第四献
朝日が眩しいが、一睡もできなかった割に頭ははっきりとしている。
「本真に行くんか?」
扇の問いに「はい」と答え靴を履いた。
「止めといた方がええで」
ちなみにこの問答は何回も繰り返されている。
楓も百花も同じように流を止めた。
が、
「家にいても落ち着かないんで。それに奴も流石にもう学校には来ませんよ」
皆の反対を押し切って登校した。
隣に百花の姿はない。自分のことは棚に上げ、学校を休ませたからだ。
なぜそんなことをさせたかと言うと――――
「やっぱり来ると思ってましたよ。先生」
白鷺歳三――――否、白鷺は何食わぬ顔で英語科準備室で授業の用意をしていた。
「僕も来ると思ってたよ。こんな朝早くとは想定外だけど。大丈夫?目の下にクマがあるよ?」
「あんたも覇気がないけどな。妹甚振ったこと今更後悔してんのか?」
「まさか」
白鷺はニコッと笑ってプリントの束を手にした。
「これ、運んでくれるかな?一時間目英語だから」
「・・・あんたの茶番に付き合う気なんかない」
「はは!君は自分が何者かを理解した方が良い。学生の本分は勉強だよ?」
「違うだろ。俺が何者かだって?神咲の者であること以外どうだって良いはずだ。あんたにとっては」
白鷺は目を細めて流を見据えた。
「理不尽だと思うか?」
朝日に照らされているはずの白鷺の顔が曇る。何を考えているのか全くと言っていいほど分からない。
流は逡巡して、静かに答えた。
「そうですね。その血が流れているというだけで、命を狙われるのは・・・だけど、この世は理不尽だらけだ。それを今更不幸だとは言いませんよ」
子は親を選べない。神咲流として生まれたことを嘆く時期はとうの昔に過ぎていた。
「ほう?では君は潔く死を受け入れるというのかな?」
「まさか。陰陽師総出であんたを滅するだけの話だ」
途端に豪快な笑い声が部屋に響いた。
白鷺は手にしていたプリントの束を机に叩きつけると、表情だけは穏やかに口調を強めた。
「陰陽師総出?この国に陰陽師が何人いると思っている?千にも満たない。その大半は見鬼の才がある程度。術をまともに扱える者などごく僅かだ。それで?お前の味方になってくれる組織はどこだ?京都の陰陽京総会、東北の橘家、四国の稲生家などは十に届かぬ構成人数。九州の八幡衆ですら今は三十人足らずだと聞く。ああ、天神会とかいう全国組織もあったか?数は圧倒的に多いが使える者は何人いるだろうな?考えろ。その中で、お前の味方は一体どれぼどいる?関東の陰陽総会如きで四苦八苦している者供をあてにするほど愚かでもあるまい。それとも、一人で滅るか?」
圧倒的な情報力に息をを飲んだ。
流は陰陽京総会の陰陽師以外を知らない。他にも陰陽家があることは分かっていたが、名前すら把握していなかった。唯一聞いたことがあるのは隆世と百花の母親の出である橘家ぐらいだ。隆世ならば多少は知っていただろうか。全国を飛び回っている玉無の当主は確実に知っていそうだが。
「無知を知れ」
静かな声音が耳に届いた。
「知らぬで済むと思うなよ。理不尽だろうが何だろうがお前の先祖がしたことを俺は許さない。例え国中の陰陽師が相手になろうと、俺は俺の悲願を果たす」
一歩ずつ近づいてくる白鷺の足音をどこか遠くで聞きながら、確実に迫る危機に呆然と立ち尽くすしかなかった。
「学べ、少年。己が何者か分かるまで。そうでなければ、僕が君を殺す意味がない」
白鷺はポンと流の肩を叩くと、準備室を出て行った。
笑みの中に隠れた明らかな殺意を残して。
流を取り巻く状況とは裏腹に学園生活は今日も平和な様相を呈しながら進んでいく。
朝のホームルーム、一時間目の英語。白鷺はいつもと変わらず教師の仮面を崩さない。
「流」
