外な人物が現れ度肝を抜かれた。

「おーい、聞こえてる?隆世〜」

能天気な明臣の声が遠ざかる。意識を集中させてもう一度記憶を辿る。

『隆世君』

ゆったりとした口調の中低音の声。

『の、式神君』

一瞬で見破ったその手腕。

『息子に随分と振り回されているみたいで申し訳ないと常々思っていてね。一度隆世君に詫びたいと思っていたんだよ』

貼り付けたような笑顔。

『あの子の本当の悲願は果たされることはないんだ。愚息の不毛な足掻きに付き合ってもらって済まないね』

『明臣の本当の悲願、ですか。それは一体』

『僕の口からは言えないよ〜。あの子に怒られちゃうからね」

四十代半ばの容姿であることを除いて、その人物は土御門明臣に酷似していた。

『どうして、今、その話を私に?』

隆世の式神は隆世らしく毅然とした態度で土御門慧臣と対峙している。

『意味はないよ。この出来事が未来に何らかの影響を及ぼすことはない。この話を聞いたところで君と明臣の仲が不和になることもないし、僕の存在が揺らぐこともない。さっきも言っただろう?ただ、謝りたかっただけだって。他意はないよ。ただ、隅田にはあって土御門にはないものの正体を知るためのヒントにはなるかな?』

『・・・どういう意味ですか?隅田にはあって土御門にはないものっていうのは、一体何だっていうんですか?』

『そんな前のめりになって聞くほどのことじゃないよ。君の言う通り大したもんじゃないんだ。でも土御門はきっと、ずっと、疎んでいた。だって、賀茂を隅田を倒せなかった理由はそこにあるんだから。大抵は欲しいと思わない力だけど、君の祖先はそれに救われてきた。だから、明臣は君といるんだよ。不毛だと知っていて足掻くんだ。期待しているのさ。賀茂が無自覚に宿しているその力に・・・』

何も言えなかった。同じく隆世の式神も何も言わなかった。

『はは。そんな深刻に考えないでくれ。まあ、その悩みも疑心も未来を変えるほどの力はないけどね』

土御門慧臣はそう言い残して去っていった。


――――あの子の本当の悲願は果たされることはないんだ。

微塵の疑いも持たない断定的な物言い。


――――君の言う通り大したもんじゃない。

そう口にしたのは先程のこと。


そして、未来というワード。


「明臣、お前の親父さんは――――」


陰陽総会の末端だって?

