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おきあがり  作者: 鳶鷹
一章
7/136

6

<6>


「え、誰?」


 ぽかんとした飯尾の目の前に立つ女子生徒はずぶ濡れで、制服の裾や袖からぼたぼたと水が垂れている。うつむいた姿勢に加えて長い髪がべったりと張り付き、顔は見えない。

 誰、と聞かれたのに返事をせず、足を引きずるような鈍い動作で図書室に入ろうとゆっくり進んでくる。

 普通なら水を絞るなり、雫を払うなりの動作をするだろうにそれが無い。どこか異様な姿にドアを開けた飯尾が後ずさった。


「おーい……?」 


 それでも何とかコミュニケーションをとろうと、目の前に来た彼女の顔の前で軽く手を振る。

 ひらひらとした手の動きにつられるように、のろのろと顔を上げた。


「あ、勅使河原さん……?」


 ようやく見えた顔に麻井が驚いた声をあげる。


「え?え?どうしたの?びしょ濡れ……ってやだ!怪我してる!」


 首!と麻井が指をさした先に、その場の視線が集中した。


「うわ!」


 細い首の真ん中が抉れていた。

 滑らかな筈の肌が、何かに噛み付かれて引きちぎられたかのように抉れ、少し黄色がかった白いぶよぶよとしたものが見えている。

 それなのに血が多少しか流れて無いのは、雨で洗い流されたからだろう。

 普通ならだらだらと血が流れているようなひどい怪我だ。


「手当てしなきゃ!」


 驚いて逃げ腰になった飯尾と反対に、麻井が飛び出す。


「ひどい怪我……ああ、保健室に行った方がいいよね」


 躊躇いがちに勅使河原の肩に片手を置き、もう片方の手でスカートからハンカチを引っ張り出しながら、八坂へと振り返る。


「先生!保健室に!」

「あ、ああ」

「上野さん、応急処置用の救急箱って」


 ある?と聞こうとしたのだろう。

 だが、それに典子が答えるより先に、それは起こった。


「っきゃああああ!」


 いきなり勅使河原が麻井の腕に噛み付いたのだ。


「痛いっ!」


 ハンカチで喉の傷を押さえようと伸ばした麻井の腕の半ば、厚手のセーターに勅使河原の顔がうずもれている。

 麻井は反射的に振り払おうと腕を引くが離れない。


「痛い!離して!やだ!やだ!」

「勅使河原!おい!やめろって!」


 麻井の悲鳴に飯尾が勅使河原の肩を押して引き離そうとするが、どれだけの力で噛み付いているのか離れる気配がまるで無い。

 パニックになった麻井が腕を引き抜こうと身体をよじるが、勅使河原の身体ごと腕の動きについていく。


「離せよ!勅使河原!」

「口!口開かせなきゃ!麻井さん、止まって!」


 腕を引こうと後ろに身を引き、だが離れない勅使河原にまた身を引く。

 結果その場でぐるぐる動き回ってしまっている麻井に、橋田が走りよる。


「やだぁ!痛い!」

「麻井!動くなって!」


 飯尾が慌てて麻井の背中側に移動し、後ろから抱き込むようにがっちり押さえ込む。

 それと同時に橋田が勅使河原の後ろに回りこみ、下顎の付け根を両手で挟んだ。


「顎掴んで開かせるから、引いて!」


 麻井の悲鳴に負けないような大声で指示を出し、橋田は勅使河原の顎を挟んだ手に力をこめる。


「まだか!」

「すごい力なんだよ!」


 中々ひらかない口に、これ以上やったら勅使河原の顎の骨を折りそうだ、と橋田は冷や汗をかいた。

 手の中の勅使河原の顔は小さく、顎の骨は脆そうで、どうしても全力が出せない。


「マジかよ……!」

「早くしろって!」

「痛いぃぃぃ!」

「……くそっ!」


 それでも麻井の涙まじりの悲鳴に橋田は意を決し、ぐっと力をいれた。


「っ!」


 橋田の手の中で、がくん、と骨が動いた感触がして、それは麻井の腕を掴んでいた飯尾にも伝わったのだろう。飯尾が麻井の噛まれていた腕を勢いよく引っこ抜いた。


「痛いっ!」


 麻井は悲鳴をあげて自由になった腕をもう片方の手で抱え込む。

 勅使河原は噛み付いていた姿勢のせいか、後ろからかかった橋田の力のせいか、前のめりに図書室の中へと倒れこんだ。


「麻井、大丈夫か!」

「う……」

「上野!救急箱!」