昼休み。心配そうに顔を覗き込む友人の姿があった。峻介以外にも五人ほど流の机を囲んでいる。
これは違うと、違和感が針のように心臓を刺す。その痛みはじわじわと全身を駆け巡っていった。
「流、調子悪いなら早退した方がええで?」
「そうや。文化祭の準備は俺達で何とかするし」
「白鷺先生に言うといたるから」
そう。
これは全て白鷺が仕組んだことだったのだ。
「そうだ、な。先、帰る」
自嘲めいた笑いを必死で押し殺して、流は席を立った。
自分が人に好かれるわけがない。自分に友ができるわけがない。
そんなこと、分かっていたはずなのに。
これから殺されるかもしれないという事実よりよっぽど辛い。
「何、黄昏てんだよ」
聴こえるはずのない声がした。
雑踏の中、顔を上げれば隅田隆世がいた。
残暑厳しい京の盆地では、その藍色の着物は涼しげに見える。
だが、それも――――幻影に他ならない。
精神が参るとこんなことになるのかと、ボーとする頭で考えていると、
「起きろ!昨日から一睡もしてねぇのは俺も同じだ!」
頭を思いっきり叩かれた。
痛い。
これは――――現実だ。
「兄貴!?」
「おい、亡霊を見るような目で見るな。死んだとでも思ってたのか?」
そうは思っていない。隆世はあの時式神だったのだから。それに修学旅行での一件とは違い、精神をある程度切り離していたため式神が受けた外傷を隆世は受けずに済んだという。それは隆世自身が昨夜テレビ電話で語っていたことだ。
だが、式神は確実に消滅したはず。
「だから、亡霊を見るような目をすんなって言ってるだろ」
「でも、式神は」
「来た」
「来たって・・・式神が?」
「馬鹿か。式神は新幹線なんか乗らねぇよ」
「新幹線って・・・まさか!」
隆世は深く頷いた。
京都駅前。忙しなく行き交う人々。観光客の群れ。このバスターミナルに降り立ったのは、つい先程のことだ。
「お前、どこに行くつもりだった?」
ドキリと、心臓が脈打った。
「どこって・・・」
「言っとくが、どこにも逃げ場はねぇぞ。殺られるのが嫌なら滅るしかねぇ。陰陽京総会は全会一致で白鷺討伐を決意した」
全会一致・・・陰陽京総会の構成員などたかが知れている。
適切な判断を下せるほど経験のある者がいるわけでもない。
一人を除いて。
「総代は?」
流の問いに、隆世は苦虫を潰したような顔をした。
「兄貴、総代の意見は正しい」
昨夜、隆世の他にもテレビ電話で話し合いの場に参加した者がもう一人いた。陰陽京総会総代玉無扇その人だ。
ずっと聞き役に徹していた総代は明け方、一言だけ発言した。
『命の数を考えれば天秤にかけるまでもないわ』
その場の全員が息を飲んだ。空気が目に見えて張り詰めた瞬間だった。
そして、流はそのまま登校したのだ。
「総代は・・・説得した」
「説得?あの人のことだ。伏見山の時みたいに扇さんに一任するとか何とか言ったんじゃ」
「いや」
隆世は難しい顔をしている。
何かあったか。
「とりあえず、玉無邸に行くぞ」
ブスッとしたまま、隆世は歩き出した。
その足取りは案外速い。スタスタとバスターミナルを超えていく。
「はあ、ちょっ。バスは」
「新幹線代いくらしたと思ってんだよ」
ギロリと睨まれれば、それまでだ。完全に八つ当たりだろとは思うものの、何も言えない。仕方なく黙って隆世についていく。
「隠しても無駄だろうから、お前には全部話しておく」
隆世は振り向くことなく話し出した。
「先に言っておくが、あの頑固ババアを黙らせたのは事実だから安心しろ」
何も安心などできない。
つまりは黙らせただけで、説得も納得もさせられていないということなのだから。
「で?どう言って引き下がらせたんだよ」
