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おきあがり  作者: 鳶鷹
一章
8/136

7

<7>


 ごめん、という咲良の謝罪は杉山が上げた驚愕の声にかき消された。

 みんなの視線が杉山に向かい、杉山が凝視する方へと移る。


「っ!」


 倒れていたはずの勅使河原が、立ち上がるところだった。


「嘘……なんで……」


 麻井の呻く声に咲良は心の中で同意する。


 ふらふらと立ち上がる勅使河原の顔面の右側は、少しへこんでいた。

 骨が陥没しているのだ。


 ぞっとしたが目が離せない。額からはだらだらと血が流れ、顎から滴り落ちている。

 とてもじゃないが一人で立ち上がれるような怪我じゃなかった。表情はぼうっとしていて、痛みを感じている様子がまったく無いのが更に恐怖をあおる。


 そのまま、ふらりとぎこちなく足を踏み出した。


 ひっと息をのんだのは誰なのか分からないまま、咲良も恐怖でしがみついてくる典子を抱き返す。

 その時、ふ、と小さな溜め息のようなものを聞いた気がして顔をあげると、すぐ横にいた桐野が強い視線で勅使河原を見据えていた。


 真剣な表情は、よくよく見れば強張って見える。

 もしかして緊張してる……?と気づいてみれば、肩の位置がいつもより高い気がした。保健の授業で人は緊張すると肩が上がる、と言っていたのを思い出す。

 桐野はいつの間にか横に立っている事が多く、いつもは咲良が少し顔をあげた位置に肩があるのだが、今日は随分首を傾げなくては肩が視界に入らない。

 表情は冷静に見えるし口調にも変化は無いが、桐野もこの異常事態に恐怖を感じているのだろうか。

 それなのに心配してくれたであろう手を拒否してしまったのを、なおさら申し訳なく感じたが、謝る前に桐野は咲良の横を離れて八坂に近づいていってしまった。


「先生」

「っ桐野か」

「それを」


 のろのろと近づいてくる勅使河原と、いきなりそばに来た桐野とにきょろきょろ視線を彷徨わせた八坂だったが、桐野の差し出した手の意味が分からず「え?」と戸惑う。

 それから上向きに開かれた手の平を見て、慌てて握っていた棒を遠ざけた。


「だ、駄目だ!」

「先生」

「こ、今度こそ死んじゃうだろ!」


 死、という言葉に桐野は大きな溜め息を漏らす。


「先生。ならどうする?」

「え」

「このままじゃ、また誰かが噛まれるだろう」


 その指摘に八坂は迷った様子を見せた。

 確かにこのままでは、また誰かに噛み付くに違いない。だからと言って、生徒である桐野に暴力をふるわせるのは躊躇われるのだろう。それに勅使河原の様子が尋常じゃないといっても、殺してしまうわけにはいかない。