 橋田の叫び声に、典子は足を縺れさせながらカウンターに走った。転びそうになった典子の肩を咄嗟に支え、そのまま咲良も一緒に向かう。


「こ、こっちぃ!」


 空気が動いた事で、杉山も八坂も弾かれた様に麻井達に駆け寄った。


「こここ、ここ、これ、これぇ」


 典子はカウンターの下に頭を突っ込むようにして、奥に置かれた白い救急箱を引っ張り出そうとするが、手が震えて掴む事が出来ない。


「典ちゃん」


 恐怖で震える典子の背中を、やはり震える手で撫でて、咲良はもう片方の手を突っ込んで救急箱を引き寄せた。


「あ、ありがとぅぅ」


 半泣きの典子の肩を撫でながら、待っていた橋田に救急箱を渡す。


「なんなのぉ、勅使河原さん」

「わ、分からないけど……」


 普通じゃない、と咲良は恐怖と混乱でカタカタ震える自分の手を握り締める。

 委員会で会う勅使河原は、少し内気で大人しい女の子だった。

 嫌な事があっても、怒るより黙り込んでしまうタイプだ。たとえ麻井と何かあって仲違いをしていたとしても、噛み付くなんて想像も出来ない。

 まして橋田の様子では、そうとうの力をこめていた。普通に考えて有り得ない。


「い、痛いぃぃ」


 ひっく、と泣き声まじりの麻井に、はっとして典子と手を握り合いながら、カウンターから出る。

 麻井は、と見れば、セーターの袖を捲くるのも痛いらしく、代わりにセーターを捲りあげた八坂がその下のシャツに滲んだ血に眉を顰めた。

 相当強く噛まれたのだろう。白いシャツは所々穴があいている。穴があいていない所からも血が滲んでいるから、シャツは無事でも皮膚は切れているのかもしれない。


「麻井、袖めくるぞ」


 血の気の引いた顔で、麻井は頷いてそっぽを向いた。

 直視するのが怖いらしい。

 咲良も麻井の気持ちが分かる気がした。あれだけ血が滲んでるという事は、傷は結構ひどい事になっているだろう。しかも人の口の噛み痕なのだ。


「ちょっと痛いかもしれないが……」

「うおっ!」


 八坂の声をさえぎり、飯尾が叫ぶ。


「な、なに」

「離せよ!勅使河原だろ!これ!」


 悲鳴に近い声をあげた飯尾を見れば、いつの間に起き上がったのか、勅使河原が後ろからしゃがんだ飯尾の肩を掴み、シャツの襟とセーターの上から首の付け根あたりに顔を埋めている。

 麻井にみんなの注意が集中している間に、近づいてきていたらしい。


「痛ぇ!」


 両手で勅使河原の顔を押すが、びくともしない。

 そばにいた杉山が勅使河原の背中にまわって腕を掴んで引っ張る。


「くそっ!離れねぇ!」

「杉山、顎開かせるんだ!」

「無理だ!」


 叫ぶ杉山に橋田が反論しかけるが、


「飯尾の首と肩が邪魔なんだよ!上着もあるし!」


 杉山の言うとおり、飯尾の肩と首のちょうど顔が挟まる角度で噛み付いているのだ。厚めのセーターとブレザーが邪魔して、さっきのように手をいれる隙間が無い。


「くっそ!俺も引くから、左開けて!」


 橋田が悪態をつきながらまわり込み、勅使河原の左肩を掴む。杉山は右肩を両手で掴んだ。


「せーので引け!っせーの!」


 勅使河原の両肩を橋田と杉山が後ろに引く。が、飯尾ごとずるずると後ろに引っ張られるだけで、勅使河原の口は外れない。


「痛ってぇ!やめやめ!」


 悲鳴をあげて制止する飯尾。


「上野!中原!麻井を頼んだ!」


 呆然と男子のやりとりを見ていた典子と咲良に、八坂が半泣きの麻井を託して男子生徒に走り寄る。


「俺が飯尾を前に引くから、後ろ引っ張れ!」

「ばっ!馬鹿!八坂ちゃんの馬鹿!痛ぇんだよ!」


 慌てて拒否する飯尾に、ぐっと八坂も言葉に詰まる。


「じゃ、じゃあ!あれだ!俺が正面から勅使河原のおでこを押すから、後ろ二人が引っ張れ」

「それじゃあ、さっきと一緒だろ!勅使河原ごと後ろに下がるだけだ!」

「じゃあどうしろって!」


 反論する杉山に八坂が苛立たしげに頭を引っ掻き回す。

 その間にも飯尾は呻くような悲鳴を漏らしているのを見て、咲良は慌てて麻井を典子に預けた。


「あ、あの!私、前に引っ張ります!」

「咲ちゃん!」

「私が飯尾くんを前に引っ張って、先生は下から上に勅使河原さんのおでこを押し上げてください。杉山くんと橋田くんは少し下方向に後ろに引いてくれれば、口が開くと思うんです」

