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月見に鬼  作者: 哀ノ愛カ
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第三献

物語が大きく動きます。

『シロオニ、どうしてるんだ!?今、どこにいる!?何でもいいから返事ぐらいしろ!!』

そのメッセージは相変わらず見事に既読スルーされていた。既読が付くからには読んでいるのだろうが、やきもきする。

白鷺の頼みは、自分のことを伏せた上で玉零を何とかして外に連れ出してほしいというものだった。しかし、それは今までも散々やってきた。今更玉零が流の誘いに応じるとは思えない。もう、妹想いの白鷺のことを洗いざらいぶちまけたいほどだ。しかし、それは白鷺から固く止められている。

「おい、無名。どこかで見てるんだろ?あんたが玉零を匿ってるのは分かってるんだ。あいつが伏見山を出たのは、伏見山の結界じゃ意味がないからだったんだろ?人間になれる兄も、妖怪である大牙も通さない結界が必要だった。そんな結界張れるのは、あんたしかいないんだよ!どこにいる!?応えろよ、無名!」

京都東山山頂、将軍塚青龍殿。

京都市内を一望できる観光スポットで、流は叫んでいた。

観光客が不審者を見るような目で流を見ている。もう、ヤケだった。


二時間ほど前――――


「そうですか・・・」

消沈した様子の白鷺と流は向き合っていた。

いつもの放課後。流は英語科準備室で白鷺の授業の準備の手伝いをしながら、もう一つの手伝いの進捗状況について報告していた。 

しかし、報告という報告もない。

玉零からの返事はなしのつぶて。この十日間ほど、同じ状況を白鷺に言わなければならない自分がいよいよ情けなくなってきた。

「先生、すみません。それじゃ、引き続き説得してみますので」

ホッチキス留めの作業が終わった流は、申し訳ない気持ちを抱えながら部屋を後にしようとした。ドアノブを回そうとした時、背後から小さな笑い声が聞こえ、流は思わず後ろを振り返った。そこには、膝を叩きながら笑いを堪えている白鷺がいた。

「いや、ごめん。君は、僕をまだ先生と呼んでくれるんだなと思ってね」

「それは・・・だって、呼び捨てにするのもおかしいでしょう。シロオニじゃ、あいつとかぶるし・・・それに、『先生』なのは確かですよね?」

白鷺はずっと宮古学園で英語教師をしている。玉零を探したいならそっちに力を注げばいいものを、そうはしない。

きっと、それは――――

「途中で投げ出したくはないからね。みんな僕の大切な教え子さ。もちろん、君も」

白鬼の性。

「でも、それ以上に家族が愛おしい。早く玉零に会いたいよ・・・」

部屋の窓から差し込む夕日がちょうど逆光になっていて、白鷺の顔を翳らす。

その憂えた表情は見えないが、白鷺の言葉は流の心を締め付けた。

「先生・・・シロオニは、話せばきっと分かってくれますよ。許してくれます。兄妹なんですから」

そんなありきたりな励まししかできない自分を流は情けなく思った。

「ありがとう。期待しているよ。神咲流君」

早く何とかして玉零を連れ出さなければならないという焦燥が流を支配する。

早くしなければ、心が押しつぶされそうだった。


そして――――


今、流は見晴らしの良い高台で玉零を必死に探していた。

無名でもいい。

何でもいいから手がかりが欲しかった。

「おい、無名!聞いてんだろ!シロオニはどこか言え!」

だが、白い目に晒されるばかりで何の収穫もなかった。

夕日色に染められていた京都の街並みは、今や煌煌とした人工的な光に包まれていた。

いい加減疲れた流は京の街を背にして展望台の柵にもたれ掛かる。

夜風が流の髪を攫い、長めの前髪を揺らす。残暑厳しい毎日とはいえ、日が落ちれば少し肌寒くなってきた。涼風を手に掠め取りながら、もう秋なんだと実感する。空を見上げても京都の街が明る過ぎて星は見えなかった。そういえば、玉零の瞳と同色の月も、今夜は見えない。

「今日はあいつに会える気がしないな」

厳密には今日もだが。

その時、あまりにも冷たい風が吹いて、体が震えた。

「何だ、今の風・・・」

山から吹き下りた風を追うようにして、流は再び京の街に目を向けた。

「あれ、は・・・」

南西の空に、陰の気。

そして、それは玉無の屋敷の方角と一致していた。

途端に悪寒が背筋を走り抜けた。

と同時に流は走り出す。

家で何かがあったのは明白だった。

陰陽の流れがそう示したのだから――――



*        *         *



日は完全に落ち、進みたくない帰路を電灯の明かりが照らし出していた。

帰りたくない。

そんな想いを抱くようになって、どれほどの月日が過ぎただろう。

ふと立ち止まって自分で数えてみると、まだ四ヶ月ぐらいしか経っていないことに優衣は驚いた。

隅田百花が家に来て、まだ四ヵ月。それなのに、流はすっかり百花の婚約者としての自分を受け入れ始めている。鎮魂祭が終わってからは周りの兄、姉達の冷やかしも日増しに増えた。

家に帰れば見たくもないものを見てしまう。

聞きたくないことを聞いてしまう。

自分は七年も思い続けているというのに、この恋はきっと秘めたまま終わってしまう。

そんなのは――――

「もう・・・」

「もう、耐えられない?」

もう少しで家に着くというところで、見知らぬ男に声をかけられた。

単に声をかけられたわけではない。

(心を、読んだ・・・?)

振り返った時にはもう遅かった。その姿を確認できないまま体が地面へと倒れ込む。

咄嗟に投げた札が相手に当たったかどうかも分からない。ただ、目の前は闇に飲まれていた。

意識が遠ざかる中、地面を這って必死で家を目指す。危険が迫っている。それだけが確かな事実で、早く知らせなければならないと思った。こんなに早く家に辿り着きたいと思ったのはいつぶりだろう。百花が玉無家にやって来る前は――――流に早く会いたくて、家路を急いでいたことを思い出しながら、優衣は力尽きた。



*        *         *



どうして自分には玉無の者のように空を飛ぶ術がないのかと呪いながら、流はひたすら走った。バス停はもうすぐだ。

走りながら扇の携帯に電話をかける。珍しく扇はすぐに応答した。

「あ、扇さんですか?そっちに何か異変ありませんでしたか?」

『はあ?異変って何や?』

「さっき、家の辺りに陰の気が流れていました。何かあったはずなんです。急いで確認して下さい』

『おい、それ本真か!?分かったすぐ見てくる。楓!緊急事態や!あ、百花は家にいとき』

電話越しに扇と楓がドタバタと駆け出す音が聞こえる。そして、その悲鳴は時を待たずして聞こえてきた。

『嘘、やろ・・・おい!しっかりしい!』

扇が携帯を放り出したのか、ガシャンという音が耳を劈く。

そして遠くで何度も扇と楓がその名を呼ぶ声が聞こえる。

優衣、と。

「くそっ!」

優衣が何者かに襲われたのは否応なしに分かった。

その後、楓が救急車を呼び、扇の指示に従い流も搬送先の病院へと直行した。相手が人か妖怪かその場では判別できなかったので、扇は百花も連れてきたらしい。病院に着くと泣きそうな顔の百花がソファに座っていた。そこはオペ室のフロアだった。

