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皆川にぶつかられ、勢いよく背中から倒れこむ。
真後ろは生徒会室のドアだ。
このままだとスチール製のドアにぶつかる、と衝撃を覚悟して、反射的に頭を守ろうと背中を丸めた咲良だったが、どん、とついた背中にほとんど痛みはなく、なぜかくらりと眩暈のような症状がおこった。
え?と思い声を出す暇もなく、浮遊感に襲われる。椅子に座ろうとしたら、悪戯で椅子を引かれて床に尻餅をつくような感覚だ。止まる、と思った所で止まらない。
「っ!」
直後に背中に強い衝撃が走った。
と同時にガターン!という音と共に、咲良は上から何かに押しつぶされた。咄嗟に上に乗ったものを退かそうともがきつつ、知らないうちに瞑っていた目を開けば、目の前に皆川の肩越しに暗闇が広がっていた。
「え?」
身体の前面に感じる重たさは皆川か。もしかして自分は後ろに転がった?という自問は、すぐに正解だと分かった。
「咲ちゃん!」
叫んだ典子を斜め下から見上げていたからだ。
正確には、皆川の肩越し、教室の開いたドアの向こうに、だ。
「もう!やだ!」
悪態をつきながら、皆川が咲良の上から身を起こした。身体の上で変な体重の移動の仕方をされ、咲良は呻く。
痛い、と文句を言う間もなく、皆川がたちあがりかけ、そして甲高い悲鳴をあげた。
「やめて!触んないでよ!」
きゃー!と上がった悲鳴と共に、皆川の体重がふっと消える。
どこ、と彷徨った視線の先に、暴れる皆川がいた。滅茶苦茶に頭を振って身を捩っている。
「あ………」
その皆川の両脇に、小柄な女子生徒が三人いた。いや、抱き着くようにむさぼりついている。
「やだぁ!放せっ!」
半狂乱になって皆川が暴れるが、彼女たちは離れない。
まるで図書室で見た、麻井と勅使河原のようだ。
「うそ………」
そこにいたのは、生徒会室で出会った一年生の三人組だった。寝込んでいた女の子とその友人二人。
ドアの所で震えている典子の持つランタンが、惨状を浮かび上がらせている。
その典子の後ろに人影が見えた。
「典ちゃん!」
後ろ!と叫びながら、跳ね起きる。
「中原!」
典子が慌てて振り向くより先に、その人影が叫んだ。
「あ、杉山く―」
「後ろ!」
「え?」
今しがた自分が叫んだのと同じ言葉を耳にして、咲良はぱっと振り向いた。
暗闇の中に人が立っている。
遠藤だった。
「あ……」
あの女の子たちがいるのだから、遠藤がいたっておかしくない。
だというのに咲良の驚愕は大きかった。
遠藤の顔は大きく食いちぎられていた。
ほっそりとした左頬が抉れ、いびつな輪郭になっている。その傷口を中心に、赤茶けた絵の具をぶちまけたかのように体液が飛び散ってこびりついていた。
抉れた傷口の中に所々見えている白いものは、頬骨か歯か。
酷い怪我のはずなのに痛みなど感じていないのか、無表情の遠藤が大きく口を開いた。その拍子にボロボロと乾いて赤茶けた血が剥がれて落ちていく。
咲良は棒立ちになって、スローモーションのように鮮明に見えるそれを見ていた。
「咲ちゃん!」
「っ」
典子の悲鳴に、はっと我に返る。
遠藤の手はもう目の前だ。どうやって避けるか、と意識しないまま、咲良の身体は動いた。
遠藤の脇を潜り抜けるように前で飛び出る。
考えてとった行動ではなかった。目で見える範囲の中、咄嗟に一番安全そうな場所に身体が動いた形だった。
だがそこは生徒会室の真ん中だ。
典子たちのいる扉からはいっそう離れてしまっている。
戻ろうにも、目の前には咲良へとのろのろ振り向こうとしている遠藤が、その向こうには静かになった皆川に群がる三人の一年生たちがいて、その先がようやく扉。
ならもう片方の扉に、と目をやると、薄闇の中にバリケードなのか、一年の子たちが片付けたせいなのか、机と椅子が積んであるのが見えた。あの机と椅子をどけている間に、遠藤か女の子たちの誰かに後ろから襲われるだろう。