冗談じゃない。

その頂点に鎮座し、俺達全てを見下ろす存在の間違いだろう。



*        *         *



十六夜の月が男の蒼白な顔を照らしていた。

昨夜は一睡もできなかったのだろう。目の下には濃い隈ができている。

その幽鬼のような風貌に、男が本当に鬼になってしまったのではと一瞬疑ったほどだ。

加えて、着物はところどころ破れ、泥と血に染まっていた。何があったかなど聞かなくても分かる。今、この地で争いのない日はない。

「兄上が死んだ」

無残な姿が失恋によるものだけではないと知り安堵する。

神咲の当主が、死んだ。

記憶が正しければ代替わりをして半年と経っていない。賀茂が劣勢に追いやられていることはこの耳にも届いている。

「それで?何故ここに来た」

耳を澄ませば川のせせらぎが聞こえてくる。

玉露との約束の場所はここからそう遠くはない。

「無論、彼女と一緒になるためだ」

愚かな。

兄を失くして気でも触れたか。

「神咲光宣、次はお前が当主だろう。そんな戯言を言っている場合か」

呆れた声で諭せば、妖しげな光を湛えた目がギロリとこちらを向いた。

「そうだ。私が当主だ。これで誰も邪魔はできぬ」

一瞬、目の前の男が何を言っているのか分からなかった。

「何を――――」

その疑問を口にするよりも早く理解が追いつき、目眩で体が崩れそうになった。

「・・・正気か?それで賀茂を欺けるとでも!?」

「ならば、ご当主も討つまで!」

本気でそのようなことを口にしているのだとしたら、本当に自身の兄を手にかけたのだというなら――――

掛ける言葉が見つからない。

正気を失った相手に何を言っても無駄だろう。

あまりのことに、茫然と立ち尽くしていると、光宣は森の中へと足を向けた。

玉露の元へ行こうというのか。

その、血塗られた身体で――――

そう思った瞬間、目の前の男の衿を掴み、殴っていた。

柄にもないことをしたと思う。

札よりも重いものを持ったことのない手がヒリヒリと痛んだ。

「玉露にその穢れた指で触れてみろ。死してもその罪は償えんぞ」

自分でも驚くほど低く冷徹な声が響いた。

術で拘束する方が簡単だったろう。しかし、そんな考えが及ぶよりも早く身体が動いていた。

「はっ。理解できませんね」

暗い瞳が自分を見ている。

「貴方も欲しいのでしょう?望めば手に入るものを、何故自ら遠ざける?」

「勘違いするな。俺は――――」

「勘違い?貴方こそ勘違いしている。貴方のその心は」

「言うな!」

その叫びは、その心は――――

「・・・ご理解していらっしゃるなら、結構」

光宣は着物の衿を直して、徐に札を構えた。

「ここで、殺し合いを始めるつもりか?」

「貴方の存在が邪魔なのでね」

故に、恋慕の情というものは恐ろしい。

陰陽師に必要な素養を悉く奪っていく。

だから、俺は心を封じた。

こんなことならば転生するのではなかったと、何度悔やんだか分からない。

妖怪だけをひたすらに屠っていた安倍晴明は今際の際に禁忌に手を染めた。

死ぬのが怖くなったのだ。

友に会えなくなる寂しさに耐えられず、その手で人を殺めた。

一度でも人を殺せば、後何十人殺そうと同じだ。

安倍有世は権力者の思いのまま、人を屠り続けた。

妖怪よりも人を殺した数が追い回る頃、無垢な女鬼と二度目の出会いを果たす。

一度は偶然。

二度目は奇跡。

星は動かずとも、己の心は確実に動いた。

だが、

「俺もお前も、玉露には相応しくない」

愛おしいからこそ、傍には置けぬ。

人の死を感じれば感じるほど、白鬼は寿命を縮めるのだから。

それを目の前の男に教えてやる義理はない。

この場で死ぬならば知ってどうなることもない。

呪詛が飛び交う。砂塵で水飛沫を跳ね除け、即座に次の印を切る。

早く決着をつけなければ、玉露に勘づかれてしまうだろう。

「殺せ」

詠唱を破棄した単純な言霊で、枯葉が舞い、光宣を斬り刻んだ。

勝負あった――――

「過信しましたね」

傷だらけであるにもかかわらず、不敵に笑う男に、全身の血が沸騰した。

「我が血肉を以て魂を封ずる・・・永遠の眠りにつくがいい」

陣を張られていたことに今更ながらに気づく。玉露に気取られないかと焦ったのがいけなかったか。

肉体が崩壊し、魂が浮いた。

目玉はなくとも、男が懐から木箱を取り出すのが分かった。禍々しい呪が込められている。

「魂を封じるためには重りが必要ですから。兄の無念を箱に塗り込めました。もちろん私の分も・・・」

腕から滴る血が木箱をよりどす黒く染める。滅し切れない妖怪を半永久的に封印する際に使う手だ。だが、術者に力量があれば、命まで捧げる必要はない。兄と自分。犠牲は人一人と半分といったところか。

「転生はさせませんよ。安倍有世様」

名を知られたのはまずかった。

土御門の始祖が生きている――――それの意味するところをこの男は知っている。

「白露の君はご存知なのですか?貴方がどうやって生き長らえているのか」

知る訳がない。

人の世を知らぬよう、育ててきたのだから。

陰陽師を自分一人しか知らぬのだから。

今まで人の血の匂いを気取られぬためにどれだけ距離を置いたと思う?