「・・・が、・・・てやるって」
「え?」
トラックが走り去っていく音で、聞き取れなかった。隆世が流の方を向く。喧騒が一瞬遠のいた気がした。
「俺が先陣を切る。玉無も伏見山も神咲も俺が守る。隅田が盾になってやるって言ったんだよ」
「それ、正気か?隅田あってこその陰陽京総会だろ!?」
「馬鹿か。盾になった結果の隅田だろ。はっ、それを揶揄する気はないが。本家の賀茂はとっくの昔に滅んでる。総代があれほど不遜なのは、隅田を捨て石としか見ていないからだろう」
「でも、兄貴には賀茂の血が流れてる」
「ああ、だから。俺は来たんだよ。支流だろうと賀茂家の血筋舐めんじゃねぇってな」
隆世はそう言って再び歩き出した。
伏見山の一件で、総代に東京を離れられないことを指摘されたことへの意趣返しか。
賀茂が京の地に戻ってくるという意味を軽視することはできない。
果たして、それを総代が容認するだろうか。
隅田が本流となる、ということを。
「実際のところあの人が何を考えてるのかは分からねぇよ。俺が京都に行くっつったらすんなり引き下がったのも正直納得行かねぇ。俺一人で何とかなるとも思っちゃいないだろうが、伏見山の時同様自分は動かないつもりらしい。それにあのババア、最後に何て言ったと思う!?」
隆世は相当頭にきてるらしかった。
人目も憚らず、大声を上げる。ちょうど横を通り過ぎた外国人観光客が、驚いたように振り返った。そして目に入った隆世の服装に「キモノ、キモノ!」とはしゃぎだした。
「ちっ」
苛立ちを顕に隆世が舌打ちする。
「で、何て言ったんだ?」
流は落ち着けよという気持ちを込めて一歩大きく踏み出し、隆世の横に並んだ。
「・・・いや、」
しかし、隆世は歯切れ悪く口を噤む。
足取りが一気に重くなったのが分かった。先ほどの外国人観光客の声がまだ近くに聞こえる。
「冷静になれよ兄貴」
肩をポンと叩けば、想像以上に強ばっていて思わず溜め息が出た。
大方、神咲はいずれ滅ぶ定めだとでも言われたのだろう。
でもそれは、
「兄貴、それも覚悟しておいた方が良い」
間違った意見ではない。
「俺は自分のために誰かが犠牲になるなんてごめんだ。喜んで命を差し出しはしないが、勝てる見込みがなければ、受け入れる」
「お前、何言っ」
「この国にいる千人足らずの陰陽師は、その大半が見鬼の才がある程度で、術をまともに扱える奴なんてほとんどいない」
「・・・何の話だ?」
「まあ、聞けって。天神会がまさにその通り。で、力ある陰陽家って言っても、九州の八幡衆で三十人、陰陽京総会、橘家、稲生家なんて十人以下。妖怪退治を豪語するには、些か分が悪すぎるってことだよ」
隆世の顔色が変わった。
「どうするって言うんだよ、兄貴。相手は白鬼と『影』の間の子で。お供に狼と隼までいる。勝算は、あるのか?」
隆世は押し黙り、歩みを止めた。
赤信号だ。
「あいつの狙いは俺一人だ。それも私怨で動いてる。俺の命一つで済むなら」
「黙れ」
隆世が歩き出した。
いつになく怒っている。
歩行者信号の青が点滅するのを横目に流もついていく。
「総代が言ってたのか?」
「いや・・・」
正直に言うべきか迷った。でもその一瞬の迷いは、横断歩道を渡りきる頃には消えていて――――。
「敵の大将が教えてくれたよ」
状況を正確に判断しなければならない。
冷静に。
感情を捨てて。
陰陽師とは、そういう生き物だ。
「流」
淀みのない澄んだ声。声変わりをしても変わらず、心地の良い響きだ。隅田邸にいた頃、隆世の詠唱を聞くのが好きで、よく術の練習を覗いていたのを思い出す。
「俺は初めから冷静だ。一度対峙したんだ、一筋縄にはいかないことぐらい分かってる。だがな、奴を滅する算段もなくここに来たわけじゃねぇんだよ。お前こそ冷静になれ。生を諦めることがそれだと勘違いするなよ」
