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月見に鬼  作者: 哀ノ愛カ
2/8

第一献

本編のはじまりです!

まだまだ汗ばむ季節だというのに、その日はやって来た。

九月一日――――始業式だ。

「行ってきます!」

「行ってきまーす」

百花と優衣の元気な声に後押しされて神咲流も「行って・・・きます・・・」と、眠たい目を擦りながら玄関を出た。

全身が怠く、一歩足を踏み出すのも重い。

それもそのはず。

昨夜、伏見山の鎮魂祭の最後の儀式を行ったところなのだ。

たった一週間足らずで伏見山神社を再建させる間、伏見山可憐と夏は玉無邸に居候していた。玉無の誘い込み結界には妖狐も安易に近づかないだろうという判断だったようだ。

夏休みが終わる八月三十一日。隆世の式神が尽力したおかげで、伏見山の社と屋敷は元通りになった。そして、可憐、扇、夏、優衣、流の五人で結界の張り直しを行ったのだ。

隆世は式神を提供したということで、儀式への参加は断った。玉無の現当主はやはり現れず、鈴音もどこか遠くに行ってしまったようで連絡はつかないということだった。

可憐に仕えていたあの小夏という式神も鎮魂祭が始まった盆以来姿を消していた。特別思い入れがあるはずの可憐が別段気にした様子もないので、誰も言及しないが。あの戦闘の最中、死んでしまったのか。それとも、己の役目の終わりを悟り、自分から消えたか。どちらにしろ、今の可憐には夏がいる。

