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月見に鬼  作者: 哀ノ愛カ
7/8

第六献

月が眩しいくらいに輝いている。

嵯峨鳥居本の曼荼羅山は、五山送り火では鳥居形として有名だ。

隆世はこの場所を決戦の地として決めた。京都の中心から離れているのは良いが、斜めの斜面は立ちにくく、不利なようにも思える。

「隆世、本真にここで良かったんか?」

扇が左膝を曲げて立ちながら扇子を取り出した。

「玉無の次期当主が転げ落ちるなんてことはねぇだろ?」

皮肉を言えば、「はあ?着物みたいな動きにくそうなもん着てる奴に言われたくないねんけど!」と返ってきた。

扇はいつも密着度の高い黒地のパンツと白のカッターシャツ姿でいる。札と扇は尻ポケットに突っ込んでいるが、落ちないかとヒヤヒヤさせる。収納という面では、着物の方が一段上だが、今ここでそれを論じるのは止めにした。

「来たか」

辺りが暗くなった。雲ではない何かが月を覆い隠した。

「やあ。こんばんは」

京都の街は明るい。月を隠されただけでは、視界を遮ったことにはならない。

敵の姿ははっきりと眼前にあった。

「神咲流を隠したようだな?」

「当たり前だろ。大人しく渡すとでも思ったのか?」

「思っていないさ。ただ、死ぬ覚悟はできているのかと聞いているんだ」

一際鋭くなった眼光に狂気の色が見えた。

来る!

心に何かが入ってくる気配はなかった。

だが、

「兄貴・・・」

奇襲役として茂みに隠れていた楓が出てきた。

「隆世、こうなることは予想してたやろ」

歯噛みしながらも、扇が落ち着けと言う。

隆世と扇なら白鷺の術に惑わされることはないと踏んでいたが・・・楓はダメだ。

だから、初めから楓を白鷺と戦わせるつもりはない。

だが、肝心の狼の姿が――――

「白鷺ー!連れてきたぞー!」

人の形を成した狼はあろうことか百花を連れていた。

「なっ!」

「ダメじゃないか。妹はちゃんと安全なところに隠さないと」

ニンマリと笑う白鷺を睨めつければ、大牙が鋭い牙で百花の腕を食んだ。

「お兄様・・・ごめんなさい」

百花は伏見山邸に避難させているはずだったが・・・

「伏見山の婿養子を使わせてもらったんだよ。本人の自覚なしに君の妹を結界の外へ連れ出すぐらいどうってことないさ」

恐れ入る。

これが『影』の力か。

「可憐。お前の旦那のせいで百花が人質に取られた」

蝶の姿をした式神が隆世の肩に止まる。

事前に作っておいた交信手段だ。

『まあ。夏は私と一緒に東山に向かいましたけど?』

「その時に何か理由をつけて百花を連れ出したんだろ。お前の監督不行き届きだぞ!」

『でも、味方が操られることは想定内。でしょ?』

悔しいが「そうだな」と返答する他ない。こんなことなら、流と一緒に百花も閉じ込めておけば良かった。

「引き離すぞ」

「分かってる」

隆世の言葉に扇が頷いた。

「可憐。責任は取れよ」

『仕方ありませんわね』

可憐がそう言った途端、南の空から火の玉が飛んできた。

「わわあ!」

驚いた大牙が百花から手を離した。

その隙を見逃さず、扇が百花を奪取した。

「身内ごと攻撃とは大したものだ」

今ので確実に百花にも火の粉が飛んだが、火傷一つ負ってはいない。

「俺の護符を見くびってもらっちゃ困るな。護符がある限り陰陽術は妖怪にしか効かない」

「なるほど。でもそれが仇となるとは考えていないらしい」

片手を挙げて、白鷺が楓を指した。

「僕の操り人形さん。こいつらを八つ裂きにしろ」

挙げた手を横へと薙ぎ払う。

楓が意思と相反して、術を放った。

「頭が悪いのか?陰陽術は効かないと・・・」

しかし、隆世達を足止めし消耗させるのには効果的だった。間接的にでも、人の命を奪う心配もなく、ただただ精神力と体力を奪っていく。

「頭が悪いのはどちらだろうね?」

クスリと笑う白鷺は大牙とともに完全に高みの見物だ。

だが、

「捕まえた」

妖艶な女の声が響き、狼が吠えた。

「大牙!」

動揺した白鷺の声。

可憐の姿を模した炎の幻影が大牙の尻尾を掴んで、投げ飛ばしたのだった。

「遅い」

『でも、これで責任は果たしましたわ』

可憐の幻影はそう言い残して消えた。

「なるほどね。僕達を引き離す作戦か。予想はしていたけど結構手荒だなあ。伏見山の当主は結界から出ても大丈夫なのかい?」

「あいつは白鬼に借りがある。それを返すだけの話だ。危険だろうと、妖怪を討つのが俺達の役目だ」

伏見山可憐と夏は東山にいる。

二人に加えて楓の三人で大牙の相手をするというのが当初の予定。

だが、大牙を誘導する役の楓がいち早く白鷺の魔の手にかかってしまった。

「隆世、この人の言うこと聞いた方がいいんとちゃう?」

「楓、お前は今・・・」

「違う。母さんは、隅田を滅ぼすつもりや!」

「おい、楓!笑えん冗談やぞ!」

有らぬ濡れ衣に、扇が咆える。が、隆世は内心ギクリとした。

「隆世、母さんは非道な人や。今回の戦闘に参加せえへんのも、アンタに任せきりなんも、自滅を狙ってのことや!隆世も、分かってんねんやろ?」

それは、隆世自身が考えていたこと。

「楓!阿呆なこと言いな!母さんがそんなこと考えるわけないやろ」

「兄貴も騙されてるんや!兄貴がいなくなっても母さんは!」

「やめろ楓!」

楓も思っていたのか。白鷺が植え付けた考えか。それとも――――

「やってくれるじゃねぇか。覗き魔野郎」

低く吼えれば、満面の笑みの白鷺が目を細めていた。

心を支配されはしなかったものの、隆世の思考を利用された。そのことに心底腹が立ち、一気に片をつける決心がついた。

「我が名は隆世――――賀茂の血を受け継ぐ者なり。血の盟約を交わせし者よ、深い眠りから目覚めよ。我を守り、我が敵を打ち破れ」

着物の袖から小箱を取り出し、封を切った。

「ほう?」

白鷺の顔から笑みが消える。

封印が解かれ現れたのは、人とほとんど変わらない異業者だった。

「私を呼んだのはお前か?」

きっちりと結ばれた髷に肩衣半袴という出で立ち。江戸時代の侍を思い起こさせるような姿。

「そうだ」

隆世はその切れ長の目を見据え、拳を握った。その緊張は、呆れたような目と溜め息で一気に解けた。

「また、弱そうな当主だな」

賀茂がその昔、封印し、使役したという妖は、不遜な態度を隠しもせずにそう言った。

「俺は!」

「黙れ、小僧。お前の先祖がどう吹聴したかは知らんが・・・ああ、つい先日もあの馬の子に説明したばかりと言うに!」

苛立ったように頭を掻きむしり、まだ名も知らぬ妖は敵を見据えた。

「まあ、いい。私の名は山本五郎左衛門。間違っても賀茂の式神ではない。そして、貴様に恨みはない。が、死んでもらおう」

疾風が駆けた。

何が何だか分からないまま、白鷺と山本五郎左衛門の戦いは始まった。

「おい、隆世!どういうことや!」

「俺に聞かれても困る」

「お前の式神やろが!」

とは言ったものの、箱に書かれていたのはほんの一言。

『いざという時は使え』

それだけだった。

「ねえ、五郎左衛門君。君のことはよく知ってるよ。神野悪五郎から聞いてる。前にインドであったけどさ、今の世の中素直に驚いてくれる人間が少なくて苦労してるみたいだよ〜」