「容体は?」

「どっちに転ぶか分からんて」

「そんなに!?」

衰弱した様子の扇は明らかに自分を責めているようだった。握りしめた拳がわなわなと震えている。

そんな扇に何て言葉をかけたら良いか分からず、「楓さんは?」とだけ聞く。楓はオペ室前にいなかった。

「あいつは、隆世と電話してる。気が動転してて隆世も要点まとめるのに苦労してるやろな。俺が言うてもええんやけど、今は隆世に宥めてもらわな、あいつがあかんやろ」

「そう、ですか・・・」

その時、ICUの赤いランプが消えた。

手術着を身に纏った医者が出てくる。ついで、優衣も運ばれてきた。

「優衣は!?」

「血は止まりましたが、まだ予断を許さない状態です。今夜が峠だと思っていてください」

医者の言葉に扇はぐっと何かを我慢するかにように下唇を噛んだ。

「扇さん・・・楓さんを呼んで、今夜は優衣さんの傍にいてあげましょう」

「そう、やな」

そうして、後から駆けつけた夏を合わせて五人で椅子を並べ、優衣のベッドを囲んだ。

優衣が運ばれた部屋は個室で、それだけに重々しい雰囲気が辺りを覆っていた。

楓と百花の啜り哭く声がこだまする寂しい部屋で、扇と流と夏はあくまで冷静に話を続けた。

「どう思いますか?」

「陰の気が見えたってだけでは、それが妖怪の仕業か人間の仕業かは分からへん」

「兄貴、傷のこと医者は何て?」

「刃物による外傷やて。鉈か何かで斬られたんとちゃうかて言ってたわ」

「見たところ、呪いの類は感じませんよね」

「呪い?呪詛を扱えるんは陰陽師だけやぞ。まさか身内疑っとんのか?言っとくけど可憐は俺とずっと」

「可憐さんを疑ってなんていませんよ。陰陽師の仕業だとも思っていません。呪詛を含んだ傷なら厄介だと思っただけですよ。でも、これは純粋な切り傷だ」

「流、何が言いたいんや?・・・お前、まさか」

何かを察したらしい扇の反応に流は小さく頷き、持っていたスマホの画面を見せた。

「もう、シロオニには連絡済みです。そしてシロオニは――――」

「待たせたわね」

ガラッと部屋の扉が開いて、その少女は現れた。

「零ちゃん・・・!」

咽び泣いていた百花が顔を上げる。

「遅い。あんたすぐ行くって返信してからどんだけ時間かかってんだよ」

「煩いわね。私にも事情があるのよ。それより斬られたところはどこ?」

制服姿の少女は、素早くベッドに近づくと布団をめくり上げた。胸が僅かに上下しているのが見えたが、その動きはとても心許なく思えた。

「胸から腹にかけて斜めに斬られているらしい」

流の説明を聞き、玉零は躊躇することなく、優衣の病院服をガバっと開いた。手術後のガーゼが痛々しく優衣の身体に巻きついている。玉零はそれさえも剥ぎ取って患部を露わにさせた。

「流兄様。ここは」

「あ、ああ」

百花に腕を引かれ、優衣の無残な上半身から目を逸らし、流は後ろへと下がった。

「これは、刀傷よ」

「何やて!?そんなん誰が・・・」

扇は人か妖かの判断を玉零に迫っているようだった。

しかし、

「これだけじゃ分からないわ。でもこの傷・・・いえ、それよりも今は傷を治すのが先よ」

玉零はそう言って、瓢箪を取り出した。

「あ、それ、あの妖怪のか?」

やっと正気を取り戻したらしい楓が瓢箪を指差す。

「ええ。生憎、隼とは連絡がつかなくてね。でも予備があって良かったわ。この範囲の傷ならこれだけの量でも・・・」

そう言いながら、玉零は瓢箪を傾け、中の液体を優衣の傷口に注いでいく。

「さすがというか、何というか」

自身もその液体に救われたことを経験している夏が感嘆の声を漏らした。

どうやら傷は綺麗に塞がったようだ。

「でも、外側だけよ」

「いや、それで十分や。内臓の方はほとんど傷ついとらんて医者が言うてた。出血の割には傷が浅かったんやろな。一気に血を失いすぎたことと、感染症が問題やて医者は言うてたわ。病院で輸血してもろたし、この通り傷ものうなったから、もう大丈夫やろ」

扇が安堵の溜息を吐いて椅子に腰かける。

玉零は丁寧に優衣に服を着せ、布団をかけ直した。

心なしか、優衣の顔が穏やかになった気がする。

「ま、体力を消耗したことには間違いないから、しばらく絶対安静だけどね。それにしても明日から医者に何て説明するの?」

「そんなん、何とでもなるわ」

扇は脱力気味にそう答える。

無残な傷跡が綺麗さっぱりなくなったのを見たら、医者は慌てふためくだろう。奇跡、とでも称するだろうか。まさしくその奇跡を玉零は起こした。隼の薬をもっと他の人間にも使えれば良いのにと思う。

だが、そうしないのは人の領分を弁えているがゆえか。ならば、今回の件は――――

「それじゃあ、行きましょうか」

玉零がさっと流に向き直り、肩にかかった髪を払いのける。その癖のない漆黒の髪は春に比べて些か伸びていた。こうして改めて見ると、まるで普通の少女のようだ。

「今から敵の正体を突き止めに行く。もちろん陰陽師も来るわよね?」

玉零の言う陰陽師とは流個人を指す。

「当たり前だろ」

流は即答した。

「すまんな、流。あと、また世話になる。優衣のこと・・・ありがとう」

扇が椅子に座ったまま両膝に手を置き頭を下げた。

「いいわよ。人の領分かもしれなくても、今の私は、いいのよ・・・」

玉零は意味深なことを呟いたかと思うと、パッと顔を上げて強い視線を扇に向けた。

「優衣が倒れてたところは?」

「家からそう離れてない路地や。斬られた後、家に向かって十メートルぐらい這って行ったようやな。あんな近くで起きたことやのに・・・俺は何も気づけんかった・・・!」

歯を噛みしめる扇の肩に玉零は手を乗せる。

「はは。妖怪に慰められるとは俺も落ちぶれたもんやで。俺は警察に呼ばれてるから一緒には行けん。現場は警察とマスコミでごった返してるかもしれんけど、頼むで」

「必ず見つけ出して見せるわ。それで?あとはどうするの?」

玉零はちらっと横目で他の三人を見る。

「うちは隆世にもう一回電話するわ。さっきはめちゃくちゃ言ってて訳分からんかったと思うし。隆世の見解も聞いとく」

「まだ優衣の傍に居てやりたいけど、俺は一旦伏見山に帰らしてもらう。可憐のことも心配やからな」

そして、百花は――――

「私は・・・」

「夏さん、百花も伏見山に連れて行ってくれませんか?」

百花が自分の意見を喋る前に流は提案した。この件が妖怪の仕業であった場合、一番安全なところにいてほしいからだ。

しかし、

「いいえ。私は、優衣さんの傍にいます」

気丈にもガンと揺るがない声音で百花は言い切った。

「でも!」

「まあまあ、うちも兄貴も近くにいるし大丈夫やで。ここは任しとき」

楓に言われ、流はうんと頷くしかなかった。

百花が微笑む。

「行ってらっしゃいませ」

「ああ、行ってくる」

こうして流は玉零と共に調査を始めた。


「って・・・何でバス?あんたなら、すぐに、飛んで行けるんじゃ、ないのか?それとも、移動手段を俺、に、合わせてくれてるとか!?」

玉無邸の近くまでバスで移動し、降りてからはひたすら走りだった。

「急いては事を仕損じるって言葉知らないの?」

「結局、急いてるじゃないか!」

息も絶え絶えにようやく屋敷の近くまでやってきた。

「これ、は・・・」

扇の言った通り、辺りは騒然としていた。

警察、マスコミ、野次馬――――

強烈なフラッシュと人々の騒めきが視覚と聴覚を支配する。

これでは調査などできない。

「馬鹿。何飲まれてるのよ。しっかり読み取って!陰陽の流れを」 

呆気に取られている流を玉零が叱咤した。

「悪い」

人混みの中、意識を集中させる。僅かに残る陰の気・・・。それは確かにあの時に見たものと同質のものだった。だが、それ以上のことは分からない。憎悪に満ちた人間や怨霊に取り憑かれた人間であっても、陰の気は纏うものだからだ。