可憐が妖狐の器となり得る以上、一生、あの屋敷からは出られないだろうが、きっと二人でなら、乗り越えていけるだろう。

「大丈夫?流君」

優衣が心配そうに顔を覗き込む。

同じように霊力を消耗したというのに、優衣はピンピンしている。

「優衣さん、元気ですね」

「まあ、私は終わった後ぐっすり寝たからね。流君はなかなか寝付けんかったんとちゃう?」

「そんなこともないんですが・・・」

軽快な足取りで歩く優衣を羨ましく思いながら、交差点で別れる。

「ま、今日は始業式だけやし。帰ったら寝えや」

「行ってらっしゃいませ」

百花が手を振って優衣を見送った。流にはその気力もない。

だというのに・・・

「おっはよ!」

百花に抱きつく少女の姿が否応なしに視界に入った。

「お、おはよう。零ちゃん」

「びっくりした?」

「びっくりするよーもう!」

咎める素ぶりを見せる百花だが、そんなに怒ってはいない。

百花の友達、白木零が妖怪であることが知れたのはつい先日のことだ。

本当の名は玉零。白鬼という鬼の種族だ。

だが、百花は玉零を受け入れた。恩人として、友として。

そして、流自身も――――

「おい、貴様。何をにやけている」

「はあ!?にやけてねぇよ!」

赤い髪紐が目に入る。玉零の従者、隼だ。

「貴様・・・あの話、本気なのか」

流の反論を無視して、隼は耳打ちする。

白鬼と陰陽師が共闘していた時代に、戻ろう。

流が玉零に出した提案―――否、願いを、隼も聞いていたのだろう。

玉零を笑顔にしたくて咄嗟に思いついたことだったが、決して嘘ではない。

恐らくこれは――――

「本気だよ」

白鬼の悲願。

その重みを背負うだけの覚悟は持っているつもりだ。

隼はしばらく目を伏せ「分かった」と答えた。

だがそれを賛成と捉えていいものか流には測りかねた。

だから、

「あんた、何を考えている?」

そんな質問が口を吐いて出てしまったのだろう。

しかし隼はそれに応えなかった。

ただ、空に目を馳せ、「望むのは自由だ」と呟いた。

恐らく隼は叶わないと考えているのだろう。妖怪と陰陽師が手を取り合うことは不可能だと。

白鬼である玉零は協力的であるというのに、やはり白鬼ではない妖怪には受け入れ難いことなのだろうか。

陰と陽は寄り添うものだというのに・・・

「ねー!早く!信号変わりますよー」

数メートル先で玉零が手を降っている。

流は急いで駆け出した。

ふと、隼が空を仰ぐ。

流も同じように目を馳せれば、少しだけ欠けた白い月が顔を覗かせていた。



教室のざわめきが、心をざわつかせる。

久しぶりにこの空間に放り込まれた。

以前はさして心を痛めなかったというのに。今はどうだろう。

ここに自分が入れる輪がないと自覚するのは。

凍らせていた氷が溶けた今、痛覚が戻ってきているようだ。

「おはよー!」

そんな中、流に声をかけたのは峻介だった。

「久しぶり、神咲君」

学級委員長の早紀も。

その瞬間、クラスの喧騒が止む。

「おはよ」

流が答えれば、さっきよりも声を落とした話し声が聞こえてくる。

何を話しているかなど押して測れる。

だから流は何度も警告したのだ。

「学校では話しかけんなよ」

と。

流とつるむことで二人まで冷たい目で見られるのは耐えられない。

やっと、友達と呼べる関係になれたというのに。

流はイヤホンをつけて自分の世界に入ろうとした。

これは配慮だ。

なのに、

「なんで学校で話しかけたらあかんねん!」

峻介がイヤホンを掴んで引き離した。

雑音は入って来ない。

クラス中の視線が流達に集まっていた。

「俺のことは放っておいてくれ」

「嫌や」

「分からないわけじゃないだろ?」

「何のことや。俺ら友達やろ。家にも行って、夏祭りも一緒に行った。学校で話しかけたらあかん意味が分からん」

純粋な峻介の目が流を見つめる。

友達だと言われて嬉しいはずなのに、

「友達?そう思ってるのはあんただけだろ?」

どうして反対の言葉が出てきてしまうのか。

「ちょっと神咲君!」

早希の嗜める声が脳天を突き刺した。

それでも止められない。

「俺に近づくな」

警告ではなく、拒絶にしか取れない言葉を吐いてしまう。

「峻介、そんな奴放っておこうや」

いつも峻介とつるんでいる連中が峻介の腕を掴んだ。

だが、峻介は去らない。

「本真は寂しいくせに・・・お前、周りの評価に合わしてるとこあるで?そういうの直していかな、友達できへんぞ」

峻介は流が皆にどのように思われているかを知っていたようだ。

能天気過ぎて陰口に気づいていないのだと思っていた。

それなら尚更に、

「俺はお前と友達でありたい」

その申し出を受け入れることはできない。

空気が変わる。峻介を見る皆の目が。

変わる。

「鬱陶しいんだよ。お前と話すのも、家に来られるのも迷惑だ。俺は誰とも連む気はない。友達ごっこはあんたらだけでしておけ」

瞬間、頰に衝撃が走った。

早希が流に平手打ちを浴びせたのだ。

「さいってい」

吐きそうだ。

内臓を抉られたかのような感覚。

早希の侮蔑の言葉にではない。その瞳に浮かんだ涙を見て。

「早希、行こ。この人、血が流れてないんよ」

「ほら、峻介もこっち来いよ。本人が一人でいたいって言ってんだから、それでいいんじゃね?だから、目合わせんなって。凍死すんで?」

気色の悪い笑い声がどっと沸き起こり、空気が元に戻りかけた。

