19
薄暗い店内の入り口に浩史と小町を残し、残りの四人で店内を回る。
小町は浩史よりも早く外の匂いに気づくだろうし、前に生理用品の薄いパッケージが気に入ったのかビリビリに破いた前科があるからだ。せっかく集める物資を破られては堪らない。
浩史のそばにくっつくのはまだ躊躇われるらしいが、それでも少しだけ尻尾を振って喜び、四人を見送ってくれた。
町内会長の言った通り、店内は広かった。
入り口のそばにガラス張りの調剤スペースがあり、その周囲に市販の医薬品の棚が並んでいる。奥に行くにしたがって生理用品や赤ちゃん用品の棚になり、一番奥がお菓子や食品の棚だった。
調剤スペースの安全を確かめ、薬を探す安西を残して三人で奥に行く。
突き当りにあるバックヤードへの扉らしき場所は薄暗かったが、確かに前に封鎖するようにカートが何台も放置してあった。両開きのスイングドアのようだが、カート同士が邪魔になって開かないように見える。
「静かだな」
ちょい、と桐野がカートを押すが、奥から音は聞こえない。
「バックヤードって外から出入りできる裏口があるはずだから、中にいたのはそっちから出て行った、とか?」
「無くも無いな」
てんでバラバラに通路を封鎖しているカートを眺め、これを退かすのは面倒だと思ったのか、桐野はまぁ良い、とすぐそばの食品の冷蔵庫を覗き込んだ。
「流石にもう冷えてないな」
「自動ドアも電気きてなかったっぽいもんねぇ」
「とりあえずこの辺の野菜は持って行ってみるか」
やれやれ、と少し萎びた小松菜らしきものをカゴにいれる桐野に、じゃあ自分たちも、と咲良と典子は棚を戻った。
手には店内で一番初めに手に入れた懐中電灯がある。棚と棚の間の通路は窓からの明かりが入りづらくて薄暗いから、と真っ先に探したものだった。
「それじゃ」
「うん。後でねぇ」
一つの棚の向こうとこっちに別れる。赤ちゃん用品と生理用品の棚は一つの棚の表と裏だったからだ。
人一人いない薄暗い通路に入るのは、正直怖い。
だがこれを終わらせないと来た意味が無い。
咲良はカゴを足元に置き、手早く棚からメモに書かれた商品を探し出し、引き抜いて行った。
ぽんぽん、とあまり重さの無い商品をカゴに放り込んでいく。
途中、通路をさっと横切る影にビクッとしたが、カゴが満杯になったのを運んでいく桐野だった。桐野の方は探す手間が無いからか、手当たり次第に食品をカゴに入れては、せっせと入り口に運んでは戻るを繰り返しているらしい。
食料品が満載のカゴを持って入り口へと向かう桐野を横目で見送り、咲良は手の中のメモに目を落とした。
「……これもある、ある、ある。あとは布ナプキン……」
どれだろう、と少し寂しくなった棚をもう一度上から下まで見直す。
今まで売り場で探した事が無いものだから、どんなパッケージなのか、想像すらつかない。
そもそも本当にここにあるのかな?と首を傾げた時だった。
ガタン、と重たいものが落ちる音がした。棚の向こう側からだ。
典子が何か落としたのか、と棚の端へと歩み寄る。
棚から顔を出そうとした瞬間、前から何かが出てきて、咄嗟に咲良は身体を引いた。
「なっ」
手だ、と思ったが、大声を出すより早く、その手に顔を覆われてしまう。
「~~!!」
大きくてごつい、男性の手だ。浩史のものでも、桐野のものでも無い。
驚いて逃げようと身を引くが、その前に肩を鷲掴みされ、ぐいっと引き寄せられる。
近くに寄って見れば、やはり二人でも安西でも無い。知らない男だった。
「静かにしろよ」
脅すような口調に交じった嫌な響きに、至近距離に迫った男の顔を見て、ぞっとする。
男は下卑た表情で咲良を見下ろしていた。
舐め回す様に咲良の顔を見て、身体を見る。そこにある欲望を感じ取って、咲良は逃げようと身を捩ったが、男の力の方が強かった。
振りほどけない手に遮二無二暴れようとしたが、男の肩の向こうに同じように拘束されている典子を見つけ、思わず動きが止まる。それをチャンスだと思ったのか、男に思い切り引っ張られた。