「確かに陰の気を感じる。でも、それが妖かどうかは・・・流れていった方向はこっちだ」

流は人だかりを掻き分け、徐々に現場を離れていった。

「ダメだ。ここから先は流れが読めない」

しばらくしたところで陰の気の気配が途絶え、足が止まる。

それは、春に白鬼と再会したあの公園の前だった。

空を見上げても鎮魂祭の時のような異変はない。雲があるかどうかも分からない暗闇が広がっているだけだ。

「なあ、あんたは何か感じるか?」

ずっと黙ったまま何かを考え込んでいる玉零に問い掛ける。

「おい、聞いてるのか?」

玉零は徐に公園の中へと入っていき、ベンチに座り込んだ。

「どうしたんだよ?」

玉零と二年ぶりの再会を果たした時のことを思い出す。白の鬼は不敵な笑みを浮かべて、流に上等だと言ったときのことを。

「ねえ、陰陽師」

突然、玉零が流を呼んだ。

その様子は今まで見たどの玉零よりも威勢がなかった。

「流石よね。ここまで流れを追えただけでも上出来よ。私は何も感じないもの」

陰陽の流れを読めないというのは、宮古学園の神隠し事件の時から玉零自身が公言していることだ。何を今更落ち込んでいるんだと言いかけたが、その前に玉零は後を続けた。

「貴方は陰の気を追ってるつもりなんだろうけど、そうじゃない。自分の気配を消すだけなら私にだってできる。けど、貴方が読んでいるのは、捻れた陰陽の流れ。ここで、流れが途絶えたって?有り得ないでしょ。流れを打ち消すことなんて誰にもできない」

「つまり、どういうことだ?」

玉零が何を言わんとしているのか流にはイマイチピンと来ない。

「途絶えたんじゃなくて、停滞してるんでしょ。つまり――――」

そこで、ようやく流も理解した。

「まだ、ここに・・・?」

玉零の細い首が縦に動いた。

相手に気取られないように陰陽の流れを隠すことは無名ほどの実力者にならできそうだが、それができるなら始めから流れを残すような真似はしないだろう。

確かに、玉零の言う通り、陰の気は公園の前で滞っているようだった。

ここにまだ、優衣を襲った犯人がいる。

その可能性に流が生唾を飲み込んだ時だった。

「玉零」

涼しげでいて、苦しそうな声音が耳に届いた。

振り返れば、白鷺が立っていた。

黒のハイネックにジャケットを羽織ったいつもの格好だ。

「あ、に・・・うえ」

一方の玉零は目を見開いて白鷺を凝視している。

やはり、恋人と引き裂かれた蟠りは玉零にとって大きいものなのだろうか。

完全に固まってしまっている玉零と白鷺の間を何とか取り持とうとして流は口を開いた。

「恋人と引き離されたのは辛かっただろうけど、相手は人間だったんだろ?そりゃ、兄貴も心配するって!許せないかもしれないけど、あんたのこと想ってのことだったんだ。それにあんたに謝りたいって――――」

「それを、この人が言ったの?」

言い終わらないうちに玉零が引きつった声で問い詰める。

「そうだよ」

玉零は白鷺から目を離さないまま、「そう」と言った。

「玉零、どれだけ会いたかったか」

白鷺はおずおずと玉零に歩み寄った。そして、優しく玉零を抱きしめた。

その様子を見て、安堵する。きっと、この兄妹は大丈夫だと。

だが、

「どういうおつもりなんですか、兄上・・・」

玉零はそっと白鷺の腕を引き離し、動揺した顔を見せた。

「どういうつもりって?」

「私が兄上を恨んでいるという話です。それは、違うでしょう」

そして玉零は信じられない言葉を口にした。

「兄上が私を恨んでいるのでしょう?」

一瞬、耳を疑った。

玉零は何を言っているのかと・・・。

玉零は徐々に白鷺から距離を取っていく。

「大牙が宮古学園にいるのを知った時から、兄上も近くにいることは分かっていました。私が兄上を避けていたのは事実。でもそれは、兄上が・・・怖かったからです。どういうおつもりなんですか?陰陽師に近づいて嘘を吹き込んで、何が目的なんですか?」

玉零は今確かに『嘘』と言った。

「嘘って・・・どういうことですか、先生」

玉零は初めて流の顔をちらっと見た。

「なるほど、教員として陰陽師に近づいたんですね。随分と慕われているようですが・・・能力でも使いましたか?」

能力――――

玉零は本当に何を言っているのだろう。

白鷺が嘘をつくはずも、流を謀るはずもないというのに。

訳が分からない。

「何言ってんだよ、シロオニ。先生はそんな人じゃない。あんたと同じ白鬼だろ?そうだ!先生も、優衣さんを襲った犯人を探しに来たんですよね!?それが、まだこの公園の近くに潜んでる可能性が」

「陰陽師!」

玉零が叫ぶ。そして、流の目の前に飛んできた。体当たりしてきたと言ってもいい。

「痛っ」

その衝撃で二人して倒れ込む。流の体の上には玉零が覆い被さっていた。

「何すんっ――――」

首を擡げた瞬間、怒りの言葉は飲み込まれた。

玉零の背中から鮮血が溢れていたからだ。

「大丈夫よ。そんなに傷は深くないわ」

即座に立ち上がり、流の前に立つ。

血染めの制服が否応なしに目に入った。夏仕様の白のセーラーでは、余計に赤が際立つ。

「ど、う・・・して」

流は未だに理解が追いつかなかった。

玉零に傷をつけたのは誰なのか。

優衣を襲った犯人が突然現れたのかとも思ったが、公園には初めから三人しかいない。

そう――――三人しかいないのだ。

陰陽の流れはここで滞っている。

「兄上・・・狙いは私ですよね?陰陽師を狙ったわけではありませんよね!?」

顔は見えないが、玉零の声は震えていた。

少女の小さな体の隙間から見える白鷺は和装に変わっていた。変化したのだろうと思われるが、髪の色は黒く、角も生えてはいなかった。ただ、瞳だけが暗い青の色彩を放っている。着物も黒一色で、唯一背中まで流れる襟巻きだけが青白くぼんやりとした明るさを纏っていた。全体的に喪を連想させる出で立ちだ。

