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おきあがり  作者: 鳶鷹
一章
9/136

8

<8>


 図書室に沈黙が落ちる。


 雨の音か風の音かにまぎれて落下した音は聞こえなかったが、窓の向こうにベランダは無い。勅使河原が地面まで落ちたのは確実だ。

 あそこまでする事はなかったんじゃないか、という空気と、ただ呆然とする空気が流れる中、ガラガラ、と桐野が窓を閉める音だけが響く。

 カチン、と鍵を閉めて振り返った桐野に八坂が口を開きかけたが、それを制して桐野が言う。


「まずは手当てでしょう」 


 はっとして麻井と飯尾に視線が集まった。

 麻井も飯尾もあまりの出来事に痛覚が麻痺してしまっていたようで、そういえば、とばかりに自分の傷を見る。


「いたい……」


 麻井は無意識に傷口をシャツの上から押さえていたため、多少は止血されていたが、まだ出血は続いていた。

 飯尾の方は意外と傷は浅いらしい。勅使河原の八重歯があたったのか、首筋が浅く長く切れてはいるが、出血量はそんなに無い。


「ジャケット着てて良かったね」


 ほっとしたように言った橋田に「でも血ぃ出てるし。肩も痛いし」と眉をしかめて訴える。


「肩?」

「すげぇ痛い。血出てないの?マジで?」

「ジャケット脱いでみろ」

「痛くて肩動かせねぇんだよ」


 ぶうぶうと文句を言う飯尾を橋田と杉山が宥める横で、八坂が救急箱を開いて呻いた。


「消毒薬と絆創膏しかない……」

「えええ?」


 ほら、と蓋を全開にした救急箱の中を咲良は典子と覗き込む。

 確かにほとんど物が無い。絆創膏も、市販の小さいサイズだけだ。麻井の傷を覆えるサイズのガーゼは無い。


「図書室での怪我って、紙で切るくらいだからかなぁ」

「とりあえず消毒して保健室だな」


 カウンターから箱ティッシュを引き寄せる。


「うわ!すげぇ痣!」


 杉山の大きな声に振り返ると、半分シャツを脱いだ飯尾がいて、傷のそばには確かに赤黒い痕がついていた。


「これ指の形じゃね?おいおい……麻井は大丈夫か?」


 まだ直接傷を見ていなかった麻井が、痛みに震えながら慌てて袖を捲ると、柔らかい二の腕にくっきり指の痕のような痣が浮き出来ている。

 その横、現れた傷口は、歯が刺さった後に引き剥がそうと乱暴に動かしたからか、所々えぐれて赤黒い肉が見えていた。しかも血がじわじわと染み出てきている。


「いたい……」


 ひっく、ひっく、と堪えきれずにしゃくりあげる麻井の肩を慰めるようにさすりながら、八坂がティッシュで傷口を押さえる。


「保健室に行かないと……誰か保健委員やった事ある奴いるか?」

「はい」


 問われて咲良は手をあげた。


「去年やっていたので……でも、大したことは出来ないです……」

「俺よりマシだよ。俺だと保健室のどこに何があるかも分からないんだ。案内頼む」


 はい、と答えかけて「待て」と桐野の声がかぶさる。


「な、なんだ?桐野」

「何で保健委員が必要なんだ。保健教諭がいるだろ」


 そういえば、と生徒たちが顔を見合わせると、八坂は溜め息をついた。


「今日はいないんだよ。公立校は試験最終日だし普通は部活も休むとこがほとんどだから、怪我人も早々出ないだろうって、市の保健教諭の定期研修会で他校に出張してる」

「マジかよ!」


 俺の肩どうすんの?と嘆く飯尾。


「肩は湿布はっとけばいいだろ。保健室まで行けば、提携の病院の番号があるから、応急処置の仕方聞いてから、俺が車で病院に送ってく」


 問題あるか?と挑むような八坂に、しばし黙ってから桐野が口を開く。


「なら俺も行く」

「は?」

「勅使河原を落としたのはこの下だ。渡り廊下が危ない」


 図書室の真下に落ちた勅使河原が無事でまだ人に噛み付くだけの体力があれば、窓の下のそばにある渡り廊下は確かに危ない。

 あれだけの傷を負えば、普通の人間なら到底立ち上がるのも難しいが、先ほどまでの様子だと油断は出来ないだろう。


「あー……護衛か」

「そのつもりだ」

「でも、俺も飯尾もいるぞ」

「駄目だ。飯尾は戦力にならない」


 言い切られて飯尾が反論するように口を開くのを制して、桐野は続ける。


「肩が駄目になってるんだ。力が入らないだろ」

「あ、そっか。こっちが利き手だわ、俺」

「先生は麻井に肩を貸すから、何かあった時に対処できない」


 うっと呻いて悩む八坂に桐野は溜め息をつく。


「……箒とかモップとかリーチのあるもので、近づかないで押しやる。なるべく相手に怪我はさせない」


 精一杯の譲歩なのだろう。

 渋々といった様子に、八坂も逡巡して頷いた。


「……分かった。他のメンバーは図書室で待機。こんな事態だから秋山先生も許してくれるだろ。金庫の番号調べてスマホ出してくれ。秋山先生が帰ってきたら、すぐに帰宅になると思うから」