「奴の名前を出すな。もう賭けはとっくの昔に終わっている」

「でも、君の帰りをずっと待ってるみたいだったよ」

一瞬、五郎左衛門の動きが鈍った。

避ける一方だった白鷺が反撃に出る。刀を抜き、身を屈め、一閃を放った。

「五郎左衛門!」

「騒ぐな。童が。これぐらい何てこと・・・」

だが、傷口から滴る血は止まる気配がなかった。

「馬鹿だねぇ。妖刀緋月。僕の刀は江戸時代に名を馳せた刀匠、藤宮鉄観が打った大業物だよ」

「藤宮鉄観?誰や」

扇の問いにそれこそ「馬鹿か」と隆世は怒鳴った。

「藤宮と言えば土御門家御用達の刀匠だ。しかも鉄観は妖怪殺しの業物を生涯で何百本も作ったっていう名刀匠だ」

そう。

陰陽家御用達の――――

「はは。鉄観を紹介してくれたのは土御門久脩。緋月は鉄観が僕のために打ってくれた刀だ。何でって。それは、僕が妖怪殺しの妖怪だからだよ」

白鬼の特徴を一切受け継いでいない白鷺が白鬼の特性を語る。己もそうだと宣う。

「妖怪殺しの妖怪!?賀茂の小僧!白鬼が相手だなんて聞いてないぞ!」

五郎左衛門が顔を青くして隆世に詰め寄った。五郎左衛門の目には畏怖と羨望の入り混じった色が浮かんでいた。

「白鬼じゃない。白鬼は滅んだ」

隆世は落ち着かせるためにそう言うしかなかった。が、厄介だ。五郎左衛門は白鬼と面識があるのだろうか。

「滅んだ・・・そう、だな。私が知っている白鬼は――――」

敵はほんの僅かな休息も与えてくれないようで、すかさず剣撃を加えてくる。扇が一の扇を振るい払い除け、その隙に隆世は止血の呪文を唱えて五郎左衛門の傷口を塞いだ。

「賀茂の小僧、本当に奴は白鬼ではないのか?」

「あんな真っ黒な白鬼がいると思うのか?」

隆世は舌打ちをしながら誤魔化した。白鬼の血が流れていると知れば、五郎左衛門の士気に作用するかもしれない。

「だが、あまりにも似ている」

「はあ?誰に?」

「隆世、構えろ!」

疾風が駆け抜ける。あと一歩遅ければ体が切り刻まれていた。扇の技が軌道を逸れてこちらに向かってきたのだ。

「楓・・・」

厄介なことはもう一つあった。

未だ楓は正気に戻っていない。

「楓、いい加減にせえよ!隆世のこと殺す気か!?」

「だって、兄さんが白鬼を攻撃するから」

しかも洗脳の具合が悪化している。

「やはり、白鬼なのではないか!」

五郎左衛門も喚き出す始末だ。

「五郎左衛門、あれを白鬼だと思うな。白鬼が人に攻撃するか?お前の知ってる白鬼の血縁者なのだとしても、あいつは人の敵なんだよ」

「だが、賀茂の小僧」

「賀茂の小僧じゃねぇよ!俺の名は隅田隆世。俺を弱いと宣ったお前よりはずっと強い自信がある!」

「怒ってんのか?」

隆世の気迫にやっと大人しくなった五郎左衛門が遠慮がちに聞く。

「ああ、怒ってるよ。こんな役立たずを封印して、いざという時は使えなんてご立派なことほざいてやがる先祖達にな!」

五郎左衛門は何か言いたげだったが、やっと眼前の敵と向き合う決心がついたようだった。

「参る!」

五郎左衛門が地を蹴り、刀を抜いた。

「おっと」

第一撃を刀で受け流した白鷺が身を翻して五郎左衛門の足を狙う。

だが、五郎左衛門は大きく跳躍してそれを躱し横殴りに刀を下ろす。

「君みたいに感覚のまま刀を振るう奴が一番やりにくいねぇ。何も考えてないから心を読んでも無駄だからさ」

剣捌きは互角だった。

いや、

「喋る暇があるならもっと脇を締めて刀を握れ。でなければ――――」

白鷺が右腕を斬られ刀を落とした。

「・・・斬り合い甲斐のない童だ」

「さすが。江戸にいた頃手合わせしたいなと思ってたんだよなぁ」

「それは光栄だが、何度挑もうと剣術では私に敵うまい・・・これで終いだ」

五郎左衛門の刀の切っ先が空に向いた。その時――――

「待て、五郎左衛門!」

扇が羽交い締めして止めていた楓が飛び出したのだ。

「白鬼を殺してはダメ!同じ過ちを繰り返すの!?」

楓の札が宙を舞う。風が緋月を浚い、白鷺の手に戻った。

「ありがと。人形ちゃん」

「ぐわっ!」

横一線に血飛沫が飛ぶ。

「勝ちを確信するには早すぎたね。不意打ちでは僕に敵わないんじゃないかなー、なんて。もうお休み。君が人間のために戦う義理なんてないんだからさ」

五郎左衛門が斬られた。妖刀による傷は相当深く、血も止まらない。これでは立ち上がることもままならないだろう。

「さあ、次は君の番だ」

「土蜘蛛!」

巨大な蜘蛛で白鷺の行く手を阻むも、呆気なく突破される。扇は錯乱する楓を白鷺に近づけないようにするので手いっぱいだ。

何重にも張った結界でどこまで時間が稼げるか・・・

白鷺の剣戟が隆世が作り出す式神と結界を張る速度を上回った。

「残り一枚。急拵えの結界なんて」

白鷺が最後の結界を破る。

「っ!」

刀の切っ先は確かに隆世の喉を狙っていた。しかし、刀が貫いたのは五郎左衛門の胸だった。

「あれれ。何で動けたの?君だって僕に思考を誘導されていたはずなのに。もうお休みって言ったよね?」

「はは。思考を誘導?貴様の能力は『影』によるものだな?大したものだ。だがな、私の知っている白鬼の思考誘導はこんなものではなかったぞ。まあ、単に口が上手かっただけかもしれぬがな。貴様の父か祖父の話よ。一度でもあの方と対峙すれば、貴様のような小賢しい技など通用せぬわ!」

五郎左衛門は胸を貫く刀を素手で握りしめ、白鷺の動きを止めた。

ただの式神だと思って見縊っていたのは自分の方かもしれないと、隆世は思った。

「感謝する」

時間稼ぎは十分だった。

何かを感じ取った白鷺が刀を手放し、後方へ大きく飛んだ。しかし、それさえも計算通り。

「門を開き給え。道を繋ぎ給え。土に座し、京の地にて神を奉る」

鳥居形が光り始める。鳥居は神域のへの入り口だ。そこに立つ者は神への供物として光に焼かれ、常世へと導かれる。

隆世がここを決戦の地に決めた理由はまさにこの術の為だった。

「鳥居を描くのは骨が折れるし、何より不自然で怪しまれるからな」

「はっ。これはこれは・・・」

全力で鳥居形の結界から逃れようと辺り一面に黒い影を放つが、光に飲まれて消えていく。光は天高く伸びており、横切ろうとすれば忽ち焼かれてしまうだろう。

白鷺に焦りの表情が見えた。

「滅せよ」

「人間如きがああぁぁぁ!」

やがて光は白鷺の声も体も全て飲み込み、消えた。

「終わったんか。隆世」

扇がふらつく楓を抱えながら近寄ってきた。

「ごめん・・・」

白鷺が死に、正気を取り戻したようだ。

「お前が無事ならそれでいい」

途端に顔を赤らめた楓が「阿呆」と小さな声で呟く。

「はいはい、こっちまで恥ずかしくなるからそこまでにしとき。で、五郎左衛門は大丈夫なんか?一番の功労者やろ」

扇が隆世の足元に横たわる五郎左衛門を抱え起こす。

「冷たい男やなぁ。お前の式神やろが。労ってやれよ――――って」

正直、限界を超えていた。

隆世はその場に崩れ折れ、一切体を動かせる気がしなかった。

「隆世!」

楓に支えられて、やっと上体を起こしていられる。

「無理もない」

「って、オッサン生きとったんかいな!」

五郎左衛門が、横目で隆世を見る。

傷は深そうだが、まだ常世に行くには早いようだ。

「良い時間稼ぎだった。礼を言う」

「減らず口を。これだから賀茂は放っておけぬのだ」

「ああ?俺は弱くねぇぞ」

「大体そう言う。ああ、でも。馬の子は己の弱さを自覚していたな・・・あれからそんなに時は立っていないはずだが、馬の子はどうしている?」

馬の子――――

思い当たる人物は一人しかいなかった。

「お前の言う馬の子ってのが、隅田隆馬のことだとすれば、死んだよ。七年前にな」

五郎左衛門は瞳を閉じた。何を思い出しているのだろうか。その目尻から流れ落ちる滴を見ながらありし日の父を隆世も思い起こしていた。

「隆世!」

突如、五郎左衛門が目を見開いて叫んだ。

無理に起き上がろうとするのを扇が止めている。

五郎左衛門が見据える先にいたのは――――

「そんなっ!」

楓が絶句する。

「神の光に焼かれるだって?笑わせるなよ、人間風情が」

焼け焦げた無残な姿だが、白鷺に致命傷はなかった。

「そんな馬鹿な!化け物か!?」

「化け物は俺じゃない。こいつだ」

白鷺は足元に転がる何かを蹴飛ばした。

骨に僅かな肉がついただけのそれは、少しずつ元の姿を取り戻しつつあった。

眼球が再生され始めたところでやっとそれが隼であることに気づく。

つまり、白鷺は寸でのところで隼に庇われ死を免れたということらしい。

「さあ、これでお互いの盾はなくなった。どうする、陰陽師。俺の影は健在だぞ」

確かに、空は未だ晴れない。雲ではない黒い何かが空を支配している。

「隆世、逃げろ。紛いなりにもあの方の血を受け継ぐ者だ」

五郎左衛門が刀を杖にしながら立ち上がった。

「無理するな!正直お前には時間稼ぎ以外に何も求めていないんだよ!」

「妖怪を蔑み、憎んでいるくせに、妖怪に懐かれる。難儀な性分よの。賀茂は」

「何の話だ、おい!」

僅かな気力で五郎左衛門は白鷺に挑んだ。白鷺も負傷しているが、力の差は歴然だった。

事もなげに五郎左衛門を斬り伏せ、隆世に向かってくる。

「兄貴、うちらで何とかするしかない!」

「あかん!楓は下がっとき!」

その判断は正しいが、扇一人で何とかなる状況でもない。

案の定、全ての技を薙ぎ払われ、間合いを詰められ吹き飛ばされた。

「兄貴!」

「大丈夫だ。今のは峯打ちだ」

寸でで持ち方を変えたのを隆世は見逃さなかった。

白鷺の口元から血の筋が流れる。内臓をやられたわけでもないのにダメージを受けている。やはり、奴は――――

「お前を白鬼だと認めるぜ。だが、どうする?お前に俺は斬れない。俺を斬ったら流を仕留められないからな。もしもの時はそこの従者に頼んでるらしいが、後で扇が確実に封印する。従者が完全に再生するまで時間稼ぎするか?」

「その必要はない」

白鷺が口元の血を拭い、一気に距離を縮めた。

隆世の体は一向に言うことを聞かない。

起点としてずっと一箇所に立ち、白鷺に気取られないよう鳥居形に霊力を注いでいたのだ。

そして、術の発動と同時に全ての霊力を使い切った。正直、意識を保てているのも不思議なくらいだ。

「隆世」

楓がギュッと強く隆世の肩を抱く。

楓の術は兄弟の中で一番不安定で威力も弱い。そして『影』につけ込まれるぐらいに意志も弱い。楓一人で隆世を守ることはまず不可能。

「万事休す、か・・・」

最後の力を振り絞り、楓を突き飛ばす。

「隆世!」

切っ先が喉に触れた。が――――

「神に畏み畏み申す」

凛としたその声にハッとし、白鷺の手が止まったのも無理はない。

誰が予想しただろうか。

隆世も白鷺も目の前のことに必死で、全く気づかなかった。

「百花ちゃん・・・?」

戦力外だと思っていたのは隆世だけではない。敵も同じだ。無駄な殺生ができないからこそ、力のない者は捨て置いた。茂みに隠れて息を潜めていたとばかり思っていた妹は、錯乱状態の楓がばら撒いた札を北から南にかけて四点配置し陣を描いていた。五芒星だ。 最後の一点は――――

「お兄様、術の発動は貴方にしかできません」

「小娘、此奴は既に霊力を使い果たしているぞ」

「ええ。だから、神に祈るのです。畏み畏み畏み申す、と」

百花が爪で腕を引っ掻き、血を垂らした。

「何を」

白鷺の意識が完全に百花に向いた。切っ先はまだ喉に当てがわれている。僅かに切れた皮膚から血が流れ出る。

「まさか!」

白鷺が察して刀を動かす。だが、既にそこに隆世の首はなかった。

「神に再び畏み畏み申す。門を開き、道を繋ぎ給え!」

喉に浮かんだ血を親指で掬い、地面に押しつけた。

血と血が繋がる。

百花の霊力が流れ込む。自分と同等量の霊力――――橘家出身の母を思い起こさせた。

五芒星の結界が発動する。白鷺が陣の中心へと弾かれた。奇しくもそこは鳥居の――――神の通り道のど真ん中だった。

しかし、

「させるか!」

白鷺が影を出して札の一枚を覆い隠す。光の通り道が塞がれ、陣が崩れ始めた。頼りになる扇はまだ目を覚ましていない。このままでは――――

「うちのこと忘れてへんか?」

「楓!」

破れた札の代わりに楓が立った。

「うちは不器用で術もうまない。でも、百花ちゃんみたく、力を分け与えることはできる!」

楓が親指を噛み、血を落とす。

ドッと。

血が沸騰するのを感じた。

百花と同等、いやそれ以上の霊力が注ぎ込まれる。

「楓、お前・・・」

「うちの霊力なんか微々たるもんかもしれへんけど、少しでも隆世の力になりたい!」

その想いの強さがこれほどまでの力を生み出していると言うのだろうか。

否――――だが、脳が警鐘を鳴らす。これ以上は踏み込むなと、誰かが――――この光景を見下ろす何かが――――

「京の地にて彼の者の魂を捧げ奉る」

隆世は頭を押さえながら、最後の祝詞を唱えた。

これで本当に終わりだ、と・・・そう思ったその時――――

激しい雷鳴が耳を貫くと同時に天から雷が落ちた。

一瞬で陣は壊れ、神の通り道は塞がった。

「何、だ!?」

灰色の煙が立ち込める。電気がまだビリビリと迸っていた。

「白鷺を苛める奴は俺が許さん」

白銀の大きな獣の耳と尾。

黄金の瞳には電流が流れ火花が散っており、白鬼のそれとは似て非なるものだった。

「大牙か・・・」

その時、ドサっと大牙が放り投げた二つの影が可憐と夏であることに気がついた。外傷はないが完全に意識を失っている。

代わりに隼が意識を取り戻した。まだ半身は火傷で酷い有様だが、立ち上がるまでに回復したらしい。

「とんだ化け物集団だな」

「はは。それに僕も入ってるのかい?だとしたら光栄だよ」

大牙の肩を借りて立つ白鷺は満身創痍だった。

「その二人を手名付けてる時点でお前が一番の化け物だろうが」

一歩また一歩と白鷺が近づいてくる。

「下がっとれ」

札を構えた隆世の前に五郎左衛門が立ち塞がった。

「お前、生きてたのか!?」

「賀茂の血が途絶えぬ限り私は黄泉には行けぬ。そういう契約なのだ。それより、霊力は残っているか?今は貴様から力を分け与えられている身。この窮地を切り抜けられるかどうかは貴様の力次第だぞ」

