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月見に鬼  作者: 哀ノ愛カ
6/8

第五献

曇り空の合い間から僅かな光が漏れ出ている。だが、それは灯りとしての役目を果たすには少々心許なく、弓なりの蒼白な顔を覗かせているだけだった。

あれから二日――――

「ごめんなさい・・・」

中天に浮かぶ月のように青白い顔をした少女が、流達に頭を下げていた。

「何、言うてんねん。零ちゃんは悪ないやろ」

気休めのような扇の言葉に玉零は寂しい笑みを零し、首を振る。

「兄の所業は決して許されるものではありません。そしてその責は白鬼家当主である私にあります」

それを聞いた扇ははっとして、俯いた。

同じく家を背負う者として、玉零の抱える重みを感じ取ったのだろう。

扇だけではない。恐らくは隆世も同じ気持ちのはずだ。

身内の不祥事は身内で。

もしこの場に伏見山可憐がいたなら何と声をかけただろうか。

「おお!本真にすげ替えて来たんか!」

沈黙は伏見山から駆けつけた夏の声で破かれた。

夏は自転車を玄関脇に置くと、無名をまじまじと見つめ、その肩をバンバンと叩いた。

「お前か!神咲に封印されてたとかいう陰陽師は!お前すげぇな。本真にありがとな!」

そういえば夏が無名と会うのはこれが初めてだ。

「おい、気安く触れるな」

無名が目を釣り上げて怒るも、夏は何食わぬ顔で靴を脱いで屋敷に上がり込んだ。

「まあ、ここで立ち話はできませんから。どうぞ中へ。さあ、零ちゃんも」

玄関先に立ち尽くす玉零を百花が家の中へと通す。

「伏見山の婿養子風情が・・・」

無名はブツブツとまだ何か言っていたが、皆無視して夏に続く。

客間として使われている玉無の座敷は全員が入ってもまだ十分に広い。奥の席は隆世が陣取り、隆世から見て右手に扇、夏、左手に流、無名が座した。そして隆世と対面する形で玉零が腰を降ろす。

百花は「温かいお茶を持ってきますね」と言って一時退席した。

百花の茶を待たずに口火を切ったのは玉零だった。

「兄は殺せません」

「それは俺達に協力できへんってことか?」

テレビ電話のセッティングが完了した夏が自分の席の前にスマホを置きながら怪訝な目を向けた。

「無名大陰陽師様がせっかく助けてくれたんやで?なあ?」

夏は目の前の無名に同意を求めるが、完全に無視を決め込まれていた。

するとスマホの画面の奥で一足先に茶を啜っていた可憐が夏をとりなした。

「まあ、話を聞きましょう。そのために彼女を呼んだのでしょう?その先のことは隅田の若当主が考えて下さるわ」

「勝手なこと言いなや。俺らも考えるんやぞ!」

扇に睨まれた可憐は「そうね」とクスッと笑う。

当の隆世は可憐からの圧を気にした風もなく、玉零の方を向いた。

「俺達が聞きたいのは奴が流を狙う理由と、奴の弱点だ。お前がどう思おうが、奴らが流を狙う限り戦いは避けられねぇ」

「それは、分かってるわ。私が言いたいのは・・・」

言い淀んだ玉零に言葉を付け足したのは無名だった。

「話したところで勝つ見込みがない。そういうことだろう?」

厳しい現実に誰もが息を飲んだ。重い空気が頭を上から押さえつけてくる。

だが、

「分かり切ってんだよ、そんなことは」

真っ直ぐに前を見据える者が一人。

苛立ちを滲ませた声で隆世が眼前を睨んだ。

「お待たせしました」

その時、百花が盆に人数分の茶を乗せて広間に入ってきた。

百花が一人一人の前に湯のみを置くのを見届け、隆世は口を開いた。

「実質、陰陽師として戦える者は俺を含めて五人」

「五人?誰を抜いてるんや、お前」

すかさず指摘する扇の顔はにやけている。

「優衣の付き添いがいるだろ」

一刻ほど前、優衣の意識が戻ったと楓から連絡があった。しかし、また眠ってしまったようで、楓もまだ病院にいる。

「いや、楓はもう呼び戻す。狙いは優衣やないんや。意識が戻ったならなおさら。一人にしておいても問題ない」

扇の正論に隆世は押し黙った。

「それでも、お前達の絶対的不利は揺るがんがな」

楓一人が加わったところで『影』には勝てないと無名は言う。

「分かってる」

ますます苛立つ隆世を百花が宥める。

「お兄様、零ちゃんの話を聞きましょう」

隆世は舌打ちしながら湯のみに手を伸ばした。流に目配せして、この先を促す。

意を決して流は口を開いた。

「シロオニ。『信じて』と言ったあんたの言葉を俺は信じてる」

玉零が白鷺に連れ去られる直前、玉零は確かにそう言った。

猶予を無駄にするなと。

私を信じろと。

「できることがあるんだろ?」

玉零は強い瞳で「ええ」と言った。

「その前に私達家族の話を聞いてちょうだい。陰陽師を狙う大体の予想もついているわ」

皆が固唾を飲む中、玉零は昔話を始めた。

玉零の生い立ちと、家族の話を――――



物心着いた時から、傍にいるのは乳母の水月と隼だけだった。

兄の記憶は朧げで顔すら覚えておらず、屋敷の奥に引き込んでいる父の顔は見たことすらない有様だった。

幾度となく従者の水月と隼に家族のことを聞いてみたが、自分が本当に知りたいことは教えてもらえなかった。

「父上はどうして私と会ってくれないの?」

「兄上はどうして屋敷を出ていってしまったの?」

特にこの二つの質問は必ずと言っていいほど口を濁された。

母に長く仕えていたという水月は『玉露様は気高く美しいお方でした』と『大殿も若殿も玉露様を心の底から好いておいででした』と言う。

身体も心も遅々として成長しない私だったが、この世に生を受け半世紀も過ぎた頃になると嫌でも気付かされた。

二人とも私を恨んでいるのだと。


水月の言うことが本当なら――――

母は私を産んで死んだ。

私が生まれたせいで――――母は、死んだのだ。


恨まないはずがない。


そこから十年は自暴自棄になり、水月や隼に随分と迷惑をかけた。水月がやっとのことで父を説得し、初めて父との対面を果たすこ

とになったのは、奇しくも母の命日だった。

父は『お前を見ると辛い』と顔を歪めて言った。

初めて聞く父の声はあまりに力なく、乾ききっていた。

その瞳に娘の姿は一切映っておらず、酷く絶望したのを覚えている。同時にそんな父が哀れで嘆かわしかった。

私はその日のうちに生まれた家を捨て、父を捨て、江戸に出る決意をした。兄が江戸に経ったことは隼から既に聞き出していた。兄も父と同じなのか。どんな気持ちでいるのか知りたかったのだ。もしかしたら父とは違い家族として受け入れてくれるのではないかと、自分を見てくれるのではないかと、淡い期待を抱いていたのかもしれない。

しかし、兄探しは難航を深めた。兄が江戸を目指したのは何十年も前のこと。案の定兄は一向に見つからなかった。

江戸で出会った仲間と共に妖怪退治に明け暮れる日々がいつの間にか日常となり、気づけば二百年近い年月を江戸で過ごしていた。

もはや江戸に兄がいないのは明白だった。もう、兄探しをすることもなくなっていた。時の流れと新しい仲間の存在は、兄に問いただして欲しい答えを得るまでもなく、私を私として認めるに十分だったのだ。

だが、時は流れ続けていた。

江戸幕府は終焉に向かって動き出しており、その流れは私と兄を再会させた。



「ここ、京の地でね」

玉零の唇は震えていた。

「今でも鮮明に覚えている。あの炎の色を・・・火の海に立つ兄の姿を」

恐らく玉零が言っているのは、

「禁門の変か?」

「さすが、高校生。聞いたことあるけど遥か昔の知識!」

扇が額をペチンと叩いて舌を出す。

「いや、京都人なら応仁の乱と禁門の変は誰でも知ってるって。分からんねんやったら後でググっとけよ」

夏が呆れたようにため息を吐いた。

長らく京都を離れていても、郷土愛はあるようだ。

「高校中退のくせに生意気やなぁ」

「言っとくけど勉強は兄貴よりできたからな!」

睨み合う二人を他所に「それで?」と先を促す。

玉零は目を伏せ、話を続けた。

「兄はただ、燃える町を見ていた。それだけでも信じられないというのに、逃げ遅れた人を助けようとした私を嗤ったのよ」

「白鬼からしたら有るまじきことだな」

無名が口を挟む。

「人の歴史に関わることは良しとしないだろうが、目の前で人が死ぬだけで白鬼の寿命は縮む。手の届く範囲なら救わざるを得ないのが白鬼だ」

「ええ。平気でいられるはずがないのよ。だけど、兄は動かなかった。そればかりか・・・!」

玉零の身体が僅かに震えた。

「惨敗兵の行き先を教えていたのよ。新撰組に・・・」

「ああ、だから『白鷺歳三』なのか。でもシロオニそれは」

「兄は人殺しの手伝いをしていたのよ!」

玉零がどこまで歴史を理解しているかは知らないが、町に火を放ったのは敗戦した長州兵だ。だが、そんなことは関係ないのだろう。玉零にとっては全て等しく人の子なのだ。

「で?あんたのことは何て言ったんだよ」

聞くのは躊躇われたが、話が進まないので思い切った。

「私には、ただ『君も焼け死んだら良いのに』って。『死んだところで母上が生き返るわけでもないけど。幾ばくかは僕の心も晴れるだろう』って・・・まさか兄と再び京都で出会うなんて思いもしなかった。明治の世になり、戦中、戦後七十年余り。その間、父との絶縁状態は解消されたけど、兄と会うことは一度もなかったのだから」

玉零はぎゅっとスカートの裾を握りしめた。宮古学園の中等部の制服だ。

「兄は自分から母親を奪った私が憎いのよ。母の寿命を縮めた人間も同様に」

パッと玉零と目が合った。

「どういうことだ?」

今まで黙って聞いていた隆世が食いつく。本題はこれかららしい。

「六百年前の仇と言っていたでしょ?水月から聞いたことがあるの。母上はその昔、人間の男に恋をし、裏切られた。母の寿命が縮んだのはそのせいだってね」

「つまり、それが流の祖先ってことか」

「それは確かなんか?そんなん何で今更!」

妙に納得している隆世とは違い、扇が食ってかかる。

それに対して、

「今になって出てきたものがあるからじゃないかしら?」

伏見山の当主が意味深な発言をした。それにピンときたのは隆世ただ一人だけだった。

「神咲の蔵にあった木箱か?」

「どういうことや?」

即座に飛んできた扇の問いに隆世は淡々と答える。

「無名を封印していた木箱が盗まれたんだよ」

「はあ!?いつ!?」

「盆の時だな」

「いやいやいやいや。何で知ってんねん!てか、何で言わへんねん!」

「隆世、それどこ情報や?」

長兄とは反対に夏は冷静だった。隆世はバツが悪そうに一瞬口籠ったが、

「土御門」

目を伏せつつもそう答えた。

案の定扇は良い顔をしなかった。

「明臣か」

舌打ち混じりに呟き、茶を啜る。

「あの方は・・・」

夏のスマホから声がした。

「最近よくテレビに映っていらっしゃる高校生占い師ということですが・・・」

「あんたより年上だがな」

「いえ、それは存じてますけど、そうではなくて」

夏がスマホを隆世の方へと向ける。

両者の目がバッチリと合った。

「星読みができるのでは?」

場がざわつく。

嘘のつけない性分の隆世が「陰陽の流れが見える者には隠せないか・・・」と独りごちた。

つまりは、伏見山可憐も陰陽の流れが分かるのだろう。それで、無名を封印していた木箱が今回の件と関係していることに気づいたのかもしれない。もしくは、封印されていた当人から何かを感じ取ったか・・・

