30
駄目だ、と頭の中で悲鳴をあげ、咲良はぎゅっと目を閉じた。
怖い。助けて。誰か。
頭の中いっぱいに広がった自分の叫びは声にならない。
息をする事すら忘れた自分の息遣いさえ聞こえず、代わりの様に聞こえるのは誰かの悲鳴と空をきる音。それから遠くの方で鳴り響いているサイレン。
痛みを覚悟し身体を強張らせた。
死ぬのは怖い。痛いのも怖い。噛まれたら咲良も遠藤や皆川の様に死んで起き上がるのだろうか?それは絶対嫌だ。新條の父親の様に近しい人を襲うのだけは、駄目だ。だったら和子の様に一思いに死んでしまいたい。
閉じた視界の中、恐怖に沈みながらそう考え、覚悟を決める。
だが痛みは一向にやってこなかった。
なんで、とそろそろと眼を開ける。いつの間にか俯いていた視界に影がさし、目に入った靴に咲良は、あ、と声を零した。
この靴を咲良は知っている。
「咲良」
「お、父さん!」
目の前に父が立っていた。
少し疲れた隈のある顔に無精ひげが生えているし、二日前の朝、家を出た時に着ていた糊の聞いたスーツは薄汚れて所々にかぎ裂きが出来ているが、確かに父だった。
「お父さん!」
「ただいま」
叫んだ咲良に苦笑しながら答えた父に、鼻の奥がきゅっと痛み、涙が零れそうになった。慌てて目を瞬き「おかえり」とようやく会えた父に手を伸ばす。
だが、その手が父に届く前に、後ろから腕をひかれた。
「わっ」
「あんたが咲良の父親か?」
強い調子の誰何の主は桐野だ。
警戒しているのか、咲良の腕を掴む力は強い。
「桐野くん、大丈夫だよ。私のお父さんだから。お父さん、桐野くんは同級生なの」
「お前が咲良の言ってた転校生か」
じろり、と父が探るように桐野を眺め回した。
まるで敵を見るかのような目に、咲良は慌てて口を開く。
「お父さん、桐野くんは守ってくれたんだよ。学校からずっと」
「へぇ………まぁ良い。うちの娘から手を離せ」
父の威圧的な態度に咲良はヒヤッとしたが、思い返せばこんな事態になる前、咲良は父に転校生がよく分からない子だ、と何度も話していた。
それを父は覚えていたのだろう。じろじろとあからさまに値踏みをするように桐野を観察している。
「高校生にしては随分、暴力沙汰に慣れてるな」
「……そっちこそ。あそこまで出来る日本人は初めて見た」
「あそこ?」
ちら、と桐野が視線をうつした先を咲良は振り返り、絶句した。
咲良のすぐ後ろに、人が倒れている。
「し、新條さん」
つい先ほど咲良に襲い掛かろうとしていた新條の母親だった。
仰向けに倒れてぴくりとも動かない。
当然だ。眼窩から頭を貫通するかのように鉄の棒が刺さっているのだから。
左の眼窩に刺さっているそれは、コンクリートの塀を作る時に中心に入っているものによく似ていた。直径二㎝ほどの太い鉄の棒だ。少し錆が浮いている。
柔らかな眼球は鉄の棒に押し潰され、頬を何かの液体が伝っていた。
あれを、父がやったのか。
「やろうと思えば誰でも出来る。腕力と……覚悟があればな」
呟きの様なそれは桐野の言葉を肯定するものだった。
暗く重たい声に、咲良は父と離れていた二日間を思う。
父は人を殺められるような人では無かった。母の死を知った後、咲良の実父に対して憎しみや、時には殺してやりたいと漏らす事はあったが、実際に人に暴力を振るった事は無い。八つ当たりで物に当たる姿すら見た事は無かった。
その父が人に手をかけた。
咲良を守るためだ。父が新條の母を手にかけなければ、きっと彼女の手と口は咲良をとらえ、食いつかれていただろう。
改めてその可能性に気づき、咲良は震えた。
「咲良?」
桐野に掴まれている手にも震えが伝わったのだろう。
伺うように背後から顔を覗かれかけ、父が荒っぽく舌打ちをして手を伸ばしてきた。桐野の腕を振り払おうとしたのか、咲良を引き寄せようとしたのか。
だがその手が届く前に、桐野が叩き落した。
「き、桐野くん?」
「触るな。……あんた、怪我してるだろう?」
「え?」
言いながら咲良の前に出た桐野と、冷ややかな表情をした父とを見比べる。
「お父さん?怪我してるの?」
咲良を背後に庇おうとする桐野に焦れて、咲良は横に足を動かしかけて傍らの小町に躓きかけた。
小町は困惑したように耳を後ろに下げ、じっと父を見上げている。いつもなら父が帰ってきた途端、喜んで飛びつくのに。
「小町?」
どうしたの、と声をかけると、小町は咲良を見上げて、ふぅん、と弱弱しく鼻声を漏らす。
桐野にきつい視線を送っていた父がそれに気づいて、ふ、と表情を緩めた。
「……良い子だ、小町。それで良い。咲良を守れ」
父の言葉に小町は困った様にたしたしと足踏みをし、おずおずと咲良に寄り添った。
「お父さん、どういう……」
「さささ咲ちゃぁん!」
「わっ」
父の不可解な言葉に言いかけた言葉は、斜め後ろから典子にぶつかられた衝撃と彼女の泣きそうな声で掻き消えた。
「え、典ちゃん?」
「お、お父さんがぁ」
震える手で玄関の中を刺され、はっとする。
玄関を開けたのは、助けを求めるためだった。