百花と楓から貰った霊力はまだある。しかし、

「お前に全てを賭けるには、ちょっと・・・な」

隆世は思案した。

「言うてる場合か!?」

五郎左衛門が吠える。

「どうしようと無駄な足掻きだよ。隼はほぼ不死身だし、大牙は雷神の息子だ。神格を剥奪されているとはいえ、神通力は神と同等。僕らを少し舐めていたようだね。どうする、陰陽師。さっさと神咲流の居場所を教えた方が身の為だぞ。女共の命運はお前次第だ。お前も劣等種とはいえ、男だろう?女のためにも腹を決めろ」

隆世はゆっくりと顔を上げ、三人の敵を見据えた。

「女共、か。教えといてやるが、内二人は女じゃない。それに女だからって男に決断を委ねる必要はないし、守られるばかりじゃねぇ。そうだろ?」

楓と百花が五郎左衛門の横に立った。そして意識を取り戻した扇が、可憐が、夏が身を起こす。

「俺だけじゃない。ここにいる者は、皆等しく陰陽師だ。舐めてんのはそっちの方だろ。陰陽京総会、秘術三色――――風姿炎土!」

隆世の放った札が舞う。

皆が一斉に印を結んだ。

竜巻が砂塵と炎を纏って、三人を襲う。

雷が大地に降り注ぐが、隆世の張った結界内に入り込むことはない。百花と楓が隆世に霊力を送り続けているのだ。強固な結界を創り出すことは造作もなかった。

「これは、一時退却、かな。行くよ」

白鷺に首を掴まれた大牙は瞬時に狼の姿に変化し、白鷺と隼を乗せると、空高く飛び去った。

「追いかけます?」

可憐が手に火の玉を乗せながら隆世に問うた。大牙にやられたのが悔しいのだろう。珍しく憤っているのが分かる。

「いや、悔しいが俺達も限界だ。体勢を立て直した方が良い」

可憐は隆世の言葉に拳を握り締め、炎を消した。

「それにしたって、これからどうするんや。さっきの連携技で結構な体力消費してしもたで」

扇の最もな意見に皆が消沈する。

「体力の面で人間が妖怪に勝てないのは分かりきっている。けど、あいつらが本気で人間を殺せないのはよく分かっただろ。はっきり言って、大牙一人でこの場の全員殺されててもおかしくなかった。可憐、夏。手加減されたんだろ?」

話を振られた二人が苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。

「大牙も隼も白鷺が死ぬことを望んでねぇんだ。直接白鷺が手を下さなくても、命じて殺せばどうなるか分からない・・・これは初めから茶番なんだよ。白鷺の存在が二人のストッパーになっている。大牙と隼が俺達を殺せないのと同じくらいに、俺達は白鷺を殺すことはできない」

その考えに思い至り、この戦いの結末を想像した。

認めたくないが、認めざるを得ない。

この争いは――――



*        *         *



閉ざされた部屋で淡々と生活を送った。水道も電気も通っているので何不自由はなく、時計はなくても太陽の光で大体の時間の感覚も分かった。

カーテンと部屋の隙間に結界が張られているので外の様子は見られないが、バイク便の音や人が歩く気配は分かる。試しに人が通った時に「火事だー!」と大声を上げてみたが、無反応だったので中の音は外に漏れ出ない仕様なのだろう。もしかしたら、不審者扱いされ無視されたただけなのかもしれないが。

物理的にも、陰陽術でも、有りとあらゆる手を尽くしたが、無名の結界は流の力でどうこうできる代物ではなかった。

カーテンの僅かな隙間から街灯の明かりが部屋に入る。月が出ているのかいないのかも分からないが、監禁されてから丸七日。今夜が十五夜であることは分かっていた。

月が出ていようが出ていまいが、玉無家の月見は毎年賑やかだ。

楓と優衣が近所にも配れるぐらい月見団子を作り、扇がそのほとんどを摘み食いする。今年は叶わなかった光景がふと目に浮かび、涙腺が緩んだ。

こんなことがなければ――――

トントン、と。

戸を叩く音が聞こえたのはそんな物思いに耽っている時だった。

人が住んでいるのは一階だけで、二階には誰も住んでいない。当然隣の部屋に訪ねてくる者がいるはずもなく、叩かれている戸はまさに今流がいるこの部屋の扉ということになる。となれば、その来訪者は必然的に玉零か隼か、もしくは流に用のある人物――――または妖怪。

トントン。

ドンドンドンドン。

戸を叩く音は段々強くなっていった。

しかし、結界に囲まれている流に戸を開ける術はないし、声をかけたところで届きはしないだろう。

その時――――

バギーン!と、凄まじい音がして玄関の扉が壊された。

「見つけた」

結界は壊されていない。だが、扉が消え去ったことで流にはその客人の姿をはっきりと捉えることができた。

「優衣さん・・・」

病院服を着たままの玉無優衣が、大槌を肩に担ぎ立っていた。

「それにしても凄い結界やなぁ。びくともせえへんやんか・・・流君、いるんやろ!」

優衣が結界に左手を当て、問いかける。

「優衣さん!」

だが、案の定声は届いていない。

「流君!・・・中はどうなってんのよ」

「優衣さん!俺はここだ!」

優衣の手に重ねるように流は左手を出した。

優衣と、目が合った。

「流君・・・」

恥ずかしさに頬を染めた優衣の顔がすぐ側にある。吐息さえ感じられるほどの距離感に思わず手を離しかけたが「待って」の声で踏み留まった。

「優衣さん、俺の声が聞こえますか?」

「聞こえるで。流君の姿も見える」

どういう仕組みかは分からないが、結界越しに手を触れ合っていれば、流の存在が外にいる人間にも分かるようだった。

「優衣さん、今どうなってるんですか?兄貴は?扇さんは!?」

「待って。私かてさっき病院抜け出してきたところや。でも、もう戦いは始まってるみたいやな・・・」

眉を顰めて優衣は口篭る。

「戦局は?」

思わしくないのだろうか。恐らく優衣は陰陽の流れが見えている。その場にいてなくてもどちらに流れが来ているのか分かるはずだ。

流の問いに優衣は重い口を開いた。

「どっちが優勢なんてのはないよ。そもそも、白鬼の血が流れている白鷺に人は殺せない。それどころか傷つけることすら難しい」

「でも優衣さんは」

「せや。でもそれは、本意じゃない。彼にとっても誤算よ。人を傷つけたという傷がどれだけの時間で回復するのかは知らんけど、白鷺の意思とは関係なく罪悪に苛まれているはずや。そんな状態で躊躇無く人を攻撃できるはずがない。大牙と隼も白鷺の命が削られるのを知ってて、人間を殺すことなんて不可能や。はっきり言って、隆世さんらにとって有意すぎる条件なんよ」

だったら、

「兄貴は殺すだろうな・・・」

元凶を打てば全てが終わる。

それに人ではない兄が死んだところで玉零の寿命に変化はないだろう。玉零のためにもそれが最善なのかもしれない。

「そうやな。隆世さんはこの機を逃さんやろうな。賀茂に戻るのが悲願なんやから。少しでも京の地で実績を積んどきたいはずや」

「でも」と、優衣は続ける。

「白鷺が死んだらどうなると思う?」

一番の敵が白鷺だと思っていることの落とし穴。もしもの時は代わりに討てと命じられた従者に血よりも深い絆で結ばれた義兄弟である大牙。

「隼と大牙は躊躇なく報復ができる・・・」

「その通りや。大牙なんて、神の子なんやろ?それこそ敵うわけないで」

大牙が神の子だと誰から聞いたのだろう。優衣は眠り続けていた割に的確に状況を分析し、判断していた。

「誰も人を殺せないし、誰も白鷺を滅せられん。こっちには封印って手もあるけど、三人纏めて封印するとか、命の代償無しにできるもんやないで」

これは茶番だと、優衣は呟いた。

「初めから分かりきってることや。隆世さんは甘く見過ぎたと思うで。これは隅田が力を示してどうこうっていうもんやない。これは・・・」

優衣は俯いて何かを考えているようだった。

「優衣さんはどうすれば良いか分かってるんですね」

流が問えば「流君も分かってるんやろ?」と返ってきた。

そうだ。

初めから分かっていた。

これは、神咲流ただ一人の命を賭けた戦いだってことは。

「俺が何とかするしかないんですよね」

真っすぐに見つめれば、優衣は悲しそうな笑みを見せた。

「流君が出ていかな終わらんし、何も始まらん。全部、賭けるしかないのよ。三人の関係性に。白鷺が貴方を殺せなくて、大牙も隼も白鷺が死ぬと分かってて代わりに殺すことなんかできない・・・そういう結末に」

関西弁でない最後の言葉は明かに優衣の言葉ではなかった。

「そこにいるのか?」

優衣から目を逸らし、辺りを見回す。優衣がそっと手を離すと同時に別の誰かの手が重なった。

「シロオニ・・・」

白い髪。白い角。黄金の瞳。白地に桜の花弁が散ったいつもの着物。一週間振りに会う白の鬼は真摯に流を見据えていた。

「優衣は私が連れてきたの。彼女が一番大局を見ているから。蚊帳の外にはできないわ。もちろん貴方もよ。一番中心にいるはずの貴方が、こんなところに閉じ込められていていいはずがない」

玉零の左手が流の髪を撫でるような仕草をした。

「でも、安心して。貴方には白翡翠の勾玉がある。誰も手出しはできない。兄上が諦めてくれさえすれば、この茶番も終わりよ。こんなのは、八つ当たりでしかないんだから」

肌に触れる勾玉がじんわりと熱を帯びたような気がした。

「シロオニは初めからそのつもりだったんだな。だから生家に」

「ええ。目的は白翡翠の勾玉だった。父上の説得は失敗に終わったと貴方は思っていたかもしれないけど、父上が勾玉を貴方に託した時点で大成功だったのよ」

「それも奇跡に近いけどね」と玉零は呟く。

白鷺が欲しがった当主の証。

隼に斬られた傷を一夜で治す霊具。

「なあ、白翡翠って何なんだ?」

希少価値の高いものであることは理解できるが、どうもその力の根源が何なのか気になって仕方なかった。伏見山の鎮魂祭で使用した神器のように、霊力を注ぎ込んだものなのか・・・それともそれ自身に力が宿っているのか・・・