「伏見山の当主の言う通り、土御門明臣は星が読める」

この少人数にもかかわらず、どよめきの声が響いた。

「ほう?」

今まで黙っていた無名でさえ、微かに声を漏らす。

「隠すなや、隆世。そこまで言って分からん俺達やないで」

扇が扇子を取り出す。一の扇だ。

「彼の大陰陽師の血族が生き残ってたっちゅうことやろ?」

閉じられたままの扇子の先が隆世を指す。

「ああ。推測通りだ」

「そんな大事なこと、何で今まで黙っ」

「頼む。このことは内密にしておいてくれ。明臣には明臣の事情がある。これを知ってるのは陰陽総会でも俺だけなんだ」

扇から冷たい視線を突きつけられた隆世が頭を下げた。

「事情?それって単純に利用されてるんとちゃうんか?」

「ああ、そうだよ。利用されてる」

「なっ!」

顔を上げた隆世の瞳は強い光を帯びていた。

「親父が死んだ時、陰陽京総会が何かしてくれたか?構成員欲しさに神咲家を復興するため流を連れてっただけだろうが。結局はどっちの組織も大して変わらねぇよ。利用するだけ利用して己の保身と私腹を肥やすことしか考えちゃあいねぇ。だが、それが世の真理だ。そこに善悪はねぇよ。だから、俺はあの時!・・・利用される相手を選んだ。そして、利用する相手を選んだんだよ。金と権力を盾にされたら、陰陽師としての力があってもこの世ではやっていけねぇんだ。でなくても俺の下には誰もいない。俺が東京で踏ん張らないで、誰がその責を負う?名ばかりの権力しかない陰陽京総会とは違って、陰陽総会は一筋縄にはいかない。明治から続くその呪縛を断ち切るためには明臣の力が必要なんだよ。内から滅ぼすためにな」

隆世の言葉に誰もが驚愕した。

「内からって、まさか、明臣が!?あいつにとって陰陽総会は身内やろうが!」

「あの巣窟に血の結束はねぇよ。知ってるだろ?土御門本家は途絶えている・・・と言われてきた。分家の集まりで構成されている陰陽総会は、養子縁組や何やらで結局は赤の他人が金と権力に群がってるだけに過ぎない」

つまり、陰陽総会は一枚岩ではないということか。だが、それは陰陽京総会にも言えること。血の結束――――可憐と夏はどのような気持ちで今の話を聞いていたのだろうか。あくまで扇は家族想いだが・・・他の兄弟が同じ気持ちでいるかどうかは分からない。

「話を元に戻していいかしら?」

伏見山可憐が口を開いた。とっくに冷めているだろう茶に口をつけながら、隆世を見る。

「その土御門の正統なご当主は助けてくださらないの?」

可憐が聞きたかったのは、まさにこのことだったようだ。

明臣は今、隆世の式神と共に東京にいる。

「彼は京都に来てくれないのかしら?一心同体とも言える貴方が命を賭けて戦うというのに?」

扇も「そうや!」と可憐に同意する。

だが、

「明臣に妖怪や怨霊を滅する力はない」

暗い表情で隆世はそう言った。

「どういう、意味や?」

「そのままの意味だよ。あいつは陰陽の流れが見えるし星も読めるが、戦えない。陰陽術はからっきし。土御門の血はそれほどまでに薄まってるってことだ」

「嘆かわしいな」

無名がボソリと呟く。

「可憐、初めから土御門なんかあてにしてへんやろ。俺らで何とかせんと」

「そうね・・・」

夏に宥められ、可憐は残念そうな声を漏らした。

「このことはもうええわ。隅田当主に俺がとやかく言える立場やないしな。で?何や誰か知らんけど、玉無の屋敷に侵入して木箱を盗んで、零ちゃんの兄貴に渡したってか。いや、盗んだんも白鷺自身とちゃうか?零ちゃんと同じで人間になれんねんやろ?」

「その線もあり得るけど、どこで木箱のことを知ったのか。それ以前に、どうして木箱に無名を封印した者が母の想い人だと分かったのか・・・」

玉零の疑問は今考えても仕方のないことだろう。が、まず確かめておかなければならないことがある。

「そもそも、あんたを封印した人物は、本当にシロオニの母親と恋人同士だったのか?」

神咲の祖先が、本当に鬼に恋をしたのか――――

皆が無名に注目した。

それでもなお黙っている無名に玉零が詰め寄る。

「全てを話せとは言わないわ。貴方の素性は聞かない。だけど、せめて、貴方を封印した者の話を聞かせてちょうだい。陰陽師の先祖について知ってることを」

黒く丸い瞳の奥で無名の顔が歪んだ。

「神咲光宣」

玉零の熱意に無名が押し負けたようだ。

「俺を封印した者の名だ。鬼を鬼と知らずに恋い慕った愚か者だった」

「じゃあ、本当なんだな・・・」

白鬼は人として生きる道も選べるという。

恐らく玉零の母は――――

「そう、母上も・・・」

玉零のか細い声が、空気を震わせた。

その言葉の続きは聞けなかった。決して触れてはいけない雰囲気を玉零が醸し出していたからだ。

「お茶、入れ直してきましょうか!」

しんみりとした空気を百花が打ち消す。

扇と隆世以外手をつけていなかった湯のみが回収される。

再び湯気の立つ茶が目の前に置かれた時、やっと今後の方針についての話が出た。

「これから私は本家に戻ろうと思う」

唐突に玉零は言った。

「私は兄についてほとんど知らない。今までどこで何をしていたのかも、性格や癖、戦い方も。その実、心の中で何を思っているのかも・・・」

それもそうだろう。二回しか会ったことのない相手なら知らなくて当たり前だ。

「大牙は、まあ、兄とは違って江戸で何度も会ったことあるのだけど、本気で戦っているところは見たことないわね。いつも私達が戦っているのを見物してるか邪魔してるか・・・だったような気がするわ。隼の戦いぶりは隅田の当主以外は知っていることかと。だから、あと私が皆さんに伝えられることは三人の関係性についてかしら。それも主観でしかないけど」

「いい。話してくれ」

隆世が促す。

「大牙が言うには、兄とは唯一無二の大親友ってことだけど。水月の話では、神格を失ってこの世を彷徨っていた大牙を引き取ったのが父だったそうよ。兄が産まれてすぐのことだから、兄弟同然のようにして育ったのは間違いないでしょうね」

主従関係ではなかったということか。それよりも気になるのは・・・

「シンカクって何や?」

「神の資格のことでしょう?つまり、大牙は元は神様だったってことじゃない?」

可憐の説明に扇は驚いた表情で口を開けた。

「はあ?カミサマ!?」

「大牙の父は『大神』という名の神だったとか。ニホンオオカミが神に転身したんだと思うんだけど・・・」

「いやいや、それ妖怪やろ?」

納得できない扇が噛み付く。

「昔は神と妖怪の境界はとても曖昧だったのよ。神がこの世に降りることもなくなった。天界というものがあるのかどうかも疑わしい・・・という気持ちも分からなくもないけどね。私自身、神に会ったことはないわ」

玉零の説明に付け足す形で可憐も口を開く。

「神の御使として妖怪が現世に現れることもなくなって久しいわ。神と妖怪の繋がりを感じる機会も減って、貴方のような感覚は当然と言えば当然なのかもしれませんわね」

伏見山はかつて稲荷神の御使である狐と交流を持っていた。自身も神社に仕える巫女であるため、玉零の話はすんなりと理解できたようだ。

「それに、母親は『鳴神媛』というれっきとした雷神だったという話だから、大牙が神の子であることに間違いはないわ。どうして神格を失ったのかは知らないけど・・・見かけに惑わされないで。相当強いわよ。あと、隼だけど・・・」

一瞬、玉零は口を閉じた。

思うところがあるのだろう。だが、事実は己をも含めて認めなければならない。

「隼の主は兄、白鷺。私の面倒を見ていたのは兄からの命令だったからに過ぎないようね。二人の間に何があったのかは知らないけど、この主従関係は想像以上に強固よ。単に恐怖で従わされているようには感じなかった。陰陽師、兄が仕損じた時、貴方の命を奪う役目は隼に託されている」

皆が息を飲んだ。

伏見山の件では共闘した相手であるはずの隼が最大の敵として現れる。

隼の薬にこの場の大半が助けらているのだ。

何ともやるせない気持ちが渦巻いた。

「義兄弟、主従・・・兄には血よりも濃い絆を持った二人がいる。戦いが避けられないなら、このことを踏まえて、作戦を立ててちょうだい。それに兄には半分白鬼の血が流れている。血以上の絆を手にしようと、己の血からは逃げられない。きっとこれは兄にとって命取りになるでしょうね。それでも敵わない相手であることは重々承知しているけれど。何があっても、どんな手を使ってでも、私は絶対に兄を止めてみせる」

「そのために本家に行くと?」

隆世の問いに玉零は力強く頷いた。

「兄の暴走を止めるためには半分の血では不十分でしょう。もう半分の力を借りに行く必要があるわ」

つまりは、

「父に助けを求めに行く」

身内の不始末は身内で。

自分がこの世に生を受けた時から始まった。

生まれた時から母はなく、父は塞ぎ込み、兄は出て行った。

己の存在をどれだけ呪ったのだろう。この少女は。

それでも、仲間を得、人のために力を振るい、流達と出会った。

そして、出会わなければ生まれるはずのなかった歪みに、一人で立ち向かおうとしている。

陰陽師の助けなど少しも必要としていないことが、嫌でも分かる。

分が悪すぎるから?

