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第110話 総統誘拐 前編


 普段ならアド総統は夕食の時間になると、従卒の誰かに食事を持ってくるようにと命令するのだが今日は未だに声が掛からなかった。


 ヘルマはアド総統が一向に夕食の手配を命じないのを、不審に思い執務室をノックする。


「……そろそろ夕食の時間ですが如何いたしましょうか? ……先ほどの私が笑ったことにお怒りでしたら、申し訳ありません。余りにも総統閣下が可愛らしかったので、つい……」


 ヘルマが執務室の扉の前から話しかけるが、アド総統の返事は無い。


 今までアド総統を怒らせたことは何回かあったが、数時間もすれば何食わぬ顔で部下の不始末を許していたアド総統が夕食の時間になっても返事すらしないのは異常とも言えた。


 それだけ、自分の不敬を酷く怒っている可能性もあったがヘルマが幼年の頃からアド総統と一緒にいたためヘルマの特殊な性格をアド総統は承知しているし、受け入れている。


 アド総統の泣き顔コレクションだけは知られていないが、それがアド総統にバレた訳でもないはずである。


「……総統閣下。無礼ですが入らせていただきます」


 ヘルマが執務室のドアを開ける。執務室は真っ暗で、ヘルマは執務室の明かりを点けた。


 明るくなった執務室にアド総統の姿は無かった。


 窓も開いておらず、密室の中でアド総統は消えたことになる。


 ヘルマは焦った。表情こそ大きく変わらなかったが、こんなことは仕えてから初めてで酷く面食らった。


「……総統閣下どこに居られるのですか? 机の下に隠れて私をおどろかそうとしているのですか?」


 ヘルマは机の下を見る。しかし、アド総統の姿は無い。


 忽然と、誰にも知られることもなくアド総統の姿が消えていた。


 このようなことを簡単にやってのけるのは覚醒者ぐらいである。


 だが、アド総統に対しての好感度が天元突破している武装親衛隊がアド総統を拉致するとは思えないし、ボル族は武装親衛隊のような力を持ってはいない。


「……アド総統の命のあとボル族の動向は探った。各町や駅を基点に二分おきに念写して監視した。だけど総統府に入ろうとするボル族はいなかった……」


 ヘルマの念写は一度見た者や物体ならば、好きな角度、距離で手に持ったカメラに映し出すことが出来る。


 対象から三メートル以内までという制限はつくが強力な能力だ。


「……対象はアド・ヴェレアトール。……対象を念写。……距離は限度まで」


 ヘルマが首に掛けたカメラでアド総統を念写する。


 そこに映し出されたのは真っ暗な空間だけだった。


 これではアド総統が何所に居るのか把握するのは困難である。


 そして、敵はヘルマの念写能力を知っている。


 しかも弱点を知っていた。


「……アド、貴女は今どこに居るのですか? 貴女を攫ったのは誰ですか?」


 ヘルマが総統府内にいる武装親衛隊を会議室に集めた。


 集まったのは二十名ほどでラント二等兵も会議室に居た。


 武装親衛隊ではないがハルバー大将の姿も見える。


 彼は夕食をアド総統と一緒に取ろうと総統府内で待機していたようである。


「なぜ、こんな大事な時にベルスは来ないのだ! ヘルマ!」


 ハルバーが開口一番に怒鳴る。


「ベルス啓蒙大臣は世界首都ベルリナ計画の視察に向かわれています。一応、連絡はしましたが総統府へ着くのは深夜頃かと思われます」


 ヘルマの説明にハルバー納得するどころか、さらに怒鳴った。


「大体なベルスのことは前から気に喰わなかったんだ! 代々総統閣下に仕える身分でありながら敬意という物が全くないではないか!」


「……ベルスは青年時代に三度総統閣下にプロポーズして振られた結果、あのように捻くれて成長したんです。察してあげてください」


 ヘルマとベルスは幼年時代からアド・ヴェレアトールと一緒に居た。


 幼年時代からヘルマとベルスは不老のアドを実の姉ように慕っていた。


 いつしか、ベルスがアドに恋心を抱いて三度もプロポーズをするが全て振られ、ベルスの家系が代々啓蒙大臣としてアドに仕える運命との狭間にあった彼は性格が少し歪に成長した。