狭い見識の中に閉じ込め、数十年。

化け物と変わらぬ行いに身を投じ、それでも生きた理由は――――

木箱に押し込められる寸前、舌のない身で詠唱を唱えた。

血を利用するからには血を利用される危険を考えなくてはならない。

神咲の血に呪いを――――その血が絶える呪いをかけた。

そして、俺の魂は完全に木箱の中へと封じられた。

力尽きたのか光宣が倒れた気配がする。転がる木箱を誰かが拾い上げた。

五感は既にないというのにどうしてそんなことが分かるのか不思議な気分だった。

「安心しろ。この者を鬼の元へ行かせはせん」

自分に話しかけているのか。それは音として聞こえているわけではなかった。思念が流れ込んでくるのだ。

相当な霊力とその周りに集まる幾多もの妖力・・・賀茂の現当主か。

「だが、神咲の血を絶えさせるわけにはいかぬ。如何なる手段を用いても、賀茂家に属する陰陽家を絶やすことはない」

堂々と禁忌を犯すと宣言された。賀茂の当主の首を取るとまで言った男の血を守る価値などないだろうに。 

しかし、賀茂にはそうせざるを得ない理由がある。

「土御門の始祖よ。哀れと思うか?賀茂の境遇を」

賀茂を筆頭とする陰陽家は陰陽五行全ての力を人一人が備えてはいない。陰陽家それぞれがどれか一つの属性を極めることで、土御門に匹敵する力を得ようとしたのだ。

「いつの日かこの世へ還る時が来ても、ゆめゆめ忘れるでないぞ」

――――賀茂は負けぬ。

哀れだと、思いながら心を鎮めた。

土御門か賀茂か。

そんな小さな枠で考えていては誰も助からない。

そういう時代が来ることに気づく者がまだ賀茂には現れていないらしい。

土御門もいずれは終わる。

それを知っていてもその時々で受けた生を家のために果たすのが土御門の悲しい境遇とも言える。

だがそれは、俺が哀れむことではない。

安倍は、土御門は、悲願を持たぬ。

ただ、今の時代を動かす礎として、時の権力者に加担する。そしてその裏で思う存分に力を振るうのだ。

人を襲う妖怪を屠るために。

全ては民のため。国のため。

個の意思を持ってはならない。

星を見よ。

流れを読め。

陰陽を糺すことこそが使命。


真に哀れなるは賀茂か土御門か――――


ハッとして、無名は起き上がった。

霊魂の身でありながら額に汗を掻いている。

夢を見た。

過去の夢だ。

睡眠を必要としないはずなのに昼寝をしてしまったのは、昨夜のことが相当精神に負荷をかけたからだろう。

玉露――――

幸せになって欲しいと願った女鬼。

妖怪からすれば短い生を終えた友人の娘。

「玉露・・・」

その名を呟けば、じんわりとした痛みを伴って心を蝕む。

昨夜の男の言葉が忘れられない。

『玉露が何に心を痛めて死んだか教えてやろうか?』

人間相手に己の弱さを曝け出し、限りなく低姿勢で懐の広さを見せつけた妖怪。その全てが嘘だとは言わないが、演じていたのも事実だろう。

何のことはない。『影』とはそういう生き物だ。

仇?復讐?あれで全てが流されたと?

そんなはずもなく、三影は憎悪を露わにして目の前に現れた。

『神咲光宣などどうでも良い。玉露の死期を早めた原因は安倍有世、貴様にある』

断定の物言いに反論はできなかった。

何となく、そういう気はしていた。

失恋ぐらいで白鬼の寿命が縮むとは考えにくい。

白鬼の命が削られるのは――――人の死そのものだ。

『貴様を許すことはない。子供らのため、今は見逃してやるが・・・その魂ごと消滅させるまで私の復讐は終わらぬであろう』

深い闇のような目が無名を睨み、消えた。

息も出来なかった。

ただ、三影がいなくなった後、人知れず咽び泣くだけで――――

苦しいのは、殺すと宣言されたからではない。

玉露を死なせてしまった自責の念と、あとは――――

「お主、泣いておるのか?」

気づけば、目の前に五郎左衛門がいた。

「生きておったか・・・」

頬に手を当てれば、随分と濡れており、長い間泣いていたのだと今更ながらに自覚する。

「お主も知っているだろう。賀茂の血が途絶えぬ限り、致命傷を食らっても常世には行けん」

「賀茂の血を受け継ぐ者はこの世で二人しかおらん。護衛しなくて良いのか?」

「はっ。あの生意気な小僧。私を時間稼ぎごときに使いよったんだぞ!?ずっと見張らんでも死なんわ!」

そうは言ってもこの千年。つかず離れずのところで賀茂を守護してきた。

「あの忌まわしい箱がなくなって清々したわ!」

「何故、封印されていたのだ?」

「それは、江戸の世が明けた時に隅田の初代が・・・いや、よそう。それよりお主はなぜ泣いていたのだ?」

自分の話は逸らして相手の痛いところを突く。この男も変わらない。

「言わぬ」

「陰陽師共にお主のこと黙ってやったではないか〜」

「頼んでない」

「では、これから隅田の小僧に言ってきても良いのか〜?」

片目を開けて五郎左衛門を見遣れば、にへらとした笑みがこちらを向いていた。

難儀な。

「別に俺の素性など分かったところで・・・」

「それは違うぞ。安倍晴明がこの世に還ってきたことが知れ渡れば、星は動かずとも確実に世は動くだろう」

急に真面目な顔をして五郎左衛門が忠告する。

「それ故、私は知らぬふりをしたのだ。何が起こるか分からぬからな」

「買いかぶり過ぎだ」

「いや、お主は自分の存在をもっと自覚した方が良いぞ?お主も歯車の一つになりつつある」

五郎左衛門らしからぬ言葉に眉を上げる。

「どういう意味だ?」

「隅田に封印される前に預言者みたいな男が来たんだ。真っ黒な着物の侍で、人間の生活に馴染んではいたが、あれは妖怪だな」

「それで、何を言われた?」

「封印が解けるのには理由があると。現世にいる限り何かしらの役は担ってもらうと言われた。それはお前だけではないともな。私が封印されたのはその数日後だった。それから百年の後、一度封印を解かれたが、その時は餓鬼の面倒を見させられて・・・ああ、そうだ。封印を解いたのは隅田隆凱という男だったな。そいつに聞かれたのだ。『藤祖会の連中はお前に何をさせようとしている?』とな」