「陰陽師、時間がないわ」

しかし、その問いに玉零が答えることはなかった。

「行きましょう」

結界が静かに解かれた。

優衣と無名の姿が目に入る。

遮るものが何もなくなり、玉零は流の手を強く握り締めた。

気恥ずかしいのに玉零は振り払う暇も与えてくれない。そのまま慌しくアパートの階段を降り、自然と離れた手に握り締められていたのは弓だった。

「優衣に持ってきてもらったの」

玉零に押し付けられた弓をまじまじと見つめる。

「これは・・・」

中学二年の夏まで弓道部で使っていたものだ。

もう使うこともないと思い、確かに捨てたはずだった。

「残しておいたんよ。流君の弓道・・・好きやったから」

か細く泣くような声で優衣は言う。「余計なことしてごめん」と俯いた優衣に流は自分の着ていた学生服の上着をかけて礼を言った。

「流君・・・」

「そんな格好じゃ冷えますよ」

部活は弓道が嫌になって辞めたのではない。弓道は好きだ。伏見山の狐を祓うために数年振りに弓に触れた時、改めて確信した。

自分は、弓を続けるべきなんだと。

「陰陽師」

凛とした声が流を呼ぶ。

玉零の傍にいるには尚のこと、流には弓矢が必要だ。

「晴らせば良いのか?あの空を」

星も月も覆い隠す暗い空を見つめながら、流は聞いた。

蠢く靄は生きているように京都の空を漂っていた。陰陽の流れではない。あれは、白鷺の『影』だ。

「ええ。月は必ず私達の味方になってくれるはずよ。無名、お願い」

隆世に頼まれ流を監禁していたはずの無名は呆気ないぐらい玉零の言葉に忠実だった。

無名の呪文で三人の体がふわりと宙に浮く。

「どこに行くんだよ」

「一番霊力の高まる場所へ」

「それって・・・」

「京都御所や」

優衣の回答に反応する間もなく、流達の体は空高く弾き飛ばされた。

京の中心。

その昔、帝がおわしたその場所へ。

「吐くなよ」

無名の警告に慌てて口を押さえた。

無名は霊体だから平気なのだろうが、生身の体には堪える。無名の人差し指がクイッと御所の方角を示したかと思えば、驚くべきスピードで玉零のアパートを後にした。



*        *         *



「一歩遅かったか・・・」

玉零と隼が住んでいたアパートの前で扉の破壊された一室を見上げながら、白鷺は呟いた。

「白鷺様・・・申し訳ございません」

見た目には全回復した隼が頭を垂れる。骨からどうしてここまで再生できるのか薄気味悪く思いながら、そのしぶとさを白鷺は重宝していた。

「お前のせいじゃないよ。あいつらの相手せずにもっと早くここに来れば良かったんだ。そういう意味で言うなら、大牙。お前の登場が遅すぎたかな」

白鷺に睨まれた大牙が肩を竦める。

「でも、飛んでった方向分かるし、今から追いかければ問題ないだろ?それに、白翡翠の勾玉はもうあいつの手にあるから正直手遅れっていうか・・・」

「申し訳ございません!」

隼が地に手をつき、より一層頭を下げる。

「良い盾になったんだ。それで不問にする」

それに、白翡翠の勾玉の加護がなくてもきっと奴を殺すことはできない。

「茶番だな」

白鷺はふっと笑い、御所の方角を見た。

きっと誰もがそう思っている。

分かっていて付き合わされている。

実に滑稽だ。

人も妖も神も――――感謝したいぐらいに踊ってくれる。

否、踊らされているのは己の方か。

「で、引き際はどうすんだよ」

大牙に問われ、白鷺は逡巡した。

「とりあえず今夜は玉零と婚儀を挙げろ。招待状は届けたんだろ?」

隼を見やれば、土下座をしたままコクリと頷いた。

「来ると思うかい?」

隼の顎を掴み無理やり立たせて目を見れば、不満そうな色が滲み出ていた。

「懲りない男だ」

玉零のどこにそんな魅力があるのか分からない。無知で無力な妹。ただ、白鬼の血を濃く受け継いだだけの紛い物。

「隼、もう飛べるだろ。玉零を連れてこい。俺は大牙と先に御所へ向かう」

「御意」

従者は無表情を取り繕って屋敷に飛んだ。

「大牙、お前も新郎の衣装に着替えろ。盛大に祝ってやる」

可愛いくもないのに尻尾を振ってにぱあと笑う友に心底呆れながら、白鷺は空を見上げた。

黒い靄が京都の空を覆っている。京の人々はせっかくの月見が台無しだと嘆いているだろうか。

鬼一匹の嘆きなど、百万の人の嘆きに飲み込まれて消えてしまうことだろう。

それでも、

「酒でも飲むかねぇ」

嘆かざるを得ない。

母の死が齎した悲劇は。遡ってでも、どこかで、何かで、けじめをつけなければならないのだ。

例え己の命を犠牲にしようとも。


全ては、悲願のため――――



*        *         *



陰陽の流れが見えるなら、皆ここに集まるだろうと思っていた。

案の定、京都御所にて一堂が介した。

「おい、無名!約束が違うぞ!」

無名に突っかかる隆世を百花が宥める。

「何で百花がいるんだよ、兄貴」

「それより、何で優衣がいるん!?」

全員集合にもほどがある。皆が皆、その顔触れに驚きを隠せないようだった。

「楓お姉ちゃん、こっちにはこっちの事情があんの」

「流兄様、これには事情がありまして」

優衣と楓の台詞が被った。

何故だか不穏な空気が流れる。

「しょうもない内輪揉めは止めてくれ。ここは祝いの場だよ?」

白鷺がポンと手を鳴らし、ざわめきを静めた。

何食わぬ顔でこの場を取り仕切り出した白鷺は「さあ、新郎新婦の登場だ」と言って大仰に両手を広げる。

隆世達とどのような戦いを繰り広げたのかは知らないが、白鷺の着物は随分と焼け焦げていた。隼にいたってはボロ雑巾の如き風体だ。腰の布が僅かに残っているのが奇跡なぐらいに。

「ほら、みんな拍手で出迎えて!」

教師のような顔で場を盛り上げようとする白鷺に、それこそ何の茶番だよと突っ込みたいのを抑えて様子を窺った。すると、白鷺だけの拍手喝采の中、清涼殿から色めきだった大牙と暗い表情の玉零が現れた。

本物の玉零が見守る中で。

「って、あれ!?玉零がそっちにもいる!!」

アホそうな大牙の声に溜め息しか出ない。

「一応説明します?」

可憐の申し出に隆世は「止めとけ」と頭を抱えた。

「一体、どうなって・・・」

隼も今まで気づかなかったのか、流の横に立つ玉零を見つけて固まっている。

そんな中、一早く本物の玉零の存在に気づいていたらしい白鷺だけが高笑いをして天を仰ぎ見た。今まで分かっていて、演じていたらしい。

「凄いよ!気づかなかった!いや、ここに来た時には気付いてたけどね。一体、いつすげ替えたんだい?まさか、初めからじゃないだろう?あれだけ血が出てたんだからさぁ!誰が・・・って、それは分かりきってるか。そこの陰陽師の亡霊!やってくれるじゃないか!」

心底楽しそうに腹を抱えて白鷺は笑う。その様は狂っているとしか言いようがない。涙を浮かべて笑い転げる。何がおかしくて、何が悲しくて、その滴を浮かべているのかと聞きたくなる。

「白鷺!どういうことだよ、こっちは偽物なのか?」

信じられないという様子でまじまじと傍らの玉零を見ていた大牙の目の前で、即座に白鷺が抜刀した。その勢いで隆世が作った玉零の首が落ちる。

「ひいっ!」

小さな悲鳴を漏らした大牙を睨みつけ、白鷺は「お前の愛も口程にもないってことだ」と刀を鞘に収めた。白無垢の着物だけが残り、 式神は土に還った。

「おい、見抜けなかったんだろ?そっちが本物だったらどうしてたんだよ」

「黙れ、神咲」

流の不満の声は冷徹な声に掻き消された。

白鷺はもう笑っていなかった。

近くで玉零が「今よ」と囁く。

何かを感じ取った隼と大牙が動くよりも速く、白鷺が地を蹴った。

「陣!」

流と優衣を除く陰陽師が五人、一斉に印を結んだ。流は手筈通り矢尻に札をつけた矢を空目掛けて放つ。優衣が呪文を唱え勢いが増した。天に向かう一筋の気流がずっと空を覆っていた靄を吹き飛ばす。と同時に流達を守る結界が張られた。

白鷺の剣は結界に届くことはなかった。ただ一人飛び出した玉零が腰の刀で受け止めたからだ。

「兄上、どうしても陰陽師を殺さなければなりませんか?」

金属同士が擦れる高い音が耳をつんざく。

月明かりに照らされる中、二人の白い鬼が対峙する。

そう二人の――――

「あれはまぎれもなく白鬼。やはりあの方の血を引いているようだな」

横から聞いたことのない渋い声がして振り向けば、知らない男が立っていた。

「誰だよ、お前」

誰も何も言わないが、侍風の出で立ちをしたその男は明らかに異様だった。

「私を知らぬのか?名を聞けば分かろう。山本五郎左衛門だ」

「知らねぇよ!」

流の突っ込みに隆世が「賀茂家の式神だ」と説明する。

皆、それどころではないらしい。目はただ一点、白鷺に注がれていた。

月光が当たったところだけ白く輝く髪に、月明かりをそのまま宿したかのような黄金の瞳。角こそないが、まさしく白鬼の相貌。

「五郎左衛門、さっきも言ってたが『あの方』ってのはあいつの祖父のことか?父親は『影』らしいからな。白鬼の生き残りで自らを『白鬼』と名乗ってたとかいう・・・」

隆世の問いに五郎左衛門は首を傾げた。

「『白鬼』?いや、私の知っているあの方の名前は『芦屋道満』だ」

「芦屋道満!?」

扇と楓と夏が声を揃えて聞き返した。つくづく兄妹だなと思う。

唯一冷静だった優衣が「芦屋道満は白鬼だったってこと?」と聞く。

「そうだ。あの方は白鬼でありながら芦屋道満として陰陽寮にも務めていた。どちらの姿であってもそれはもう凄まじい力で悪い妖怪共をバッタバッタと」

「よく知っているんだな」

流が感心して言えば、五郎左衛門は途端に暗い表情で目を閉じ涙を流し始めた。

ギョッとして隆世を見れば「涙脆いんだ。さっきも泣いてた」と零した。

「いや、短い間の付き合いだった。あの方のことは本当はよく知らぬのだ。ああ、懐かしい。あの方と晴明と道長の小僧も面白い奴だったな。光栄をよくからかって遊んでいたものよ」

「おい、光栄ってのは賀茂光栄のことか?」

先祖の名前を出されて隆世が眉を上げた。賀茂光栄が天文道を独占することになった安倍晴明を敵対視したところから賀茂と安倍の諍いが始まったのだ。全ての始まりに五郎左衛門は立ち会っていたのだと言うのだからそれは凄い。