「この兄が最愛の妹を手にかけるわけがないだろ?」

「それは、笑えない冗談ですね・・・」

「なぜ?妹を殺そうとする方が笑えないと思うけどな」

「兄上!」

玉零が一歩、後ろへ下がった。

「そう怖がるなよ。傷つくなあ。後ろの陰陽師も怯えてるだろ?ねえ、流君」

白鷺の表情はあくまでにこやかだった。変化した後でもその爽やかさは損なわれていない。

「先生・・・嘘ですよね」

「そうだよ、全部玉零の出鱈目――――」

「耳を貸さないで!操られるわよ!」

突然の大きな声にハッとして白鷺から視線を逸らした。

瞬間、玉零と目が合う。しかし玉零はすぐに前を向いた。

「この人は、父親の血を濃く受け継いでいる。前に言ったでしょ。私の読心の能力は父親譲りだって。でもね・・・そんな可愛いものじゃないのよ」

感じる。玉零の背中が、いや、全身が恐怖を訴えている。

「あんたの父親って・・・何の妖怪なんだ?」

玉零が唾を飲み込むのが気配で分かった。

「僕が代わりに答えようか?」

白鷺の柔らかい声が耳に届く。

玉零がそこまで戦慄するほどの相手なのか流には未だに分からない。

「黙っていてください」

「兄の助け船をそう無下にすることもないだろうに」

白鷺の溜息が聞こえてくる。と同時に玉零も言葉を零した。

「『影』よ」

「影?」

信州の山での会話を思い出す。

氷雨が取り憑かれたという『影』のことを。

妖怪の怨霊――――確か玉零はそう言っていた。

「正確にはその『影』の集合体。あらゆる妖怪の怨念、怨霊が混ざり合い一つの意思を持った妖となった。それが父よ」

「そんな難しいこと言ったって分からないよ。もっと分かりやすく示してあげないと」

一歩踏み出したと思われた白鷺が目の前に迫っていた。瞬間、玉零が刀の峰で薙ぎ払われた。

剣先は流の鼻先にあった。

「陰陽師、逃げて!」

数メートル先で蹲っている玉零が叫ぶ。だが、刃を向けられてもなお、流の足は動かなかった。

敵意を全く感じないのだ。

だが、

「君は逃げない。頭で状況を理解していても、心がそれを拒否する。・・・それが、僕だ」

容赦なく刀が振り下ろされる。

「陰陽師!」

駆け出した玉零は間に合わない。

このまま動かなければ確実に斬られるというのに、指一つ動かせない。

恐怖からではない。

この人が自分を斬るわけがないという妙な確信が体の動きを封じているのだ。

「神咲の血もここまでだ」

明らかな敵意の言葉を聞いてもなお――――それが、『影』の能力。

「何やってんだぁ!?」

突如、土の壁が眼前に現れた。

そして、目に飛び込んだ一人の人物は、

「兄貴・・・」

隅田家当主、隅田隆世だった。

「お前、俺が顕現するのがあと少し遅かったら――――」

「邪魔しないでくれるかなー?」

隆世の作った土壁がいとも簡単に壊される。

「おいおい、強度は鉄より硬くしたつもりだったんだがな。来い、流!」

隆世に手を引かれ、やっと足が動いた。

「隅田の!陰陽師を連れて逃げて」

「逃げれるような状況じゃねぇだろうが。それよりお前、何で人の姿なんか・・・」

次々と札を投げつけて土の壁を作り続けているが、白鷺には一向に効き目はないようだった。次々と刀で破壊していく。もぐら叩きのようにわざと土壁を狙っているようにすら見える。本気を出せば先回りすることぐらい容易なのではないだろうか。それほどに、白鷺の太刀さばきにはゆとりがあった。

「おい、何ぼーっとしてんだよ!お前も反撃しろよ!」

そんなの――――

「できないよね?」

とうとう、間合いに入ってきた。

「陣!」

「おっと」

その時、結界が発動した。流と隆世を見えない膜が覆っている。振り下ろそうとしていた刀を白鷺は横へと払った。

「危ない危ない。危うくこちらに攻撃が跳ね返るところだった」

落ち着いた様子で白鷺は足を踏み留め、刀を仕舞った。

隆世の舌打ちが聞こえる。

この結界は相手の攻撃を跳ね返す類のものらしい。それを白鷺は察知したようだ。

「なあ、お前。俺の心でも読んだか?」

「心を読む?そんなことしなくても、これが反術結界であることくらい分かるよ」

「詠唱は省略した。何でそれだと分かる」

「圧倒的な実力差を覆す時、並みの陰陽師がよく使う手だ。心を読むまでもないよ」

「いけすかねぇ野郎だな」

見えない壁越しに隆世と白鷺は対峙した。

「それで?どうする、妖怪。これでこちらに手出しはできねぇぞ」

「あははは。馬鹿だねぇ。こういう類の結界は内側が脆いってこと知らないのかい?」

「はあ?そんなの――――」

隆世が振り返った時には遅かった。どうしてこんなことをしているのか自分自身も分からない。

だが、

「ありがとう流君。結界を壊してくれて」

流は結界目掛けて水術を放っていた。

「な、んで・・・」

隆世の乾いた声が聞こえる。

「先生は悪い人じゃないから」

「はあ?お前、状況分かって言ってんのか!?」

「分かってる!けど、先生には何か理由があるんだよ!そうだろ?先生・・・」

白鷺は喉の奥をひくつかせたかと思うと、次の瞬間には腹を抱えて大笑いしていた。

「おい、何がおかしい・・・俺の弟に何した?」

「弟?そんなこと思ってもいないくせによく言う。本心では――――」

「やめて!」

気づけば、玉零が前に進み出ていた。

「能力をひけらかすのも大概にして下さい。貴方の言葉は毒です!」

「こんなのひけらかした内に入らないけどなぁ」

「陰陽師の心に入り込み、自身に反撃できないように仕向けておいて何を言っているんですか!?」

白鷺は肩を竦めて、玉零に向き直った。

「で、どうする?その姿のお前が俺に敵うとは思えないが?」

対人距離は白鷺の方が流達に近い。再び刀を抜けば容易に殺せてしまうほどに。

「兄上、貴方ではないと信じています。だから、こんな茶番はもう止めて目的をお話し下さい」

「・・・信じてる、ねぇ。お前も随分と『兄』というものに妄信的だな」

その時、風の刃が白鷺を襲った。

上空に人影が見える。

流と隆世の前にストンと華麗に着地したのは、やはり風術使いの玉無扇だった。

「もうちょっとで切り刻まれてしまうところだったよー」

余裕で躱したくせに手を叩いて扇の術を賛美する。

「遅いぞ」

「これでも飛ばしてきたんや。許せや、隆世。あと、目上には敬語使えよ。俺は楓の兄貴やぞ」

「はいはい。で、楓は?連絡した時は自分も行くと騒いでたが」

隆世は事前に流の身の危険を楓達に伝えていたようだ。

「お望み通り大人しくさせといたわ」

「感謝しますよ。お兄さん」

隆世の片言の謝辞に扇は鼻で笑って「可愛くねぇー」と呟いた。

穏やかなやり取りはそこで終了した。

扇は眼前を睨みつけ、一の扇を構える。

「お前か。優衣をやったのは」

ドスの効いた声で扇は白鷺を威嚇した。

「さて、何のことだか」

「とぼけんなや。お前から優衣の霊力を感じんねん。お前・・・優衣の術を受けたやろ?」

白鷺が黙った。

初めて笑みを消し、扇を見据える。首元を覆う襟巻きをクイッと上げ、口元を隠した。

「・・・だよ」

「はあ?はっきり言えや!妖怪!」

扇の怒号が轟く。

白鷺は襟巻きからパッと手を離し、再び笑みを浮かべた。

「いや、つくづく人間の体は脆いなと思ってね。刀で切り裂けば途端に動かなくなる。でも、あの人間は粘ってた方だと思うよ。流石は陰陽師だ。芋虫のように這って君達に危険を知らせようとしていたんだからね」

一の扇を持つ扇の手がカタカタと震えた。怒りが振り切れそうになっている。

ふと、玉零に視線を移せば、驚愕と落胆と悲嘆を綯い交ぜにしたような表情で固く拳を握りしめていた。

「っ!女やぞ!」

「女?僕にとってあれは、人間という種族の単なるメスに過ぎないよ」

瞬間、扇が竜巻を起こし、白鷺に突進していった。

怒りだけで動く扇にいつもの俊敏さは感じられない。

無謀だ。

「完全にキレてやがるな・・・おい、いい加減目が覚めたか?あいつは俺達の敵だ」

状況を認知してもなお、隆世の言葉と目の前の光景に流の頭は混乱していた。

「扇、止めなさい!貴方に敵う相手じゃないわ!」

白鷺は飛び出してきた玉零を邪魔だとばかりに蹴飛ばした。

そして、圧倒的な剣さばきで術を全て躱し、扇の鳩尾に肘鉄を食らわせ完全に黙らせたのだった。

「その地を以て形を成せ。この血を以て命を為せ。土蜘蛛!」

その間、隆世は式神を召喚した。が、新たな人物の登場で呆気なく勝敗は期した。隆世が作り出した優に五メートルは越える土蜘蛛を銀の毛並みを持つ狼が食いちぎったのだ。

「己の力量を弁えた方が良いぞ。人間」

瞬間、陣を斬る隆世よりも早く白鷺の刃が隆世の胴体を薙ぎ払う。真っ二つに割れた人型の木札が地面に落ちる音が虚しく聞こえた。

「化け物がっ!」

苦悶の表情を湛えながら扇が呻く。

「化け物は一体どちらの方だか。無垢な白を汚した陰陽師がよく言う」

そして、白鷺はゆっくりと流に近づいてきた。

「ああ、まだ信じられないという顔をしているね。神咲流君・・・いや、神を冒涜した穢れた陰陽師の子孫。六百年前の仇を打たせてもらうぞ」

白刃に赤の色が浮かび、そこから僅かに優衣の気配がした。頭でやはり優衣を斬ったのはこの人なのだと理解するも、一向に足は動かない。白鷺は首に狙いを定め刀を振り翳した。自身に向かってくる刃はスローモーションに見える。扇が何やら叫んでいるがひどく遠くに聞こえた。