違う。

結局は、妖怪の・・・玉零の領分なのだ。人間が立ち入るべきではない。

だけど、できるのか。

一度縺れた情を元に戻すのは容易いはずがない。

絶縁状態ではなくなったとはいえ、父親との交渉が難航するのは目に見えている。

ならば、

「俺も行く」

味方は多い方が良い。

「何言ってんねん、流!」

「俺も反対だ」

扇と隆世が素早く反論した。

二人が危惧していることは分かっている。

「いや、誰が何と言おうと俺は行く」

固い意志を感じ取って、二人がぐっと押し黙った。

その時、

「嫌です!」

大きな声が室内を震わせた。大きな瞳に涙を溜めて百花が流を見つめている。

「嫌です。行かないで下さい・・・」

「百花・・・」

かける言葉が見つからない。

揺らぎそうになる心を繋ぎとめたのは玉零だった。

同じように瞳を潤ませた少女が視界に入った。

「ダメよ。陰陽師はここにいなきゃ・・・」

説得力がない。心細さが滲み出ている。本当は自信などないのだろう。一人で事態を収束させるなんて初めから無理な話だ。

「勘違いするなよ。始まりは六百年前だ」

決して責めてくれるな。

自分が生まれたから縺れたなどと悲観してくれるな。

「あんたが生まれるずっと昔。だけど皮肉だよな。生まれる前の出来事が今更浮上して大爆発だ」

子孫に非はない。

だけど、

「だから」

相反する気持ちを無理やり一つに固める。

「俺が責任取ってやるよ。神咲の血ってやつのな。あんたはどうしたい?」

「私は・・・」

玉零は流を真っ直ぐに見つめた。

しばらくの沈黙の後、黒い眼は結論を出した。

「手伝って。私一人じゃ貴方を救えない」

「了解」

流は軽い口調で承諾した。

玉零が僅かに微笑む。唇が「ありがとう」と動いた。

「そんな・・・流兄様っ!」

百花が立ち上がって部屋を出て行く。

百花には申し訳ないが、これが流なりのけじめの付け方だった。

隆世のため息が聞こえる。

「おい、白鬼。お前の父親もこいつを恨んでるんじゃないのか?自分の妻の元恋人の子孫?会った瞬間に殺されるなんてことはねぇだろうな?」

「分からない」

「おい!」

「でも、乗り越えないと」

静かに玉零は言う。

「どちらにしても兄を止めてと頼みに行くのよ。陰陽師の存在は隠せない」

大きな賭けだが、賭けるだけの価値はあるということか。

「いいじゃない。神咲のご当主自身が火の中に飛び込むと言ってらっしゃるのだから」

「俺はやっぱり・・・」

「それじゃ、今夜はお開きで良いかしら?今後のことは楓さんも交えて明日、お話しましょう」

扇の言葉を待たずして可憐は通話ボタンを切ったようだ。

嫌味な言い方だったが、可憐自身は流の意見に同意だったのだろう。これ以上話が拗れる前に話し合いを強制終了させてくれた。

「あんのアマ・・・!」

扇がこめかみをピクピクさせて拳を握った。

しかし、言いたかった言葉は飲み込んだようで、ため息を吐くと「百花ちゃん心配やから見てくるわ」と言って退席した。夏も伏見山邸に戻るとのことで席を立った。

後に残された隆世が冷めた茶を飲み干し、目の前の玉零をきっと睨む。

「白鬼、俺達は俺達で動く。お前は殺せないと言ったが、殺すつもりでいくぞ。それに異論はないな?」

「ええ。陰陽師の領分は理解しているわ。私にもっと力があれば、兄を手にかけることに躊躇はしなかった。家族云々置いといて、これが最善だと思ったから私は私で動くのよ」

「流を道ずれにしてか?」

恨めしい声で隆世が笑う。

「ごめんなさい。余裕ないの。利用できるものは何でも利用する。でも、それは貴方達も同じでしょう?だから私は今、利用される相手を選んだのよ。そして、利用する相手を選んだ」

玉零は隆世の言葉を借りて、皮肉を返した。

「選ぶ、か。選ぶ余裕はあったみたいで何よりだ」

「この道は、確かに選び取ったものよ。私も、貴方もね」

隆世はハッとした表情で玉零を見つめた。

しかし、

「気に食わねぇ鬼だ」

そう言い残して、去っていった。

自分も百花を探しに行こうかと立ち上がりかけたが、急にどっと疲れが押し寄せてきて動けない。

強烈な眠気に目眩までする。

「早速、明日大和に経ちましょう」

「そう、だな・・・」

「疲れたのね。今は少しでも眠ってちょうだい。本当にごめんなさいね。貴方には本来何の関係もないことなのに・・・」

「な、に言ってんだよ・・・俺の先祖が・・・」

意識が遠のいていく。

体がぐらっと傾いた。それを誰かが優しく支えて、横たえてくれる。

「お休みなさい。神咲流」

名前を呼ぶはずのない彼女に名前で呼ばれた気がした。

もう夢の中なのだろうか。

擽ったくて、とても心地よい。


もう一度呼んでほしいと、願って――――叶わなかった。


これは、誰の夢だろうか。



*        *         *



「術?どうしてわざわざこんなことしたの?」

隣に仏頂面で座る男が切れ長の目を向けて「上手くいくと思うのか?」と聞いてきた。

「何?弱音?ご心配どうもありがとう。やっぱり気になるのかしら?事の顛末に」

クスクスと笑えば、何とも不機嫌そうな声が降ってきた。

「俺には関係ないことだ」

立ち上がり様憤慨すところを見ると、嘘のようだ。

「貴方・・・どこまで分かりやすいの」

素直な感想を述べるとますます怒った顔で扇子を向けた。

「そういうところが昔から嫌いなんだ!」

昔とはいつのことを指しているのだろう。自身の失言に気づいているのかいないのか、無名は姿を眩まして逃げた。

膝の上には寝息を立てて無防備な顔を晒す男の子が一人。

そっと頭を撫でてやると、一筋の涙が溢れた。

「・・・ぎょく、――――」

よく聞き取れなかったが、もしかして名を呼ばれたのだろうか。

そう思うと、全身を歯痒さが駆け巡っていった。

どんな夢を見ているのだろう。きっと悲しくて辛い夢を見させてしまっているに違いない。

途端にギュッと胸を締め付けられ、息ができなくなる。

だが、その感情に意味はない。

全ては白鷺を止めるため、

神咲流を救うため。

そして――――

「これが人の子を愛した代償か・・・」

玉零は玉零で動く。

利用される者を選んで、利用する者を選んで。

そして選んだ道の先に何が待っていようとも、もう進む他はないのだ。


時は無情なほどに流れ続けているのだから。



*        *         *



いつの間に朝になったのだろうか。

陽の光が瞼を強制的に開けさせる。

「おはよう」

「おは・・・って、ええ!?」

目の前に玉零の顔があり、自分の置かれている状況を理解するのに数秒を要した。

「よく寝れた?」

少女の笑顔が眩しい。

そして首が痛い。

「何で」

玉零の膝で自分は寝ているのか。

もしかしてまだ夢を見ているのかもしれないと思い、流は手を伸ばして玉零の頰に触れた。

温かくてプニプニしている。これがJCの感触かと感慨に老けつつ、やはり夢ではないと思い直し、気まずくなった。

玉零はびっくりした顔をしていたが、「馬鹿ね。夢は覚めたのよ」と言って、立ち上がった。

「朝ごはん食べたら行くわよ。陰陽師」

「おう」

まだ夢見心地だったが、無理やり身体を起こして玉零に続いた。

そういえば、とても悲しい夢を見ていた気がする。

悲しくて、悔しくて遣る瀬無い・・・怒りにも似た――――

あれは、誰の感情だったのか。

だが、

「早く!」

現実は待ったなしのようで、忙しなく流を追い立てていった。


「気ぃつけや」

扇、隆世に見送られ、流と玉零は京の地を経った。

百花は昨夜から部屋に籠りきりで、顔を見ることすら叶わなかった。

きっと、まだ怒っているのだろう。部屋の前で「心配するな。必ず戻ってくるから」と声をかけたが、返事はなかった。


「良かったの?」

「何が?」

「別に?」

電車の中、玉零が百花のことを気にしているのは明らかだった。

百花の気持ちを無視して、流を同行させていることに罪悪感を抱いているのだろう。

何回目か分からないため息を吐いて玉零は車窓を覗く。

電車で三時間。終点の吉野駅に着くまで二人の間に会話はなかった。

「それで?ここからあとどれぐらいかかるんだよ?」

閑散とした駅のベンチで扇に持たされたおにぎりを食べながら流は聞いた。

玉零は五本の指を広げて手を突き出す。

「五十分か?」

「ううん」

「嘘だろ!?」

分ではなく時間であることを知り、米粒が気管に入りそうになった。

「はい、お茶」

差し出されたペットボトルを一気に飲み干し、もう一度聞く。

「本当にそんなにかかるのか?」

「ええ。歩きだからね」

「歩き?タクシーは!?」

「白鬼の里が車が走れる道沿いにあるとでも?」

それもそうだ。

この山道を歩いていては五時間ぐらいかかって当然だろう。

「それに」と玉零は付け足す。

「結界が貼られているから入り口を探し出すだけでも一苦労よ。でも、五日あれば――――」

「ちょーっと、待った!」

玉零は今、何と言った。

怪訝な顔で「何よ」と睨まれる。

恨めしいのはこっちの方だ。

「今、何て言った?五日!?」

「そうよ、五日」

さもそれが当然のように言われて流は面食らった。自分の感覚の方がおかしいのだろうか。

「あのね、白鬼の里はどんな妖にも人間にも気づかれないように祖父が吉野に作った場所なのよ。そう簡単に見つかるわけないでしょう」

「いやいや、あんたの実家だろ!?」

「言っとくけど、一人で家を出たことも家に帰ったこともないの、私は!」

玉零は偉そうに宣うが、要するに道が分からないということなのだろう。

今まで全て従者に任せていたから・・・

「信じられない・・・」

五日というのも玉零の憶測でしかなく、本当のところいつ里の入り口が見つかるかなど分からないのだ。

「だ・か・ら、貴方を連れてきたんでしょうが。陰陽の流れでちゃちゃっと分からない?」

あどけない表情で言われて、流の怒りは頂点に達した。

「他力本願もいい加減にしろよ!だから愛想尽かされるんだろうが!」

最後の言葉は余計だった。しかし、言ってしまった後ではもう取り消せない。

玉零は色をなくした顔を下に向けて、「とにかく、探しましょう」と歩き出した。


闇雲に探しても見つかるわけはなく、日は落ちていった。

どこからか食料を調達してきた玉零が野宿の準備をする。

一言謝ってくれれば手伝うのにと、流はむくれた気持ちでその様子を眺めていた。

初めて食べた兎の肉で腹は満たされ、疲労からかすぐに瞼は重くなった。

うつらうつらする流の傍を白い何かが通り過ぎていく。

それが何か確認する間もなく流の瞼は固く閉じた。


そんな状況をもう四回繰り返した。

京都に残したみんなも心配しているだろう。しかし、近況を知らせようにもスマホは圏外だ。

相変わらず入り口は見つからない。

玉零が言っていた五日目はもうそこまで来ている。

疲労のピークはとっくに超えていた。江戸時代から生きている玉零はともかく現代人にこのサバイバル生活はきつい。

雲一つない夜空の中、半月が流を見下ろしている。この数日間、天気が良いことだけが唯一の救いだ。

今日も一日が終わる。

瞳を閉じかけたその時、土を踏む音がした。

「毎晩どこ行ってんだよ」

声をかけられ、白い鬼が振り返る。

焚き火の残り火が黄金の瞳を赤く染め上げていた。

「寝る間も惜しいから」

玉零は昼間人の姿で活動し、夜になれば白鬼になってどこかへ行っていた。

つまり、夜通し里の入り口を一人で探していたのだろう。

四日も・・・

「ちょっとは寝ろよ。あんたの感覚だけが頼りなんだ」

その玉零はと言うと、流の力が頼みの綱だったわけだが。

「もう満月まで日がないわ」

「そうは言ってもあんたが倒れたら意味がない。妖怪だって疲れは感じるんだろ?」

「人と妖怪使い分けてるから大丈夫よ」

そこら辺の体の仕組みは分からないが、無理を押して探索していることに違いはない。

玉零の目が赤いのは焚き火だけのせいではないだろう。

「シロオニ、一度京都に戻ろう」

流の提案に玉零は首を振る。

「進むしかないの」

悲壮感漂う台詞に流ははっとした。

空を見上げると、気がぐるぐると円を描くように回っている。

陰陽の流れはずっとこの辺り一体を行ったり来たりしているのだ。

「入り込んだのか?」

「ええ。四日前から領地内にはいるのよ。でも入り口が見つからない。里はより厳重な結界で守られているから。逆に領地を大雑把に囲う結界は出るのが難しいの。里に辿り着かなければ、永遠にここを彷徨うことになるわ」