足が縺れて転ぶ。手に持っていた懐中電灯が床に落ちて、けたたましい音を立てた。
それに反応したのか、入り口の方から小町のワン!という声が聞こえ、はっとする。
「だっ」
誰か、と叫ぶはずだった。
だが口から声を出すより先に、頬に激しい衝撃が加わり、目が回る。
何が起きたのか分からないまま、ぶれる視界に瞬きを繰り返していると、ぐっと肩を引かれ、口に何かが押し付けられた。
混乱する頭のまま、やめて、と言おうとしたが、口が開かない。引きつる頬と開かない口に、ガムテープか何かを貼られたらしい、と気づいて愕然とした。
動揺したまま前を見れば、視線に気づいた男が口を歪めて笑う。
「もう一回殴られたくなかったら、暴れるなよ」
ひらりと振られた手に、さっきの衝撃は殴られたからなんだ、とようやく気づき、呆然とした。
咲良の今までの人生で人に殴られた事も無ければ、殴った事も無い。
言葉としては知ってはいたが経験した事も無かった暴力に、痛みより先にひどい混乱を覚え、一瞬自失した。
男は咲良がそうなる事を見越していたのだろう。力の抜けた身体を乱暴に引かれ、カートの間に連れ込まれた。
バラバラに放置されていると思っていたカートは、巧妙に隙間が作られていたのだ。
そこでようやく我に返り、このままだとバックヤードに連れて行かれる、と慌ててそばのカートに掴まろうと手を伸ばしたが、両手首を掴まれ引きずられる。
「静かにしないとお友達が泣くぞ」
にやりと笑って男が指し示す先には、抱きかかえられながらバタバタと暴れている典子の姿があった。もうバックヤードのドアを潜ってしまっている。
このままだと典子が連れて行かれる、暴れて音をたてて助けを呼ばないと、でも誰かが駆けつけるより先に典子に危害を加えられるかも。
迷っているうちに咲良もバックヤードに引きずり込まれた。
途端に、むわっと生臭い匂いがして、顔を顰める。
何、と目を凝らすが、薄暗さに目が慣れないせいで、周囲の様子は見えない。ただ強引に引かれていた足が何かぶつかり、転びそうになった。
たたらを踏んだ咲良を、男が離す。
足が縺れて転びそうになり、咄嗟に伸ばした手がぐにゃりとした何かを踏みつけた。
「?………っ」
女性だった。
裸で肩に痣がある女性が、目を見開いて横たわっている。
どう見ても生きてはいない。
慌てて飛びすさると背中に何かがぶつかった。悲鳴をあげようとした口がガムテープでひきつれる。痛みと恐怖で混乱しながら振り返ると、咲良を捕まえた男がこちらを覗き込み、笑った。
「こいつらみたいになりたくなかったら、言う事聞けよ」
顎で示された先には、別の女性の姿があった。
こちらに背を向けて横たわり、やはり動かない。
その女性の向こうにも薄っすらと、女性のものらしい裸の肩が見えた。
バックヤードに満ちる饐えた生臭い匂いと、微かな血の匂い。眼前にいる男の、欲望を孕んだ目に、気づく。
レイプされて殺される。
カタカタと身体が勝手に震え出した。
怖い、嫌だ、誰か助けて。お父さん、桐野くん、助けて。
胸の内に助けを呼ぶ声が満ちる。
さっき小町が鳴いていたから、きっと浩史か桐野が様子を見に来てくれるはずだ。
そうしたら咲良や典子がいないのに気付き、探してくれる。だから大丈夫。
時間さえ稼げば、
「っ」
そんな咲良をあざ笑う様に、男が両手首を掴んで引っ張った。
向かう先は女性たちを乗り越えた先らしい。目を凝らすと、車が見えた。
思わず足に力を入れて踏みとどまろうとすると、ちっと舌打ちをされる。
「また殴られたいのか?今度は手加減しねぇぞ」
男の言葉にぎゅっと心臓が縮み上がったが、このままでは浩史や桐野が来る前に車に積まれ、連れ去れてしまう。そうなったら終わりだ。
今ならまだ典子も車に連れ込まれてはいない。男の背後で、もう一人の男から逃げようともがいている。
何とか逃げないと。でもどうやって?