「藤祖会?」

「私も知らん。隆凱にも何のことか分からぬと言えば、しばらく子供の子守をさせられてすぐに封印し直されたわ」

藤祖会・・・

藤の祖の会。

藤原家の始祖の会。

まさかな、と無名は頭を振った。

「五郎左衛門、何者かが意図的に事を起こしているのは確実だ」

「お主の力で炙り出せんのか?」

「無理だった」

五郎左衛門は「なるほど」と言って黙り込んだ。

そして、

「何にせよ、私は賀茂を守るだけだ。お主はどうする?」

五郎左衛門と視線が交差した。

そんな、決まり切ったことを。

「俺は――――」

空を見上げ、口を閉じる。

東の方角に白い月が昇り始めていた。今宵は十六夜だ。

「俺は、俺の悲願のために動くだけだ」


土御門の中でただ一人。禁忌を犯した者として。悲願を持つ者として。

為すべきことを為そうではないか。



*        *         *



十六夜の月が見下ろしている。

庭に出て月を眺める父親の姿を久しぶりに見た。

しかも、縁側で酒を酌み交わすことになるとは・・・

「親父殿、もう一杯!」

と言って、酒を注いでいるのは専ら大牙だが。

「大牙、お前いい加減に・・・」

「白鷺、もしかしてもう呑めねぇのか?」

並々注がれた杯に月が映り込んでいる。

「父上・・・私は」

ふと、横を見遣れば、三影は完全に酔い潰れていた。途中から怪しい感じはしていたが、ここまで酒に弱いとは。この数百年、水で薄めた日本酒で酔って気分を和らげていたと水月から聞いた時は呆れたが。その遺伝は息子にも受け継がれていた。

注がれた杯を一気に飲み干し、クラクラする頭を片手で押さえて、空を見上げる。

「息子と飲めたのがよっぽど嬉しかったんだろうな。見ろよ、この幸せそうな顔」

白鷺の目が覚めたのは、宵の口だった。微かに見覚えのある天井と懐かしい匂いに一気に涙腺が緩んだ。

帰ってきた。我が家に。

襖を開ければ、徳利片手に縁側に座る父と対面した。そして、何度も謝罪の言葉を聞き、今までの分、多くのことを語り合った。

「父上の苦悩は理解しているつもりだ。玉零のことも、もっと良いやり方があっただろうに、そうしなかったのは俺が未熟だったからだ。謝らなければならないのは俺の方なのに、な」

「玉露様も大殿も鼻が高いことでしょう。これほどまでに良いお世継ぎに恵まれて」

水月が三影に羽織りを掛けながら、こちらを向いて微笑んだ。

「水月・・・俺は」

「若殿の言いたいことは分かります。しかし、来るべき日は必ず来ますよ」

風を使ってふわりと三影を浮かせると、屋敷の奥へと引っ込んでしまった。

「なあ、大牙」

「何だ?」

ぐびっと酒を一気に煽りながら大牙は聞き返した。

その様は素面の時とは打って変わって神妙だ。

「玉零と結婚出来なくなって、残念か?」

心底、心の読めない相手に探りを入れる。能力を使わずそれを実行することの難しさは並大抵ではない。

「そうだな」

案の定、大牙の肯定の言葉の真意は量りかねた。

「何で玉零と一緒になりたいんだ?」

だが、

「お前、それは・・・お前とずっと一緒にいるためだろうが」

「はあ?」

意外な言葉に素っ頓狂な声が出た。

「だから、お前の妹と婚姻すれば、本当の家族になれるだろ?」

本気で言っているのか。冗談なのか――――

「そんな理由で?玉零のことが好きだからなんじゃないのか?」

「好きさ。でもそれは、白鷺の妹だからだよ。はっきり言って、玉零自身に魅力を感じたことはない」

大牙が嘘を言っているようには思えなかった。

「お前、なぁ・・・」

白鷺は呆れながら溜め息を吐いた。

しかし、大牙がこの家に引き取られることになった経緯を考えれば、そう思うのも致し方ないだろう。

「大牙。お前は俺の友人で、兄弟だ。玉零と結婚などしなくても、俺達はずっと家族だよ」

そう言って手を差し伸べれば、大牙は大きく目を見開いた。

そして、

「お前がそう言うのは分かってるんだけどな」

と、小さく呟いて手を取った。

心地良い夜風が火照った頬を撫でていく。

束の間の安息。

しかし、

「白鷺、『百鬼』のことはどうする?」

悩みは尽きない。

「お前を日本に呼び寄せ今回の騒動を引き起こさせたあいつの始末、どうつけるんだ?」

「そう、だな・・・」

ふと視線を感じて振り向けば、廊下の端から顔を覗かせる玉零が不安そうにこちらを見ていた。

「起きたのか、玉零。父上は酔い潰れたぞ」

「誤魔化さないでください」

ピシャリと言い放つその気丈な声音。だが、そこに僅かな震えが混じっていることに気づかない白鷺ではなかった。

「落ち着け。別に大した問題では」

「千、ですね?千歳が、兄上を嗾けた・・・」

これだけ聡いのも考えものだ。

即座に察した玉零を止める術はもうなかった。身支度を始める玉零にどんな言葉をかけようと届かない。

「待て、玉零!」

「母上の形見・・・」

屋敷の門を潜りながら、玉零はポツリと言葉を零した。

「緋牡丹の着物か?」

母、玉露の象徴とも言える着物だった。父、三影が結婚前に贈ったものだ。黒地にその緋はよく映えていた。気の強い玉露にとても似合っていたと思う。死ぬ前まで玉露はその着物を着ていた。