聞きたいことは山積みだが、一際激しい剣戟に皆の意識は持っていかれた。

二人の剣捌きは目で追えるものではなかった。

「兄上、白鬼だという自覚をお持ち下さい。貴方に陰陽師は殺せません」

「俺を白鬼というか。月光のもとでしか白くない俺が」

「月の明かりは真の姿を映し出すと言います。それが兄上の本質なんですよ。お認め下さい」

「下らん」

白鷺の刀の先が玉零の喉元を掠めた。

「認めるまでもなく俺は俺が白鬼の血に呪われていることを自覚している」

「ならば!」

玉零も負けじと刀を振るう。白鷺の髪が斬れ風に舞って飛んでいった。

「だが、それ以上に痛むのだ!母を失った悲しみが何百年経とうと癒えることはない!何故母上は死なねばならなかったのだ!何故命を捨ててお前を産んだ!何故人間の男なんぞをいつまでも――――!」

風が豪と鳴き、剣戟が止んだ。

「兄上、剣筋に淀みがありますよ」

玉零が一度収めた刀を一気に引き抜くと血飛沫が舞い上がった。

「白鷺!」

大牙が駆け寄って倒れかかる白鷺を支える。

「もう止めろ!お前が命じれば隼は人間を殺すかもしれないが、お前が死ぬと分かっててそんなことさせられるかよ!俺が止めれば隼も手出しできない。初めから無駄なんだよ。人間を殺すなんてことは!それに玉零!お前も酷いじゃないか!そこの女を間違って斬っちゃってどんだけ白鷺が苦しんだと思ってるんだよ!」

大牙が優衣を一瞥してキッと玉零を睨む。

「大牙どきなさい」

「どかない!お前こそ刀仕舞えよ!俺の嫁のくせに俺の言うことが聞けないのか!?」

ワンワンと泣き叫ぶ大牙を黙らせたのは他でもなく白鷺だった。

「喚くな」

「白鷺、大丈夫か?止血しないと!」

「いい。俺はまだ戦える」

刀を地面に突き刺し、白鷺が立ち上がった。助けようとする大牙を払い除け、隼に「連れて行け」と命じる。大牙は渋々後ろへと下がり、成り行きを見守った。

「良い切れ味だな。お前も藤宮に作ってもらったのか?」

「兄上のは鉄観作ですね。孫の鉄犀から聞きました。中でも妖刀緋月は祖父の最高傑作だったと」

「孫か。偉大な祖父を持ってさぞ肩身が狭かっただろうな」

「さあ、それはどうでしょう」

玉零が大きく踏み込み白鷺の肩を斬る。もはや白鷺に玉零の剣を受け止める力は残されていなかった。

「彼は十六でこの世を去った。あまりその名を知られていないのも無理ありません。ですが・・・妖刀三日月。祖父を超えたと謳われた藤宮鉄犀の最後の一刀!」

玉零が足を踏み鳴らして、刀を振りかざす。月光に照らされた刀剣が眩い光を放つ。

「兄上・・・人のためならば心を鬼にして身内を斬る覚悟はできておりますぞ!」

玉零の気迫に白鷺は喉の奥でクツクツと笑い出した。刀を地面に落とし、右手で顔を押さえて天を仰ぎ見る。

「ははは。ああ、月が見ている。白鬼の血が騒ぐ。人を守れと煩いんだ。あの月に手が届くなら、壊してやるのに・・・」

憂いを帯びた月の目が満月を見ている。

届かぬ望みに手を伸ばすかのように左腕を上げる。開いた掌を握り締め、白鷺は膝をついた。

「ねぇ、玉零。疑問に思わなかった?」

玉零に刀を向けられたまま抵抗もせず、白鷺はただ笑っていた。

「さっきまで月を隠していた僕の影は一体どこにいったでしょーか」

ニンマリ嗤う白鷺の目は暗い青の色をしていた。その目に意識が吸い込まれそうになり流は慌てて目を閉じた。

だが、

「俺の本質が白鬼?笑わせる。だったらこの『影』はなんだって言うんだ?」

結界が音を立てて割れた。

「まずいな」

無名が木の枝に飛び移り、流達から距離を取った。

皆の様子がおかしい。

ぶつぶつと何かを呟いて流に詰め寄ってくる。

「クッソ。入り込まれていたのか・・・」

隆世までもが、札を指に挟み流に向けていた。

「兄上!」

玉零が叫ぶ。

「はははははは!その内みーんな、自分の意思で君を殺しに来るよ。隅田の当主は粘ってるみたいだけど。先の戦いで分からないようにちょーとだけ影を入れといたっていうのに凄いね!」

「ふ、ざけるなっ!俺が妖怪に屈するわけ・・・」

「でも、もう君の妹ちゃんは飲み込まれちゃってるよ?夏、彼女に武器を」

夏が言われるがままに懐の短刀を百花に手渡した。

「流兄様。どうして・・・どうして私を・・・!」

百花が刃を向けて襲いかかってきた。

「止めろ、百花!」

短刀を落とすのは簡単だったが、暴れる百花の手を掴んでいる内に背後に恐ろしい気配を感じ取った。

「流君はそっちを選ぶんや」

静かに淡々と大槌が振り落とされる。

百花を突き飛ばして何とか避けたが、こんなのを相手にしていては命がいくらあっても足りない。

狐憑きの呪縛を乗り切った可憐でさえ火の玉を両手に創り出してこちらに近づいてくる。

逃げ道は扇と楓に塞がれた。

「逃げろ、流。術を使え。俺のまじないで陰陽術は効かないようにしている」

「あーそれね。面白くないから解いてもらおうかな。ついでに煩いそこの妖怪も消しちゃってくれない?」

隆世はしまったという顔をして無理やり結ばれた印を切った。

皆の身体を覆っていた薄い膜が弾け、光が霧散する。隆世の術が解けたのだ。五郎左衛門も霊力の供給を断たれたのか、姿が見えなくなった。

その時、首にかけた白翡翠の首飾りがふわりと浮かぶのを感じた。隆世が切った九字の効力も解けたらしい。扇の一の扇で突風が起こり、首飾りが飛びそうになるのを必死で食い止める。玉零がそれを察知して流の元へ駆けつけようとした。が、それを見た白鷺が即座に従者に指示を下す。

「隼、挽回のチャンスだよ」

一の扇の威力に耐えきれなくなり、目を瞑った瞬間、首元の重みが消え去っていた。

「造作もないな」

目を開ければ、隼が跪いて首飾りを白鷺に献上しているところだった。

「隼・・・」

歯噛みして玉零はかつての従者を睨んだ。

流は襲いかかる味方を相手にしつつ、木の上で高みの見物をしている無名を呼んだ。

「シロオニは人間を傷つけられない!こいつら抑えるの手伝えよ!」

「ふむ・・・」

無名は思案顔で流の有様を見下ろしている。

どうやら、助ける気はさらさらないらしい。流は自分でこの危機を脱する他ない。

「兄上が乱心された!大牙、今こそ止めるべき時でしょうが!」

玉零の呼びかけに大牙は消沈した声で「無理だ」と言う。

「状況が変わったのですよ」

口籠る大牙に代わり隼が説明する。

「全ては白翡翠が勝敗を決めるのです。人一人殺しても、白翡翠の力さえあれば生きられる――――そういう仮定なのです」

「仮定でしょう・・・」

「しかし、可能性があるならばそれに賭けるぐらいには大牙殿も白鷺様のお気持ちを汲んでおいでだ」

「私も死ぬわよ」

「そうなのか!?それは嫌だ!」

玉零の言葉に大牙の耳がピクピクと動いた。

「大丈夫だ。寿命は縮んでも今すぐに死ぬわけではない。お前が夫婦生活を謳歌できるぐらいには時間はあるだろうよ」

白鷺は適当なことを言って大牙の動きを封じる。それで動けなくなるのだから大牙という妖怪ほどどうしようもない奴はないだろう。

「兄上、やはり私が介錯した方が良いようですね」

刀を構えた玉零が地を蹴った。

まだ余力があったらしい白鷺が落とした刀を拾い上げて応戦する。

「風・塵・鋭・粉・斬・絶・切―――急々如律令!」

余所見をしている間に扇がとんでもない大技を放ってきた。伏見山の境内を吹き飛ばしたあの技だ。

このままでは京都御所が壊滅すると思い、流は辺り一面を凍らせバリアを張った。竜巻が清涼殿に当たり、風が天へと霧散する。

しかし、その台風並みの風に煽られた玉零が流を気にした隙に『影』に入り込まれてしまった。

「人間を気にするからつけ込まれる。白鬼は弱い生き物だ。這いつくばって俺のすることを黙って見てろ」

白鷺が地面を人差し指で示した瞬間、玉零の身体が沈んだ。玉零は必死に起き上がろうとするが、一度でも『影』に入り込まれればそれを追い出すのは容易ではない。

流は流で手一杯だ。百花が再び短刀を拾い、流に向かって走り出した。と同時に横から優衣の大槌が迫り、可憐の火の玉が降り注ぐ。 とうとう『影』に屈した隆世が巨大な土蜘蛛を形成したところで月明かりが翳ったのを感じた。

折角晴らした空がまた白鷺の影に覆われたのかと天を一瞥する。


違う。


その時、扇の第二撃と楓の技が合わさって流は宙に投げ飛ばされた。小御所の屋根に落ち、強か腰を打つ。その機を逃さず迫った可憐が流を組み敷いた。

(やられる!)

炎が可憐共々全身を覆い尽くした。

だが、

「よく聞いて」

熱くない。

「可憐さ、ん・・・」

耳元で可憐が囁きを落とす。

「前に電話で話したでしょう?あの鬼が伏見山を出て行く前に言ってたって・・・」

まだ流が白鷺を信じて玉零を探していた時の話だ。

可憐はまだ話す時ではないと言って電話を切った。そのことだろう。

「あの鬼は自分の心臓を射て欲しいと言いましたの」

「可憐さん、それはどういう・・・」

「わたくしもよく分かりませんでしたわ。その時は」

「でも」と可憐は続ける。

「今なら分かりますの。『想定される最悪の事態が起こった時、私は皆の前から姿を消す。でも、再び現れた時にやってほしいことがあるの。それは、躊躇せず私の心臓を矢で射ること。それができるのは神咲流ただ一人。だから、信じて待っていてほしい』と。伝えるのが遅くなってしまいましたわね」