死を覚悟しないまま、切っ先が首筋に触れた・・・その時。

「兄上・・・」

か細い声がはっきりと耳に届いた。

「兄上、後生です。後生ですから!」

視線を下にずらせば、白鷺の足首を掴みながら地面に這いつくばっている少女の姿が入り込んだ。

「離せ、玉零」

「離しません」

白鷺が舌打ちをし、苛立ちを露わにした。

「退け。さもなくばお前も斬るぞ」

「身内を斬るのはやはり忍びないですか?本当に殺したい相手は私では!?何故、人を斬ったのですか!?・・・兄上が何を思いこのようなことをなさるのかは知りませんが、もうこれ以上人を傷つけさせはしません!彼を傷つける者を、私は絶対に許しはしない!」

玉零は揺るぎのない澄んだ黒の瞳を白鷺に向けた。

「お前、まさか。この男を好いてるわけではあるまいな?」

青みがかった深い闇が玉零を射抜く。心を読もうとしているのか。

玉零は瞳を逸らすことなく言い切った。

「人の子を愛するは白鬼の性でありましょう?兄上、もう一度お頼みします。この玉零、何でも兄上の言う通りにいたします。兄上が斬れないならば、自ら命を断ちましょう。ですから、ここはお引き取りを!」

白鷺はつまらないものを見るような目で玉零を見下ろしていた。そして、足首を掴む玉零の腕を跳ね除けると同時に玉零の腹部に刀を突き刺した。

「思い上がるなよ。お前などいつでも殺せる」

玉零の口から血が吐き出された。

その光景が目に赤く張り付く。体が、心が・・・冷えていく。捩れていた頭と心が、重なる。

「これは・・・?」

傷口を中心に、刀身が凍てついていく。

「離れろ」

やっと出た声は酷く冷えていた。

「シロオニから離れろ。外道が」

「ほう。自力で俺の洗脳を解いたか」

頭が極限まで冷えて研ぎ澄まされていくようだ。だが、異様なまでに胸は熱く滾っていた。

「お、んみょうじ・・・」

玉零の吐く息が白い。血は止められたが、このままでは凍死させてしまいかねない。

「人間!玉零を殺す気か!?」

銀の狼が駆けてきて流に牙を向いた。

「それを言う相手は俺じゃないだろ。シロオニに刀ぶっ刺したのは誰だか見てなかったのか?」

「白鷺・・・」

さすがの馬鹿でも張本人に恨めしい目を向けた。

「おいおい、大牙。やっとお前の願いが叶うっていうのに何だよ。これぐらいの兄妹喧嘩見過ごせ。もうすぐで玉零はお前だけのものになるんだからな」

「白鷺・・・本当か、それ!」

途端に喜ぶ狼はやはりただの馬鹿だった。

「ああ。玉零、何でも言うことを聞くと言ったな?お前、大牙と一緒になれ」

「それで、兄上が引いてくださるなら・・・喜んで」

喜んで。どんな苦痛も耐えてやると、玉零は言っている。

「良いだろう。その条件、飲んでやる」

白鷺はふんと鼻を鳴らして、刀を抜いた。凍らせているため、血は吹き出さない。が、早く治療しなければ一大事になる。

白鷺は妹を殺すつもりはないのだろう。生かすつもりもないのかもしれないが。

「新月の晩に妹を傷めつけるのは少々大人げなかったな。謝るよ、玉零」

白鷺は全く悪びれた風もなく、地面に倒れている玉零の横を通り過ぎた。

「良いわけないだろ。それに、今のはどういう意味だ?」

「ああ、君は知らないのか。玉零はね、力を半分失くしているんだよ。だから、今日みたいに月の力が完全に断たれる日には、白鬼になれないんだ」

「はっ。それで今日喧嘩吹っ掛けてきたのかよ。とんだ卑怯者やな!」

扇が起き上がって扇子を構えている。が、それを持つ手に力は入っていない。白鷺は扇の虚勢を相手にすることなく「誰のせいでそうなったんだか」と呟いた。

そして、

「玉無扇」

扇の名を呼んだ。

「僕の望みは神咲流ただ一人だよ。月が満ちるまで猶予をあげよう。それまでにこいつを俺に差し出さなければ他の者の命は保証しない。隅田の小僧にでも陰陽京総会の総代にでも伝えておけ」

「約束が違います!」

玉零は上半身を起こして、叫んだ。

「何を言ってるんだい?お前の意思を組んで今日は引いてやるんだ。人聞きの悪いことを言わないでほしいな」

身体を起こしかけていた玉零の額を足で踏み潰し、再び地面に叩きつける。

その光景に扇が悪態を吐こうとする前に、流の口は動いていた。

「ゲス野郎が。そいつから離れろって言ってんだろが」

辺りが一気に氷ついた。そう、文字通り氷に覆われたのだ。地面も樹木も遊具も。

「お前・・・」

その時、空から炎の矢が飛んできた。

矢は的確に白鷺を狙っている。

「おっと。これは火の陰陽師の仕業かな?」

だが、白鷺は大牙の助けによって難を逃れた。さっきまで白鷺が立っていた場所に報いれなかった一矢が突き刺さっている。

「玉零、立て。行くぞ」

そして、白鷺は踵を返した。

玉零は実の兄に貫かれた腹部を抑えながら立とうとする。そのような身体で一体どこへ行くというのか。何のために行くというのか。  

誰のために――――

「シロオニ!」

駆け出そうとした足は「来るな!」という強い声に負けた。

「陰陽師、自分の状況を考えて。兄上が気まぐれに与えた猶予を無駄にしないで。私を信じて・・・!」

乱れた髪から覗く力強い目に圧倒されて動けない。だが、その直後、立ち上がりかけていた玉零の体は大きく傾き、地面へと倒れた。

「玉零!」

今更ながらに傍に寄ろうとする狼は、人の姿になって駆け出した。

しかし、地面に倒れる寸でのところで玉零の体を支えたのは大刃ではなかった。

「あんた・・・」

今の今まで気配を感じなかったわけではない。そこにいると知っていて何も言わなかったのは、恐らくは全く気づいていないだろう玉零を思ってのことだった。

「隼、妹の治療を頼むぞ」

「御意」

気絶したままの玉零をそっと抱きかかえ、隼は白鷺と大牙に続いた。やはり、隼は白鷺側だったようだ。玉零が白鷺に刺されてもなお出てこようとしなかった時点で薄々は気づいていた。