隆世は「その癖まだ治ってないんだな」と独りごちて、前を進む。
返せる言葉は見つからなかった。
この場に彼女がいたなら、きっと隆世と同じことを言うだろう。
そこからは、伏見山邸に着くまで終始無言だった。
家に帰ると百花が玄関まで駆けてきた。
「お兄様!」
「久しぶりだな、百花」
百花は大きな瞳に涙を溜めて、隆世に抱きついた。
昨夜から不安でいっぱいだったのだろう。百花は隆世の体からしばらく離れられなかった。兄の体温を感じていたかったのだと思う。
伏見山の鎮魂祭の時にも会っているが、式神と生身の人間とではやはり違うということか。
「よう来たな。まあ、上がれや」
扇が腕を組んだまま、顎で隆世を中へと促した。
居間には夏がいた。
「久しぶりやな、隆世」
「ふう・・・夏さん、伏見山との婚儀の件は聞いた。受け取ってくれ」
そう言って、隆世は懐から祝儀袋を出し、夏に渡した。
「相変わらず、可愛げのない奴やなぁ。おめでとうの一言でええのに。ありがとうな。でも、年上には敬語使えよ」
夏は隣に座った隆世の頭にげんこつを落とした。
「痛ってぇな!」
隆世の睨みは全く夏には響いていないようだった。案外隅田当主に祝ってもらえたことが心底嬉しいのかもしれない。可愛げがないのはどちらの方か。
「夏、こいつに敬語云々は止めとき。俺らのこと、目上やと思ってへんからなぁ」
そのやり取りを少しは落ち着いたらしい百花がクスクスと笑って見ている。
「ところで、扇さん。かえ」
「楓は病院で優衣についてる。会えんくて残念やったなぁ、隆世
〜」
ケタケタ笑う扇に隆世はブスッとして黙り込んだ。これが年の功だよ、兄貴・・・と、流は心の中で呟いた。
隆世はわざとらしく咳払いをして本題に入った。
「この場でもう一度確認しておく。陰陽京総会は、対白鷺戦に踏み切る」
皆が大きく頷いた。涙腺が緩むと同時に体に力が入る。己のために他者の命を危険に晒す。他にも大義名分はいくらでもあるから隆世や扇は否定するだろうが、同じことだ。妖怪との戦いは避けられない。それに伴う犠牲を払わざるを得なくなった。
「そのために俺達に圧倒的に足りていないのは情報力だ。さっき流から聞いた話では、相手は俺達のことを知り尽くしている。陰陽京総会のことだけじゃない。この国の陰陽師についてほとんどと言っていいほど網羅していた。でなくても相手は『影』だ。心に入り込まれればただでは済まない。決戦の十五夜まで十三日。それまでに何としてでも白鬼、玉零の協力を得る」
隆世の提案にどよめいたのは流だけだった。
他の者は既に聞かされていたのだろう。
「用意はできてる」
扇はドサっと机の上にビニール袋を置いた。中には土が入っている。しかし、ただの土ではない。
これは・・・
「シロオニの血、ですか?」
「せや。隆世に頼まれてな。流が学校に行った後、取りに行ったんや。まだ朝早かったからな、残ってて良かったわ」
これで、隆世が何をしようとしているのか大体は分かった。
「シロオニの式神を作って本人とすげ替えるってか?」
「ご名答」
だが、それには二つの問題がある。
一つは完成度の問題。いくら式神使いの天才と雖も、身内を騙すほどのものは作れないだろう。
「無理って顔してるな?」
「え?いやっ」
「これを見てみろ」
隆世は得意気な様子で電話をかけた。スマホに映し出されたのは・・・。
「兄貴!?」
『何か用か?』
隆世に瓜二つの――――式神。
「東京はこいつに任せてある。土御門のジジイ共には見抜けないだろうよ」
『自分の力量ひけらかす暇があんなら早く用事済ませて来いよ。こっちでこいつの相手してる俺の身にもなれ』