「まじかよ・・・」

何で早く言わなかったと責める言葉は飲み込んだ。

他力本願だと詰ったのは他でもない流自身だ。

「俺も探す」

即座に立ち上がった流を玉零は止めた。

「貴方は動かない方が良いわ。夜は父上の力が結界外にまで及ぶ。私が介入するまでに貴方の心を操作されたら全てが台無しよ」

「だけど!」

「巻き込んだのは私の方よ。私が何とかする」

頑固なのは誰譲りなのだろうか。

玉零は有無を言わさず暗闇へと消えた。

ひとりでにため息が零れる。

虫の声を耳にしながら神経を尖らせた。

「無駄、か」

巧妙な結界が張り巡らされている。何重にもというよりは、迷路のような形状をしているようで、全体像を掴むのは困難に思えた。

それでも探るしかないと、慣れない術で結界の構造を読み解こうとした。こういう緻密な作業は隆世ならお手の物だろうが、流は不得手だ。

案の定、何の収穫も得られない。

途方に暮れ、天を仰いだ。

陰陽の流れに変化はない。

いや、

「月が・・・」

雲はないはずなのに月が陰った。何かが起こる前兆だ。

「ようこそいらっしゃいました。神咲流様」

頭を下ろすと、目の前に透き通るような淡い青の瞳をした妙齢の女性が立っていた。

腰まで長く伸ばした髪も瞳と同じ色をしている。暗闇にもかかわらず、月よりもその青は光り輝いていた。藤紫の着物の上に天女の羽衣のようなものを身にまとったその女性は明らかに妖怪だった。

「何で俺の名前を知っている?」

「大殿は何でもご存知です」

どうやら、玉零の忠告を無視したのがいけなかったらしい。

よりにもよって一人でいる時に見つかってしまった。

妖怪は「さあ、こちらへ」と、流を誘うように歩き出した。

里へ行けるのは有難いが、玉零がいない今、この誘いに乗るのは危険過ぎる。

「シロオニは?」

「大殿がお呼びなのは貴方様だけにございます」

やはり危ない。

玉零を待った方が良さそうだ。

流は踏み出しかけた足を止めた。

すると妖怪はふっと笑ってこちらを向いた。

「この機会を無下になさるのですか?姫様が毎夜里の入り口を探していることは大殿もご承知の上でしたが、入れる気はないようです。私も招くなと命じられています。ですが今宵、貴方の気配を感じ取り興味をお持ちになりました。何かご事情がおありなのでしょう?大殿に会わなければならない深い事情が」

しばらく無言で妖怪の目を見つめた。淡く光る青に吸い込まれそうだ。

流に選択肢はなかった。

「分かった」

そう答えると確信していたかのように、妖怪は目を細めて微笑んだ。

「手を」

妖怪が手を差し出した。こちらも差し出せということなのだろう。

流は躊躇いがちに、白魚のように透き通る妖怪の掌の上に自分の手を重ねた。

途端に合わせた手から水が迸る。

「貴方様が水の陰陽師でようございました。これで大殿に気づかれず屋敷に案内できる」

妖怪の言葉の意味が理解できなかった。

あっという間に溢れ続ける水に飲まれた流は、濁流に流される感覚に思わず目をつぶった。

轟々と水音が耳の中で反響する中、脳に直接声がした。

「玉露様が亡くなり三影殿は変わられた。若様がお生まれになった頃のことが懐かしい。お二人ともそれはもう・・・確かに幸せな時もあったのだ。神咲流。そちに何も期待はしていないが、三影殿と話ができるものならしてみるが良い。姫様は後で私が連れていく」

唸るような水音が消えた。

止めていた息が我慢できなくなり、口を開ける。空気を吸うことができると気づき、流はそっと目を開けた。

そこは、暗い部屋の中のようだった。

今まで山の中にいたというのに、まるで狐につままれたようだ。

先ほどの妖怪の仕業か。

だとしたらとんでもない能力だ。

流にとっては思い通りに事が運び好都合だが、正直してやられた感もある。

「貴様が、神咲流か」

青い目の妖怪について考えていると、前方から声がした。

闇と同化し過ぎてて、目の前に人がいることに気づかなかった。

夜目が効くはずなのに、一向に相手の顔を認識できない。

不思議に思っていると、喉の奥でクックと笑う声が聞こえてきた。

「私を前にこんなにも呆けている人間を見るのは初めてだ」

相貌は分からないが、若い男の声だった。

まさか、これが玉零の父親ではないだろうと思った直後、

「そのまさかだな」

ぼやっとした輪郭の中、男が手酌していた酒を煽るのが見えた。

「俺は」

「神咲流、それは無理な願いだ」

何も喋っていないというのに、いきなり却下される。

「倅が何をしようと興味がない」

「シロ」

「玉零がどう思おうと関係ない」

「あんたは!」

「父親失格か?」

そんなことを言うつもりはなかったが、心の中で思ったのは事実だ。

間違いない。

玉零と対峙している時よりも疲れる会話。全て心を覗かれているという薄気味悪い感覚。

今、自分の目の前にいる相手こそが――――『影』

先程の妖怪は確か三影と言っていた。

ひやりと、冷たい汗がこめかみを流れていく。

白鷺よりも先に父親の方に殺されるかもしれない。

しかし、流の考えとは裏腹に

「貴様を殺す?面倒だ」

三影は冷めた声音で呟いた。

「止めろ。全てが滑稽だ」

もはや、頭で考えるよりも早く返答をするものだから、会話にすらなっていない。

説得?

『影』相手に何を話すというのか。

「言いたいことはそれだけか?」

会った瞬間、既に結論は出ている。

一気に徒労感が流を襲った。

「帰れ――――私が呼んだわけではない。水月が勝手に連れてきただけのこと。そう簡単に里への入り口が見つかるわけがなかろう。足が痛いだの腰が痛いだの喚くな。おい・・・娘を無能呼ばわりするか。領地の周りを目障りな鳥が飛んでいたから、結界の威力を強めたのだ。別に玉零を入れたくなかったわけでは・・・ちっ、それは水月が貴様をここに連れてくるための方便だろう。何だと?・・・今すぐ黙れ。それとも強制的に心の声を消してやろうか?貴様ごとき軟弱な人間、廃人にするぐらい造作もないわ」

三影は意外と親切だった。何だかんだ言いながらいちいちこちらの疑問に答えてくれる。

「あんた、」

「止めろ」

低い声音が轟いた。

怒っているのか、照れているのか判別しにくい。拗ねて不機嫌になっているのだとしたら、その反応は限りなく玉零に近い。

だが、

「貴様が死んで玉露が生き返るのか?貴様が生きていて玉露に会えるのか?どちらにせよ意味はない」

玉零とは似ても似つかない。

よくもそんな無責任な言葉を言えたものだ。

意味がないだと?

人を殺せば白鷺もただでは済まない。

救えなかった命を思い、玉零の寿命はどれだけ縮む?

むしゃくしゃする。

他を顧みない、その身勝手さに。呆れと怒りが綯い交ぜになって今にも吐きそうだ。

相変わらず顔の見えない相手を流はキッと睨みつける。

途端に豪快な笑い声が部屋に響いた。

「何がおかしい?」

「無責任なのは貴様の方だろうて。私と玉零が似ている、似ていないなどと!何を知っていると言うのだ、人間ごときが!似ているわけがあるまい。娘は母親の血を濃く受け継いだ・・・人を愛さずにはいられない呪われた血をな!」

自分の血も流れているはずの我が子を、三影は種族すら違うとでも言いたげに拒絶する。

「我が子、か。あそこまで母親似だと本当に自分の子かどうか疑わしいものよ」

「なっ!」

そこを否定するのかと、流は憤った。玉零は確かに、

「私の力もあるからと言って私の子である証拠にはならん」

白鷺だって、

「そうか、殺したい人間一人殺せない身とはな・・・不幸よの」

先々言いたいことを一方的に喋られ、思考がぐしゃぐしゃに掻き乱される。

「兎にも角にも、全ては終わったことだ。玉露は死んだ。子供らが何をしようとどうでも良い。過去をいちいち蒸し返すのも疲れる話だ。神咲光宣か・・・懐かしい名だ。玉露の心を大きく占めていた憎い名前・・・だが、恨む気持ちもとうの昔に消え失せた」

相反しているのは明らかだった。

「何が過去だ・・・」

妻の死を受け入れられず過去に囚われているただの臆病者が。

全て終わったと言い聞かせ続けていることこそが、終わらせることのできていない何よりの証拠だ。

今ある絆を自ら断ち切って、固い氷の中に閉じこもっている。かつての流のように・・・。

「なるほどな」

三影は悪態とも取れる流の思考に怒ることもなく、ただそう呟いた。

瞬時に氷雨との記憶を読み取ったのだろう。しかし、三影はそれが何だと言わんばかりの態度で再び杯に手を伸ばす。

「救ってやれよ」

もはや、自分の命のことは二の次になっていた。

これでは、あまりに玉零が不憫だ。

「はっ、煩いわ。素直に己のためだけに命乞いした方がまだ可愛げがあろうに」

酔いが回っているのか、執り成す言葉にも力がない。

哀れだと、玉零が言っていた意味が分かる気がした。

「好きだったんだろ?信じてやれよ」

もはや、流の言葉を遮ることにも疲れたのか、三影は黙って酒を飲み続ける。

「何でもかんでも悪い方向に考えてるみたいだけど、真実はそうじゃないだろ」

「はっ。貴様がそれを言うか」

最もだ。修学旅行の件がなければ、玉零と出会ってなければ・・・流は今も氷の中に閉じこもったままだっただろう。

だが、水月は言っていた。

「白鷺が生まれた時のことを思い出してみろよ」

幸せな時間もあったと。

それが、なぜ――――

「それは、初めから何も信じてなどおらんからだ」

静かに、諦めの滲んだ声が聞こえた。

「己が感じたこと、目に映ったものすら信じられぬ。嘘と欺瞞に満ちた戦国の世で、心を覗くことでしか相手の本心を知ることはできなんだ。夫婦となって半世紀。人ならば信じ合えるに値する時を過ごしたのだろうか?妖怪の身では、それも分からぬ」