それを暗い安堵の気持ちで受け入れようとした時だった。

「殺されてもええわ。その代わり、俺も今のお前殺したるわ」

どこかで聞いたことのある台詞。

楓が隆世に殺されて来いと言った時と同じだ。

だが、これは峻介と流だけの問題ではない。

学校、クラス、今までの友達関係。全てを巻き込む。

学校など、所詮ちっぽけな世界だろう。が、学生である自分達にとっては世界の全てであることを流はよく知っている。

そう、あの時も――――

「黙れ!俺はあんたらに構ってる暇なんてないんだよ!」

ここで峻介の優しさに甘えてしまえば、あの時の二の舞になってしまう。

それだけは絶対に阻止しなければならなかった。

「俺を殺す?笑わせんな。あんた死にたいのか」

クラスの雰囲気が一瞬にして凍てついた。

感情を閉じ込められず、氷雨の力が僅かばかり漏れ出してしまった影響もある。

それでも、もう止められない。

「流!お前が壊せんねんやったら俺がやる。このクラスの空気、周りの奴らの悪意も、卑屈なお前も全部、俺が殺してやる!」

「そんなこと頼んでない!」

「本心ちゃうやろ!天邪鬼!」

「峻介!」

思わず彼の名前を叫ぶ。

それを、ポカンとした目で見ている峻介を不思議に思ったが、彼の下の名前を呼んだからだと気づく。

途端に峻介は声を上げて笑い出した。

「何や、流。お前、あんだけ俺のこと下の名前で呼ぶん嫌がってたのに!」

「それは!」

「咄嗟に出るいうことは、俺のこと心の中ではそう呼んでたんやろ?」

その通りだ。

峻介のことは、結構初めから気を許していた。

「可愛いとこあるやんか」

クラス中の笑い声。

それに耐えられるほど流は大人ではなかった。

羞恥で今にも死にそうだ。

「流!」

慌てた様子の峻介に目もくれず、流は走り出した。

「くそっ!」

誰への苛立ちなのだろうか。

それは流自身にも分からない。

中等部と高等部の渡り廊下まで来て蹲る。

ここは普段中、高の授業を掛け持ちしている教師陣しか使わないので人気はない。

チャイムを聞きながら、一人息を整える。昨日の疲労も相まって動けない。それに、始業式に行く気も全く起きなかった。

汗を手の甲で拭えば、心地の良い風が頬を撫でた。

「始まるよ」

突如、後ろから声をかけられ、思わず後ろを振り返る。

そこには、見知らぬ若い男が立っていた。

まだ残暑厳しい季節柄だというのに、黒のハイネックを着込み、ジャケットを羽織っている。だが、一見暑苦しいその姿は男の爽やかすぎる容姿で打ち消されていた。

「始業式、始まるよ」

関西のイントネーションではない。

転校生?

「立てる?」

男は流に手を差し伸べた。

思わずその手を取ってしまう。

何者かという疑心は男の人好きしそうな表情で掻き消されてしまっていた。

呆然と立ちすくんでいると「じゃ、僕は先に行くから」と言って男は高等部の校舎へと進み出した。

「またね。神咲流君」

そう言い残して。

「なんっ・・・で」

自分の名前を知っているのか。

そんな疑問を抱えながらも、流は結局男の誘いには乗らず、始業式をサボることにした。

とはいえ、いつまでもここでぼーっとしているわけにはいかない。

始業式が終わる頃を見越して、トボトボと教室へと戻る。

その足取りは当たり前だが非常に重い。

皆の視線を無視してそそくさと教室へと滑り込み、席に座る。

が、

「おい、神咲!」

聞きなれない声が後頭部を直撃した。

来るか。

先ほどのことに対する反撃の言葉が。

あるいは集団での嘲りが。

もしくは、直接的な暴力が。

「はい、それでは席に着いて下さい」

だがそれは、教室に入ってきた人物によって遮られた。

「始業式でも紹介があったように、二学期からこのクラスの新しい担任になりました、白鷺(しらさぎ)(とし)(ぞう)です」

奇抜な名前を名乗った人物は、先ほど渡り廊下で流に手を差し出した男だった。

その可能性を考えなかったわけではないが、やはり教員だったようだ。

クラスの女子達が色めき立つ。

「ホント、うちらラッキーやな」

「白鷺先生・・・もうずっと眺めてたい」

「はい、そこ静かに」

厳しい声が飛んだと思ったのも束の間。白鷺はおしゃべりに興じていた女子生徒にウインクをしてニコッと微笑んだ。

「やばい、もう死ぬ」

女子生徒の一人が机に突っ伏した。

そこまでか!?

と、鋭い目つきになるのは僻んだ性格の男子生徒だけだ。

白鷺歳三のルックスは、今をときめく若手俳優レベルと言っても過言ではない。

玉零の従者である隼もかなりの容姿だが、その無愛想さから人好きはしない。それに、容姿の整い方が日本人離れし過ぎてて、近寄り難くもある。触れられる距離にいるのに、まるで画面越しに存在しているかのようなリアリティの無さ、それが隼だ。

一方の白鷺は、近くで確かに存在している実感が湧くぐらいには愛嬌がある。

「ということで、これからよろしく。担当は英語です。では、改めて・・・My name is Toshizo Shirasagi. I was born in Japan. But it was longer living abroad.So I speak five languages now. Talk to me if you’re interested in language.Of course it will tell you anything other than.」