それを今、信じろと言うのか。影に支配されているはずの可憐の言葉を。

「可憐さん、でも貴女は」

「見縊らないでちょうだい。例え再び狐に入り込まれても自分でコントロールできるだけの自負はありますわ。でなければ伏見山の外に出たりしませんわ」

どこまで信じられる。

これは、玉零自身が直接流に言った言葉ではない。

「貴方になら私が分かるはずだと、彼女は言っていましたわよ。さあ、握って!」

可憐が身体を離した。

右手で弓を握り直す。

屋根に散らばった矢を一本手に取り、流は立ち上がった。



*        *         *



「あの小僧、何をして・・・」

正直精神的にも肉体的も限界だった。陰陽師一人操り損ねていたことに今更気づくぐらいには疲労が蓄積されている。

白鷺は陽炎越しに神咲流を見遣った。

一番近くの建物である紫宸殿の屋根に飛び、様子を窺う。

その視線の先に、あるはずのないものを見つけ、ハッとして操っていた陰陽師全員を流の元に向かわせた。

一体、何を考えている。

何をするつもりなのか・・・

分からない。

『影』であるはずの自分が恐怖を覚えるほどに――――

風の陰陽師がいるので、六人全員を屋根まで飛ばすぐらい造作もない。しかし、影の呪縛から逃がれた陰陽師が炎術で流に近寄るのを足止めしてくる。

「白鷺!玉零が逃げたぞ!」

大牙の声に慌てて下方を見る。玉零が走って小御所の裏手に回ろうとしていた。

追いかける隼はやはり内臓の再生に時間を取られているようで本調子ではない。

「大牙、お前が追いかけろ!殺しても構わん!」

大牙は従者ではない。

「そんなこと俺にできるわけないだろ!」

案の定、牙を向けて吠える。

そうこうしている内に流が弓を構え、狙いを定めた。

「待て!」

突風が人間共を巻き込み小御所の屋根を吹き飛ばす。

玉無の宝具を制御するには、今の白鷺には胆力も体力も足りていない。

あっと思った時には屋根にいた陰陽師達が皆落下していた。

冷や汗がどっと溢れ、息が出来なくなる。

疾風が駆け、「大丈夫だ!」という大牙の声が聞こえたのは一秒にも満たない後のことだった。

慌てて小御所の屋根に飛び移り、地面に降りたてば、狼の姿に変化した大牙の背で人間共は皆伸びていた。

抵抗する伏見山の当主だけは狼の大きな口に加えられ、藻搔いているが。

「その口を開けなさい!」

炎術をくらい、「あっち!」と言って身体を震わせた瞬間、どさどさと陰陽師達は地面に落ちた。目立った外傷はないことに心からホッとし、心から白鬼の血を厄介だと思った。

それよりも――――

「シロオニ!伝言は受け取ったぞ!これで良いのか!」

御池庭の畔に立つ神咲流が叫んでいる。

池に架かる橋に立っていたのは――――

「玉零・・・!」

過去から目を逸らして生きてきたはずの妹の姿だった。



*        *         *



真っ先に目に飛び込んできたのは、緋牡丹だった。

黒地に金糸で刺繍された見事な模様。

到底玉零の趣味ではない着物を身に纏い、彼女は桟橋に立っていた。

玉零には大き過ぎるのか、裾を引きづってこちらに身体を向ける。その緩慢な動きはどことなく妖艶で、玉零ではないようだった。

幻か――――否。

流は狙いを定め、矢を放った。心臓部分に矢が刺さるのを見届ける前に、扇の技が炸裂し、地面に突き落とされる。

何とか体勢を整え着地できたのは流だけで、他のみんなは敵であるはずの大牙に助けられ、怪我を免れていた。

白鷺の指示か、それとも大牙の判断か。

どちらにせよ、人を殺せない敵はもはや敵とは言えない。

「これを!」

今まで流と一緒にいた玉零が妖刀三日月を投げようと腕を大きく振りかぶるのが見えた。

「大牙、止めさせろ!」

大牙が大きな前足で玉零を押さえ込むよりも早く、刀が宙を舞う。真っすぐに主人の元へと飛び、新たに現れた玉零の手にすっぽりと収まった。

「返したわよ・・・」

力尽きたのか、大牙の足の下にいる玉零は砂塵となって消えた。もしかしなくても、これは――――式神だ。

「信じてくれてありがとう」

緋牡丹の着物を来た玉零の胸には先程流が放った矢が突き刺さっていた。それの意味するところはまだ分からない。白鷺も様子を見ている。

本物の玉零が上着の衣をそっとめくった。胸の辺りにあったのは大きな白い石。見覚えのあるその輝きは紛れもなく白翡翠だった。

矢尻が突き刺さり、流が込めた力で凍り始めている。やがて耐えきれなくなった石が砕け、細かい破片がいくつも宙を舞い、そのそれぞれが小さな丸い形となって玉零の首元に集まっていった。

その時になってようやく、白鷺は玉零の思惑を理解したようだった。

「やられた、玉零の奴――――」

白鷺のこめかみから汗が滴り落ちる。

「隼、大牙・・・玉零は本気だ。本気で俺を――――」

白鷺が何かを指示する前に、玉零は首元に集まった白翡翠の玉の一つを摘むと口の中に含んだ。白魚のように透き通った喉を通って光が落ちていく。そして、一度見えなくなった光源は、玉零の腹の中で途端に眩い光を放ち、玉零を飲み込んだ。

柔らかな風が玉零を宙に浮かした。靡く髪が背中まで伸び、背丈も着物に合うぐらいまで成長していく。まるで蛹が蝶に生まれ変わるような光景にその場の誰もが息を呑んだ。

やがて、月光を宿した大人びた目が、白鷺を見据える。

「隼の言う通り、勝敗は白翡翠によって決まる。兄上、初めからそういう勝負だと理解しておりました。だから私は全ての者を欺き、再び取り戻したのです。私の半身を」

信じられないといった様子で白鷺が目を見開き、池に近づく。

「自分の魂を半分に割らなければ正気を保っていられなかったお前が!?はっ、所詮はそれほどの愛だったということか。簡単に力を取り戻すとは呆れてものも言えんぞ!」

「兄上、優先すべきは今ある命です。失ったものばかりに囚われていては前に進めません!」

兄妹の応酬に流はついていけなかった。ただ分かるのは、これが本来の玉零の姿だということだけだ。

「それで?全盛期の力を取り戻したお前が俺を殺すのか?」

凄まじい霊力が玉零の身体から滲み出ていた。玉零を踏みつけていたあの日の白鷺の姿はもうない。流でも分かるほどには恐怖を滲ませて、玉零を凝視していた。

「その前にここにいる人間共全員を自害させてやってもいいんだぞ?どっち道俺も死ぬが人間を守れなかったお前も死ぬことになるだろう!」

哀れに思うぐらいに白鷺に余裕はない。意識を失っている隆世達を無理やり動かし立ち上がらせる。

「お止めください。全盛期の私の力をもってしても兄上を討つなどできるはずもありません。幕末に目見えた時、そう悟りました。ですが、どうしたというのですか!どうして、ご自身をそこまで追い込んでしまわれたのですか!?ただ無闇に時間を費やしているだけで、貴方にできることは何もありません!そう、時間だけが――――」

玉零が探るような眼差しで白鷺を見る。

「・・・・兄上、何を待っているのですか?」

聡い玉零は何かを察したようだった。しかし、相手に触れることでしか心を覗くことのできない玉零には白鷺の本心全てを知ることはできない。

「そんなものなどない」と即答する白鷺に溜め息を吐いて、言葉を続ける。

「心はどうあれ兄上の行いは兄上自身の首を締め続けています。私が半身を取り戻さなくても、今の兄上を殺すのはそこにいる陰陽師でも容易いでしょう。私にばかり意識を向けているから、ほら」

流の頭上を何かが飛んでいった。

燕だ。五羽の燕が加速し、火の玉となって白鷺を狙う。玉零の忠告で間一髪避けた白鷺だったが、燕が突進した地面には数メートルのクレーターができていた。

「もう少しやったのに!」

「風の威力が足りなかったんじゃありません?」

「何やと!」

「内輪揉めはやめろ」

流の背後には可憐の他、正気を取り戻した扇と隆世が立っていた。

「何や呆けた顔して。そんないつまでも影に支配されるわけないやろ。俺達は当主やで?」

「貴方だけ次期当主ですけどね。それに、御所の被害のほとんどは貴方の技ですわよ」

可憐に売られた喧嘩を買おうとする扇を宥めながら楓が苦笑いする。

「うちと優衣は兄貴にしばかれてやっと抜け出せてんけどな」

隣には暗い表情の優衣が立ちすくんでいた。

「私、は・・・」

「優衣!しっかりせぇよ。病み上がりなんや、こういう時もある」

影に飲まれない自信があったのだろう。泣きそうなほど悔しそうな表情で優衣が「分かってる!」と大きな声を出した。戦闘時、いつも冷静沈着だった優衣が初めて感情を表に出した瞬間だった。

百花は――――

「俺が術で眠らした。奴を殺せば影も消えるだろ」

小御所の壁にもたれたまま眠る百花の姿が見える。

ホッとするのも束の間。流の顔面に強烈な拳が振り落とされた。

「痛っ!」

見れば夏が「可憐をいやらしい目で見るな!」と叫びながら襲ってくる。

「ああ、夏はまだ影が抜けきれてなくて・・・仕方のない子ですわ」

言ってる場合かと可憐を睨みつけながら流は水術を放った。

窒息死しない程度に口の中に水を含ませれば、ジタバタともがき、やがて夏は気を失った。

若干周りの空気が凍ったような気がして「殺してませんよ」と慌てて弁明する。

「分かってるわ!」

扇が豪快に笑い、和やかな雰囲気が辺りを包んだ。

それを見ていた玉零がふっと笑い、白鷺に問いかける。

「兄上、どうしますか?従者に命じて殺させますか?友に頼んで殺させますか?しかし、どちらもさせませんがね」

鋭い眼光が隼と大牙を射抜いた。蛇に睨まれた蛙のように二人はその場を動こうとしない。隼も大牙もここが引き際だと目で白鷺に訴えかけている。

「黙れ。俺は――――!」

「影を鎮められよ!」

玉零の恫喝に、白鷺の身体がビクッと跳ねた。

玉零は悲しそうな表情でふわりと橋を降り、池に浮かぶ岩に着地した。岩のすぐ前には水面に映る満月が輝いている。

玉零は刀を真一文字にするように前に突き出し、刃に映り込んだ月を見た。

「兄上の刀の名は緋月でしたね。月が白鬼の血を求めるのか、白鬼の血が月を求めるのか・・・恐ろしいとは思いませんか?私はこの月が恐ろしい。だから、避けていたのも事実です。私は、隼や水月に聞くばかりで自ら母や父、兄のことを知ろうとしなかった。月に聞けば早い話だと言うのにそれをしなかった」

「何の、話をしている」

怪訝な表情で白鷺が玉零を見た。

「俺を殺すのだろう?さっさとその刀で斬りかかれば良いだろう!?」

じろりと、玉零が白鷺を見遣る。その瞳はどこまでも真っ直ぐだった。

「私が兄上を殺すのは、過去を見てからでも遅くはないでしょう。場合によっては兄上に殺されるのも辞しません」

「何を言って・・・それにどうやって過去を見るというんだ?」

白鷺が緋月を握り締めて、一歩一歩玉零に近づく。早く終わらせてくれと、自ら死地へと赴くような足取りで。

「兄上、白鬼は月に触れられるのですよ」

白鷺が足を止め、そんなまさかと嘲笑する。しかし、玉零がしゃがんで池に浮かぶ月に手を触れた瞬間、確かに天の月が翳った。

「本物の月と連動している・・・?」

信じられないと、隆世も舌を巻く。

そして、流はある事実に辿り着いた。

玉零はものに触れて記憶を読み解くことができる。月が見ていた記憶を覗き見ることができるのだとすれば?

