プロローグ
プロローグでもう分かってしまう、ストーリー(笑)
京外れの河原で啜り泣く。
虫の声に霞み入るような弱い音をどうやって聞き取ったのか、人の子が一人近づいてきた。
「涼やかな鳴き声に導かれて来てみれば、何と美しい鈴虫であろうか」
凛とした、澄んだ男の声。しかし貴族のようなその口振りに応えることはなく、我は顔を伏せ続けた。
「白露の君、貴女は何故泣いておられるのだ」
一瞬、誰のことかと思ったが、すぐに自分のことだと気付く。
どうやら、この男は我を白露の君と名付けたようだ。
「あな、恥ずかしや。女が人知れず泣く理由など決まっているではありませんか。お聞きにならないで下さいまし」
その返答で、相手は直ぐに恋愛沙汰だと判断したようだった。
戯れに。
本当に戯れに、我はその男に話をした。
顔は上げず、名も名乗らずに。
だが、その男は幾度となく現れて、我の話し相手を買って出たのである。
「白露の君、今日こそ笑って頂きますよ。ほら、見てください。この顔を!」
「面白くございません」
「顔を伏せたままでは分からないでしょう」
「分かります」
「んー、では、これはどうですか」
その時、陰陽の気がふわりと流れるのを感じた。
思わず顔を上げかけて、思い止まる。
「貴方様はもしや陰陽師なのでしょうか?」
すると、男は「困ったな」と呟いて「貴女は見ずとも本当に分かってしまうのですね」と言った。
「今、術で創った蝶を飛ばしています。いかにも私は陰陽師です。ついでに言うと先ほどの私の顔、友人にも見せたことがあるのですが、全然面白くないと言われました」
男はハハハと笑う。
その困り顔が目に浮かび、口元が緩んだ。
それは一種の気の緩み。
あの人と同じ陰陽師ということで興味が湧いたというのもある。
だから、
「でも、これは直に見た方がいいですよ。今宵は実に見事な満月です。ほら」
促されて、つい顔を上げてしまった。
視線を上に移すと、目の前に月がある。
「綺麗だ・・・」
隣で息を飲む声が聞こえ、「ほんに」と相槌を打ちながら傍らにいる男の方を向いた。
途端に目と目が合う。
「こんなに美しい白露は初めてです」
男はそう言って、我の目元の雫を掬い取った。
「お、陰陽師様?」
初めて見る男の顔は、見るからに優しそうで。誰かのように冷たく我を突き放すようなことはないように思えた。
「白露の君、私はどうやら貴女に恋をしているようだ」
真摯な瞳に射抜かれ、一瞬どきりとする。
しかし、恋というものの苦味を知っていた我は素直になれなかった。
「貴方様は今宵の妖艶な月に酔われておいでのようです」
目を反らしてそう返すと、男は我の手を取り、己の手を重ねる。
「確かに私は酔っているようです。しかし、それは月にではありません。貴女にです。私は貴女に酔っている。どうかこの酔いを覚まさないで下さいな」
瞬間、身体の芯がぼっと燃えるのを感じた。
男に触れられている手が熱い。
耐えきれず川の水面に目をやると、人間の女が瞳に映った。
白の髪に非ず。
黄金の瞳に非ず。
ましてや、頭部に二本の角など、有るわけのない―――白鬼ではない人間の女。
男はこの女(我)に恋をした。
ならば、これこそが我。
覚悟は決まった。
「では、私を拐って下さいまし」
男は驚いた顔をしてしばらく我を見ていたが、本気だと分かると真面目な声音で「いいですとも」と応えた。
「本当に、本当にでございますよ」
詰めよって念を押すと、優しい微笑みが返ってくる。
そして男は身体を引き寄せて、吐息を感じ取れるほど近くで囁いた。
「ええ。貴女のため、鬼になってみせましょう。ですが、覚悟しておいて下さいよ。鬼は一度手に入れたものを絶対に手放したりしません。例え、一雫の白露であっても。だから・・・もう、他の誰かのために泣かないで下さい。他の男のためにその袖を濡らすなど、私はこれ以上耐えられそうにない」