白鷺は流暢な英語で何やら言い出したが、英語を苦手とする流にはさっぱりだった。クラスの女子達は白鷺の英語にうっとりとした表情で聞き入っている。内容を理解した上でのことかは疑わしいが。

「それで、さっそく決めないといけないことがあるのですが・・・」

唐突に、白鷺はそう切り出した。なぜか流の方を見ている。

「文化祭の出し物決めについてです」

瞬間、教室が歓喜に満ちた。

「二時間目と三時間目のホームルームで決めてもらいます。委員長は、宮根早希さんでしたね。お願いします」

「は、はい!」

ほのかに早希の頰が赤いことは見て見ぬふりをした。峻介がどう思おうと、今の自分には・・・・

「そうや!」

早希が前に出るのを待たずして、声を上げる者がいた。

「メイド喫茶にしよ!」

峻介だ。

何も気づいていないのか。

それとも嫉妬という感情を持ち合わせていないのか。

少なくとも峻介の心が乱れることがなくて良かったなどと、ホッとしてしまっている自分に、嫌気が差す。

流と峻介は友達でもなんでもないというのに。

「慌てないで。荒井君。まずは、文化祭の実行委員を決めなくては」

「あ、それやったら、流はどうですか!」

瞬間、己の耳を疑った。

「神咲君ですか?」

白鷺も困惑している様子だ。

それも、そうだろう。

初日から生徒の名前を恐らくは全員分覚えているほどだ。神咲流のある程度の情報も把握していることだろう。

学校が作成しているだろう個人記録にどう記載されているかは知らないが、周囲と馴染めていないぐらいは書かれていそうだ。

だから、

「俺は、流を実行委員に推薦する」

峻介のその発言は、ともするとイジメのような・・・。

「そうやな。神咲に任せようや」

「いいねー。神咲、やってくれるか?」

厄介事をクラス全員で一人に押し付けるアレにしか思えない。

先の一件でそれほどまでに嫌われたとは。逆に笑いが出そうになる。

「どうやら、神咲君はクラスの人気者のようですね。どうですか?神咲君」

爽やかな笑みを讃えて聞いてくる白鷺に一瞬殺意めいたものが芽生えた。

が、

「じゃあ、もう一人どうするー?実行委員って二人やろ?」

「神咲君出るなら、私やりたいかもー」

「えーずるい。うちが出る!」

「いやいや、女子。変わり身早すぎだろ!俺も神咲とやりたいわ!」

どういうことだろう。

新手の嫌がらせだろうか。

流は混乱した。

「な、んで」

「流」

 峻介が口を開く。

「さっきはごめんな。流はさ、俺らに本音で話したことなかったやろ。わざと怒らせたのは悪かった。でもな、一度でいいから本気でぶつかってほしかってん。一度でもそれができたら、クラスのみんなとも打ち解けると思ってん。流は、自分で思ってるよりあったかい人間やから」