「おい、あんた。忠犬じゃなかったのかよ」

隼は忠実な玉零の従者だったはずだ。

「寝返ったのはそいつのためか?」

重ねてした質問に隼は答えた。

「寝返る?主人を裏切るなぞ有り得ん。貴様は何か勘違いをしているようだが。俺の主君はただ一人――――白鷺様だ」

それは本心か。嘘か。

本心ならば、いつからのことなのか。

玉零は知っていたのかいないのか・・・。

恐らく、白の鬼の姫は何も知らないに違いない。

従者だからではなく、長年共に過ごした者として大切にしてきた『隼』という人物に、欺かれていたことを。

だから、

「泣くぞ。そいつ」

泣かせてくれるなと、願いを込めて呟く。

「・・・もう、遅い」

隼は懐から出した鳥の羽を投げ、白鷺、大刃と共に飛び乗った。

隼に抱かれた玉零の横顔が最後に目に入る。

その閉じられた眼からは一筋の雫が零れ落ちていた。

彼女は何に心を痛めて泣いているのか。

玉零が流の前で涙を流したのはこれで二度目だ。しかし、今度はそれを拭ってはやれない。そのもどかしさと苛立ちは情けない自分への罰のように感じた。

「くそっ!」

未だ凍てついたままの地面を殴りつける。血が滲んで氷が溶けていくのを無言で見つめる。

もう、玉零達の気配はない。鳥の羽に乗ってかなり遠くまで行ってしまったのだろう。

誰を責める資格もない。

六百年前の仇・・・白鷺は確かにそう言った。

結局はこの血が招いたこと。

神咲の血が、自分自身が、どうしようもなく恨めしい。


玉零を泣かせているのは他でもない――――自分なのだから。



*        *         *



雲を抜けた。ここまで高く飛べば、もう奴らに見つかることもないだろう。このまま真っ直ぐに北へと飛べば白鷺の隠れ家がある。

「隼、玉零は大丈夫か?」

どういうつもりでそれを言っているのか。

人の姿をしている大牙は項垂れた様子で白鷺の後ろから顔を出していた。だが、心配そうな目で見つめてくる割に全く近づこうとはしない。

本当に――――愛しているのか疑わしく感じる時がある。

「大丈夫です」

隼は邪念を追い払いながら、薄い氷を手で温めて溶かし、懐にあった瓢箪の液体をかけた。傷が塞がっていく。

安心した様子で「良かった」と大牙は笑うが、何が良いものか。

誰が、この(ひと)を――――

「隼」

冷たい声音が、耳を掠めた。

慌てて思考を停止させると、濃い檜の香りが鼻をついた。目の前には立派な日本家屋が佇んでいる。

京の北山にひっそりと建つこの屋敷は白鷺が今年になって造らせたものだ。そう、彼はもう何ヶ月も前から日本に帰ってきていた。

「何でしょうか、白鷺様」

羽を仕舞い、仰々しく頭を垂れて聞けば、「玉零の怪我を全て綺麗にしろ」とのお達しだった。今、玉零はただの人でしかない。僅かな傷も自分では癒せないのだ。

「御意」

玉零を抱えた隼は奥の部屋へと通された。中庭の枯山水が見事だ。ここは、元から玉零の部屋として用意された場所なのだろう。大和の本家にある玉零の部屋から見える庭とほぼ同じ造りになっている。

「じゃ、後は頼むよーん。隼ちゃん!」

上機嫌で手を振る大牙はもう既に酒を口にしているに違いなかった。

「あ、でも玉零に変なことしたら承知しないぞ。お前の怪我の治し方イヤラシイからなー」

「そのようなこと・・・」

「ははっ!分かってる。ちょっとからかっただけだ。こんなお子様じゃ、食指など動かんだろう」

手にしていた一号瓶を一気に煽り、大牙は吐き捨てた。大牙は酒が入り、完全に酔うと別人のようになる。喋り方は幾分マシになるものの、些か冷徹になるきらいがある。普段の様子からは想像もつかない変貌ぶりは、時に、意識して口調を変える白鷺よりも恐ろしい。

「にしても、泣いたら面倒そうだな。起きたらどうする?白鷺」

既に空になった瓶を片手で弄びながら、大牙は溜息を吐いた。

「お前が宥めれば良いだろう?」

顔を顰めて白鷺は大牙の方を向いたが、もう既にその姿はなかった。新しい酒でも取りにいったのだろう。

白鷺は舌打ちして、隼に向き直った。

「厄介ごとは嫌いだ。傷が治れば無理にでも起こしてそいつを宥めておけ」

「承知しました」

何も考えず、隼はお決まりの言葉を口にした。

あれこれ思うのは命取りだ。

主人の前ではどんな思考も読まれてしまう。

例え、愛しい人が傷つけられたとしても、是としなければならない。

「私が、治してさしあげますから」

白鷺の足音が完全に聞こえなくなってから、やっと言葉を、感情を零した。

玉零の柔らかい頰を撫でる。顔も傷だらけだ。

湿らせた布で綺麗に拭うと些かマシにはなったが地面に擦れた後は残っていた。顔だけではない。服を脱がせば、白鷺に刺された腹部以外も痣や傷がいくつも見て取れる。

許せない・・・などという感情は無理矢理押し込んだ。その他の感情も――――

押し殺して、玉零の肌に舌を這わす。

目を瞑ったまの少女が顔を歪めて小さな声を零した。

「っ!」

押し殺せ。押し殺せ。押し殺せ。

何も感じてはならない。ただ、治療に専念しろ!

自身に暗示をかけるのは慣れているはずだ。

でも――――

たまに、自制が効かなくなりそうになる。

あいにく自分の血をろ過して作った特製の薬は、腹部の傷を塞ぐのに全て使ってしまっていた。だから、こうして直接唾液を傷口に塗る必要があるのだが、この行為は理性を保つのが難しい。

「玉零さ、ま・・・」

その時、少女の目が薄っすらと開いた。

どきりとして、顔を遠ざける。

服は全て取り払っていたが、玉零は裸であることに驚きもせず、「治してくれたのね」と、ぼんやりとした顔で呟いた。まだ、意識がはっきりしていないのだろう。いつものことだと、そう思っているに違いない。

その予想は当たり、みるみるうちに玉零の顔は青ざめていった。

白鷺が予め用意していた着物に腕を通す途中で、違和感に気づいたのだろう。緋牡丹の刺繍は玉零の趣味ではない。

「隼、貴方どうして!?」

着物の帯を締めもせず、玉零は隼に詰め寄った。

「兄上に捕まったの?」

「玉零様、私は・・・」

真実を告げるのは躊躇われた。だが、嘘をついても、目の前の少女は見抜いてしまうだろう。白鬼の姿でなくても、勘の良い彼女なら――――そう思っていた。

「私は、白鷺様の従者です」

簡潔に言い放った事実はいとも簡単に「嘘よ」の言葉で片付けられた。

「早くここから逃げるわよ」

徐に立ち上がろうとする仮初めの主人の手を掴む。

「それはできません」

「確かに兄上と大牙が傍にいるんじゃ、すぐに捕まるわよね」

「そうではなく」

「ならば隙を伺いましょう。貴方は兄上に従っているフリをしていてちょうだい」

「玉零様!」

堪らず叫んだ名が重く心に沈んでいく。

「何?大きな声出したら気取られるでしょ?」

あまりの落ち着きように隼は面食らった。

視線を彷徨わせ、掴んでいた手を離す。

「隼?」

優しく名を呼ばれ、確信した。

玉零は現実逃避をしているわけではない。

全く、疑っていないのだ。隼が自分の味方であると、信じきっている。

「ここから貴女を逃すわけにはいかない」

「何を言ってるのよ。危険は承知の上よ」

「違う。俺は、白鷺様の命に従う」

ふっと玉零は笑みを零した。屈託のない、純真な子どものような笑みだ。

「私の前までフリをしなくても良いのよ?」

隼は返す言葉が見つからなかった。

「隼?」

二度目の呼びかけも先程と変わらず、相手を気遣う優しい声音だった。

玉零の顔をまじまじと見つめる。

吸い込まれそうなほど大きくて丸い瞳に、己の姿が映っている。

長年、欺き謀った。

玉零の目には未だ忠実な従者として己が映っていることに、後ろめたさや憐れみを感じることはない。ただただ呆れ、怒りが湧いてくる。初めから存在しない男を直向きに見つめていることに、嫉妬さえ覚えた。