どうしよう、と視線をめぐらせている間にも、遠藤はじりじりと近づいてきている。
「っ!」
泣きそうになりながら、遠藤に背を向けて生徒会室の奥へ走る。
咲良は無手だ。せめてモップか箒か、何か相手を撃退する事が出来る物が無いか、と壁際のスチール製の棚に飛びついた。
だが棚はほとんど空だった。篠原たちがあらかた持っていったのだろう。
半泣きになりながら三個並んだ棚の端から端に走るが、丸まったビニール袋や拾ったらしいネジや画鋲がぽつぽつとあるくらいだ。
いっそスチール棚を倒して、と支柱をぐっと引っ張ってみるがびくともしない。耐震用に壁か天井に固定してあるらしい。
「……なら」
思いついて棚に足をかける。
ぐっと体重をかけてみるが、意外に棚は丈夫でたわみもしない。
いける、ともう片方の足ものせて、急いで一段一段登っていく。
時折汗で滑る手にひやっとしながら、一番上の天板まで駆け上がるように逃げた。
随分掃除をしていなかったのか埃で手がざらつくが、これで大丈夫かも、と大きな天板の上で方向転換をして、下を覗き込む。
「!」
真下には遠藤が立っていた。
薄暗闇の中、生気の無い白い顔と赤茶色にまみれた顔が、ぼんやりと咲良がいる方を見つめている。
目が合うのが怖くてさっと頭を引っ込めようとし、遠藤の手が支柱を掴もうと動いているのに気づいて息をのんだ。
まさか同じように上ろうとしているのだろうか。
遠藤の身長なら、咲良よりも一段上の棚から上れるから、天板に辿り着くのも早い。それに遠藤から逃げるように天板を降りたとして、下のどこかには一年生たちが三人いるはずだ。
薄暗い生徒会室は、スチール棚の上からではよく見通せない。つい先程までランタンの明かりのそばにいたから猶更だ。
暗闇に慣れていない目をこらせば、何となく端っこ、ドアの付近に白っぽい何かが動いている姿がうっすらと見えるが、あそこに三人ともいるのだろうか。
どうしよう、とぎゅっと手を握り締めた時だった。
「咲良!」
ドアの方から大きな声が飛んできた。
咲良は遠藤から目を離してそっちを見る。
戸口にはぼんやりした明かりと、その中にいる桐野がいた。
「すぐに助けに来る!待ってろ!」
叫びながら桐野の目が咲良を探して生徒会室をさまよう。
咲良は返事をしようとして口を開きかけ、だが視界の隅で遠藤が廊下に向けてのろのろと動き出したのを見て口をつぐんだ。
彼らは大きな音に反応する。遠藤もドア付近の一年生たちも、桐野の声に反応して咲良からは注意が逸れていた。
返事をする事で、その注意をもう一度集めてしまうのを咲良は恐れた。
だが桐野に無事だと伝えたい。
咲良は急いでブレザーからシャツの袖を出来る限り引っ張り出した。
それから大きく両手を振る。
薄暗闇の中でも白色は目立つ、と遠藤を見て気づいたからだ。一年生の子達がどこにいるのかぼんやりとだが分かるのも、彼女たちのシャツの襟や袖がほのかに暗闇に浮かび上がるからだった。
気づいて、と夢中で手を振ると、桐野と目が合った気がした。
まさかこんな暗闇で、と思う気持ちと、生徒会室からグラウンドまで見える桐野だから見えてもおかしくはない、という気持ちが入り混じる。
祈るような気持ちで腕をぶんぶんと振り回す。
「そこで待ってろ!」
叫ぶようなその言葉に、やっぱり見えてるんだ、とほっとして涙が出そうになった。
桐野の姿は生徒会室から離れたのか明かりと一緒に見えなくなり、声の調子からも遠ざかっていくのが分かったが、不安は和らいだ。
ここで待っていれば、助けは来る。
ほっとして天板の上を移動した。端っこに行って壁際にくっつく。
最悪、すぐそばから上ってこられたら、反対側の端に這って逃げ、そこから飛び降りよう。
助けがくるまで何とか逃げ切る。
不安と恐怖でおかしくなりそうだが、それに負けて叫んだりしないよう、咲良は自分の手をぎゅっと握り締めた。