呆気に取られていると、クラスメイトが堰を切ったかのように口々に話し出した。

お前のこと誤解してたとか、人間らしいとこもあるって分かったとか、峻介が友達って言ってたから悪いやつじゃないとは思ってたとか・・・。言いたい放題の末に、

「やっぱ、あれが良かったよな。峻介のこと普段苗字で呼んでるくせに、咄嗟に出たのが下の名前って!可愛いすぎだろ、ツンデレかっての」

流は確実に赤くなってる顔を片手で隠し、悶絶する羽目になった。

「おい、顔上げろって。ツンデレ王子」

やっぱりこれは新手のイジメだと思いながら――――

「やめろ!馬鹿!」

顔を上げれば、自分に向けられている多数の笑顔に目頭が熱くなるのが分かった。

「神咲君」

白鷺が、声をかける。

「文化祭の実行委員やってくれますか?」

それでも固まったままの流に再び峻介が詰め寄る。

「流が実行委員やってくれたら絶対盛り上がると思う。俺と一緒にやろうや。お前は、中心にいても良いんやで」

その言葉に抗う術はなかった。

流が「分かった」と答えた瞬間、クラス中が悲嘆の声を上げた。

「ちゃっかり、もう一人の枠に収まりやがってー」

「ま、でもこれが妥当なんやない?」

早希がようやく前に出た。

「文化祭実行委員は神咲君と荒井君に決定です」

いつぶりだろう。

教室にいることが、苦痛ではないと感じられたのは。

「流、よろしくな」

峻介が握手を求めてきた。

流はその手を取り「ああ、峻介」と、応えたのだった。


三時間目終了のチャイムが鳴る。

今日は、三時間目で学校は終わりだ。早希の司会進行のもと、クラスの出し物は順調に決まっていった。

流のクラスの出し物は京都らしく和風喫茶に決まった。

峻介の提案から派生したものだが、俗に言うメイド喫茶のように女子がメイド服を着て接客するのはなしとなった。

メニューも宇治茶、団子、和菓子、抹茶パフェなど、ある程度出揃った。

みんなとワイワイできることに流は浮かれていたが、胸を刺すものがある。

中学の時、唯一流に優しく接してくれた奴が、和菓子屋の息子だったのだ。

もう、二度と会うこともないだろうが、ふと思い出してしまった。彼の最後の顔を――――。

「じゃあな、流!」

「ああ、また明日」

部活へと向かう峻介と別れ、流は帰路に着いた。

廊下を歩いていると携帯のバイブが鳴った。

メッセージが届いたようだ。

『百花が怪我した!本当に危ないから中等部の保健室に早く来て!』

差出人は玉零だった。

一気に体中の血の気が引いていく。

流は飛び出すように駆け出した。

全速力で走ったとはいえ、中等部の保健室に辿りつくのには随分と時間がかかった。何せ、流は高等部からの編入なので、中等部校舎に詳しくないのだ。

「百花!」

やっとたどり着いた保健室の前では、扉も開けず玉零が悲壮な顔をして座り込んでいた。

「おい、嘘だろ・・・何があったんだよ、シロオニ!」

「早く、行ってあげて」

玉零は聞き取るのもやっとの小さい声で言った。

「百花っ!」

「流兄様?」

扉を開ければ、呑気な顔をした百花が目に入った。

「お前、怪我したって」

「そんな、怪我なんてものでは。紙で指を切っちゃっただけで・・・」

そう言って百花は指を見せた。

人差し指に絆創膏が巻かれているが、血は滲んできていない。

これぐらいならわざわざ保健室に行くほどでもないだろうに。

「行ってきてってお願いされて」

「お願い?」

「保健の先生が新しい先生なんですの。それでクラスの女の子達に・・・それより、どうして流兄様がここへ?」

「それは・・・」

それはこちらが聞きたい。

百花が大した怪我でもないのに保健室にいる事情は分かった。百花が指を切ったことを幸いに新しい養護教諭の偵察を任されたのだろう。

「こらっ!ちゃんと頭より高い位置にしておかないとダメなんだぞ!」

養護教諭が若い男だと言うなら尚更に。

流と百花の間に割って入ってきた大柄な男は、百花の指を無理やり頭上高く上げた。

「先生、でも、もう大丈夫ですから。友達も待たせてますし」

そしてその男はあろうことか、かち割り氷を山ほどビニール袋に入れて持ってきて、百花の細い指に押し付けようとしている。

「先生、火傷でもないのにそれは大袈裟すぎでしょう・・・」

「そんなことない!俺は保健のセンセイなんだぞ!で、お前誰だ?」

アホそうな物言いをしながら養護教諭は流を真っ直ぐに見た。

色の薄いふわふわした髪に、まんまるな瞳。年は二十代半ばぐらいだろうが、十代に見えなくもない。

「高等部二年の神咲流です。見たところ百花の怪我は大したことないですし、もう連れて帰っても良いですか?」

「そんなのダメだ!まだ治ってないのに帰せない。俺は保健のセンセイだからな!」

百花をここから救出しなければならない理由も分かった。

だが、その役目をなぜ流に任せたのか、そこが解せない。

その時、再び携帯にメッセージが入った。

確認しようと画面を開いた瞬間、「あー!」と養護教諭が叫んだ。鼻をヒクヒクさせて辺りの匂いを嗅いでいる。

「この匂いは!」

犬か!と突っ込む間も無く、養護教諭は保健室の扉をガラッと開けた。

そこには血の気の引いた玉零が立っていた。

「やっぱり!玉零だ!」

養護教諭が大きな体躯でガバッと玉零に襲いかかる。

一方の玉零はひいっと恐怖の声をあげて身を引いた。

「どうして、零ちゃんの名前・・・」

百花の疑問の答えは一つしかない。

流は再度、スマホの画面を覗き込んだ。

先ほどの玉零からのメッセージにはこう記されていた。

『そいつは、妖怪よ!』と。

「玉零、なんで逃げるんだよぉ」

「嫌だからに決まってるでしょ!あんたみたいな大男に抱きつかれたら窒息死・・・って、ちょっ!」

逃げ回っていた玉零は呆気なく片腕を掴まれ保健室の中へと引きずりこまれた。

そして、思いっきり抱きつかれ頬ずりされている。

「やっと会えた。玉零、だーいすき!」

こんな間抜けに見えるのに、神経を尖らせなければ気づかない妖力。

それは決して妖力が弱すぎるためではないだろう。巧妙に気配を消しているのだ。隼以上に上手く。だが、それほどに力ある妖怪だとしても、この様子では悪い奴ではないのだと思われる。

「シロオニ、そいつは無害ってことでいいんだな」

玉零が妖怪だと知りながら自分ではなく流に百花を向かいに来させた理由はこれではっきりした。玉零にとっては有害なのだろうが、人に仇なす妖怪には見えない。いや、養護教諭としていられたら、生徒は溜まったものじゃないが。