両手首をぐいっと引っ張られて、ふ、と既視感を覚えた。
以前、こんな風に人に手を引っ張られた事がある。
『パニックになりそうな時ほど落ち着きなさい』
落ち着いた女性の声が耳によみがえり、あ、と喉が震えた。
あれは護身術の授業だ。母を亡くした娘を心配した父が通わせてくれた護身術の先生は小柄な女性で、とても力があるようには見えなかったが、とても強かった。
『護身術で一番大事なのは逃げる事。相手を驚かせたり、怯ませたりして、絶対に逃げるの。良いね?』
大体の男性には力では勝てないから、的確に急所を狙う事、体重や重心を移動させて相手の不意をつく事、そしてやる時は絶対に躊躇わない事。
そう言って有り得そうな場面を想定して、色々なやり方を教えてくれた。
こういう場面の事も。
「おら、来い」
ぐっと引っ張られ、教えられた通り両足に力を入れてその場に踏ん張る。
思い通りにならない咲良に、男が「このガキが」と罵りながら強く腕を引いた。それに引きずられながら、直も抵抗するように全身に力を入れて重心を後ろに傾ける。
当然男は更に力を入れて咲良を引っ張った。
その瞬間に、咲良は重心を前へと変える。
「おいっ!?」
体当たりするように突っ込んで行けば、男自身の引っ張る力に加えて咲良の勢いが加わり、男の足が縺れた。
相手より軽い体重でも、相手が重心を動かしている方になら、これで押し倒せる。
「痛っ!」
咲良の予想通り、男は体勢を崩し、後ろ向きに床へと倒れこんだ。
当然、咲良も一緒だ。床に叩きつけられる男の上に、勢いのまま乗りあげる。ぐえっと息を漏らした男の手から自分の手を取り返し、思い切り振り被った。
『やる時は躊躇わずに』
先生の言葉通り、全力で手を振り下ろす。
ドン、とも、バン、ともつかない音がして、同時に振るった手に痺れが走りすぐに熱くなった。身体の下で男が悲鳴を漏らし、くぐもった声で呻く。
湿っぽい鼻声で咳きこむ音に、顔に当たったんだ、と気づいた。
もしかしたら鼻が折れているかもしれない。
ふ、とそれに思い至り、咲良は我に返った。
人を殴ってしまった。それも全力で。
不意に全身に冷水をかけられたような気がして、震えた。
いま自分は、人に怪我をさせたのだ。呻く男の声と、自身の痛む手が、咲良にその事実を突きつけてくる。
護身術の授業ではフリだけで、本気で人を傷つけた事なんて無かった。今までの人生でだってそうだ。暴力なんて、せいぜいが小さな小町を叱る時に、強く机を叩いて驚かせるために自分の手を痛めるぐらいだった。
なのに、今自分は赤の他人の鼻を折ってしまう様な、取り返しのつかない暴力を振るったのだ。
ぞっとし、思わず男に謝り大丈夫か聞こうとしかけて、怒声が投げつけられた。
「っのガキ!」
振り返れば、典子を捕まえていた男が怒り狂った顔でこちらに手を伸ばしていた。
咄嗟に乗り上げていた男の上から退き身を引いた瞬間、手を伸ばしていた男の姿が掻き消える。
何が起きたか分からず棒立ちになっていると、男が消えた向こうに、典子が何かを振り下ろした格好で立っていた。
手に持っているのは椅子だろうか。あれで男を殴り飛ばしたのか。
「てめぇ……!」
呆気にとられたのは一瞬で、男の苛立たし気な声に視線をやれば、男が頭を押さえながら床から身を起こす所だった。
「クソガキ!ぶっ殺してやる!」
男の今にも典子に飛びかかりそうな姿勢に恐怖を覚え、咲良は反射的に思い切り足を振った。
「っ」
ガツっと男の横っ面にスニーカーがヒットする。
痛みに呻く男を確認する余裕も無く、咲良は無我夢中で典子に手を伸ばした。
典子は慌てて手に持っていた、多分、簡易のパイプ椅子だろうものを男に投げつけ、咲良の手を取る。
店舗の方へと逃げようと二人で駆けだしかけ、典子がつんのめる様に体勢を崩した。
「逃がすか!」
咲良を捕まえていた男だ。
彼が床に倒れこんだまま、典子の足首を捕まえている。
典子は強引に足を引き抜こうとするが、男の力のが強いのだろう。外れない。
咲良も慌てて加勢をしようとし、後ろから聞こえてきた音にハッとした。
「咲良!上野!」
桐野だ。店舗に二人がいないのに気づいたのだろう。
咲良は空いてる方の手で顔に貼られたガムテープを無理矢理剥がした。酷く痛み涙が出たが、構わず叫ぼうとし、ひゃっ!と変な声が出る。
足元を何かがすり抜けていった。
ふわふわの覚えのある感触に、同じようにガムテープを剥がした典子と一緒に叫ぶ。
「小町!」