強い眼差しに吸い込まれる。引き付けられて離れられない。
つい先日まで失恋話の相手になっていた者とは思えないほどの激しい嫉妬が伝わってきて―――胸が痛い。
「陰陽師様。この白露は、今より全て貴方様のものでございます。だから私も・・・貴方様の全てがほしい」
頬に手を添えて、見つめ返すと、僅かに男の顔が赤らんだような気がした。
「差し上げます。私の全てを白露の君に。貴女が望んでくれるなら、私はっ」
瞬間、男の顔が近づいて唇が触れた。触れたところから、熱と緊張が伝わる。
我にとって初めての口づけだった。
「貴女だけのものになりたい」
溺れてしまいそうだ。
もう、立っていられぬほどの深みに落ちてしまった。
一向に振り向いてくれなんだ誰かのことなど霞んでしまって思い出せないほどの深淵へと。
「では明日、同じ刻にここで」
男はそう言い置くと、背を向けた。それを見送っていると、数歩
歩いたところで男が振り向く。
「名を、お聞きしてもよろしいですか?」
やや緊張気味に問い掛けるその様子に苦笑しながら「玉露」と言いかけた。
言いかけて気付く。
今の我は、男が愛した我は、人間であるということに。
父は人の名を持っていたらしいが、我は人と関わることをしなかったために人の名を持たぬ。
しかし、あるとすれば、それは―――
「白露。貴方様が与えて下さった名こそ、私の真の名でございます」
そう言うと、男は照れたように「分かりました」と頷いた。
「貴方様の名は?」
今度は我が問う。
男は優しく笑って袖を振った。
何と古風な。
袖を振るのは古来の愛する者への合図だ。
それが嬉しくて、嬉しいからこそ恥ずかしくて、下を向く。
今宵は月が明るい。
赤くなった顔を見られてしまう。
とうとう前を向けずもじもじとしていると、我の事情を察してか、男は再び我の元へと歩み寄ってきた。
「本当に可愛らしい方だ。そんなにもいじらしいところを見せられると、口づけだけで終わらせたくなくなります」
その言葉にますます視線を上げられなくなり、顔を袖で隠す。
すると「大丈夫です。今宵はこれ以上何もしませんよ」と笑われて、安心したような少し残念なような妙な心地がした。
「光宣」
男は名残惜しそうに呟いた。
「私の名です。これからはどうか光宣とお呼び下さい」
別れ難くて、やっとのことで前を向き「光宣様」と男の名を口にする。
光宣は完全に照れてしまったようで、背を向けるとそのまま去っていってしまった。
いじらしいのはどっちの方やら。
人の子は皆、愛おしいものだが、誰か一人をこれほど愛したことが、未だかつてあっただろうか。
有世にでさえ、ここまでの気持ちを抱いたことはない。
「光宣」
望月を見上げ、愛する男の名を呼ぶ。
白鬼であるのも今宵まで。これからは人として。
我のために鬼になるとまで言ってくれた彼の者に報いよう。
陰陽の流れ
月明かりの中を歩く。
血生臭い京で出会った一雫の白露を、今宵手に入れた喜びを噛み締めながら。
「おい・・・おい!聞こえんのか」
浮かれ過ぎていたようで、誰かに呼ばれていることに気づかなかった。
「な、何でしょう」
慌てて振り向くと、そこには一人の男が立っている。烏帽子に狩衣―――貴族だろうか。いや、この御時世に貴族が一人で出歩くなど正気の沙汰ではない。応仁の世になってからというものの、将軍の後継者争いで京の都は荒れ果てている。
それに、この男からは気配が一切しない。
「陰陽師か」
問い掛けると、男はそんなことはどうでもいいといった風に話を始めた。
「お前、先ほどの女と駆け落ちの約束をしていたな」
一瞬、どきりとするものの、目の前の男がやはり只者ではないと知り身構える。
「隠形の術で盗み見か。あまりいい趣味ではないな」
「隠形して見られていることにも気づけなかったお前に言われたくない」