「はい」


 ほっとしたような空気が流れて、それぞれ準備を始める。

 桐野は図書室のロッカーから丈夫そうなモップを持ってきた。


「行こう」






 麻井と八坂、飯尾、咲良に桐野の順で廊下を歩く。


 この順番を決めるのに少し揉めたが、最終的に「後ろからなら全員が見えるから」という桐野の言葉に納得した形だ。

 八坂は痛みで弱る麻井の肩を励ますように抱え、飯尾は一人でぶつぶつ文句を言っている。咲良は少し歩調を緩め、桐野の横に並んだ。


「あの……」


 桐野を見上げれば、無表情に見下されてひるむ。怒っている表情ではないのだが、整った顔が人形のようで少し怖いのだ。

 それでもちゃんと言わないと、と思って視線を合わせる。


「さっきは、ごめん」

「さっき?」

「その、避けてごめん」

「………」

「心配してくれたんだよね。失礼な真似して、本当にごめんなさい」


 頭を下げると、珍しく桐野が眉を寄せていた。

 もしかして怒られるかな、と内心びくびくしていると、桐野は何故か深呼吸してからモップを持っていない方の手を上げ、迷った様にさまよわせた後、咲良の頭にのせた。


「……いい。別に気にしてない」

「でも、」

「あれは普通の反応だろ。平和に生きてきたんだから、俺を怖いと思うのが普通だ」


 そのままぐしゃ、と頭をひと撫でされた。

 繰り返された普通、という言葉と、平和という言葉に咲良は複雑な気持ちになる。

 少し突き放したような口調は、まるで桐野がこれまで平和とも普通とも違う生活を送ってきたかのように聞こえたのだ。

 桐野の出身はアメリカだ。

 咲良はアメリカには行った事が無いから、アメリカの治安の良し悪しは分からないが、通っている塾の英会話講師は悪いところは悪いわよ、と嘆いていた。


 桐野の様子だと、彼の周りでは暴力沙汰は少なくなかったのかもしれない。

 飯尾の頭がすぐ横にあるのに棒を振るうのに躊躇がなかったのも、的確に勅使河原だけ狙えたのも、慣れていたから、と考えれば納得がいく。

 納得がいくが、暴力に慣れるような環境の想像が上手く出来ず、桐野の言い分に素直に頷いて良いのか分からない。

 ちらりと桐野を見上げれば、常と変わらない無表情で返された。咲良が桐野を「怖い」と言っても「そうか」で済ましてしまいそうな顔だ。


「……ちょっとは、その怖いと思ったけど、でもあのままだったら大変な事になってたと思う。だから、」


 その、と口ごもる。

 桐野のした事を「良い事」だと言い切るには、咲良の中の暴力に対する抵抗感が邪魔をした。だが飯尾が桐野のおかげで助かったのは事実なのだ。


「すごい、と思うよ。私は、全然動けなかったから」


 護身術を習ってるのに、と胸の中で呟いて自己嫌悪に陥る。

 一人娘を心配する父親が習わせてくれていたのに、あの危機的な状況で全然足が動かなかった。

 咲良の習った痴漢や変質者への対応の仕方で何とか出来たかは分からないが、それでも何か出来たんじゃないか、という思いが今になってこみ上げる。

 後悔にぐるぐる悩んでいると、まだ頭に乗っていた手が咲良の気を引くように、ぐしゃりと髪をかき混ぜた。


「えっ、わ、」

「余計な事はしない方が良い。慣れない人間が下手に手を出すと、被害は倍だ」

「でも、」

「どうしても何かがしたかったら、慣れた人間の指示をきちんと聞け。それが一番被害が少ない。自分にも周りにも」


 分かったな、と言う言葉はいつも通り淡々としていたが、珍しい長い台詞はどこか落ち込んだ咲良を気遣う様なものに聞こえて、後悔でいっぱいだった胸が少し軽くなった気がした。

 頭に置かれていた手が離れていくのを見ながら、咲良は小さく頷いた。


「ありがとう」



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