「それに」と、三影は言う。

「何度も玉露の心を覗き見た。その醜悪なまでに人間の男を想う気持ちが、私の脳天に刻まれて離れない。憎しみと化した愛がじわじわと玉露の命を削っているのは確かだった。そんな玉露を無理やり奪ったのは私だ。さぞ私のことを恨んでいただろうて」

「玉露が、そう言っていたのか?」

「いや。白鷺が生まれてひとときの幸せを感じたのは事実だ。だが、それがまやかしだと知るのが怖くて、玉露の心を読むのをやめた」

返す言葉は、見つからなかった。

「少し、喋り過ぎたか・・・今のことは忘れろ。いや、ここに来た事実も、殺される運命にあることも――――神咲流であることすら忘れて、最期の時を待てば良い」

何を言っているのか、理解する間もなく、辺りを漂う靄が濃くなった。

「忘れろ。全て。誰がどう動こうと、もはや流れは変えられぬ」

黒い靄は頭の中にまで侵入してきたようだった。考える力が弱くなっていくのを感じる。抗う気持ちも――――

否、

「諦めてたまるかよ!」

流れは変えられる。

「氷雨!」

冷気が靄を払いのけた。

三影の驚いた顔が見える。

その見開かれた丸い目に見覚えがあり、流は凝視した。

三方を襖に閉ざされた部屋は三影の側に置かれた行燈によってぼうっと仄かな灯りに包まれている。

初めから、灯りはあったに違いないが、三影の能力で暗闇と化していたのだろう。

今ならはっきりと相手の姿が分かる。

三影は濃紺の直垂姿で、上座に座していた。人間で言えば四十代といった風体だ。目の下のクマと皺のせいで老けて見えるだけかもしれないが、どちらにせよ何百年と生きている妖怪なので見た目の年齢などどうでも良い。

「貴様・・・!」

驚きは怒りに変わっていた。

咄嗟に投げ飛ばした札が三影の周囲を囲んでいる。敵意はないが、記憶を消されるのは御免だ。

「正当防衛だよ」

三影は乱れた前髪を搔き上げ、強い眼差しを向けた。

(来る!)

思った瞬間には、心の中に三影が入り込んでいた。神咲流という人間の全てを覗かれている。そして、掻き乱し、弄くり回してきた。

「出て、い、け」

「防ぎきれるか?人の心は弱い。壊すのは簡単だ」

三影を囲っていた札が床に落ちる。氷雨の能力で全身に氷の膜を張ったため、術を発動させる気力を保てなかったのだ。

「心の蔵が止まるぞ?もう止めろ。そうしたら楽になれる」

それもそうだと思う心は偽物。甘言に耳を貸すなと本能が訴えている。凍てついた口では何も言い返せないので、せめて負けじと三影の目を見返した。

限りなく黒に近い青の虹彩は白鷺と同じだ。だが、見覚えがあったのはそこではない。

大きな瞳。長い睫毛にくっきりとした二重。丸みを帯びたその形――――紛れもなく玉零の目だ。

親子だな、と。

こんな状況にもかかわらず、そう思った。

「・・・そう、か。そんなにも・・・」

三影の目が悲しい色を帯びた。

瞬間、思考と心をぐしゃぐしゃに乱していた靄が流の中から出て行った。

氷の膜が剥がれ落ちる。部屋の温度は真冬よりも下がっていた。

「神咲流」

白い息を吐き出しながら三影が名を呼ぶ。

そして、懐から細長い木箱を差し出した。

「これは?」

蓋を開けると、純白の勾玉があしらわれた首飾りが入っている。

「白翡翠の勾玉だ。今しがた庭に入ってきた鳥が欲しいらしい。あまりにしつこく家の周りを飛びよるものだから、欲しいならばくれてやろうかとも思うたが・・・貴様に託そう」

「何で俺に」

「これは白鬼家当主の証だ。本来ここは玉露の父、『白鬼』が興した家。白鬼、玉露・・・順当に行けば次の当主は玉零なのだが、二年前に家を継げと言っておきながら本物を渡せなかった。これをどうするか決める権限は私にはない。だから、白鷺に渡るか、玉零に渡すか・・・全ては貴様次第ということだ」

どういう意味か量りかねた。

随分と間抜けな顔をしているに違いない。三影は何とも愉快そうに酒を煽った。

「死にたくなければ、死なせたくなければ――――闘え」

そして不敵な笑みを浮かべて、右手を軽く横に払った。

後ろの襖が開く。

身体が勝手に後方へ飛び、次々と開いていく襖を越え、外へと引き摺り出された。

気づけば、明るい半月が流を見下ろしていた。

「何故貴様がここに!?」

驚いた声に飛び起き、体勢を整える。

屋敷の回廊に囲まれた立派な日本庭園の真ん中に隼がいた。

「それは、白翡翠の勾玉か!?」

隼が流の手を凝視している。知らぬ間に流は先程の首飾りを握り締めていた。

「寄越せ」

隼が風より速く飛びかかる。

「水気、盾となれ!」

眼前に現れた氷の盾に隼の刃は跳ね返された。

三影が言っていた『鳥』とは隼のことらしい。おおよそ、白鷺に取って来いとでも命じられたのだろう。白鬼家当主の証を。

「これは、シロオニに渡す」

「何を。玉零様は当主に相応しくない。それは白鷺様のものだ」

「あいつは白鬼じゃないだろう。これは白鬼の志を受け継ぐ者が持つべきだ」

「戯れ言を。どの道純粋な白鬼などこの世にはおらん」

隼は小刀を持ち直し、氷の盾に突き立てた。氷は忽ち音を立てて割れ、眼前に刃が迫る。

「氷雨!」

地面を凍らせた。足元を固められた隼の動きが鈍る。咄嗟に手にしていた当主の証とやらを首にかけ、札を掴んだ。

「水気、水霊、水精!」

氷の刃が逆に隼を襲う。隼は凍った地面を小刀で穿つと、跳躍して流の攻撃を躱した。

「殺してやる」

美しい庭園には似つかわしくない憎しみの声が響き渡った。

その容赦のない殺意だけで身が切れそうだ。

「俺を殺せば、シロオニの寿命が縮むぞ」

「脅しのつもりか?笑わせる。思い通りにならぬ女などいっそうのこと・・・」

一瞬の間を置いて、再び隼の剣戟が降り注いだ。

防ぎ切れない。

何とか普通の結界を張って凌いだが、無数の切り傷から血が流れた。

「穢らわしい血だ」

間髪入れずに隼の拳が結界ごと流を殴打した。

吹き飛ばされた先の灯篭に体を強く打ちつける。灯篭が真っ二つに砕けた。結界を張った状態でなければ確実に死んでいる。そうでなくても今の衝撃で骨の何本かは確実に折れた。

口元から鮮血が滴り落ちる。

白い石畳がドス黒く染まっていく。胸元に光る白の勾玉にも血が飛び散っていた。

何だか、純粋なものを汚したような気分だ。

穢らわしい血――――

全く。自分でもそう思う。

それでも、

「シロオニも、白鷺も、あんたも!その身に流れている限り否定することなんかできないんだよ!」

認めなければ、受け入れなければ、自分が自分でなくなってしまう。

「地に血をもって城を築き、その霊名に従え。急急如律令!」

隼に気づかれないようにばら撒いた札が浮上する。光が迸り、一瞬の内に辺りを凍らせた。

「霊名は氷雨!氷剣よ、悪鬼を砕け」

氷で出来た剣が四方から隼に迫り、その身を裂いた。

「なっ!」

血を吐き出しながら隼が膝をつく。

「隼。あんたを殺せばシロオニが泣く。できればそんなことはしたくない」

「ほ、ざけ」

血に濡れた体を無理やり起こし、突進してくる。

もう既に血は止まっていた。

「氷槍よ、貫け」

背後から槍が隼の胸を貫く。

「がはっ!」

ここは氷の城。氷雨のフィールド内だ。言霊一つで武器をいくらでも創り出せる。

「弾けろ」

隼を突き刺したままの氷の槍が砕けた。その衝撃で無数の氷の棘が隼の内臓を傷つける。

隼の足元に血溜まりができていた。尋常じゃない出血量だ。普通の妖怪ならとっくに死んでいる。だが、隼の回復力は特別だ。

「容赦、ない、な」

「まだ喋れるのか?どんだけしぶといんだよ」

手加減しないで正解だ。殺す気でいかなければこちらが足元を掬われる。現に隼が投げた小刀が流の結界を破壊した。寸でのところで急所は避けたが、深々と左の肩に食い込んでいる。

凍て付かせた傷口は痛みを感じないが、動かせられる気がしない。

「なあ、隼。誰一人として思い通りに生きてなんかいないんだよ。シロオニの兄貴も父親も母親も、シロオニ自身も。俺だってな・・・だから足掻くんだろうが」

「足掻いたところでどうにもならぬ」

「確かにな。どうにもならないことだってある。でも、それは足掻くのを止める理由にはならない。少なくとも俺は、もう諦めない」

「無駄だ」

「無駄かどうかはその時まで分からないだろ!」

隼の手首が動いた。隠していた苦無が握り締められている。

「なるほど。ならば俺も諦めるわけにはいかないな」

「分からず屋が・・・」

流は残る力で両腕を上げ「氷弓」と呟いた。右手には矢を左手には弓を持ち、構えた。もはや、氷城の効力も限界に近い。言霊だけで技を放つには霊力が足りない。

「貴様ごときの矢が届くか」

「届かせる。その固い頭砕いてやるよ」

隼が地を蹴った。

狙いを定めるには速過ぎる。

だが、

「冬・北・壬・癸・辰星に奉り」

溶けた氷が水滴となり舞い上がった。

「彼の悪鬼怨霊を打ち払わん」

呪文を口にする度に力が湧いてくる。まるで、伏見山の神器を使って狐を屠ろうと玉零と力を合わせた時のような感覚――――

負ける気がしない。

水飛沫が隼の行く手を遮った一瞬の隙。

「急急如律令!」

矢が一直線に隼の脳天に向かって飛んだ。

と同時に数本の苦無が流の急所に向かって放たれた。

決着は――――

「そこまで!」

苦無が喉に突き刺さる寸前、庭に大量の水が滝の如く降り注いだ。

水に飲み込まれ、何も見えなくなる。

「決着をつけることに意味はない」

枯山水の庭園に川が出来ていた。

青い目をした先程の妖怪が流と隼の間に立っている。

「水月殿・・・」

「隼、白翡翠の勾玉は諦めなさい。あの子は大殿に出し抜かれたのが気に食わないだけだ。これにそこまで固執してはいまい。それよりも、無力と高をくくって陰陽師にやられないよう見張っておいた方が良い」

