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小町はきょとんとして咲良を見上げている。
なんで小町に、と咲良は言いかけ、そういえば小町は新條と新條の父親に随分あたりが強かったな、と思い出した。
自分のテリトリーに無理矢理入ってきた余所者だから、だと思っていたが。
「犬は、種類や個体差もあると思いますが、何らかの臭いを嗅ぎ分けているんじゃないかと」
「!そういえば、学校で先輩の犬も凄い吠えてた」
渡瀬の愛犬のきなこだ。
鼻が良くて、咲良の荷物を嗅いでこちらの居場所を見つけてくれた。植込みに噛まれた飯田がいたのにいち早く気づいたのも、きなこだった。
「保健所でも逃げてきた人が連れてた犬が、感染者を発見してたよ。個体によっては区別がつかないようだったが、小町のような元々猟犬をしていた犬種はセンサー代わりになってくれる可能性が高い」
浩史に見つめれ、小町が腰を浮かせてそわそわしだす。
いつもなら喜んで、お父さん!とばかりに飛びつくのだから、浩史の言う通り何かを感じ取っているのだろう。
浩史をうちのお父さん、と認識出来てはいるのか、新條の時の様に唸る事は無い。ただ申し訳なさそうな顔で見上げるばかりだ。
「それで良い。小町」
耳を垂れて、ごめんなさい、と上目遣いに見てくる小町を浩史が褒めるが、しゅんとした様子のままだった。
その姿が可哀想で、咲良はしゃがみ込んで小町の頭を撫でる。
「俺が撫でてやる事は出来ないと思うから、咲良、頼んだぞ」
「うん」
「えっと、じゃあ何かあったら小町に索敵を頼むとして……あとなんかある?無かったら疎開の準備始めよう。先生たち帰ってきたらすぐ動けるようにしとかないと」
遼がリビングの片隅に積み上げてある荷物を見た。
悦子がちょこちょこと集めていた物資だ。あまり時間は無かったはずだが、それでも結構な量がすでにあった。その上、個人の荷物をまとめて車に積みこむ算段もしなくてはならないのだ。遼と孝志以外は、まだ自分の服すら纏められていないのに。
時間はいくらあっても足りないだろう。
「朝飯はー……」
「賞味期限ぎりぎりの乾パンの缶がいくつかあるから、それを摘まみながらやれば良いわ。中原さんも一缶持って行って」
言って悦子が荷物の一角からいくつかの缶を取り出し、浩史に渡す。
「今のままじゃあ車が三台でも全部乗り切らないしね。さ、頑張って作業しましょう」
咲良は父と二人、急いで自宅に戻った。
この疎開がいつまで続くかは分からないから、一年分の衣服も持って行かなければならない。田舎の家にはほとんど何も置いていないからだ。
特に冬は雪が降るから、防寒着も欠かせない。
山のただなかにあるため夏は過ごしやすいが、冬は薪ストーブを一日中つけていなければ寒くて過ごせないのだ。都市ガスが通っておらず、電気もいつ切れるか分からないので薪ストーブは必需品だった。
梅雨の時期の今でも、こちらと違ってひどく冷えれば薪ストーブをつける事もある。
「おじいちゃん家、薪残ってたっけ?」
「外にいくらかあった気はするが……虫がついてるだろうな」
「うえぇ」
ばたばたと互いの部屋からリビングへと、厳選した荷物を運ぶ。
咲良と父の服と布団だけでも結構な量になるから、車に乗せられるよう、ある程度選別しないといけない。これだけは、と自分で厳選したものをさらに父と二人で選び抜き、ああでもないこうでもないと言い合いながらゴミ袋に詰めていく。
お気に入りのマフラーと、去年買ったばかりのスヌードを見比べていた咲良に、自分のセーターを詰めていた父が声をかけてきた。
「咲良、あの子なんだが」
「あの子?」
「転校生」
「ああ、桐野くん」
今でこそ咲良もあの素っ気なさに慣れたが、こんな状況になる前は父に色々言っていた相手だ。父が気に掛けて話を振ってくるのも分かる。
「悪い子じゃないよ。たくさん助けてもらったし」
「そうか………あの子、とあの講師は……」
「ルイス先生?」
「あぁ。アメリカ生まれだったよな?」
「?うん」
「家族なのかな?」
「え?あ、どうなんだろう。親戚って言ってたような気はするけど」
二人は名字も違うし、見た目も全然似ていない。
漠然と遠縁なのだろうと思っていたが。
「そういえば、さっきお家の話聞いたよ。あんまり良くない実家みたい」
家と言って良いのか、と言っていた桐野の言葉を思い出す。
大人が大勢いて、まともなのは子守くらいで、もう彼女はいなくて。それから虐待じみた扱いをされていた事。
咲良はぽつぽつとそれを父に話して聞かせた。
浩史は咲良の話に、小さく唸る。
「……よく分からない『家』だな。大人が大勢いる、か」
「子守がいるっていうのも不思議な感じだよね。アメリカだと普通なのかな。ベビーシッターは洋画とかドラマでも見るけど」
ごくごく普通に母に育てられた咲良には、子守がいる家庭、というのがよく分からない感覚だ。
「なんかお店屋さんでもしてたのかな?」
「かもな。もしくは………」
「お父さん?」
どんどん声の小さくなる浩史に咲良は何?と問い返したが、父はしばらく考え込んでから、首を振った。
「いや。まだ分からない事ばかりだから、な。だが、」
「?」
「気をつけるんだぞ」
服をたたんでいた手を止め、浩史が真剣な目で咲良を見た。
「二人きりにはならないようにな。必ず小町を連れて行け」
「ならないよ、二人きりなんて。お父さんいるもの」
「もしもどこかに連れて行かれそうになったら、絶対に人を呼ぶんだ。良いな?」
「う、うん」
いつになく強い眼差しに、ぎこちなく咲良は頷いた。
少し怯えたような娘の様子に、ふ、と浩史は苦笑して俯く。
「彼らに何も無いなら良いんだ。ただ……こんな状況だ。外に出たら気を抜くな」
「うん」
「俺相手にも、だ」
「え?」
「今でこそ発症していないが、いつあのウィルスに負けるか分からない。もし……」
「お父さん?」
「もし、お父さんが死んで人じゃなくなったら、ちゃんと見捨ててくれ」
「!」
無理だ、と咄嗟に叫ぼうとしたが、口がわなないて動かなかった。
そんな事出来るはずない、なんでそんな事言うの、言いたい言葉はあるのに、咽喉からはかすれた息だけが出て行く。
浩史の眼は真剣で、はい以外の返事は受け取るつもりはないのが分かった。
「お、父さん」
「約束してくれ。自分を優先しろ。俺の為に」
俺の為、と言われてしまえば断れない。
それでも返事はしたくなくて、咲良は俯いて言葉を拒否した。まるで遺言みたいな言葉に鼻の奥がツンとする。
零れそうになる涙をこらえて震える咲良の頭に、浩史は無傷な方の手を伸ばす。
そして娘が泣き止むまで、何度も頭を撫で続けた。