玉零がその着物を着て月に触れ過去を見せたのはつい昨日のことだ。

「白鬼は到底触れることができるはずのないものに触れられる。水面、鏡に映る月や星々、花・・・といったものに。ですが、それが何になるということもありません。あれは、私が『影』の力を多少なりとも引き継いでいるからこそできる技です。そして、それにはいくつかの条件があります」

その条件の検討はついている。

「満月の晩であることと、月が満ちた力を受け止め切れるほどの器であること・・・要は本来の力を取り戻した私であることですね。そして――――」

「心を見たい者に触れる、またはその者に縁のある品に触れていること・・・だろう?」

玉零はコクリと首を縦に振った。

「父上がずっと肌身離さず持っていらした母上の形見を私がどうやって手に入れたか分かりますか?」

心を読まなくても分かる。玉零の表情を見れば察しはついてしまう。

「どうやってって、白鷺が用意してた着物だろ?玉零を誘拐した日に着てたじゃねぇか」

「あれは、兄上が仕立てさせたものよ。どうせそれを着た私の写真と一緒に結婚式の招待状を父上に送りつけたんでしょう?」

大牙の見当違いな回答は玉零にあっさり切り捨てられた。

だが、そもそもが間違っている。

三影は確かに肌身離さず緋牡丹の着物を抱えていた。それは、戦後間もない頃までの話だ。

戦後、一時帰国して変わり果てた玉零の姿を見て失望した後、『百鬼夜行』の本部に寄った時のことだ。

「私が、かつて自分で埋めた白翡翠を掘り起こした直後のことでした」

主は不在だったが、来ることを見越したかのような接待を受け、数日滞在したのを覚えている。

「まるでそこに私が来ると分かっていて、初めから待ち伏せしていたかのような顔で――――彼は!」

そう、奴は。

「母上の形見を私に渡した。最後のピースはこれで埋まると言って」

風が凪ぐ。

大牙の尻尾が静かに垂れて落ちるのが見え、瞳を閉じた。

「最後のピース?あいつはパズルでもしてるのかー?」

大牙の思考の割には的を得ている。

『あー、これですかい?いや何。玉零の親父さんとちょっとした賭けをしやしてね。俺が勝ったんで頂いてきやした』 

それは俄かには信じがたいことだった。

『いやいや、頂いたっていうのは語弊がありやすね。預かった、とでも言いやしょうか。もし、玉零が元の姿に戻るようなことがあれば返すつもりですから安心して下せえ。そういう契約ですからねぇ』

三影が妻の形見を手放したのもそうだが――――

『ああ、玉零のことですかい?もう大丈夫ですよ。立ち直ってピンピンしてやすよ。でも、代償は大きかったかな・・・』

白鬼の血を濃く受け継いだ妹が、魂を半分に引き裂いたことにどれだけの衝撃を受けたか。

たかが失恋如きで。たかが、人間一人が死んだぐらいで。

お前が塞ぎ込んでいる間に、戦争でどれだけの人間が死んだと思っているんだと。確かに半分流れている己の白鬼の血が妹を責め立てた。

『でも、まあ、俺はこれで良かったと思っていやすよ。これからも、俺がこの国を守る・・・白鬼の姫はお飾りぐらいがちょうどいい』

それが本心であることは目を見れば明らかだった。哀しいくらいに白鬼に幻滅している。そして同じくらいに安堵している。

『旦那はパズルってものをご存知ですかい?』

唐突な質問に「ああ」とだけ答え、千歳の瞳を覗いた。そこに映っているのは、憎悪。

『あんたら家族を見てるとイライラする。ピースは揃っているのに完成させられないパズルみたいだ――――何言ってんですかい、旦那。欠けたものは別の何かで必ず埋まる。この世の中、そういう風にできてんですよ。旦那もよくご存知でしょう?あんたの代わりを俺は引き受けた。空いた穴は誰かの手によって塞がられる。きっと、俺にとっての玉零も・・・玉零にとってのあいつも・・・掛け替えの無い唯一無二の存在として想うのは、結局のところ幻だ。いつか、完成してやりやしょうか?俺が、あんたら家族を――――』