隆世の式神は親指で隣を指差した。途端に隆世(式神)の顔を押しのけて画面に顔を覗かせたのは――――
『隆世〜君の式神びっくりするくらい僕に冷たいんだけど、どうにかならない?さっきから早く帰れってうるさいんだよ〜あー早く優しい本物の隆世に会い・・・』
けたたましく喋っていた男の頭にげんこつが落とされた。土御門明臣は悶えながら画面の外に消えた。
『おい、今、このまま式神に東京任せて自分は京都に残ろうなんて考えたんじゃねぇだろうな?』
隆世(式神)の鋭い眼光が飛ぶ。
「分かってる。この件が片付いたらちゃんとそっちに戻る。だから今だけ辛抱しててくれ」
『絶対だぞ。じゃないとこいつを殺しかねんからな』
ブチっと、通話はそこで終了した。
「自分と会話するってのは疲れるな。思考が同じだから隠し事ができねぇ」
つまり、式神に土御門明臣を押し付けようと考えたのは事実ということか。
それにしても――――
画面越しのあの式神は隅田隆世そのものだった。幼少時より『式神使いの天才』と謳われていたが、その才にまだ底はないらしい。
だが、
「兄貴の凄さは分かったけど、一番の問題はそこじゃないだろう」
この作戦は玉零の協力が大前提として考えられている。
「零ちゃんが、こっち側にはつかんてか?」
扇が流の読みを代弁するも、隆世は「いや」と否定し、土の入った袋を持って庭に出た。
扇、夏に続いて流も庭に向かう。どんよりとした曇り空が目に入った。
「あいつは生粋の白鬼だ。人を守るためなら身内も手にかけるだろう」
淡々と、術式を地面に描きながら隆世は答えた。その予想通りの回答に腹立たしさを覚えながらも、何も言い返せない。白鬼の特性を利用するしかない現状は己の弱さが招いたことだ。ここで否を唱えられるほど自分は強くないと、痛いほど理解している。
「そう、だな・・・シロオニなら必ず手を貸してくれるだろう。だけど、シロオニが味方になったところであいつらを倒せる保証は――――」
「おい、さっきのは極論だ。白鬼と奴らを直接ぶつける気は毛頭ねぇよ。勝てる見込みが低過ぎる。言っただろう。俺達に足りないのは情報力だ。白鷺らについて可能な限りの情報を白鬼から聞き出す。具体的な作戦も今のところ立てづらいしな。何としてもこの二、三日で白鬼を救出する。それが俺達の当面の目標だ」
指を少し動かしただけで、地面に模様が現れる。それがどういう仕組みなのかは水の陰陽師である流には皆目見当もつかないが、隆世は涼しい顔で術式を描ききった。
「いいか、流。利用できるものは何でも利用しろ。真っ向から戦って適わぬ相手ならなおさら。狡猾になれ。俺達は、強くない」
弱音を吐くなんて兄貴らしくないと思いながら、流は黙って頷いた。
ひしひしと伝わってくるのは隆世の緊張。
総代に啖呵をきったは言いが、隆世とて実戦経験は多くない。
それでも、守ると言った。
恐らくは、命をかけている。
「お兄様。皆、覚悟はできています」
百花の声が隆世を叱咤した。
鬼を退治するには自らも鬼にならなければならない。その咎を百花も背負うと言っている。
「ああ、始める」
人として残っていた僅かな良心を砕いて、砂袋をぶちまけた。
それが陰陽師としての当然だと信じて。
「その地を以て形を成せ。この血を以て命を為せ・・・――――」
詠唱が紡がれる度に土は玉零の形を成していった。
「いやぁ、ここまで精巧やと恐いな」
扇が感嘆の声を漏らす。
元が土だと誰が思おうか。
これはまさに、
「シロオニ・・・」
思わずその頬に手を伸ばしかけ、思い留める。
百花の視線に気づいたからだ。
その行動に決して他意はなかったが、不用意なことはすべきでないだろう。