「嘘でしょ!?私を見捨てる気!?」

必死で養護教諭もとい知り合いの妖怪の顔を引き剥がそうと必死になっているところ悪いが、痴情のもつれに首を突っ込む気はなかった。

無言で保健室を後にしようとすると、

「流兄様・・・このままにしておくのは・・・」

百花が流の袖を軽く掴んだ。

仕方ない。

「おい、そこの妖怪。嫌がってるだろ。離れたらどうだ?」

「何だよ、お前。これから俺達イチャイチャするんだから、お子様は帰れよ!」

「何、勝手なこっうう!」

妖怪がより一層腕に力を込めて玉零の体を締め上げた。妖怪の胸板に顔が埋もれ本当に窒息死しそうだ。

「いいから離せ。殺す気か?」

「はっ!さてはお前、玉零のこと!」

「おい、今、絶対的外れな勘違いしてるだろ。言っとくけど俺は」

「生憎だけどな、玉零は俺の許嫁なんだからな!お前みたいなひよっこに渡すもんか!」

「だそうだ。百花、もう行くぞ」

「ええっ!」

やはり、無駄だった。

流は百花の手を引き保健室の扉に手をかけた。

罪悪感がないわけではない。

しかし、あの鬼なら――――

「ごふっ!」

その時、背後で低い呻き声が聞こえた。

振り返れば、妖怪が悶絶してころころ転がっていた。

「あんた案外えげつないんだな」

「貴方は案外薄情なのね」

金的を食らった妖怪はしばらく再起不能だろう。

「逃げるわよ」

玉零は百花の手を引いて駆け出した。必然的に流も走り出す羽目になる。

その後はほぼ休みなく走り通し、玉無邸まで帰ってきた。


「で、あいつは誰なんだよ」

流の質問に玉零は言葉を探しているようだった。

「まあまあ、冷たいお茶でも飲んだら?」

楓が机の上に麦茶を置いた。玉零がコップに手を出す素振りはない。

「いや、話聞くまでもないやろ。そいつはこの鬼のコレやな」

扇が親指を立てて横から割り込んできた。

「そのようには見えませんでしたわ。零ちゃんは本当に嫌がっていて・・・ねえ?」

百花がそう問いかけると、やっと玉零は口を開いた。

「大牙。それが彼の名よ。彼は・・・狼の妖怪なの」

「狼かぁ。えらい妖怪がいるもんやな。狼男的な?」

扇の独り言は無視して百花が更に踏み込んだ質問をする。

「それで、大牙さんと許嫁っていうのは・・・」

「それは、あの人が勝手に言ってるだけよ。親が決めたことでもないわ」

「片思いかぁ。切ないねぇ。そういえば、そういうドラマあったな。狼男が人間の娘に恋をして――――」

またまた扇の独り言は無視して、今度は流が聞いた。

「で、どうすんだ?あんたを追いかけて宮古学園の養護教諭にまでなった奴だぞ?あの様子を見れば、話が通じる相手じゃないのは分かる。従者に――――」

「隼はダメよ」

「何でだ?」

「実力が離れすぎてる」

「それは、あんたもか?」

「・・・そうよ」

玉零以上の力のある妖怪などいないと思っていた。

だが、これで納得した。あの時、どうして玉零が変化しなかったのか。妖怪の姿になっても勝目がないからだ。

「しゃあないな。それじゃ、俺らが匿ったるしかないな」

「もう、兄貴はさっきから他人事みたいに。ちょっと黙って・・・って、ええ!?」

楓だけじゃない。

その場の誰もが驚いた。

「それ、本真に言ってるんか、兄貴」

「そうや。可哀想やんか。ストーカー被害にあって。警察はあてにはならんからな」

あっけらかんとそう言ってのける扇に呆気にとられる。