その時は、玉零との仲を裂かれた腹いせぐらいにしか思わず、戯言だと一蹴した。

『それで――――』

去り際、千歳が言った言葉が蘇る。

パッと目を開けば、玉零が唇を噛んで震えていた。

「千は私にとって、唯一無二の親友です。私達家族を助けるために起こした行動ならば納得もいきましょうが、そうでないように感じたのは私の思い違いでしょうか?」

「おいおい、何でそんな顔すんだよ。結局は千歳のお陰で丸く収まったってことなんだろ?」

大牙の言う通りだ。

素直に物事を受け取れば、千歳のしたことはそう悪いことではない。

だが、

「二人とも、千には千の事情があって動いていると、知っていますね?」

「何で、それを!」

墓穴を掘ったのは大牙だ。カマをかけられたことにも気づかないなんて、溜め息しか出ない。

「それで?行ったところでお前に何が出来る?」

「困っているなら、助けたいのです」

「お前にどうこうできることじゃない」 

前よりは些か成長したようだが、玉零の容姿は未だ子供のままだ。白翡翠を全て体内に取り込めば大人に戻れるのだろうか。だが、一気に力を取り戻そうとすれば体が保たないのは目に見えている。現に玉零の足元はおぼついていない。

「兄上。できるできないの問題ではないでしょう?」

そう言って一歩踏み出す玉零を白鷺は止められなかった。

「あーあ、行っちゃったね。白鷺も行く?」

「いや、俺は、まだ・・・」

動けない。

「隼、玉零を追え。何かあったらすぐ知らせろ」

すかさず、従者に命じて後を追わす。

無表情に承諾して飛んでいった隼の心中は複雑だろう。

玉零はきっと、隼を許さない。神咲流を本気で殺すつもりだった隼を許すことはない。

「白鷺、俺が玉零を連れて帰ろうか?隼じゃ、その・・・無理だろう」

大牙も隼のことを一応は気にかけているらしい。

「いや、足止めぐらいはできるだろう。回復したら俺が行く」

玉零の元へではない。現代まで生き残った妖怪達の総本山『百鬼夜行』の根城にだ。

それを察したのか、大牙が白鷺の腕を掴んで強く引っ張った。

「もう止めとけ。お前の悲願は果たされた。これ以上面倒ごとに首を突っ込むのは」

珍しく大牙が怒っているのはピンと立った耳を見れば明らかだった。

「無理だ」

大牙の手を掴んで引き離す。

嫌な予感が心をざわつかせるのだ。

悲願が叶った?

事が上手く収まりすぎて不安になっているのは、玉零だけではない。

誘導されていると感じながらも騒ぎを起こした。陰陽師の始末、白鬼の根絶。奴らの目的をそう考えたこともあったが、しっくりと来ない。

終わったかのようで、まだ何も始まっていないように感じるのは――――

「あの時、」

百五十年ほど昔の話だ。

「千歳に託し、俺はこの国を離れた」

そうせざるを得ない事情があった。

「だが、奴が全う出来ないならば代わりに俺が」

元々は自分の役目であったこと。

「・・・だけどさ」

控えめに大牙が口を挟む。

言いたいことは分かっていた。

「その先は言うな」

渋々口を閉ざした大牙は既に酔いが覚めてきているようで、犬っころのような表情で白鷺を見つめていた。

「白鷺、俺はお前についていくよ。これまでと同じようにこれからも。お前の無茶を止められるのは俺だけだからな!だから、早く元気になってくれよぉ」

耳をぺたっと寝かせて、項垂れる。その頭をわしゃわしゃと撫でて、屋敷の中へと足を向ける。その途端に目眩がして大牙がすかさず肩を貸してきた。

己の無力さを痛感する。

人を傷つけた傷は未だ癒えず、体は思うように動かない。

内外に脅威を抱えるこの国を守る力も乏しい。

突っ走る妹を諫めることもできないのだから、そんな力あるはずもない、か。

だが、

「大牙、済まない・・・俺はお前の力を借りてばかりだ」

「何言ってんだよ。白鷺を助けるのは当たり前なんだぞ!俺の、お、お、弟なんだからな!」

目を見開いて大牙を見遣れば、真っ赤な顔のあどけない狼の姿が目に入った。

大牙の年齢は知らないが、自分より生まれが早いことは分かっていた。

が、

「阿呆か。俺が兄貴だろうが」

「はあ?俺の方が年上だぞ!」

「いや、俺の方が精神年齢が高い」

「はー!?そんなの俺の方が高いんだぞ!」

馬鹿を言い合えるのも今だけだろう。

確実に迫っている未曾有の危機に身構える。

この国の陰陽師の質も数も落ちた現状で、どこまでやれるか甚だ疑問だ。神咲家の末裔からは多少の気概を感じたが、実力を伴わなければ身を亡ぼすのは必須。それに、玉零に心酔し過ぎているきらいもある。