それは、俺じゃない・・・。

無性に――――その幻想を打ち砕き、無垢な少女に現実を分からせてやりたくなった。

「初めてお会いした時のことを覚えていますか?」

それは、まだ寒さの残る春先のことだった。

「初めて会った時?物心ついた時には貴方がいたわ」

「俺は覚えています」

側使えに抱き抱えられ泣いていた赤ん坊のことを。

「それが何だっていうの?」

昔話に付き合う余裕はないらしく、玉零は怪訝な顔をして隼を見た。

「この先、このやや子の側に仕え、片時も目を離すなと。そう命じたのは白鷺様です」

玉零の目が僅かに揺れた。

「貴女の傍にいたのは、白鷺様の命令だったからです。でなければ、貴女と共にはいなかったでしょう」

「それが本当だったとして、私と貴方に何の関係があるの?」

だが、鬼の姫は気丈だった。始まりがどうあれ、共にあった数百年の時間が無に帰すとは考えないらしい。

「兄上がどういう理由で貴方を私の側に置いたかは知らないけど、私は――――」

「止めてください。俺と貴女の間には信頼があったなどと、主従の絆があったなどとおっしゃるな。俺はただの監視役に過ぎない。貴女が兄を追って江戸に出た時、どうしてなかなか見つけられなかったと?俺がそうならないようにしていたからでしょう?白鷺様の命令ですよ。全部。この数百年、確かに貴女といた時間の方が長かった。ですが、白鷺様が真の主だと、忘れたことは一時もありません」

勢いに任せて言ったが、最後のは嘘だった。

白鷺が大牙と共に列強の国へと渡ってから百年余り。戦後一時帰国した時もあったが、この平和な世で数十年、幼い玉零と共に過ごした日々は、隼にとって安らぎの時間だった。

白鷺も大刃もいない。

千歳も玉零から離れた。

玉零の一番傍にいるのは・・・

「・・・嘘よ」

そう呟く玉零の声に力はなかった。

それでいい。

俺の全てを嫌いになれば。嫌悪すれば――――少しは楽になれるような気がする。

「俺は初めから白鷺様の(しもべ)ですよ。貴女はずっと知らなかっただけのこと。そう、ずっと騙されていたんだ」

「そんなことっ」

「白鷺様のお体のこと、心配なさっていたが・・・白鷺様が殺せなかった時は俺が代わりにあの人間を殺す手筈になっている」

玉零の顔から完全に笑みが消えた。代わりに冷たい怒りを滲ませている。

「笑えない冗談だわ」

「冗談じゃない。白鷺様の命令は絶対だ」

そう言って、懐から書状を取り出して突きつけた。神咲流が何も知らず白鷺に遣わされて渡してきた封筒の中に入っていたものだ。

「何、これ・・・ちょっと待って、白翡翠の勾玉を兄上に渡したの!?」

白鷺の司令は大きく三つあった。まずは、大和の白鬼家本家に行き、当主の証である白翡翠の勾玉を取ってくること。次に、玉零の居場所を探し出すこと。そして三つ目は自分が悲願を果たせなかった時、代わりにその役目を引き受けること。書状にはもっと簡潔に神咲流を殺せと書いてある。

「父上が了承するとは思えないわ。貴方、父上に黙って勾玉を持ち出したの?」

静かな怒りが伝わってくる。このように玉零を怒らせるのはいつぶりだろうか。

「どうしてそこまで憤る?大和に貴女が置きっ放しにしていたものだろう」

痛いところを突かれ、玉零は声を低くした。

「誰に物を言っている。言葉遣いに気をつけよ」

冷たい目に射抜かれ、ゾクリと背筋が凍る。白鷺に似た目だ。

流石に主君の妹君に対する物言いではなかったと改め、「貴女には重すぎた宝具を白鷺様が引き受けてくださったのです」と、皮肉を込めて言い直した。

「父上が許さないわよ」

「三影様は黙認されておいでです。百五十年前もそうだったではありませんか。白鷺様が日の本に帰って来た今、白鬼家の跡目は白鷺様以外に相応しい方はおられません」

「っ!」

玉零の丸い目が見開かれた。

やっと、その目に映る男の正体に気づいたか。

「一体・・・」

だが、

「一体どうしちゃったのよ?」

泣きそうな声で玉零は隼の腕を掴んだ。

「まさか本当に、陰陽師を手にかけようなんて考えていないわよね!?兄上に脅されているの?」

「いいえ」

「じゃあ、兄上に操られているのね?」

「それはありません。全て俺の意志です。白鷺様を主としたことも含めて、私の意思なんですよ」

「やめて!」

とうとう、玉零は涙をポロポロと流して泣き出した。陰陽師の言った通りになったなと、一人感慨に耽る。

やっと肩の荷が下りたような心地だった。

「隼にとって、私は何だったの?」

嗚咽を噛み殺しながら、玉零が問う。

「貴女は・・・」

主君の妹。

監視すべき人。

守るべき人。

大切な人。

守りたい人。

焦がれる人。

恋い慕う人。

そう想うことは、許されない人――――。

その感情の変化を説明するつもりは毛頭なく、

「貴女の守りは疲れました」

突き放されたくて、突き放す。

主君の妹は泣き腫らした目を真っ直ぐに向け、隼の心を読み取ろうとしているようだった。しかし、白鬼ではない少女に真実を知る術はない。

隼はこれ以上言うことはないと思い、障子を開けて廊下に出た。

「・・・になった?」

か細い声に思わず振り返りそうになるも、思い留まる。そうして一歩足を動かした時だった。

「私のこと嫌いになったの?」

背中が温かい。

腰に回る手を目にして、やっと後ろから抱きつかれているのだと理解した。

玉零は声を震わせながら続ける。

「そうなんでしょ?私が、我儘でどうしようもない主だから。こんな姿になってしまったから。呆れて兄上に寝返ったんでしょ?力ある者に惹かれるのは妖怪の真理。そのことで貴方を咎めたりしないけど・・・」

「玉零様、お止めください!」

堪らず叫んで、腕を引き離す。

分かるなどと言ってくれるな。

自分に非があったからなどと思わないでくれ。

嫌われたくて言った言葉が全て目の前の少女を苦しめていることに、戸惑いを感じた。

「全部まやかしだったなんて言わないでよ。そこまで貴方に失望されたのかと思うと、苦しくて、申し訳なくて」

なおも追い縋ってくる玉零の手を掴みかけ、後ずさる。

その拍子に玉零の体が大きく傾いた。

どうしようか迷った。

迷った挙句、結局はその腕を掴み取っていた。

寸でのところで、助けてしまったからだろう。玉零の着物の裾を踏んで自身もよろけてしまい、気づけば胸の上に愛おしい人が乗っている。

「ごめんなさい」

そんな顔で謝らないでほしい。

「隼がいないと私・・・どうしたらいいの?ねえ?」

頰を両手で包み込まれる。ポロポロと涙が落ちる。肌に生温かい雫が伝う。

「ねえ、隼。嫌いにならないでよ!」

嫌いになるはずがないのに。

「私は!」

嗚咽が一層激しさを増す。

「私は、隼が好きなのに!」

ああ。

泣きたいのはこちらの方だ。

その好きの意味を考えて絶望するのは、死にたいほど辛い。

「・・・いい加減にしろ」

隼は態勢を変え、玉零を組み敷いた。

「好き?冗談じゃない。貴女は何も分かっていない。自分だけが辛いと?俺は!」

髪がバサッと前に垂れる。

しまった。髪紐が・・・

そう思った時には遅く、既に理性が飛んでいた。

今まで押さえ込んできた感情が言葉として溢れ出る。

「ずっと、貴女をお慕いしていました。好きで好きで堪らない。でも、貴女が俺を好いているという感情は俺のそれとは違う!体は子供でも、貴女は子供じゃない。分かるでしょう?一度でも恋を知った貴女なら!俺の気持ちが――――」