少しむっとしたが、冷静さを欠いては奴に負ける。
恐らく奴は土御門家の者。私の命を狙ってつけてきたのだろう。
将軍家のいさかいに乗じて、賀茂、土御門、両陰陽師家の争いもまた激化の一途を辿っている。
袖に隠してある札を掴む。先手を打とうとしたその時、「待て」を食らった。
「別に俺はお前を殺そうというわけではない。そんなことをすれば、あの鬼が自ら命を絶ちかねない」
突然、奇妙なことを言い出されて身体が固まる。
「何の話だ?あの鬼とは」
「お前が今宵接吻までした、女鬼のことだが?」
これはきっと奴の策略に違いないと思った。
土御門の者がよく使う手だ。嘘で相手を惑わし、隙をつく。
何と卑劣な。
「信じぬか。まぁ、それでもいい。女と手を切ると約束するなら・・・真実などどうでもいいことだ」
「っ!!」
男の目的を考える。
恐らくは自分よりも格上の陰陽師。自分を殺そうと思えば今すぐにでもできるだろう。
「あの女は諦めろ。そもそも、この非常事態に陰陽師が駆け落ちなど、聞いて呆れる話だ。家を放り出して一人生き延びようと?お前の兄達は先ほども土御門の者と戦っていたぞ」
相手に素性を知られていることに動揺しつつも、反論する。
「貴殿には関係のないことだが一応言っておく。私は家を裏切るつもりはない。代々お仕えしている賀茂家のためにも私は戦場に生きる。無論、だからと言って彼女を諦めるつもりはない。正式に我が家の嫁として迎え入れるつもりだ」
男は表情を崩さず「そうか」とだけ応えた。
そして「ついてこい」と言うと、いきなり歩き出した。
「どこへ行く!?」
罠かもしれない、そう思いながらも追いかける。
するとあの河原の近くに辿り着いた。
木々の間から覗けば、彼女の姿がある。
「おい、どうするつもりだ。まさか―――」
「隠形していろ。気取られるぞ」
「何をっ」
瞬間、男は術を使って彼女目掛けて矢を放った。
咄嗟に飛び出そうとしたが、結界で囲まれ身動きが取れない。
あわや、彼女に刺さると思われた瞬間、なんと白露の君は身を翻して矢を掴み取ったのだった。
いや、あれは本当に白露の君なのだろうか。
「有世だな。出て来い。今更我に何用ぞ」
確かに先ほどまで彼女はそこにいた。しかし、矢を取った瞬間に彼女は消え、代わりに現れたのは異形の者。
「見ただろう。あれがあの女の正体だ」
草むらに隠れながら男は言う。
「家を裏切るつもりがないなら、あの女と縁を切れ。それともお前は陰陽家に鬼を迎え入れるつもりか?よく考えろ」
考えろと言われても考えが及ばない。頭の中は真っ白で、ただ、白の鬼を凝視する。
月に映える綺麗な鬼は何やら男の名を叫んでいる。
「あれは貴殿の名か?」
掠れた声で聞くと、男は「今の俺に名は無い」と応えた。
しかし、昔はあったのだろう。それを彼女が知っている。
恐らく、この男が彼女の想い人。
「そうか。貴殿が件の・・・」
自嘲気味に呟くと、男は結界を解いた。
「勘違いするな。俺と玉露はお前が思っているような―――」
「それが、彼女の名か」
男は初めて表情を崩して、しまったという顔をした。
「別にいい。人を止めたくなったがな」
男は私を一瞥すると、天を仰ぎ見て満月に手を翳す。
「人は、木の葉の露を掬えても、月に触れることはできない。玉露の本質は露ではなく月だ。それに人を止めたところで何になる?」
男は人でなくともどうしようもないと言っている。
それでも、
「鬼に」
人であるよりは。
背を向けてその場を去る。
そして、一人になったところで空を見上げた。
「玉露」
月を望んで、望めぬ女の名を呼ぶ。
夜露に濡れた袖は重く、もはや振ることなど叶わぬように思えた。
人であっても報われぬ。
鬼になっても報われぬ。
ならば、もう何も望むまい。
次からが本編です。どうぞ、お楽しみに!