陰と陽が共にあるなど、祖父の時代の夢物語だ。

人は人同士で戯れていれば良い。それが、人としてあるべき姿であり、人としての幸せなのだ。きっと、それが正しい――――

だから、

「大牙、俺達が出るぞ」

徳川の時代に馳せた鬼殺しの異名を持つ俺達が再び滅るしかあるまい。

大牙は「あいよ」といつもにように返事して毛を逆立てた。


月に照らされ白くなった髪が風に浚われ靡く。

否応なしに血が騒ぐのだ。

己の中に半分流れる血が、人を救えと急き立てるのだ。

これが白鬼。

全く以って、難儀な生き物だ。

家族のため、その運命に逆らう決意をしてみたら、この様だ。

到底無理な話だ。これまでも、これからも。白鬼の血が流れている限り、人を救わざるを得ない。


『それで、完成したパズルをまたバラバラにしたら――――どれだけ愉快だろうな?旦那、玉零は愚かだが、それでも俺にとっては絶対的な存在だったんだよ。幻でも何でも、あいつは・・・俺の心の隙間を埋めてくれた唯一無二の欠片だった』


千歳は全力で壊しに来るだろう。

仕方なく九条に従っている訳ではない。

奴も望んで加担しているのだ。

いつから?

そんなことはもはや重要ではない。

重要なのは――――白鬼を壊す。その方法は一つしかないということだ。



*        *         *



文化祭が始まった。

何事もなく訪れた平穏に呆気にとられながらも、流はその中にいた。

「にしても、白鷺先生残念やったねー」

「早く戻ってきてほしいわ」

白鷺歳三は実家が大変という物凄く曖昧な理由で休職することになったそうだ。全くの嘘ではないところに流は苦笑するしかなかった。

生徒達は皆、口を揃えて白鷺歳三を良い教師だったと言う。

峻介を筆頭に信者か?と言いたくなるほどの熱烈なファンだっている。

もし、白鷺が人間だったなら、本当に良い教師になっていただろう。妖怪であることを理由に「惜しい」と言えば、玉零はどんな顔をするだろうか。白鬼は人になることができる妖怪だ。きっと望めば人として生きることもできる。かつて人間に恋をした玉露は、そして玉零は、その道を考えたのだろうか。

取り留めもない思考を巡らせながら流は注文されたきな粉餅を皿に乗せる。

「きな粉餅、まだー?」

和風テイストのメイド服を着た早紀が厨房スペースに声をかけてきた。

「もうすぐできるからっ!」

上擦った声で返事したのは頬を紅潮させた峻介だ。完成した・・・と言っても既製品を皿に乗せただけのきな粉餅を流から受け取り、ぎこちない動きで早紀の方に近づいていく。

「あいつ、大丈夫か?」

「宮根さんへの態度だんだん露骨になってきたよな・・・」

最早、峻介の早紀に対する気持ちは周囲に筒抜けで、恐らくは早紀自身も気付いているように思えた。

「早紀、これ・・・」

「あ、ありがと」

見てるこっちが赤面してしまうような、何とも言えない空気に客も若干引いている。

「ありゃ、重症やなあ。流、あいつらのこと何とかしたってや」

峻介をそっと見守っていたクラスメイトの一人がそう言って流の肩をポンと叩いた。

その自然さに呆気に取られていると、峻介が「どうしたんや?」と言って戻ってきた。早紀の姿が視界に入っていなければ平静でいられるようだ。

「いや、あいつ・・・」

流は視線を先程の男子生徒の方に向けながら、口籠った。

「あいつって、おい、嘘やろ!?まだクラスの奴らのこと覚えてないんか?」

顔は覚えている。二学期の始業式の日に流に食って掛かってきた奴らの内の一人だ。

それが、白鷺の能力で友好的になるように仕向けられていたはずだが・・・気にかかるのは名前ではなくて、流に対する態度の方だ。まるで親しい友人に接するかのような、そんな自然さに流は面食らったのだ。

「直輝やで!覚えといたりや!やっと仲良うなってんから」


仲良くなった――――それは、誰の――――


何事もなく終わった文化祭の後片付けをしながらも、流の心は未だモヤモヤしていた。

「大丈夫か?まだ、体調悪いん?」

流の長欠は体調不良で済まされていたらしい。

「いや。そうじゃなくて、みんな俺に優し過ぎて・・・」

吐きそう。とまでは言わなかったが、峻介は何かを察したようだった。

「流。慣れろよ。お前が受け入れんと、また逆戻りやで」

違う。これは――――

「言っとくけど、白鷺先生は無関係やで」

はっとして峻介の顔を覗き込む。奥二重のキリッとした目が流を真っ直ぐ見つめていた。

「先生はあの時、クラスのみんなを誘導するようなこと何も言わんかった。宥めもせんかった。クラスメイトの心を変えたのは誰の力によるものでもないよ。強いて言えば、そういう流れだった、ということかな」

途中で口調がかわっていることに峻介は気付いているのだろうか。本人も気づかないほど巧妙に入り込んでいる。 

流は峻介の背中に張り付いている僅かな影を見逃さなかった。ドクドクと心臓が脈打つ音が聴こえる。峻介の中に奴がいる。峻介はふっと笑って目を細めた。表情が別人になっている。

「信じる信じないは任せるけどね。全ては君次第だよ。君が人との繋がりを求めるなら、自ずと縁は結ばれる。そしてその縁はきっと意味のあるものだ。君の祖先が結んだ縁が僕にとって意味があったようにね」

憂いを帯びたその顔は完全に白鷺そのものだった。

どういう魂胆でまだ峻介を操っているのだろうか。

修学旅行の帰り道に峻介が言っていた言葉を思い出す。白鷺が昨年度から峻介と接触していたことも鑑みて、峻介を操り修学旅行の行き先を白馬三山にしたのは白鷺だと考えるのが妥当だ。

何故?