濡れた目に浮かぶ雫を拭う。

玉零の驚いた顔が目に入る。

ほら、やっぱり。

何も知らなかったという顔だ。

何百年という時を共に過ごした。どんな時も一緒にいた。だが、一瞬足りとも理解し合えたことはない。支え合えたことはない。そう、一方的な献身が従者の務めなればこそ。

それで良いと思えていたのが不思議なくらい、今は熱い。灼けて爛れた心が醜く顔を覗かせている。

そうか・・・

そうだ。

今は、従者でもない身なれば――――

「好きです。貴女が愛おしい。許されなくてもこの想いを――――」

貴女に知っておいてほしい。

そして、貴女が――――欲しい。

初めて玉零が苦悶の表情を示した。

「わた、しは――――」

その言葉の続きを言わせまいと顔を近づけた時だった。

横腹に衝撃が走った。

枯山水の庭に弾き飛ばされる。

「許されなくても、何だ?」

「白鷺様・・・」

口元から血が垂れる。先ほどの蹴り一発で内臓がやられたようだ。

白鷺の足元には目を閉じた玉零が横たわっている。

「妹の記憶は消した」

「私の記憶も消してください!」

己の失態を恥じ、頭を下げて白鷺に懇願する。

「却下だ」

「どうしてですか!?」

思わず顔を上げれば、冷ややかな目が隼を見下ろしていた。白鷺は玉零の体を抱き抱えると、部屋へと入りその身体を横たえた。肩まで布団をかけてやる仕草は「兄」というに相応しい。が、その心中は図りかねた。白鷺の真意を知る者などどこにもいないだろう。 本人でさえ分かっているのか怪しい。『影』という種族は――――

ピシャリと、障子が閉じられた。玉零を寝かしつけた際に部屋の灯りを消したようで、辺りの闇が一層深くなっていた。庭の灯篭に灯る火は弱々しく、白鷺の顔まで照らすことはできていない。

夜目が利くとはいえ、主の表情を読み解くのは難しい。

「私の記憶も消して下さい。でなければ・・・」

「でなければ何だと言うのだ」

「このままでは・・・」

白鷺の溜息が聞こえる。

「任務に支障が出るか?同じことを二度も言うな。その願いを聞き入れた結果がこれだ」

腕を組み、柱に凭れ掛かりながら白鷺は吐き捨てた。

つまり、以前にも同じことがあったのだろう。

いつだ。

自分は何をしでかした。

「それを言う義理はない」

思考を読んだ白鷺が先回りして答える。

『影』は人の思考を読み、書き換え、コントロールすることもできるという。

ならば、この感情自体を消し去ってほしい。

「試し済みだ」

またもや心を読んだ白鷺が強い口調で嗜めた。

「お前の想いを捩じ伏せることは容易ではない。だから、これを渡したのだろうが」

白鷺は廊下に落ちていた髪紐を投げて寄越した。

手にした赤い紐は白鷺の血で染め上げたものだ。まるでそれは・・・。

「呪いのようか?」

「お止めください」

白鷺との会話は疲れる。

「まあ、そう言うな」

口にしていないのにそう苦笑する白鷺は、実のところ何を思っているのか全く分からない。

「枷だ。お前はそうやって縛り上げておかないと・・・」

白鷺がそう独りごち、闇より深い煌々とした黒い瞳を向けた。

「大和に飛べ」

「・・・如何様なご用件で」

思考を停止させ、主に向き直る。

もはや、これ以上は何を考えても意味がない。

白鷺は懐から勾玉の首飾りを取り出すと、その艶やかな白い玉を指先で割った。

「偽物だ。本物は親父殿が持っている」

「しかし、それは確かに玉零様が二年前に・・・」

「それが偽物だったということだろう。親父殿はまだ現役を引退する気などないのさ。玉零に家督を譲ったという話は恐らく――――」

白鷺は思案して、口を噤んだ。

「本物を見つけ出して、持ってこい」

「御意」

三影が隠しているなら自分にどうこうできる問題ではないだろう。しかし、主君の命令は絶対だ。

できるできないの問題ではない。

やるのだ。

それに今は、これぐらい難易度の高い任務である方が気が紛れる。

三影に斬られるのも本望。

二度と玉零に会わなくて済むのなら。

「それと――――」

飛び立つ前に白鷺は命令を一つ加えた。

風がごうと吹き荒ぶ。

隼はきつく髪を縛ると、真っ直ぐに南へと飛んだ。



*        *         *



「あいつも哀れだな」

庭に音もなく現れた兄弟は盃を傾けながら嗤った。

「飲み過ぎだぞ」

呆れよりも薄ら寒い心地で苦言を呈せば、笑い声がいっそう高くなった。

「白鷺。お前は優しすぎるなぁ」

どこをどう見てそう思ったかは知らないが、その心中を読み取る気は起こらない。

「昔からお前をずっと見てるけどよ、時々心配になってくるんだ」

「お前に心配されたら俺もお終いだよ」

「いやいや、とっくにお前は終わってるぜ?」

見透かすのは容易でないと知りながらじっと見る。

父と母が引き取った大神の子を。

兄弟同然に育った友の顔を。

「神の御心を推し量ろうなんてするんじゃねえよ」

「随分と尊大だな。ずっと気になってたんだが、お前、二重人格なのか?酒が抜けたら何も覚えてないような顔してるが、あれは演技か?」

「面白いこと言うねぇ。白鷺」

かっかと笑う大刃は手酌しながら縁側に座った。

そして、そのまま酒を飲み続ける。質問に答える気は毛頭ないらしい。

溜め息を吐けば「お前も飲むか?」と盃を渡してくる始末だ。

それを大人しく受け取る自分もどうかしていると思いつつ、白鷺は大刃の隣に座った。

背後の部屋では玉零が寝ている。きっと碌な夢を見ていない。

「なあ、どうして玉零なんだ?」

幾度したか分からない問いを振る。

普段の大刃なら「好きなもんは好きなんだ!」と憚らず大声で叫ぶのだが・・・そういえば、酔った大刃には初めて聞くかもしれない。

大刃は白鷺に酒を注いで徳利を置いた。

「そんな分かりきったことを何回も聞くなよ」

大刃の瞳が青く揺らめいている。完全に人間に変化していないため、獣の耳と尻尾もふさふさと揺れている。白銀の毛並みは神の子に相応しく神々しい。

「馬鹿言え。お前ほど心の読めない奴はいない」

「白鷺は分かりやすいけどな」

減らず口を叩く大刃を横目に酒を煽る。

喉の奥が痺れるような感覚に目を閉じれば、些か胸の痛みが消えたような気がした。

「隼を行かせて良かったのか?」

「何でだ?」

大刃が危惧していることに察しはついたものの知らぬ顔をする。

酒で紛れるぐらいなら大したことはない。

人から受けた傷も。人を傷つけた傷も。

「果たして本当に人を殺れるのかねぇ」

大刃の小言を無視して再び酒に口をつける。


殺れる殺れないの問題ではない。

殺るのだ。

それで死ぬのも本望。

悲願を果たせるのなら――――


隼の心に植え付けた言葉を自身にも使いながら、白鷺は一晩酒に酔いしれた。


とうとう隆世がしゃしゃり出てきましたねぇ(笑)

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