「扇さん・・・変わりましたね。こいつも妖怪ですよ?」

「借りを返すだけや。それを強く望んどる奴らもいるやろうしな」

かなり参っていたのだろう。

玉零は大人しく「ありがとうございます」と扇に深々と頭を下げた。



「へー。そんなことがね」

帰宅した優衣に事情を説明したのは楓だ。

「本真にびっくりしたわ。あの兄貴がやで?」

「可憐さんとの蟠りがなくなって扇お兄ちゃんも丸くなったんとちゃう?それに、妖怪から身を隠すんやったら伏見山ほど相応しい場所はないしな」

あの後、玉零は扇に連れられて伏見山へと向かった。伏見山の結界はつい昨日張り替えが終わったところだ。恐らく氷雨をこの身に宿している流は入れない。結界張り替えの儀式も敷地の外から行ったほどなのだから。

「でも、どうやって宮古学園の養護教諭なんかになれたんやろねー。まあ、零ちゃんもそうやけど」

「そういうことができるパイプ持った知り合いがいるらしいですよ」

以前玉零から聞かされた千歳という人物のことを思い出して答えた。

しかし、大牙の件も千歳がやったことかどうかは分からない。

むしろ、その線は薄いような気もする。玉零は千歳と旧知の仲だと言っていた。ならば、玉零の嫌がる者を向かわすことはしないだろう。

「でも、それだけ想われてるって。幼馴染か何かなんかな?零ちゃんは何て言うてたん?」

優衣の質問に答えられるものは誰もいなかった。

玉零自身の口からは大牙との関係を聞いていない。

「親しい間柄ではあるのだと思いますけど・・・」

百花がそう言って口を噤んだ。

いつ、どこで出会って、今までどういう関係でいたのか。

ずっと大牙から逃げていたのか。

それはいつから続いていることなのか。

踏み込んで聞かなかったのはこちらの方だと言うのに、言ってくれなかったことに何だかモヤモヤしている。

いや、違う。

知らないということ自体にモヤモヤしているのだ。

「良かったんやない?夏お兄ちゃん達も零ちゃんにはどうにかして恩返ししたいって思ってたやろうから」

優衣の最もな言葉を最後に、この話題は終わった。

「流兄様?」

心配そうに百花が見つめてくる。

「え?」

「勘違いでしたらごめんなさい。何か、苛立っているように見えましたので」

「悪かったな。俺はいつもこんな顔だよ」

「いたっ」

百花にデコピンをお見舞いして茶化したが、流は間違いなく苛立っていた。

平安以前に戻ろうと。

再び白鬼と陰陽師が共闘できる世にしようと、約束を交わしたにも拘らず、玉零が遠い存在のような気がして。

友人と呼ぶにはまだ彼女のことを知らない現状が、焦燥となって襲ってくる。

「俺も欲張りになったよな」

クラスに馴染めただけでもすごい奇跡なはずなのに、今度は玉零とも特別なつながりを求めている自分がいる。

「何か言ったか、流」

扇が夕飯の皿を持って現れた。

「いえ、何でも。俺も手伝います」

焦っても仕方ない。

今は大牙との件が落ち着くのを待とうと己に言い聞かせて、流は夕飯の手伝いをしに台所へと向かった。

その日の夕飯では、儀式で消耗した体力を取り戻すためか、苛立ちを収めるためか、いつも以上に腹にご飯を詰め込む流だった。



*        *         *



玉無扇に連れられて伏見山にやって来た人物は、あの白い鬼だった。にもかかわらず、平然と伏見山の鳥居をくぐり抜けて来たことに大きな驚きを感じたが、それは顔には出さなかった。