腕を降ろすと同時に、別段気にした風もない隆世が口を開いた。
「まだ、これで完成ってわけじゃねぇ。血に含まれるDNAからある程度の人格形成は行えるが、より自然に仕上げるには、記憶や経験の補完が必要になってくる」
「記憶や経験の補完って、どうするんや?零ちゃんの今までを知ってるもんなんか・・・」
すかさず扇が異議を唱えた。
玉零の過去を知る者は、誰一人としていない。
「流」
その時、隆世が名を呼んだ。
「数ヶ月分だけでもいい。お前が白鬼と共有する記憶をこの器に流し込む」
「はあ?数ヶ月分って、シロオニは何百年と生きてんだぞ?たったそれだけの記憶が何になるって言うんだよ?」
「お前が今まで見てきた白鬼は、その何百年の経験の積み重ねの元に成り立ってんだよ。お前の目に見えた範囲でいい。玉零という鬼を形成してみせろ」
隆世の目は、つべこべ言わずさっさとやれと言っていた。
仕方なく、流は土でできたシロオニの前に立つ。
隆世に教えてもらった詠唱を唱えながら、シロオニの姿を思い浮かべた。
純粋で、無垢な、白い鬼。
強く、人を想う、優しき鬼。
だが、恐らく、心は脆く弱いのだと思う。
鬼というには――――
「うーん」
出来上がりを見て、そう唸ったのは扇だった。
「何か・・・ちゃうくない?」
目の前のシロオニはコロコロと表情を変えながら、天真爛漫に庭を駆けていた。と思えば、突然物思いに耽け、空を眺め出す。
「零ちゃんは、こんなに情緒不安定ではないように思いますが・・・」
百花まで苦笑している。
「流、主観が強すぎだ。もっと客観的に白鬼を見てだな」
「じゃあ、兄貴がやれよ!」
流は恫喝して、その場に座り込んだ。一気に疲れが体を襲う。
「陰陽師、何へたり込んでるのよ」
不敵な笑みで顔を覗き込む鬼は、紛れもなくあのシロオニなのだが、パッと何かを思い出したように手を打つと流を抱きしめた。
ギョッとしてその腕を払いのけようとするも、思いの外強く抱きしめられており、剥がせられない。
「こうしてたら、寂しくないから」
「シロオニ・・・!」
「ほお?流、主観ではなく、願望を込めたか?」
周りの目が冷たい。
パッと百花と目が合う。完全に引いている。
「は、な、れ、ろ!」
やっと手を離した失敗作はふっと切なそうな表情を見せた。
ああ、ずるい。
こういう時の顔だけは見事に再現できている。
「賀茂の。完成度は記憶を入れる者の力量が問われる。其奴に任せたのが失敗だ」
突如、呆れた声が降ってきた。庭の木の枝に腰をかけた狩衣姿の男が流達を見下ろしている。
「無名!」
恐らく、伏見山を出た玉零を匿っていたと思われるが、一体今までどこにいたのか。
「白鬼が拐われたらしいな」
「おいおい、今更何や言うねん。お出ましが遅すぎるんとちゃうか?」
扇が悪態を吐けば、「まさかこうも惨敗するとは思わなくてな」と、鋭い皮肉が飛んできた。
惨敗を予想した上での台詞に、言い返す言葉は見つからない。
扇は歯噛みして黙り込んだ。
「で、何の用だ?最初からお前の助けなんて期待しちゃいねぇがな、助言は有難く頂いてやってもいいぜ?」
「助言だけでいいのか?貴様らの出方によっては手を貸さなくもないぞ?」
隆世の強がりを鼻で笑いながら、無名は木から飛び降りた。
「誰がお前なんかに!」
流は堪らず噛み付いたが、それを隆世は手で制した。
「頼む。その気があるなら助けてくれ」
隆世の殊勝な申し出に、無名は「ふむ」と頷いた。
プライドの高い隆世にこんな真似をさせているのは他でもなく自分だ。その悔しさを押し殺し、流も頭を下げた。
気づけば、扇も百花も無名に頭を下げている。
「やめろ。そこまでされるほどのことをする気はない」
無名はシロオニの失敗作を呼び寄せ、何やら呪文を唱えた。