「白鷺様があんな奴らに・・・」

「若様に何かあれば許さぬぞ」

水月はその涼しい風貌からは想像もできない怒りに満ちた表情で隼を睨んだ。

隼は聞こえるか聞こえないかの舌打ちをした後、「分かりました」と言って飛んでいった。

あまりに機敏な動きを見せる隼に絶句する。

このまま戦い続けていれば、確実に負けていただろう。

「あんた、は・・・」

満身創痍の流はその場に倒れた。

薄れゆく視界の中で女性の優しい声が聞こえる。

「ゆっくり休まれよ。姫様はご無事ゆえ」

母親というものを知らない流だったが、母の腕の中にいるような心地を覚えた。

妙な安心感の中、流は眠りについた。



*        *         *



まじまじと顔を見られて居心地が悪い。

この部屋に籠って何百年と過ごしている男は病んだ表情で虚ろな目を向けていた。

「其方も思うか?」

「何をです?」

「いや、何でもない」

『影』の考えていることは分からない。こちらの心は読んでいるだろうから、とっくに玉零の思惑は筒抜けだ。その上で『影』は何を思っているのか・・・。

「どうして、隼と戦わせたのですか?」

「気になるか?」

「いえ」

先程から斬撃の音が絶え間なく聞こえる。寒く感じるのは流の術のせいか。

間も無く決着がつくだろう。

隼も強いが陰陽師が負ける訳がない。

霊力を増強する霊具を持っているのだから。

否、持たされたという方が正解か。

あれでは隼を討てと命じたも同じだ。

「白翡翠の勾玉・・・気になっていたのですが、あれは母上のものですか?」

「いや」

三影は即座に否定した。

持ち主という意味で聞いたのではない。三影もそれを理解して返答している。

「では、『白鬼』の?」

「違う」

では、誰の魂だというのだろうか。

その疑問に三影は答えてくれなかった。恐らく知らないのだろう。つまりは玉露自身も知らなかったということ。

「水月が止めたようだな」

気づけば辺りに静寂が満ちていた。

「そろそろ行きます」

「もう少しここにいたらどうだ?其方の役目は果たされただろう?」

自分とそっくりの目が見つめている。

今更、間違いなく己の子だと気づいたのか。

もっと早くにこうして顔を見合わせることができていたならば――――

いや、よそう。

「いえ。それは不毛かと。気になるならば、自分から会いに来て下さい」

立ち去る娘を追おうと、三影は立ち上がりかけた。しかし、すぐに腰を落とす。

「私は・・・」

この部屋に根でも生えたか。数百年前、妻が死んだ場所、そして娘が生まれた場所から動けずにいる哀れな男。

初めから白鷺の抑止力としての助力など期待してはいなかった。

誰かを助けるほどの力がこの男にあるとは思えない。

白翡翠の勾玉が手に入ればそれで――――良かったのだ。

心を読まれないよう細心の注意を払いながら最後に小さな父の姿を垣間見る。

本当に容姿は父親似だ。

襖に手を掛けた瞬間「済まぬ」と聞こえた気がしたが、玉零は振り返らなかった。

ここにもう用はない。

部屋には三影の気が満ちすぎていて、玉露の気を辿ることは不可能だった。

勾玉も母のものではないという。唯一残された母の形見といえば――――

「どうしたものか」

庭に出ると、月に照らされながら、流が水月の腕の中で眠っていた。

白翡翠が妖しく輝き、流の傷を癒している。

「あとどれぐらいかかる?」

「朝日が昇るまでには」

水月はふっと微笑んだ。

「すごいのね、それ」

「ええ。白鬼の魂ですから」

白翡翠は白鬼の気力、霊力、神通力でできているという。つまりは白鬼の力そのものだ。製造方法は玉零自身よく知っていた。

魂を、引き裂くのだ。

「兄上を止められるかしら」

「姫様なら大丈夫です」

「そうだといいけれど・・・」

東に目を向ければ山際が薄い明かりに照らされていた。

「私ならきっと上手くいくわよね」

もう直に日が昇る。

この足掻きが報われることをひたすらに祈りながら、陰陽師の頰を撫でた。



*        *         *



上限の月を見上げながら、隅田隆世は式神召喚の呪文を唱えた。

屋敷の住民は出払っている。

一度目覚めた玉無優衣が再び深い眠りにつき、もう四日も目覚めていない。流石の扇も心配になって今日の夕方病院に出かけていった。

「難儀なものだ。この呪縛さえなければ居心地の良い器なのだがな」

ふっと、庭に現れた相手は口元を扇子で隠しながらぶっきら棒に呟く。

「俺の創る人形は全て俺の血を練りこんでいるからな」

「術者の血をそう安易に振り撒くのもいかがかとは思うが?」

「呪詛返しか?今の時代、陰陽師同士で殺し合いなんてしねぇよ」

無名は「陰陽師も変わった、か」と独りごちて小さく笑った。

神咲に封印されていた無名がどんな時代を歩んでいたか想像することは容易い。

公家や武家だけではない。陰陽家も血で血を洗う醜い抗争劇を長年繰り広げてきた。

そして今も――――

「いや、変わっちゃいねぇ」

陰陽家は常に対立している。

命を奪い合うような争いはなくても、土御門と隅田の間に和解などというものが齎されたことはない。

「戦い方が変わっただけだ」

無名は「なるほどな」と言って扇子を閉じた。

その音を合図に隆世は話を切り出す。

「白鷺と決着が着くまで、流を隠してほしい。白鬼を匿ってたんだろ?妖怪にも人間にも気づかれない結界で」

無名は答えない。

「流がいなければ白鷺は実際のところ何もできない。自分の命と引き換えに流を殺す気なんだからな。後は隼と大牙だが、それはどうにかする」

「不死鳥と落神相手にどうにかするとは、大きく出たものよ」

無名は軽口を叩きつつも思案している。

が、

「断る」

予想通りの答えが返ってきた。

白鬼を守る気はあっても陰陽師を守る気はない。

伏見山の鎮魂祭で起こった大体の経緯は楓から聞いている。

あの時も、無名は白鬼を伏見山神社に行かせることを拒んだ。

「白鬼と何かあったか?」

「何の話だ?」

返答が異様に早いのも不自然だ。

「神咲光宣は鬼と知らずに白鬼に惚れた。ずっと考えてたんだが、何でその恋は実らなかったのか」

無名は無表情で隆世を見ている。

「誰かが、教えたんじゃねぇのか?そいつが鬼だってな」

ピクリと、無名の眉が僅かに動いた。

分かりやすい。

嘘を吐くのが苦手だと自覚しているからこそ寡黙を演じている。喋ればボロが出るからだ。だから、無名は自分のことを何一つとして喋らない。

「流を匿ってくれってのは、頼みじゃねぇ。頷かなければお前の入ってる器を破棄する」

無名は再び扇子を広げて顔を隠した。目だけが鋭くこちらを睨んでいる。

今更表情を隠しても遅い。

神咲光宣に惚れた女の正体が鬼だと伝え、仲違いさせた張本人は間違いなく無名だ。その結果、玉零の母親は恋に破れ、人間を酷く憎み寿命を縮めることになった。

「・・・この俺を脅すか?」

「ああ。この件の発端はお前が原因だ。加勢しろとは言わねぇが、それぐらいのことはしてくれないと困る」

隆世は印を結んで、無名の眼前に突き出した。

「選択肢はねぇぞ」

無名は扇子を下ろし、隆世を真っ直ぐに見た。

どこか後ろめたさを漂わせた目だった。

自分のしたことを後悔しているのだろうか。

否、隆世個人は無名の行いは正しかったと考えている。

白鬼が完全な人間になれるとはいえ、異形のものを一族に入れたとなれば咎めを受けるのは必須。当時の賀茂家当主が無能でない限り確実に看破しただろう。

そういうことは、陰陽の流れを読めば分かるものだ。

「・・・分かった」

無名が承諾した。隆世の提案を飲むことが結果、白鬼を守ることに繋がると結論づけてくれたようだ。流を殺せば白鷺は死に、玉零も寿命を縮める。それを阻止するために無名は動いているに違いない。それが、玉零の母親の命を削ったことへの贖罪といったところか。

無名が本気になれば、隆世の脅しなど効きはしない。どうせ自身で人形を創ることもできるはずだ。

「恩に切る」

思わず出た感謝の言葉を無名はどんな気持ちで聞いているのか。

互いの陰陽の流れが一瞬交わって霧散した。

「賀茂の末裔よ」

低い声音が闇夜に響く。

「神咲と白鬼の因果を断ち切ってくれるなら、俺は――――」

後に続く言葉はなかった。風が轟となり、無名は姿を消した。


もうすぐ流が帰ってくる。明臣が「勇者流君は宝を持って明日には帰還するよ〜」と言っていた。宝とは何のことかは分からないが、『影』を落としたのだとしたら大したものだ。