「じゃ、じゃあ、私も引っ張りますぅ!」


 咲ちゃんだけじゃ無理だよぅ、とべそをかく典子に、八坂は一瞬迷って頷く。


「よし。じゃあ上野と中原が飯尾の手を掴んでくれ」


 いいな、と言われて咲良たちは前に出かけたが、


「駄目だ」


 いつからそこにいたのか、杉山たちの斜め後ろに立っていた桐野がストップをかけた。


「桐野、ちょうど良かった。女子二人よりお前のが」

「どけ」

「は?」


 ほっとしたような八坂の声をさえぎり、桐野は杉山の肩を叩く。


「どけ」

「え、お前、何言って……」

「いいからどけ。橋田も」


 場に似つかわしくない静かな声に、杉山は混乱しながらどくが、橋田は戸惑った様子で動かない。

 その様子に桐野は何か言いかけ、まぁいいか、と小さく呟いて勅使河原の斜め前に立った。


「桐野?何か良い案が……っ!」


 尋ねかけた八坂が、桐野の手にあるものに気づいて息を呑んだ。

 桐野の手にあったのは、スクリーンを下げる時に使った棒だ。

 それをゴルフのクラブの様に斜め下に構えて、勢いよく掬い上げる様に振った。


「やめっ!」


 咄嗟に制止の声をあげた八坂を無視し、桐野は狙い違わず、勅使河原の頬のあたりへと振り上げる。


 バン!ともガン!ともつかない、硬いもの同士がぶつかった音が図書室に響き渡る。


 凍りついたような空気の中、ぐらりと勅使河原の身体が揺らぎ、あれだけ強固に噛み付いていた口が外れた。


「お、い、おいおい、」


 橋田は何が起きたのかいまいち理解していない飯尾の腕を引いて離れ、すぐそばで桐野の凶行を見ていた杉山は、咲良たちの方へ後ずさる。

 勅使河原の頬、耳に近いあたりからは血が流れ、ふらふらと揺れた後、どさっと仰向けに倒れた。


「き、桐野、やり過ぎだ……」


 呻くように言う八坂に、桐野はちらりと視線をよこしたが、またすぐに勅使河原に視線を戻す。

 桐野何したんだ、とちょうど見えなかったらしい飯尾が橋田に尋ねるが、橋田は蒼白な顔面のまま黙って桐野を見つめている。代わりに杉山があれで殴ったんだよ、と小声で答える。


「はぁ!?殴ったぁ?死ぬだろ!」


 飯尾が裏返った声で叫んだ。

 飯尾の言うとおりだ。あんな棒で顔を殴られたら死んでもおかしくない。

 しかも桐野は思い切り振った様に見える。それが頭に近い部分に当たったのだから、致命傷を負っていても不思議はない。


「ばっ馬鹿かよ!オーバーキルじゃん!え、ちょっ、勅使河原、大丈夫なのか……」


 噛まれていた首の辺りをさすりながら飯尾が動揺した声をあげる。

 その声に八坂がはっとしたように、よろけながら一、二歩前に出た。


「き、桐野、その棒、離せ」

「八坂先生。ですが、」

「いいから!早く置け!」


 恐怖の裏返しなのだろう、八坂の声が裏返る。

 その声に咲良の横にいた典子はびくりと肩を震わせ、後ろの麻井の小さく喉の中で悲鳴をあげた。勅使河原と男子たちを挟んだ向こうでは、離れて立っている皆川が蒼白の顔で自分の肩を抱きしめている。


「先生、まだ危ないと、」

「勅使河原は倒れてるだろ!危ない事なんか無い!」


 咲良は八坂の気持ちが分かる気がした。


 怖いのだ。躊躇なく棒を振った桐野が。


 勅使河原が無言で噛み付くのはもちろん怖かったし、あのままでは飯尾は致命傷を負っていたかも知れない。首の付け根だ、頚動脈だって近い。 

 だから速やかに勅使河原をどかせたのは必要な事だとは思う。


 思うのだが、それまで普通に言葉を交わし、一緒に食事をした相手が、躊躇なく致命傷になりうる一撃をくだした、という事実が怖かった。

 桐野に普段から暴力的なところがあったらまた違ったのだろうが、そんな様子は一切なく、人によっては物静かで大人しいと評する様な生徒だったから、余計にだ。

 しかも桐野は今なお凶器の棒を握ったまま。

 八坂は凶器を取り上げたいのだろう。震える声で足を踏み出し、桐野に手を差し出す。


「いいから、こっちへ寄こせ。ほら」


 切羽詰った八坂の仕草に、桐野は反論しかけたようだったが、諦めたように棒を差し出して渡し、勅使河原から視線を外さずに咲良たちの方へと後退してきた。

 ほっとしたように棒を受け取った八坂とは逆に、杉山は無手になったものの桐野を警戒して避ける。


「咲良」


 杉山に避けられたのを気にした様子もなく、桐野は咲良の横に並ぶと、手を伸ばしてきた。

 何のために伸ばされた手なのか考える余裕も無く、反射的に咲良は後ずさった。

 触られるのが怖かったのだ。


「あ……」


 だが咄嗟に避けてしまってから、罪悪感が沸く。

 別に桐野は咲良に暴力を振るったわけでもないし、さっきのだって飯尾のために必要な行為だった。今のだって単に心配しての事だろう。

 なのに拒否するような態度をとるのは失礼だ。

 申し訳なくなって、知らず下がっていた視線をあげて口を開く。


「あ、あの、ごめ―」


「嘘だろ!」



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