「記憶を消したか?」
隆世の問いに「其奴の記憶は邪魔だからな」と言って、動かなくなったシロオニを抱きかかえる。
「白鬼の居場所は分かっている。本人の記憶があれば文句無しの式神が完成するだろう。ついでに本物とすげ替えて、明日にはここに連れてきてやる。俺がしてやれるのはそこまでだ」
あくまで白鷺との戦闘に参加する気はないらしい。無名ほどの陰陽師がいてくれれば白鷺相手でも勝機が見えるというのに・・・
だが、それは望み過ぎだろう。
もともと、無名は神咲と因縁のある陰陽師だ。手助けしてやる義理はないのだから。
「十分だ。感謝するよ」
流の言葉を聞いた無名は「貴様のためではないわ」と独りごちて、夕焼けの空へと消えた。
生きるために利用できるものは利用する。
「生」にしがみつくことをあの鬼は笑わないでいてくれるだろう。
だが、実の兄を殺すと言われて平気でいられるような奴ではないから。
「シロオニと会ったら・・・俺はどうすればいい?」
口に出すつもりはなかったが自ずと漏れ出てしまった。
隆世は黙ったまま、聞かなかったフリをしている。
考えも気持ちも固まらない。
隆世や他の皆のように強くなれない。
百花は、皆覚悟はできていると言ったが・・・
自分は――――
またシロオニを泣かしてしまいそうで、怖い。
* * *
鼠が這い回る音がする。
明け方、この屋敷に侵入してきた賊は迷うことなくこの部屋にやって来た。
「今日は学校に行かなくて良いんですかい?」
問いかければ「流石に今日は来ないだろうしね」と真面目な返答が返ってきた。
「ああ、そうか。旦那の目的は神咲でしたね。あまりにも今の役が板についてたもんで教師の道に目覚めたのかと思ってやした」
旧友の兄はニコッと笑った。
ああ、まずいなどと思う暇もない。
咄嗟に腰の刀に手をかけたが全く間に合わなかった。
相手の切っ先は額の前で止まっている。
本気ではないと知りつつも、こめかみを冷や汗が流れていく。
自分から仕向けたことなのに、後悔が渦巻くのは何故だろう。
「なあ、千歳。僕との約束を破った挙句、もうここで死にたいなんて思ってないだろうね?」
必死に心を塞ぐも、既に相手に見透かされているような気がして、抵抗を弱めたくなる。
まあ、その心情は作られたものなのだろうが。
「心を見せないか・・・まあいい。今日は礼を言いにきたんだ。妹を甚振る手助けをしてくれてありがとう。でも、どうなっても恨みっこなしだよ?」
「・・・玉零を殺すとでも言いたいんですかい?」
「はははははは!そこで君は玉零の心配をするのかい?まさかまだ」
「旦那」
低い声で、しかし相手に反感を買わない程度の声量で嗜める。
「俺は旦那が思っているほど純真じゃあ、ありやせんよ。どうなろうとあいつに言い訳の一つする気はねぇや。全ては――――」
「己が悲願のため、か」
それは、独り言に近いものだった。自分と近からず遠からずの答えは、何を示しているというのだろうか。
白鷺はそっと刀を降ろし、鞘へと納めた。
「そろそろ行ってくるよ」
力の無い声が、長い影を落とした。
「何処へ?」
その問いに漆黒の靄を纏った男は暗い笑みを零した。
「決まってるじゃないか。じきに始業のチャイムが鳴るからね」
そして靄と共に消えていく。
後には何も残らなかった。
白鷺がここに来た理由も。これから為そうとしていることも。
「・・・結局、学校に行くんですかい」
本当に行くかどうかは知らないが。
『影』の考えることは。
『影』自身にも分かってるかどうかなんて、分かりゃしない。
* * *
視界に白が広がる。それが病院の天井だと気づくのに十秒はかかった。
「ゆ、優衣!」