「典子ちゃん?」
「ひ、浩おじさぁん、お父さんが、」
咲良の父親を見て、典子が必死で何かを伝えようとするが言葉にならない。
それでも何か異常が起きているのは確かで、浩史は倒れている新條の母を避け、玄関へと駆け寄った。咲良も典子たちとその後に続く。
「失礼します。勇さん?」
浩史が控えた声で訝しそうに尋ねるのを、その真後ろで聞きながら咲良は首を捻った。
静かだ。
ついさっきまで吉田のおばあさんが居間のドアを開けようと、あんなに暴れていたのに。久佳や遼たちの声もしない。
何が起こったのだろう、と父の背後から顔をのぞかせた。
居間の前の廊下の、一番咲良たち寄りには勇が立っていた。肩で息をしながら、呆然と足元を見ている。
その向こうには顔を蒼白にさせた遼と孝志が立ち竦み、久佳がへたり込んでいた。
「勇さん?大丈夫ですか?」
浩史がそっと勇に近寄り、肩に手を伸ばした。その指先が触れた途端、刺されでもしたかのように、勇の身体が飛びあがった。
ごっ!と松葉杖が転がり、ぐらりと勇の身体が倒れ掛かる。
「お父さん!」
階段を降り切ったところにいた悦子が慌てて駆け寄り、浩史と一緒に支えた。
目の前にいた父と勇がいなくなり、咲良は開けた現状を息をのんだ。
居間の扉から上半身を出した形で吉田のおばあさんが廊下に突っ伏している。
ぴくぴくと小刻みに痙攣している白髪交じりの頭は、普通じゃありえない角度を向いていた。
「……俺がやった」
「勇さん?」
悦子と浩史に壁に寄りかからせられていた勇が、震える声を出した。
「殴ったんだ。遼たちがドアを抑えてたが、すごい力であちら側から押されて、耐え切れなくなって、ドアの隙間から頭が出て……」
その時の様子を思い出したのか、カタカタと肩を震わせる。顔は真っ青だ。
悦子が宥める様に肩を撫でているのさえ気づいていないのだろう。は、は、と興奮した犬の様に息を吐き出し、ぎゅっと目をつぶって唾を飲み込んだ。
「異常だった。あんな、あんな老人が、すごい力で、ドアの隙間から顔を出して、く、狂ったように、何度も何度も、空を噛むんだ」
「誰か噛まれたりは?」
「してない。でも、時間の問題だと思ったんだ。だから、松葉杖で思いっきり殴った」
咲良は廊下に転がった松葉杖を見た。
勇の大きな体を支えられる丈夫な杖は、どれだけの力をこめたのか、微かにアルミ製のフレームが凹んでいる。凹み部分についた赤黒いのは血の色か。
勇は震える両手で顔を覆った。
「殺してしまった」
「勇さん」
「殺すつもりで殴ったんだ。守らないと、家族を守らないと」
覆った手の間から嗚咽が漏れる。
背中を丸めて呻く勇に典子と悦子が抱きついた。
「お父さん、ありがとう。みんな無事よ」
「ああ。ああ。遼は、」
「……俺も無事だよ。父さん」
「なんだ」
「父さんはすげぇよ。頑張った」
「ああ」
「でも、あー………言いづらいけど、その、この人、死に切ってない感じなんだけど……」
「は?」
嗚咽を漏らしていた勇が、涙でぐちゃぐちゃの顔を上げ、遼を見る。
吉田のおばあさんの向こうにいる遼は決まりが悪そうな引きつった顔で、痙攣している頭部を見ていた。
「……筋肉が痙攣して、とかじゃないのか?」
「いや、口がさ、パクパクしてんの。すげぇ、怖いんだけど……」
「え、だって首が」
「折れてます。角度がおかしいし。でも動いてる」
引きつった顔の遼の横で、孝志は蒼白の顔色のまま端的に告げる。
吉田のおばあさんの顔が見えるのは、遼と孝志と久佳だけなのだ。久佳は腰を抜かしたまま、義母の顔を凝視して硬直している。
「ちょ!こっち見た!なにこれ、怖いんだけど!?」
ぎゃあ!と遼が叫んで飛び上がり、つられて肩を跳ねさせた孝志に抱き着く。
「遼、重い!え、うわ、何で目が動くの?何で?」
「頸椎が折れたんだろう」
助けを求めて孝志が視線を巡らせると、それまでじっと観察していた浩史が足を踏み出した。
「頸椎が折れて、脳からの信号が身体に伝わらなくなった。が、脳に近い顔はまだ指令が届いてるんだ、おそらくは」
「え、と」
淡々と歩を進める浩史に混乱する孝志に「咲ちゃんのお父さん」と遼がフォローする。
「中原 浩史だ」
「槙田 孝志です。お医者さんですか?」
「いや。会社員だ。ただ、少しだけ君たちよりは情報がある」
「情報?」
その場のほぼ全員が首を傾げたのに気づいたのだろう。浩史は「詳しくは後で」と言い、皆の顔を見回した。
「とりあえず、彼女を外に出すか、とどめを刺す」
「と、どめ」
「俺がやります。大丈夫。……戻ってくるまでに慣れました」
浩史の言葉に勇たちは困惑したようだったが、外で新條の母親を見ていた咲良は沈黙した。
父は、この二日で慣れる程、人に手をかけたのか。
それが良い事なのか悪い事なのか、咲良には分からなかった。普段だったら絶対に良い事ではない。けれどこの状況だ。
仕方なかったんだ、お父さんは悪くない、と胸の内で呟く。
そんなのは子供の言い訳と同じだと自分でも分かっていたけれど。