その目的は?

今、聞けば白鷺は答えてくれるのだろうか。

流の怪訝な顔を他所に、峻介もとい白鷺はポンと右手を流の頭に乗せた。

「学べ、少年。己が何者か分かるまで。そうでなければ、僕が君を生かした意味がない」

その時、早紀に呼ばれた峻介が我に返ったように「な、何や?」と応答した。

「ちょっと行ってくるわ」

その顔にはもうヒヤリとするものはなかった。恋に溺れている平凡な男子高校生の顔だ。

影が抜け落ちている。陰の気は痕跡さえも感じることはできなかった。

結局、白鷺は何を言いたかったのか。

クラスメイトの流に対する態度は術のせいではないと、それだけを伝えるために目の前に現れたとでもいうのだろうか。

『影』の考えることは一介の陰陽師に分かるはずもなく、答えは出なかった。

「全ては俺次第、か」

出生のせいにするな。周りの環境のせいにするな。置かれた境遇のせいにするな。と――――

誰かさんは言うだろう。

気を取り直して、深呼吸をする。

「なあ、こっち手伝ってくれないか?」

流の声にクラスメイトが集まってきた。

「ええよ、手伝うわ」

「一緒に持とか?」

「こっちのゴミ捨てとくでー」

何のことはない。

ただ、自分から殻に閉じこもっていただけのこと。

氷雨がこの身に宿っていることなど、本来は関係のないことだったのだ。

両親がいないことも、養子として隅田家で育ったことも、いきなり京都に連れてこられて神咲家の当主になったことも、関係ない。

そう、言ってくれた友人がいたのに、そうは思えなかった当時の自分が心の底から憎らしい。

『流、その身に流れている血は、お前だけのものやで』

一般人に自分の境遇を話したのは中学二年生の秋、そのたった一度きりだ。


クラスメイトとワイワイ文化祭の片付けをした後、ファミレスでギャーギャー打ち上げをし、お開きになった頃にはすっかり辺りは暗くなっていた。

同世代の連中と、しかもこんな大勢で騒ぐのは初めての経験だった。楽しかったが、どっと疲れが押し寄せる。だが、不思議とその疲れは嫌なものではなかった。

酒を飲んだわけでもないのに、酔っ払いのように鼻歌を歌いながら帰り道を歩く。

高揚した気持ちの中、ふと、昔無二の友人と何度も渡った交差点に来ていることに気がついた。

「ああ、ここは――――」

中学時代の思い出が駆け巡る。溢れ出る記憶と感情の渦に飲み込まれそうになって、ぐっと堪えた。

交差点の先には和菓子屋の老舗である『寿』の看板が見える。まだ営業中らしく、ほんのりと店内に明かりが灯っていた。扇達に土産でもと一瞬考えたが、青信号になった横断歩道を踏み出す勇気は出て来なかった。

ここに、お節介な鬼はいない。

「はは」

自嘲めいた笑みと共に熱い滴が地面に落ちる。

自分一人では何もできない。

修学旅行でも玉零がいたからこそ、流は過去と向き合えたのだ。

だが、今ここに玉零がいなくて良かったとも思う。

「欲張り過ぎたら、きっと――――」

これ以上、何を望むというのか。

隆世との蟠りも消えた。

玉無家のみんなや百花とも気持ちをぶつけ合うことができた。

高校では友達ができ、クラスメイトとも仲良くなった。

これ以上の幸せを望むのは、罰当たりだ。

パッと顔を上げ、涙を拭う。既に赤信号になった交差点を横目に真っ直ぐ道を進む。

今、自分がすべきことは過去にあったことに想いを馳せることではない。

白鷺が言うように、自分が求めれば人との繋がりは思っている以上に簡単に結べるのかもしれない。

だが、今は、たった一人の誰かのために闘いに身を投じたがっている自分がいる。


白鬼と陰陽師が共に陰陽の流れを糾す。


そんな未来を叶えられるなら、人並みの幸せを願ったりはしない。

否、二律背反であることを理解しているからこそ、望まないのだ。


哀しいほどに心が騒ぐ。

狂おしいほどに血が沸き立つ、この心地。

血を残すことのできない自分が何かを遺そうと喘いでいる。


神咲の血が途絶えるその時まで、この血肉を白鬼に捧げよう。


だから、

「早く、戻ってきてくれ」

もう、玉零のいない人生など考えられない。

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