ベッド横のソファでうたた寝していたらしい姉がこちらの様子に気づいて名前を呼んだ。
「楓お姉ちゃん・・・」
掠れてはいるが声が出た。
「良かった。本真に良かった!」
ぎゅっと抱きしめられ自然と涙腺が緩む。
死んでいてもおかしくなかった。
刃が深く肌を裂いた感覚が今でも残っている。
ふと、斬られたはずの上半身に手を当ててみたが、痛みは全くと言っていいほど感じなかった。
「零ちゃんが治してくれたんよ」
「あの鬼が・・・」
恐らく狂い狐との戦闘で使っていた薬を持ってきてくれたのだろう。
病院服を僅かにはだけると綺麗な肌が見えた。
「医者には伏見山直伝の香で幻覚見てもらうはめになったけどな」
楓が舌をペロッと出す。
目を覚ましたばかりの妹を安心させようとしているのが痛いほど分かった。戯けて見せていても目の下のクマが現実を如実に語っている。
「お姉ちゃん、何が起こってるん?」
生き残ったのは奇跡だ。
そして斬られたのは――――
「狙いは、流君や」
楓の声は固かった。
「敵は――――」
「あの鬼と、似た匂いがした・・・白木零の身内やろ?」
「っ!」
楓が息を飲む。
図星だったようだ。
「楓お姉ちゃん、私は戦うで」
「何言ってんねん!こんな目に合った言うのに!」
血相を変えて楓が腕を掴む。その手に力はない。完全に怪我人扱いしているようだ。
「白鬼にもらった命や」
「せやかてあの鬼の兄貴のせいでっ」
優衣は首を振って否定した。
「あれは、偶然や」
「偶然?何が?」
「あの『影』は・・・」
全てを話そうとして、やっぱり止めた。
ここで話しても流れは変わらない。楓はまだ自分を末の小さな妹だと思っているのだから。
「楓お姉ちゃん、心配しな。無茶はせんよ。でも、助けは一人でも多い方がええやろ?」
楓は怪訝な顔をしたものの言いたいことは飲み込んだようだった。
「優衣・・・」
代わりに心配そうに顔を覗き込んでくる。
今は何時だろうか。曇り空が晴れ、夕焼けが赤く楓の顔を照らし出した。
「当主の件、本気なんか?」
「本気じゃなかったら冗談でも口にしいひんよ」
即答は長い沈黙を招いた。その内にだんだん日が沈んでいく。
しばらくして、楓はやっと口を開いた。
「そのために戦うならうちは止めんよ。兄貴を超えていく言うんならやってみぃ」
思わず枯れた笑みが溢れそうになった。
「ありがとう。楓お姉ちゃん」
違う。
当主の座など関係なく戦う。敵を屠るのに、己の力を示すことが何の意味になるというのだろうか。
理由があるなら、陰陽師だから。
それ以外にない。
流れを侃した先に何もなくとも、その過程で好きな人を助けられるならそれで良い。一番近くで守り戦えるという優越感すらその付属に他ならない。
「退院の手続きしてくれる?」
ニコッと笑って一番年の近い姉に頼む。
楓はあと一日くらいゆっくりしてほしかったようだが、そうも言ってられない。寝ていた間に状況は刻一刻と変わり、流れていっているのだから。
楓が主治医に話をしに病室を出た。一人ぼっちの殺風景な部屋から上ったばかりの三日月を眺める。
その僅かな光に目が眩んだ瞬間、
「ごめんね、優衣」
遠くで誰かの声がした。
己の周りを囲う薄い気は忽ち濃く、重く身体を拘束する。
(陰陽の、流れ・・・)
気づくのが遅れたのはまだ身体が万全ではないという証拠なのだろう。咄嗟に呪文を唱えることもできなかった。
視界の端に注射器を手にした女の姿が映る。
「扇を超えるだなんて、大きく出たわね。でも、貴女に超えられるかしら?扇を」
なるほど。現当主扇を超えるにはまだ力不足だったようだ。
重くなる瞼を閉じる直前、母の思惑を淀む頭で考えた。
結局答えは出ないまま、すぐに思考の濁流へと飲み込まれていった。