「さて」

懐から古びた木箱を取り出す。

隅田の奥の手だ。

使いこなせるか不安だが、やるしかない。

隅田にはあって土御門にはないものの正体を手に取りながら、隆世は再び空を見上げた。

あと一週間。

流を隠し、陰陽京総会総出で白鷺を討つ。

そこに玉無の当主は現れないだろう。隅田が滅びるのを眺め、ほくそ笑んでいる年増の姿が目に浮かぶ。

だが、総代の思い通りにはさせない。

陰陽総会も陰陽京総会も同じ穴の狢だ。過去の産物は一度滅んだ方が良い。その上で隅田が頂点に立つ。

東京に替え玉まで用意して京都に戻ってきた意味を見せつける、この好機を不意にしてなるものか。

玉零の和解工作など知ったことではない。

利用できるものは何でも利用する。

この現状さえも利用して、隅田は賀茂に戻るのだ。それが、一族の悲願――――

「賀茂を復興させるぞ」

「はい」

ずっと傍に控えていた百花が返事をする。

その表情は窺い知れないが、辺りの気が重くなったように感じた。

妹にとっては流だけが全てで、家のことなどどうでも良いのかもしれない。たった二人の兄妹なのに、別々の方向を見ているのかもしれない。

だが、それが何だというのだろう。

隆世は知らぬふりを決め込んで、月から目を逸らした。



*        *         *



玉無の屋敷に帰ってきたのは夜も更けた頃だった。

疲れ果て、隆世との会話もほどほどに自室のベッドに突っ伏したところまでは覚えている。

「流、また学校行くんか?」

朝食のパンが乗った皿を渡しながら扇が不満そうな目を向けた。

それを左手で受け取る。全くといって肩に痛みは感じなかった。昨夜隼に刺されたのが嘘のようだ。折れたはずの骨も元に戻っている。

「学校に行くのはいいが、まさかそれを首にかけたまま行くわけじゃねぇよな?」

目立って仕方ないぞと、隆世が嗜める。

流の首には真っ白な勾玉のついた首飾りがかかっている。

「あー、これは・・・」

玉零に渡そうと思っていた白翡翠の勾玉は、本人に頼まれ流が預かることになった。恐らく怪我が治っているのは勾玉の力なのだろう。

「で?結局、昨日は聞けなかったが・・・『影』の助けは得られたのか?」

一人だけ和食を所望した隆世が即席の味噌汁を飲みながら聞いた。

「あー無理だ、な。あれは。でも、シロオニはこれが手に入っただけでも御の字だって」

流は勾玉を手にとって、少しだけ持ち上げた。

「白鬼家当主の証らしい。しかも、これすっごい回復アイテムでさ!」

傷が治ったことを言おうとして止める。隼との戦闘で負傷したことは隆世に言っていない。心配させるだけなので言わない方が良いだろう。

「まあ、ただの勾玉じゃないことは俺でなくても分かる。そうだろ、扇」

「何や分からんけどとてつもない霊力の塊ってことは・・・」

扇が前のめり気味で勾玉を見つめた。

純白の勾玉は全部で五つ。そのどれもが異様なほどの圧を感じさせている。

「流、こっち向け」

えっと思う間もなく、隆世が印を結んでいた。

「ちょ、兄貴!?」

「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」

隆世が九字を切った。

「首飾り自体に護身法の術を施しておいた。無理やり奪おうとすれば跳ね返される。学校には奴もいるんだ。用心しろよ」

そう言って隆世は流を送り出した。少しごわつくが、首飾りをカッターシャツの中に仕舞い込む。

「行ってくる」

玄関には流と隆世と扇の三人だけで、やはり百花の姿は見えなかった。まだ、怒っているのか。こうして無事に戻って来たのだからいい加減機嫌を直してくれてもいいのに。

「百花は学校には行かせない。俺達の唯一の弱点だからな。無名に頼んで隠してもらっている。お前に会いたがってたぞ」

流の胸中を察した隆世がそう説明した。

ほっと胸を撫で下ろす。百花が安全なところにいることもそうだが、もう怒っていないと知って心底安堵した。

「どこにいるんだ?」

「白鬼達が潜伏していたアパートだ。気になるなら、学校に行く前に寄ってみろ。通学路からそう離れてはいないだろ」

「ありがとう、兄貴」

流は手を元気よく手を振って門を出た。

無性に百花に会いたかった。数日顔を見ていないだけだというのに、とても恋しい。

そんな想いが流の足を動かした。玉零と隼が住んでいたアパートまでほぼ走ってきたように思う。

部屋の番号は確か・・・

「聞くの忘れた・・・」

思わぬところでの落とし穴に落胆していると、階段の踊り場にひょっこりと無名が姿を現した。

「こっちだ」

無名は顎で部屋の場所を指し示した。二階の一番左端だ。

無名に促されるまま、部屋の前へと足を運ぶ。

鍵はかかっていないようで、ドアノブを回すとギィという音を立てて扉が開いた。

部屋は暗い。カーテンを閉めているのだろうか。

足を踏み入れ、靴を脱ぐ。

異変に気づいたのは、部屋の真ん中まで来た時だった。

他に部屋の扉は見つからない。ワンルームのアパートだ。

ここのどこに百花がいると――――

「隅田の小僧が言っていた通りだな」

「なっ!」

謀られたと気づいた時にはもう遅い。振り返ると無名が印を結んでいた。四方に光が迸る。流を囲むようにして円陣ができていた。

「ここに誘き出すのは至難の業だと思うたが、隅田もやりよるわ。それとも、単にお前が阿呆なだけか」

「出せ!何のつもりだ!?」

結界が張られている。

叩いても破れそうにない。

「止せ。隅田に九字を切られたのだろ?あれは俺の結界に呼応している。中から破るのは不可能だ。無論外からもな。人にも妖にも気づかれん。気づかれたとしても術者が生きている限り破れることはない」

「何言ってんだよ。とっくの昔に死んでるくせに」

部屋が凍っていく。それでも結界には皹一つつかない。

「十六夜に会おう」

無名が印を解き、光が霧散した。部屋の間取りに合わせて結界術が施されたのだろう。

やられた。

妹を出汁にしてこんなことをするとは思いもしなかった。

「くそっ!」

ここで全てが終わるのを待つというのか。

何もできず、ただ待っていろと。

スマホに電波はない。完全に外との繋がりを絶たれた。恨み言の一つも言えやしない。

冷蔵庫を開けると、一週間分ほどの食料が詰め込まれていた。計画的犯行だ。

悔し涙で視界が滲む。

「馬鹿兄貴が!」

流の叫びは誰にも、どこにも届かない。

誰もが死を覚悟している。命を賭して妖怪を退治しようとしている。その中心にいる流がその輪から外された。

涙で滲む視界に気が流れていく。

陰陽の流れがゆっくりと確実に舵を変え出すのを感じた。



*        *         *



「本当にタチが悪いわ」

扇の苦言を無視して居間へと戻る。

ちょうど自室から出てきた百花が朝食に手をつけていたところだった。

無表情にパンに齧り付くその様を見て、一抹の後悔に襲われた。

せめて、仲直りさせてから実行すべきだったかと。

「隆世、俺は納得してるけど・・・てか、流以外は納得できるやろうけど」

扇は歯切れ悪く頭を掻く。

「めちゃくちゃ怒るで、本人は」

「そんな分かりきったことをわざわざ口に出すな」

ちゃぶ台の前に再び腰を下ろし、冷めた味噌汁に口をつける。

相変わらず百花は何も言わない。朝起きて、兄に挨拶をしないことなど今までなかったというのに。

「せやかて、流との間に遺恨を残す形になるで。せめて百花ちゃんと――――」

本人の前でその話をするかと、隆世は剣を露わに扇を睨んだ。

「俺達が勝てば良いだけの話だ。流一人の戦力など知れてる。守りながら戦うほど俺にもお前にも余裕はないだろ?」

的を射た返答に扇はぐっと黙った。

「扇、楓は動けそうか?」

「何や、やっぱり楓も戦わせるんかい」

「初めからそのつもりだ」

一気に味噌汁を飲み干して卵焼きにかぶりつく。即席の式神に作らせた割には上出来だ。

「楓は大丈夫や。でも・・・」

言いたいことは分かっている。

「優衣は医者に任せておけ。どうせ目覚めていても優衣にまで戦場に出ろとは言わねぇよ」

本当は惜しい人材だと思っている。優衣は、恐らく陰陽の流れが見えるほどの実力者だ。玉無で唯一、現当主の扇に匹敵する素養を持ち合わせているだろう。

だから、白鷺に斬られたのだ。

白鷺の傷も浅くはなかった。優衣の術で刻まれた傷だ。

反撃しなければやられていたのは白鷺の方。

それほどに優衣の力は他を圧倒している。次期当主がそれに気づいているかどうかは知らないが。

次期当主に何かあっても、優衣がいる。それは玉無家にとって、どれほど有難いことか――――。

「まさか・・・」

残酷な想像を、隆世は卵焼きとともに飲み込んだ。

「どうした?」

自分よりも年上のくせに子供のような瞳をしている。雅のことで人並み以上の苦い経験をしているはずなのに、なぜ清らかな目のままでいられるのか不思議だった。

「いや」

あの母親から産まれたにしては心が澄み過ぎている。例えば、楓は口に出さずとも己の生に疑問を持ちながら生きている。人を疑いたくないのに猜疑心を拭いきれずにいる。母親を恐れ、憎んでいるその心を隠しもしないのは不器用というよりは、想いの大きさが原因だろう。

夏や鈴音に至っては言わずもがなだ。人を殺すことを選択し、実行した胆力と精神は普通ではない。

そういう者の目には隠しきれない淀みがあるものだ。陰陽の流れが歪になるものだ。

なのに――――清流のごとく淀みなく流れる気。

「扇・・・」

「なんや?」

明らかに、家を背負う当主となるには――――不適。

(おいおいおいおい)

焦る気持ちを悟られないように黙々と口を動かす。喋るという意味ではない。咀嚼の意でだ。

「おい、隆世!何やねん、さっきから!」

「なんでもない」

手を合わせて、隆世は即席の式神に片付けを任せた。

「どこ行くねん!」

「上手くいったか見てくる」

もちろん、流を監禁する件のことだが、見に行くつもりはなかった。

自分が動けば敵に気取られるかもしれない。そんなリスクを負う気は毛頭なかった。

ただ、居たたまれなくなったのだ。扇と共にいることが。

隆世の予想が正しければ――――

そんなはずはないと頭を振って、下駄を履く。玉無の屋敷から一歩外へ出て、一呼吸置いた。


この戦い、仕組まれているとは思っていたが。

まさか玉無の現当主が絡んでいるのはないだろうな。



*        *         *



じとっとした蒸し暑さに目を細める。屋外でせっせと看板作りをする生徒達を見ながらアイスキャンディーを頬張った。歯にしみるソーダ味。口の端から滴る水色の雫を手の甲で拭って、手を振った。 女子生徒が数人こちらを見て頰を染めている。

「センセーも手伝ってよー」

女子の中では物怖じのしない学級委員長の宮根早紀が駆け寄ってきた。

「ほら、アイスばっか食べてんと!」

手首を掴まれ引っ張られる。大胆だなぁと思いながらその横顔を盗み見ると、仄かに朱が差していた。

全く、人間の女というものは・・・。

「先生!ここやねんけどな、」

早紀はクラスのムードメーカー荒井峻介のもとへと連れてきた。

立て看板の脚として細長い木材を両端に固定したいようだが、上手く釘が刺さらないようだった。

「先生、こういうのは苦手なんだよねー」

と言いつつ、アイスキャンデーの棒を早紀に渡し、峻介から手渡された金槌と釘を持つ。

晴天の空に、カンッと気持ちの良い音が鳴る。

「こんなもんかな?」

瞬間、おおーという歓声と共に色めきだった女子の声が響いた。

「ありがとう、先生!」

「どういたしまして」

ニコっと微笑めば、何人かの女子生徒が地面に崩れ落ちた。

「宮根さん、それあげる」

「ええ?ありがとうございます」

早紀は顔を真っ赤にしながら『あたり』と書かれた棒を握りしめていた。

「先生、もう行くん?もうちょっと手伝ってやー」

鈍感な峻介は屈託無く引き留めようとする。

「先生も仕事があるからね。ごめんよ」

眉をやや下げて謝れば、もう誰も引き留める者はいなかった。


そう、誰も――――


「はーくろ!」

中庭を歩いていると、一匹の大きな狼が現れた。今は人間の姿だが、尻尾があればブンブンと振っているだろう。それほどに満面の笑みで近づいてくる。

「もうすぐだな!」

何がと聞かずとも分かる。

大牙は満月を待ち焦がれているのだ。

「なあ、大牙。君は何でそんなに玉露が欲しいんだ?」

「決まってるだろ!玉零は可愛くて優しくて可哀想ですぐに潰れちゃいそうなくらい弱いから、俺が守ってあげるんだ。傍にいないと守れないから、だから、欲しいんだよ」

『大好きだから』以外の答えを期待してはいなかったので不意をつかれた。さして興味のなかった質問に興味が湧く。

「守る?何から?」

大きな真っ直ぐな瞳が見下ろしてきた。大牙の背は随分と高い。

「白鷺。それは重要じゃないよ。大切なのは何で守りたいかだよ」

「ああ?」

瞬時に先の答えが読め、気持ちは急降下した。

「俺は玉零が好きだから、守りたいんだ!ってどこ行くんだよ!?」

付き合い切れない。

「俺の気持ちにウソイツワリはないんだぞ!」

「その花畑思考止めないとすぐに陰陽師にやられるぞ」

「はっ。俺の恋は誰にも邪魔させない。誰にも止められないんだー!」

本気で言っているとしたら、神など大した存在ではないなと思いつつ、足早に職員室に向かう。明日の授業の準備の他にも教師という職業は多くの仕事があった。


誰も止めてくれないなら。

誰にも止められないなら。


「はっ。関係ない」

廊下に思わず漏れ出た呟きが、低く落ちた。

百年前、不本意ながらこの国を託した妖怪は、内に厄介な者を抱え込んでいた。

帰国するつもりのなかった白鷺を呼び戻したのは千歳だ。

『約束を果たせそうにない』と言われれば、帰る他なかった。そこで得た母の昔の男の情報。父に何度聞いても教えてもらえなかったその名前。神咲の家紋が刻まれた木箱を渡された時、何かに利用されていることを悟ったが、もう止まれなくなっていた。