恐らくは母の形見に身を包んだ玉零がこれから成そうとしていること・・・それは――――

「この生が呪われたものであったとしても、私はもう目を逸らしません。さあ、月に、母に・・・聞いてみましょう」

玉零が掌を月に重ねた瞬間、世界が、歪んだ。



(ここは・・・)

出したはずの声が耳に届くことはなかった。体が実体として伴っていないのだ。

俯瞰した景色を見ている。幽霊にでもなって宙を浮いているような気分だ。

月に照らされたどこかの城の天守閣から、一人の女性が出てきた。

黒地に緋牡丹の着物を纏った髪の長い女性。見覚えがあるのはその着物だけではなく、相貌もだった。

端正な顔つき。凛々しい眉に引き締まった唇。月を見上げた目に宿る仄暗い熱までもが、白鷺に酷似していた。

化粧を落として髪を短くすれば見分けがつかないほどだ。もしかしなくても、その女性が白鷺と玉零の母親であることが分かる。確か名は、玉露といったか。

『望月か・・・あの方を思い出す』

玉露の声が脳に流れ込んできた。

『どうして我を・・・』

憎しみ、悲しみ、そして愛しさが流の心を満たす。

どうやら玉露の考えや感情を読めるらしい。三影や白鷺の能力を手に入れたような感覚だった。

その時、部屋の奥から武者姿の男が現れた。途端に周囲が黒く淀んでいき、玉露が飲み込まれてしまう。

『玉露殿。約束の十五夜ですよ』

恐らく、直接玉露の心に語りかけているのだろう。流にもその声が聞こえる。

『その着物を着てくれたということは、私を受け入れてくれたと受け取っても良いですな?』

玉露はぱっと手で黒い靄を跳ね除け、本来の姿を見せた。白い髪に白い角、黄金の瞳。白鬼の姿だ。

「そち、何のために口が付いている?普通に喋れんのか?」

他者の口から発せられた声が耳に届いた。実際の声と心の中の声。三影と会話したことで鍛えられたのか、不思議と聞き分けられた。

不機嫌を隠しもせず、玉露は月を見上げている。『煩わしい』と、玉露が胸中で呟いた。心は完全に三影にないようだ。

「神咲光宣か?」

同じように月を眺めて三影が冷めた声で呟く。ようやくはっきりと姿を現した三影は流の知る彼よりも随分と若かった。溌剌としたその風貌は、より一層玉零を想起させた。

三影の言葉に玉露がカッと目を剥く。

「我の前でその名を口にするでない」

『喉を引きちぎるぞ』

「可愛い顔でそんな物騒なことを申されるな」

「我の心を読むでない。無礼者」

「玉露殿。ならば隠せばよろしいでしょう?されど、貴女は隠しもせず心の中でいつもいつもその男の名を呼んでいますぞ?貴女を捨てて他の女を娶った陰陽師の名を」

「黙れ」

「光宣光宣・・・何十年前の話ですか?所詮は鬼と人間の恋など――――」

「黙れと言っておるだろう!」

ドロドロとした溶岩のような感情が流の心を支配する。恐らく三影にも同じように伝わっていることだろう。

『哀れな女だ』

三影は口を閉じて、無理やり玉露の唇を奪った。

玉露は抵抗しない。

ただ、ひたすらに愛しい男の名を心の中で叫ぶ。

光宣、光宣、と。

玉露の声だけが木霊する。

三影は黙ったままそれを受け止めていた。

その実、三影が何を思っているのかは分からない。しかし、水月の言っていことが本当なら――――いや、妻を失って何百年と引き篭もり続けている実態を考えても――――


哀しい男だと思う。



世界が回転し、場面が変わった。

障子の隙間から月が顔を覗かせている。その部屋の中では陣痛が起き、力んでいる玉露がいた。水月が額に汗を浮かべながらお産を手伝っている。

「玉露様。もう少しでございます。ゆっくり息を吐いて下さいまし!」

『そうは言っても水月・・・息などできぬぞ!』

玉露の恨み言は流には聞こえるが水月には聞こえていない。

「ひっひっふーですよ。玉露様。さあ、ひっひっふー」

『だから、そのような呼吸できぬとっ!』

玉露が水月に文句の一つでも言おうとした瞬間、元気な産声が部屋に響いた。

「男の子にございます。元気な男の子にございますよ、玉露様!」

途端に、障子がガラッと開き三影が入ってきた。

「でかした、玉露!」

あれから、どれほどの年月が経ったのかは知らないが、呼び捨てにするほどには夫婦になれたということだろうか。

三影は水月の抱く赤子を奪い取って、まじまじと我が子を見つめた。

「三影殿、もっと優しく抱いて下さい!」

水月に叱責され、三影は慌ててそっと包み込むように抱き直す。

「三影、我にも抱かせよ。我の子ぞ」

水月に抱き起こされた玉露がブスッとした表情で呟いた。

「ああ、悪い。見よ、玉露。其方にそっくりだ。大きくなればどれほどの美男子に育つであろうか」

ぱっと顔を輝かせる三影に、流の心臓がドキリと跳ねた。

否、跳ねたのは玉露の心臓だ。

「まこと、可愛いの・・・」

その呟きが何に対してのものなのか流には分かってしまう。

「其方は美人ゆえ」

照れながら赤子を手渡す三影は人並みの父親に見えた。

『どれほど我を愛しておるのか、この男は。思わず可愛いと思ってしまったぞ・・・ああ、だめだ。心を読まれてしまう。我が我が子と同じくらいこの男を、三影を愛おしく思ってしまったことが』

しかし、三影は「名前は何にする?」「其方に因んだ名が良いか?」「それとも男らしい名が良いか?」とはしゃぐだけだった。

『珍しい。我の心を読まぬか・・・』

玉露は不服そうに思いながら、我が子を見つめる。

常闇のように黒い髪がショロショロと生えているのが目についた。

『紛れもない。三影と我の子だ』

その時、流に伝わってきた感情は幸福以外の何物でもなかった。

玉露も心の中で我が子につける名前を考え始める。

「玉露、何にする?」

「いくつか案があるがそちはどれが良いと思う?」

玉露がニコッと微笑んで問い掛ける。しかし三影は「案があるなら教えてくれ」と戸惑ったような表情を見せるだけだった。

心を読もうとしないのだ。

「そんなものわざわざ声に出さなくとも」

「水月にも意見を聞きたいだろう」

三影がはぐらかしていることは端から見ている流にも分かった。

玉露は心の中で何かがおかしいと感じたが口に出すことはしなかった。

「そうじゃな――――」

その時、落ち着いていたはずの赤ん坊がいきなり泣き出し、玉露が慌てふためく。

「水月、泣いておる。どうすれば良い!?」

「わたくしも赤子の世話は――――揺らしてみてはどうでしょう。そうか、お腹が空いているのかもしれませんね」

三影は二人以上に慌て「薬師を呼んでくる」とトンチンカンなことを本気で言い出す始末だ。

「待て、三影」

赤子を抱きながら立ち上がった玉露が三影を引き止めようと廊下に出た。

「あっ!」

「あっ!」

夫婦の声が重なった。

月の光に照らされ、赤ん坊がキャッキャと笑ったのだ。

「笑ったぞ!」

完全に鼻の下を伸ばしている三影とは対照的に「そうではないだろう!」と玉露が突っ込んだ。

「見よ。髪の色が」

赤ん坊の髪は白く輝いていた。

「おお、やはり白鬼だな」

「そち、ちゃんと見ていたのか?部屋の中では黒であっただろう!?」

首を傾げる三影に「ほら」と言って玉露は赤子を部屋の中に連れていく。

「本当だ」

つぶらな瞳が開き、母親と父親の顔を交互に見た。

「おお!何と愛らしい。だが、私の目の色と同じなのは残念だな・・・」

『何故残念だ、などと・・・』

深い海の底のような暗い青を見つめながら玉露は胸中溜め息を吐いた。

しかし、玉露はハッと思いついたように再び月明かりの下に我が子を差し出すと、途端にその目は月の色と重なった。

「やはり!」

三影も水月もそれを見て驚愕する。

「まこと不思議よの。白鬼と『影』の合の子はこのようになるのだな。しかしこれでは名付けに困るのお、三影。影一郎、いや白一郎が良いか?うーむ」

玉露のネーミングセンスに誰も突っ込まない。真剣に悩み出す夫婦を微笑ましそうに水月が見ている。

しばらくして「白露が良い」と三影が言った。

「白露?『しらつゆ』か?それは・・・」

『光宣がつけた我の人の名ぞ。どういうつもりでーーーー」

玉露が怪訝な顔で三影を見つめれば「其方に瓜二つゆえ。白露は其方の半身であろう。それを私は否定しない。全てを愛すとあの時誓ったのだからな」と返ってきた。

ズキリと心が痛む。自分自身の感情かと錯覚しそうになるほどの痛みが胸を突き刺し、流の目尻には自然と涙が滲み出ていた。

『我がまだ光宣を想っていると・・・違う。三影、今は違うぞ!』

しかし、玉露の心の叫びは三影に届かない。

「三影、我はそちのことをちゃんと想っておるぞ!」

「良い。玉露、其方の心は私が一番よく知っている」

悲しい表情で三影が笑う。

「大殿・・・お言葉ですが」

心配した水月が隣から口を挟もうとしたが、玉露は「三影」と優しく話しかけ、その言葉を遮る。

「しらつゆではあまりに女っぽいではないか。そちと初めて出会うた城の名を借りよう」

「姫路か?それこそ女っぽいが」

『この男は心を読まねば人の機微が読み取れぬのか!?』

玉露がこほんと咳をして「白鷺城とも呼ばれておるだろう」と言う。

水月が「良いではありませんか!」と手を鳴らした。

「ふむ。しらさぎで白鷺か・・・確かに良いが」

歯切れ悪い三影に対して「良いのだ!」と玉露が押し通す。

「お前も白鷺が良かろう?」

我が子を見つめながら玉露が笑う。

満ち足りた心が流を包み込んだ。

「外は冷えるゆえ」

三影が玉露の肩に緋牡丹の着物を掛け、部屋の中へと促す。

『我の気持ちはこれから少しずつ伝えていけば良い、か・・・』

玉露の胸中の声を聞き、再び視界は反転した。



真昼の月が玉露と大きく育った白鷺を見下ろしている。

大きな桜の木の下で、玉露は赤子用の着物を縫っていた。緋牡丹の着物が腹の辺りで大きく膨らんでいる。臨月なのだろう。

「母上、その腹の子を産めば、母上が死ぬというのは本当ですか!?」

鶯色の着物を着た総髪の少年は、人間で言えば十歳前後のように見えるが、実際の年齢は判りかねた。しかし、涙を浮かべながら母親にしがみつく様は、見た目の年相応の反応のように思う。

「父上から聞いたのか?」

「最近父上と母上の様子がおかしいので、水月の心を読みました」

玉露は溜め息を吐き「父上のお子だな」と困ったように白鷺の頭を撫でた。

「いけませんでしたか?」

悪いことをしてしまったのかとビクビクする息子に玉露は「いや」と首を振る。

「白鷺。その力、家族のために使ってはくれぬか?」

突然、玉露は真剣な顔をして白鷺の両手を掴み、その目を見据えた。

「母の心を読みなさい」

突然の申し出に三影と同じ色の瞳が揺れる。

「白鷺、頼む」

母の必死の願いに白鷺はおずおずと応え、影を出して意識を集中し始めた。

『母が死ぬのは本当だ。腹の子をどうしても産みたい。そちと同じで、愛した人の子だからどうしても産みたいのだ』

玉露の気持ちが直接分かるだけに白鷺は涙を流せども「嫌だ」とは言わなかった。

『しかし、そちの父は頑固者の上に臆病で、我の気持ちを一向に知ろうとしない。口から出た言葉を信じぬ生き方をしてきた故、いくら愛の言葉を語っても信用してくれぬのだ。我は、三影と白鷺とお腹の子を一番に愛している。・・・それをそちから父上に伝えてほしい』