 だが、忠誠心が全くないと言うのは間違いである。


 おそらくは心の片隅にはまだアドへの恋心の灯は消えておらず、生命の泉荘でベルスの現在の妻と結婚した今でも変わってはいないはずだ。


「……ハルバー大将。ベルスは総統閣下に忠誠心が無い訳では無いのです。普段からあの態度ですから誤解もされますが、誰よりも総統閣下を慕っているのは間違いありません」


 ハルバーがヘルマを睨む。


 まだ納得がいかないのか、それともベルスに対する嫉妬だろうか。


「なぜ分かる? なぜそうと言い切れる?」


 ヘルマが溜息を付く。


「なぜって? 私もベルスも幼いころからアドと一緒に居たからですよ。……ここには居ませんがスレクトやズィルだって」


 ヘルマが念写の結果を集まった面々に見せる。


 先ほど撮った真っ黒の写真だった。


「話を元に戻します。……念写結果はご覧のとおり誘拐犯は念写に対する対策を取っています」


 ラント二等兵が普段の活発そうな顔を曇らせる。


 ラントの容姿は素朴なもので特筆すべきところは余りない。


 強いて述べるなら、橙色の巻き毛で緑色の蛇眼であるということぐらいで、手の甲の鱗は髪色と同じ橙色に輝いているぐらいだ。


「あの……ヘルマさんの念写が使えないならどうやって探すのです? こんな芸当が出来るのは内部犯じゃ……」


 ラントの言葉に会議室にいる面々は黙り込む。


 ボル族が犯人だろうと思われるが、ラントがいうように武装親衛隊の誰かが攫った可能性も完全には排除できない。


「一連のボル族の破壊工作からして犯人は十中八九、ボル族でしょう」


 ヘルマが言い終わって少しの間、会議室が静まり返る。


 その静寂を破ったのは会議室の扉を開けた双子の少女だった。


「リゼッテに新しい情報が入ってきましたわ。途中まではアドお姉さまを載せたトラックを追跡できたのですが……妨害に遭いまして見失ってしまいましたわ」


 可憐な黒のゴシックドレスを見に纏うリゼッテが、赤と青のオッドアイを真っ直ぐ見据えて報告する。


 しかし彼女は全てを報告したわけでは無い。


 そのことをリゼッテの隣に居たグレチェンは気にかかったようで小声で問いかけた。


「リゼッテ姉さま、スヴェトラーナ隊に追跡を妨害されたことは報告しませんの?」


 リゼッテはグレチェンの青と赤のオッドアイを見つめて小声で答えた。


「いいこと? グレチェン。帝国の方々がスヴェトラーナ隊と正面切って戦うことになればアドお姉さまも皆も死んでしまいますわ。リゼッテはそれを望んではいませんの。……世の中には知らなくて良い情報は伝えるべきでは無いのですわ。だからグレチェンもリゼッテに合わせて」


 グレチェンはリゼッテを尊敬のまなざしで見た後、力強く頷いた。

 

 そして、グレチェンは会議室にいる面々に向き直る。


「ですがアドお姉さまを攫ったトラックのナンバープレートをグレチェンは覚えていますわ。ナンバーはWO-VE5でした」


 グレチェンの犯人を特定する上でキーとなり得る情報に、ヘルマは満足そうな笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。グレチェン。……至急、動ける武装親衛隊と憲兵隊を総動員してWO-VE5のナンバーを持った車両の足取りを追いましょう。では、皆さん総統閣下を必ず助け出すためにも力を合わせましょう」


 ヘルマの言葉に一同が頷いて答え、各々が出来ることを始めた。


 アド総統を載せて逃走するトラックを、首都ベルリナから南西に位置するラーラント州の都市ヴォムスで発見したのは翌日の昼前であった。


 その都市には丁度、トオルとスレクトが今昔の建物が混在する特徴的な都市を観光しつつ散歩をしていた。


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