白鬼とは、そういう類の妖怪らしい。

夏とともに玉無の家に居候していた時分に神咲流からそう聞かされた。信じがたいことだったが、鎮魂祭の時に突然現れた白鬼が自分達を救った事実が全てだった。

人間になれる鬼。

その鬼が、今、少女の姿で目の前に座っている。

「この度は・・・」

ぎこちない様子で少女は切り出した。

事前に扇からあらかたの説明は受けている。

「可憐」

隣で夏が耳打ちした。

難しく考えを巡らし過ぎていた可憐ははっとし、夏とともに頭を下げた。

これは扇から白鬼を匿ってほしいと連絡を受けた時に二人で示し合わせていたことだった。

「先の件では、本当にありがとうございました」

礼を言えば、顔は見えずとも白鬼の驚いた反応が伝わってきた。

「いえ、私は何も・・・・あれは貴女達が自らの力で乗り越えたことよ」

「それでも、貴女がいなければ今のわたくしはありません」

可憐は頭を下げたまま、そう言った。

陰陽師が妖怪に頭を下げるなど、本来は有るまじきことなのかもしれない。

それでも、けじめはつけたい。

「感謝なんかする必要なんて・・・これで伏見山の呪いがなくなったわけじゃない。狐が力を取り戻せばまた貴女に・・・貴女の子孫に取り憑くでしょう。だから、顔をあげて」

頭を擡げれば、悲しそうな白鬼の顔が目に入った。

その憂いは、他人事ではなさそうに思えた。

「呪いはわたくしの代で断ち切ります。夏との間に子は望めない。狐は二度と現世に現れることはないでしょう」

「そして貴女は一生この檻の中で暮らすのね」

「この人がいれば何も不幸せじゃないわ」

気づけば夏が可憐の手を握ってくれていた。

自然と勇気が湧いてくる。

「いつまでも、先祖の悲恋話に縛られていたくありませんの。わたくしは夏と幸せになりますわ」

「先祖の悲恋話、ねぇ」

勢い余って余計なことを口走ってしまったようだ。

しかし、白鬼は詮索はしないでおいてくれた。

「貴女も狐が落ちたみたい」

ふわっとした笑みを浮かべて白鬼は手をついた。

その言葉に一瞬ぎくりとするも、恐らくは比喩として使っただけだろう。

本当に、可憐の中に狐がいたことは――――誰も知り得ることはない。

「私は人を助けるのが性分の妖怪。しかし、陰陽師は妖怪を助ける義理がないことを承知で頼みます。どうか、私を匿ってください」

白鬼は畳に額をつけてそう言った。

妖怪が、人とそれほど変わらぬ存在であることを可憐は重々承知している。

賀茂系陰陽師の掟に人と妖怪が対等でないことが説かれているが、人も妖怪も本質は同じなのだ。

この世に生を受けた時から、共に在った狐は・・・稲荷神の御使いの白狐は、神に背いてでも会いたいと願ったのだから。

そのことを自覚したのは神咲の矢がこの身を射るよりもずっと――――狂い狐の幻覚に苦しめられることになるよりも・・・前のこと。

知っていた。

気づいていた。

それでも、兄を憎み、狂い狐を憎み、狂気に走ったのは――――彼女の意思だったのだと思う。

「恩人を蔑ろにしては、伏見山の名が廃りましょう。いずれ滅ぶ宿命とはいえ、伏見山の汚名を少しでも払拭してから幕を閉じたいですしね」

愛も憎しみも、同等に持っているというのに、立場だけが対等ではない。

憎しみを抱いて、白狐・穂田留は、神咲の矢に射抜かれ可憐の体を離れていった。

かつて、白狐達と交流のあった伏見山の血筋だからだろうか。

恐らく恩などなくとも目の前の妖怪を可憐は放っておけはしないだろう。

だから、

「ありがとう」

そう言った白鬼の後ろめたさを隠しきれていない蒼白な暗い笑顔は黙殺することにした。

先生・・・めちゃくちゃ良い先生ですが・・・笑

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