『どうやってですか?』

『そちの心を読ませれば良い。母の気持ちをありのまま。今聞いて感じたこと全てを父に見せれば良いのだ』

『私にできますか?』

『できるできないではない。やるのだ』

玉露の想いは切実だった。

幼い我が子に頼むことではないと知りつつも、死期の近い玉露にとって唯一残された道はそれしかなかったのだ。

「母上!」

その重みに耐えきれなくなったのか、白鷺はおいおいと泣いて母の胸に顔を埋めた。

「すまぬ・・・だが、そちに頼むしかないのだ。愛している、白鷺。そちを置いていく母を許しておくれ。決してお腹の子を恨まないでおくれ。父上を見捨てないでやっておくれ。母は、母は――――」

嗚咽を抑えきれなくなった玉露は声を上げて息子と一緒に泣いた。

『三影と出会えて、白鷺に出会えて、再び新たな命を授かって――――幸せなのだ』



母子の慟哭を後にして、流は恐らく最後だと思われる場面に飛んでいた。

「逝くな!玉露!」

玉露の手を取りながら、三影が顔をくしゃくしゃにして泣いている。

水月が赤ん坊を抱えて必死に「姫君ですよ!」と呼びかけるも、玉露の反応は薄い。

その隣で白鷺はギュッと唇を引き結び、母の死際という状況に耐えていた。

「み、かげ・・・最後に・・・我の心を、読んでは・・・くれぬ、か?もう、喋れぬ、のだ」

玉露の頼みに三影は首を横に振る。

「其方は死なん!白鬼であろう!最後の白鬼であろう其方が!」

生気が徐々になくなっているのは明らかだった。

薄目を開けて、玉露が白鷺を見た。何かを察知した白鷺がさっと手を伸ばし、母の手を掴む。

『笑ってしまうであろう。父上はこうも頑固で臆病なのだ。あの時話した母の頼み、引き受けてくれるか?』

白鷺が首を上下に何度も振る。

『このどうしようもない父上を救ってやってくれ。そして、妹を守れ。母はいつでも常世から見ておる故ーーーーそれから白鷺、人を決して恨むことなく・・・母の分も長生きするのだぞ』

ツーと、玉露の閉じた目から雫が流れ落ちた。

白鷺と水月の嗚咽は三影の咆哮に掻き消される。三影が暴走し、影が屋敷中を包み込んだ。全てが闇に飲み込まれる。


きっと今でも、その闇は晴れていないのだろう。



流の意識が現在に引き戻された。

辺りを見回すと、皆難しい顔をして俯いている。流と同じ体験をしたことは明らかだった。相手が鬼とはいえ、同情心が芽生えるのも無理はない。直接流れ込んできた玉露の感情が、悲壮な家族の姿が、生々しく残っている。

当事者達はどれほどの――――

「母、上・・・」

そう呟く白鷺の焦点は定まっていない。まだ現実と月が見せた過去との区別がついていないようだ。

「私には無理でした。父上は母上と顔の似ている私を真っ先に遠ざけ、部屋に引き篭り、対話を絶った。何度も父上との面会を図りましたが、全部無駄に終わった!妹にも合わせる顔がない・・・!」

池の中に飛び込み、玉零の元へ行く。母親と勘違いしているのだろう。

水を含んだ着物が白鷺にまとわりつく。重い足取りでそれでも必死に思い出の人に近づいていく。

「母上!どうすれば良いのですか!母上と交わした約束は未だ果たされず、身勝手な人間の所業にうんざりする日々!この数百年で生きた以上の寿命を縮めました・・・私はもう、疲れました。悲願を果たすため、この地に戻ってきましたが――――父上はここまでしても現れません・・・」

白鷺の言う悲願とは、母親との約束を果たし、家族の絆を修復することに他ならないだろう。

玉零が言っていた言葉が蘇る。

優先すべきは今ある命。失ったものばかりに囚われていては前に進めない。

この数百年、まさに白鷺が思い続けていたことそのものだったというわけだ。

父親を救うために、自分と妹の命をかけて騒動を起こした。

玉零に詳細を語らなかったのは、三影に知られないため。

知られては二度と三影は白鷺の心を読まなくなると踏んだのだろう。

六百年前の仇など、初めからなかったのだ。

全ては家族のため――――

「白鷺」

膝の上で泣きじゃくる白鷺の頭を撫で、玉零は母に代わりその名を呼んだ。

目には大粒の涙が浮かんでいる。

その心中は計り知れない。

ふと、玉零が流を見た。

「・・・貴方の悲願は果たされましたぞ」

玉零は目を見開いて目元に溜まった涙を零した。

その視線の先にあるのは流ではない。その後ろを凝視している。

いつからそこにいたのだろうか。

「玉露、すまない」

三影は。

老緑の着物の袖を握り締め、三影は流達陰陽師一行の中を通り抜けた。

黒い霧に姿を変え、玉零の座る岩に瞬間移動する。

「ち、ちうえ・・・?」

白鷺が驚いた顔で三影を見た。

「白鷺、すまなかった。この数百年、其方と向き合うことができず、逃げてばかりであった・・・愚かな父のためにここまで・・・!」

「父上に・・・」

白鷺は声を詰まらせて泣く三影の袖を掴んで悲しい笑顔を見せた。

「父上にお会いしたかったからですよ。母上のため、父上のためと言い聞かせていましたが、結局は己を見て欲しかったのです。母上との思い出を語り合いながら、父上と酒を酌み交わす。そんな些細な夢を見て・・・」

しかし、死んでしまってはその夢も叶わないだろう。

それでも良いから母親との約束だけは果たそうとしたということか。

「父上は私よりも母上に会いたいことでしょう・・・母の仇すら討てぬ不肖の息子の顔など」

「何を言う!其方を誇りに思いこそすれ疎んだことなど一度もない。玉露の代わりがないように其方の代わりもいないのだ。白鷺、目を開けろ!白鷺!嘘ではない。私の心を読めば」

「もう、誰かの心を読むほどの力は残っていません。・・・ですが、心を読まずとも、父上のその言葉、信じますから・・・少し、眠らせて下さい」

白鷺の閉じた目から新しい滴が一筋流れ落ちた。

「白鷺!白鷺!」

顔が瓜二つだからか、玉露の死に顔を思い起こさせる。

玉零は狼狽する三影の体を押さえ宥めた。

「本当に眠っているだけですから」

「そう、か・・・」

やっと落ち着きを取り戻した三影は玉零の目を見た。

「玉零、其方にも寂しい思いをさせたな」

玉零の目が大きく見開かれる。そうやって、目を見て話かけられるのは初めての経験なのだろう。

「いえ、私は何も知らず、知ろうともせず、その場その場を生きてきただけですので・・・もっと早くに父上にお見せしていれば、兄上も・・・」

「良いのだ。其方が気に病む必要は何もない。ただ、白鷺を許してやってほしい」

父親としての切実な願いなのだろう。三影は深々と頭を下げた。

玉零は安らかな顔で膝の上で眠る白鷺の顔を見た。

「兄上も白鬼。犯した罪の償い方は分かっておいででしょう。これ以上寿命を削らないように・・・私が、見て・・・おります故・・・」

うとうととしながら玉零は言葉を紡いだ。

「休め、玉零。其方には負担をかけた」

三影は白鷺を肩に担ぎ、玉零を腕に抱えて立ち上がった。

「隼、大牙」

三影の呼びかけに妖怪二人が馳せ参じる。

「帰るぞ」

「はっ」

隼が羽を取り出し、その上に三影は息子と娘を横たえた。

大牙も肩の荷が降りたような何とも言えない表情で羽に乗る。

「陰陽師の者共よ。迷惑をかけた。全ては未熟な私が犯した罪だ。白鷺を許せぬのなら私に罰を下すが良い」

と言われてそんなことができる者は誰もいなかった。

「脅威が去ったならそれでいい。優衣に詫びは入れてほしいがな」

「や、もうええって。隆世さん」

慌てて優衣が隆世の袖を掴んで引っ張るが、三影は地面に手をついて土下座する。

「叔父上、そこまでしなくても!」

大牙が口を挟んだが、妙齢の女性がそれを止める。水月だ。

「これ、返すわよ。残念だったわね、大牙」

水月が大牙の胸に押し付けた書状は、どうやら婚儀の招待状のようだった。

「え?この話って本当になかったことになるのか!?」

水月に「当たり前でしょ」と言われ、大牙は耳と尻尾を垂れた。それを見て隼が鼻で笑う。

隼も今回の騒動でどれほど心を傷めただろうか。白鷺の指示で玉零を護衛していたという事実までは良い。しかし、白鷺の本意を知らぬまま隼は容赦なく玉零を裏切った。隼は愛する者を傷つけてでも主人の命を優先させたのだ。従者としては名誉なことだが、これは玉零との間に遺恨を遺すことになるだろう。

「そんなことしなくても、お前ほどの妖怪なら俺達全員の記憶を改竄することができることぐらい知っている。頭を上げて、早くここから去れ」

隆世の威厳ある言葉に扇が「おおー」と感嘆の声を漏らした。

妖怪退治で力を示すまでもなく、陰陽京総会を束ねる頭目としての格を隆世は兼ね備えている。

三影が立ち上がり、隆世を見た。人間相手に土下座までする姿勢を見せてもなお、その威圧感は隠し切れていない。妖力を抑えていても、滲み出るオーラは並の妖怪ではないことを物語っていた。

『影』――――三影はかつて隆世の両親を殺した妖怪と同類なのだ。

そんな相手に土下座をさせ、真正面から対峙する隆世もまた並の陰陽師ではない。

「賀茂の流れを引く者か・・・相分かった。水月、行くぞ。帰ってこの子らと話をせねばならん。今までの分、たくさん、な」

三影が隆世から目を逸らし、自身も羽の上に飛び乗った。

『神咲流』

脳裏に三影の声が届き、目が合う。

『感謝する。貴様の存在が我々家族を救った』

神咲の存在が玉露を死に追いやったというのに、流の存在を肯定する三影の懐の広さに驚いた。

『神咲光宣がいなければ、私は玉露と出会うこともなかったであろう。貴様は自分の血を疎んでいるようだが、私は神咲の血を今まで繋いだ貴様の先祖に感謝したい。例えそれが血塗られた歴史であったとしても、貴様が玉零と出会い、糾した流れは正しい。少なくとも我々家族にとってはな』

自分の生を初めて認められた気がした。心のどこかで自分は生まれてはいけなかったと思っていた流にとって、それがどれほどの救いであったか――――

唇を噛み締め、流は心の中で言葉を紡いだ。

『陰陽師と白鬼が共闘していた時代に戻ろうと、シロオニと約束したんだ。再び人間と鬼が手を取り合う世を創る・・・叶えられると思いますか?』

玉零は流と同じぐらいには心の弱い妖怪なのだろう。生きた年数分は大きな口を叩いて説教するくせ、その実自信はないのだと思う。いつでも流を励まし導いた白く気高い鬼の姫も、自分の生に疑問を持ち、過去を恐れ目を閉ざして今まで歩いてきた。

流が玉零と出会った意味はきっとそこにある。

『そこまでの意思があるならば、私が答えるのも無粋というもの。だが・・・妻ならばこう言うだろう。できるできないではない。やるのだと、な』

三影一行が空へと飛び上がった。

 その姿が見えなくなってもしばらくは、晴れた空を眺め続ける流であった。

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