 そんな逡巡を感じたのか、苛立たしげに桐野が「先生」と呼びかける。


「そ、そうだ!拘束するのは、どうだ。紙かなんかを噛ませて、縛れば―」

「誰がやるんだ?」

「う………」

「俺、やだよ!」


 黙って成り行きを見守っていた飯尾が慌てて声をあげ、杉山も大きく首を振る。橋田も躊躇いながら口を開いた。


「先生、その、危ないと思います」

「橋田……」

「さっき、俺、勅使河原さんの口開かせたでしょ?」

「あ、ああ」

「全力で力こめて、やっとあいたんです。俺、握力テスト、クラスで一番だったのに」


 ちら、とふらふらしながら少しづつ迫ってくる勅使河原を警戒しながら橋田は強張った顔で続ける。


「女の子の力じゃない。もし突っ込もうとした紙の代わりに手でも噛まれたら、下手したら今度こそ食いちぎられると思います」

「だが……」

「なんだっていいでしょ!早く何とかしてよ!」


 躊躇う八坂に、勅使河原を挟んで一人孤立してしまっている皆川が耐えかねたように叫んだ。


「今だって十分死にそうじゃない!死んでてもおかしくないんだから、ってやだ!なんでよ!?」


 甲高い皆川の声にひかれたように、勅使河原がふらりと向きを変える。


「やだっ!ちょっと、八坂!何とかしてよ!」


 皆川は叫びながら後ろに下がろうとしたが、三歩ほど後退して窓際に置いてある腰高の本棚にぶつかった。

 本棚沿いに図書室の後ろに下がろうにも、さっきまで座っていた会議用に向きを変えた机があって、袋小路のようになってしまっている。


「八坂ちゃん!どうすんだよ!」

「どうするって、そんな、」


 早く!と叫びながら、皆川は机に尻を乗せて上がろうとするが、腕に力が入らないのか、うまく机に身体を乗せ上げる事が出来ない。その間にも勅使河原はゆらゆらと身体を揺らしながら、皆川に迫っていく。


 迷う八坂に舌打ちをしたのは桐野だ。

 苛立たしげに立ちすくむ八坂を一瞥し、カウンター前に置かれていた木製の三段脚立を掴んで持ち上げる。


「き、桐野」

「橋田。窓を開けろ」

「え?」

「勅使河原と皆川の間にある窓だ。そこから落とす」

「桐野!」


 図書室は二階だ。落ちたら普通の人間だって大怪我だし、打ち所が悪ければ死ぬ。その上、勅使河原はすでに致命傷を負っているように見える。

 咄嗟に止めようとする八坂を無視して、桐野は脚立の脚を掴みなおした。

 橋田は数瞬迷い、だがそんな時間も無いと判断したのか、勅使河原を大きく迂回して窓に走り寄り、カーテンを開けて鍵を外し、窓を開く。


 途端に、さあっという雨音が図書室に満ちた。


 昼ほどではないが雨は降り続いていたらしい。風は弱まっていたから図書室に吹き込んでくる雨はさほど多くない。

 ただ、窓の外はこの時期のこの時間としてはかなり暗く、先が見通せないほどだ。雨雲が上空にとどまっているせいだろう。


「橋田、押し出すから退け」


 無言で桐野の言うとおりにした橋田を確認し、桐野が脚立の天板を前に突き出しながら慎重に勅使河原に近づく。

 徐々に距離の縮まる二人の姿に咲良はひやりとしたが、とん、と軽く脚立が自分にぶつかっても勅使河原は激しい反応はしなかった。

 のろのろと頭を動かし、自分の左腕に当たりながら押してくる脚立と、その脚立を持つ桐野に焦点の合っていない目を向けるが、暴れる事もない。

 かすかにゆらゆら揺れながら、脚立を挟んだ先の桐野に腕を伸ばす。


「……ア……ァ」


 意味を成さない言葉なのか息なのかを漏らしながら上がった腕は、脚立の脚の長さで桐野には届かない。

 そのままじりじりと窓へと押されていく。


「き、桐野」


 八坂の制止しようとしたのか震える声に、ガチン、という音が被る。


「うわ………」


 勅使河原が、大きく口を開けて噛みつこうとしたのだ。

 当然、脚立があって届きはしないのだが、八坂が言葉を詰まらせるのには十分な音と行為だった。

 じりじり、と窓へと押し進められながら、ガチガチ、と無表情で歯を鳴らす勅使河原を可哀相だ、と庇う生徒はいない。

 固唾を呑むような空気の中、とうとう窓際の本棚まで勅使河原が追い詰められた。

 桐野が勅使河原の腹をぐっと押すと、勅使河原は無防備に本棚の上に上半身から倒れこんだ。


「橋田、交代してくれ」


 鈍い動きでもがく勅使河原を上から脚立で押さえつける桐野に、橋田は躊躇いつつ交代する。 

 なんで、という空気が漂ったのもつかの間、桐野は本棚から垂れていた勅使河原の両足を掬い上げた。


「桐野……?」

「脚立をひけ」

「!っくそ!」


 何をするのか分かったらしい橋田が押さえつけていた脚立をぱっと引くと、八坂が反射的に止める間もなく、桐野は両手に掴んだ勅使河原の足を押す。


 窓の外に押し出された勅使河原は、悲鳴をあげることなく、暗い窓の向こうに消えていった。



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