誰の思惑かは知らないが、どうでもいい。

そんなことはこの際関係ない。


この命で全てが報われるなら、安いものだ。



*        *         *



待宵月が東に見える。

明日には全てが終わるだろう。

星にそう出ている。だが、まだ読めない。どういう結末になるのかは、まだ――――

「望月よ。俺のせいなのか?俺のせいで白鬼は――――」

後悔と罪悪感が交互に心を蝕んでいく。もはや、どこで間違ったのかも分からない。

現代人が建造した塔の上に立ち、煌々とした街を眺める。もっと、暗い場所へ行けば星が見えるだろうかと考えて、そうはしない自分に嫌気が差す。

未来を知るのが怖い。

星の導きで行動していたかつての自分が恐ろしく滑稽に思えた。未来を知って、変えたところで捻れていくばかりだ。

何千何万と愛の言葉を口にした女鬼のことでさえ、あれで良かったのかどうか自信が持てなくなっている。

「玉露・・・」

『ほんの少しでも良い。我を見てくれ』

正直なことを言えば、見るのが辛かった。玉露は外見も内面も父親に瓜二つで、会う度に苦しいほどに胸が押しつぶされた。

誰でも良いから、玉露の心を奪ってほしいと願いはしたが・・・。

あのような形を望んだわけではない。

白鬼の特性上、人間と結ばれることも可能だが、あの男だけは認めるわけにはいかなかった。

神咲光宣。

引き裂いた結果がこれだと言うなら――――

「どうすれば良かったというのだ」

そして、どうすれば良い。

これから流れる血が誰の血であれ、白鬼を苦しめることになる。

「貴方らしくないわね」

「・・・またか」

先月もここで会話をした人物は、弓なりの口を扇子で隠すこともなく、目の前に立っていた。

玉無扇。玉無家現当主だ。

「お前に俺の何が分かる。俺は―――」

「何も話さなくたって分かるわ。私も同じような感情を神咲に抱いているから」

「どういうことだ?」

扇は答えない。

危うさを隠し切れないその表情に胸騒ぎがする。

「お前・・・よもや、神咲の血を残そうなどと考えているわけではあるまいな?」

甲高い笑い声が轟いた。

「賀茂家の戒律を知らないの?」

「知らん」

「陰陽家の血を残すことが何よりも優先されるのよ?」

「禁忌を犯させたのは賀茂家ということか・・・」

無名はふと、昔の出来事を思い返していた。

妖怪をも従えた相当な霊力の持ち主のことを。

「しかし、当の賀茂がそれを否定しているだろう。あの小僧に禁術を実行できると思うか?神咲の血はあの者の代で途絶える。それが運命だ」

「あら、運命だなんて!何をもってそんなことを言うの?星は一秒ごとに動いているのよ」

妙なことを言う。

星は滅多なことでは動かない。

しかし、

「・・・お前にはそのように星が見えているのか?」

自分が見ている景色を他者も同じように見ているとは限らない。

「さあ。でも、私の知り合いは星の動きについてこう言ってたわ。『緩慢で変化という変化はなく、その動きで変わる未来など有りはしない』と。陰陽の流れを読み、未来を変えたところでそれに意味はないんですって。なるべくしてなる未来にしかならない。妖怪、人間、神でさえ。誰がどう動くかは初めから決まってるから、誰のどんな足掻きも決まった未来にしか進まないから、彼にしてみれば結末は同じなの。星の瞬きも位置も、そこから読める結末はいつでも同じだって」

それこそ有りはしないだろうと、思った。

星を読めば未来が分かる。陰陽の流れを糺せば未来は変わる。白鬼と共に幾度となくそれを繰り返してきた無名にとって、にわかには信じられない話だった。

それこそ全知全能の神であるような――――

「そのような男がこの世にいるのか?」

扇は「あら」と言って微笑んだ。

「口が滑ったみたいね」

性別を特定する言葉を言ってしまったのは不本意だったらしい。

「前に言っていた者と同じ者だな?会えば分かると言っていたが、どこにいる?陰陽師なのか?」

扇は質問に答えることはなかった。

乾いた風が扇の長い髪を靡かせる。顔にかかった後れ毛を耳にかけ、京都の町を見下ろすその姿は憂いに満ちていた。

「私の足掻きも無駄なのかしら?ねぇ。貴方に星はどう見えるの?やはり神咲の血は絶えてしまうのかしら?」

「心配ならば直接守れば良いであろう」

「それができるなら、隅田の当主を煽ってこっちに来るように仕向けたりしないわよ」

扇はかっかと笑って目を細める。

「隅田も自分の子供らも盾にして神咲を守る、か」

「そんなつもりじゃないわよ」

「ならば、どういうつもりであの童らを操っている?」

伏見山の件もそうだった。

「一つの結末に向けて事が進むように仕向けているであろう」

「いいえ、それは違うわ。私は進みやすくしているだけ。前にも言ったけど、仕向けているのは私とは関係のない別の誰かよ」

「だから、それは誰かと聞いている!?」

煮え切らない返答に無名は声を荒げた。

扇はそれに臆した様子もなく、殊更にゆっくりとした口調で嗜める。

「私にも分からない。でも確実に言えるのは、伏見山雅を長年囲い、鎮魂祭に合わせて皆の前に現れるようにした者がいるってことと、長らく日本を離れていた鬼を呼び寄せ、悲願達成の手助けをしようとしている者がいるってこと。きっとその者達でさえも、裏で糸を引かれているに過ぎないのよ・・・いいえ・・・私達全員が駒の一つなんだわ。たった一つの結末に向けて動かしている誰かが・・・何かが、ある」

顔を青くして扇は恐ろしいことを言う。

「その存在を神だとは言わないでくれよ」

茶化せば、ははっと乾いた声を上げ、「そうでないから怖いんでしょ?」と表情を強張らせた。

「面白くないわね。操られているのは私も同じだと思ったら」

「お前も誰かを操っている自覚はあるということか?」

「止めて。言葉の綾よ?でも、まあ、彼に聞けば分かるかもね」

彼というのは、最初から最後までを見通す力を持つ者のことだろう。

案外黒幕はそいつではないのかとも思えるが、扇の口振りからしてその線はないらしい。

「聞ける間柄なら聞いてくれば良かろう」

「まさか!探すのも難しいわよ!」

「・・・仙人か何かなのか?」

いつもの調子に戻った扇が大きな声で笑い出す。

そして、扇子を広げて飛び立つ準備を始めた。

「神咲光宣に封印された名無しの陰陽師さん!」

さっきとは打って変わって上機嫌だ。その感情の起伏の激しさに呆気に取られている間に突風が無名を襲った。

「貴方がどこの誰だかは分からないけど、私、気づいちゃったわよ」

何にと問う暇もなく、扇の姿が消える。

「貴方、・・・たんでしょ?」

風に掻き消えて扇の最後の言葉は聞こえなかった。しかし無名にはそれが何だったのか分かるような気がした。

心臓の音がやけに煩く感じる。

血など流れているはずもないのに脈打っている。

慌てて再び星を見るが、無名に結末とやらは分からなかった。

「玉零、全てはお前にかかっている・・・」


星が示すのは、ただ、それだけ――――



*        *         *



ハッとして西の空を見た。

誰かの強い気を感じて、身構える。

「気のせい、か」

気を取り直して再び地面を抉る。

もう時間がない。

ここでなければ、もう当てもない。

土地開発で東京の地は変わり果てていた。記憶を辿って着いた場所に寺はなく、近所のお年寄りに聞き込みをすれば、もうだいぶ前に潰れたという。

あの人の墓は一体どこにいったというのか――――

しかし、そもそもあれをあの人の墓に埋めたかどうかも記憶があやふやだった。

思い出の地を一つ一つ訪れ、ようやく思い出したのは、指切りをした桜の木。

確か、あの人の位牌をこっそり分けてもらい、桜の木の下に埋めたのだ。だから、あれもこの場所にーーーー

「あった・・・」

一メートルほど掘っただろうか。

カツンと硬いものに触れ、あれだと気付いた。

古びた風呂敷に包まれたそれを取り出せば、傷一つない見事な球体が現れた。

夜闇に浮かぶ月光の如き輝き・・・どこまでも清らかでどこまでも無垢なその光に頭痛がし、思わず風呂敷で包み直した。

ドクンドクンと。心臓が早鐘を打っている。

塞いでいた記憶が呼び起こされ、発狂しそうになるのを必死で堪える。

止め処なく溢れ出す涙が視界を覆い、目蓋の裏にあの人の顔が浮かんだ。

「恭一郎・・・私の半身・・・」

絶望的なまでの喪失感に襲われながら、何とか立ち上がる。

早く、戻らなければ・・・

あと一日しかない。

次の夜までに、もう一つ手に入れなければならないものがある。

だけど、怖い、恐い、コワイ・・・

精神が蝕まれていく。この生に対する疑問が沸沸と沸いて消えない。千歳と出会う前の自分に戻ったかのような感覚に吐き気がした。

「どうしよう・・・昔の私に戻って、し、ま・・・あ、ああっ!」

突然、発作が起き、呼吸ができなくなった。

乗り越えなければ、乗り越えなければと自分に言い聞かせて、体を丸める。

従者もいない。友もいない。頼る者はどこにもいない。その心細さに押し潰されそうになりながらも、ただひたすらに人を想った。


神咲流――――


彼の矢に射抜かれたなら・・・この胸の痛みも消えるのだろうか。

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