33
突然聞こえてきた音に、全員が身を強張らせる。
くぐもった音は近い様で遠い。
―誰かぁ!いやっ!助けて!
女性の悲鳴と金属製のものに激しくぶつかる音が混じり合っている。
―誰か!萌絵!由香子!由香子!出してよ!出して!
思わず咲良は由香子を振り返った。
由香子は硬い表情で家の奥を睨んでいる。
「木田さん。あいつ、死んだんですよね?」
「俺はそう思ったよ。だが、これは……」
木田は顔面を蒼白にして、由香子と同じ方を見ている。木田の妻は今にも倒れそうだ。
「由香子ちゃん、なんなんだ?」
咲良と同じく事態についていけていない遼が由香子に尋ねると、由香子は険しい顔で小さく息を吐いた。
「あの強姦魔。翔太が始末したあいつが起き上がったんだと思う」
「でもこの声女の人じゃ、」
「あいつはあいつの妻と一緒にケージに突っ込んでたの。あの女、旦那が言った事鵜呑みにして陽菜を責めたから」
「?」
「……陽菜が襲われたっていうのは出鱈目で、陽菜から誘ったんだって言ったのよ、あのクズども」
陽菜や翔太の家族に聞こえない様になのか、怒りでなのか低く小さな声で吐き捨てられた言葉に、遼が嫌そうに顔を歪めた。
「陽菜が翔太一筋なのなんて、ここらの人間はみんな知ってただろ」
「ええ。あの女だってスーパーのパートやってたんだから、絶対知ってた。二人がよく一緒に買い物行ってたの見てるもの。だから閉じ込めたのよ」
「?」
「……あの男もだけど、妻の方だって集落の人間に袋叩きにされる可能性があった。だから双方のために夫婦纏めてケージに隔離したの」
苦々しく言い、由香子は歩き出した。
「ツムジ、ハヤテ、来い。木田さん、犬舎の鍵を」
「待った。由香子ちゃん、一人で行くのかい?」
「ええ。仕留めてきます」
「一人じゃ危ないよ!俺が一緒に行くから」
そう言った木田だったが、顔色は悪い。
由香子と出会った時の話では、集落には由香子以外に人の姿をしたものを撃てる人間はいないはずだ。木田は猟銃を持っているが、まだ人を撃った事は無いのだろう。
同じ事を思い出したのか、少し離れた所にいたルイスが口を挟んだ。
「僕が補助しようか?」
途端に空気にピリッとしたものが流れる。
木田は自己紹介もしていない相手からの申し出に思い切り警戒した顔をし、由香子は口を開きかけ、閉じた。
何か思案する表情になった由香子に、ルイスは笑いかける。
「僕の腕を確かめるのには、良い機会だと思うよ?」
「うまくいけばね」
「失敗したら僕は勝手に死ぬし、何かあったら殺す良い言い訳が出来る。どう?」
殺伐とした言葉と裏腹に朗らかな表情のルイスに木田は顔を引きつらせ、由香子は嫌そうに眉間にしわを寄せてルイスを睨んだ。
「あんまり良い言い方じゃないわね」
「気に障ったならごめん。でも良い証明になるんじゃないかなって思ったんだけど」
「……分かった。手を借りる」
「由香子ちゃん!」
驚いた声をあげた木田に、由香子は簡単にルイスたちを紹介する。今まで黙っていた卓己も加わり援護すると、渋々だったが木田も提案に頷いた。
「だが不安だから一緒に行かせてもらうよ。そっちの兄さんが何するって疑うわけじゃないけど、いざって時に手が多い方が良いだろう?」
「分かりました」
それで何となく全員がつられて由香子たちの後に続く。
上野本家は、敷地の三分の一が家屋で三分の一が庭、残り三分の一が犬舎だ。
雨の日でも犬舎の中で犬たちが運動出来る様、また生まれた子犬たちが庭で安全に遊べる様、家屋が占める割合が少ない。
咲良たちは敷地内の手前、家屋近くの庭の隅に留まり、庭の奥の犬舎へと向かう由香子たちを見送る。
犬舎からは悲鳴よりも金属音ばかり聞こえる様になっていた。
木田は庭の中ほどで止まり、由香子と卓己が犬舎の前で止まって銃を構える。
ルイスは気負った様子もなく犬舎のドアへと歩み寄った。
だが鍵を差しこみかけ、動きを止める。ルイスがすっと後退ると同時に、ドアが内側から激しく揺れ出した。
中の人間が外に出ようとしているのだ。
咄嗟に犬舎に駆け寄ろうとした卓己を、彼らの元まで戻ったルイスが留める。
「先生っ!中の人が、」
「人、いますかね?もう、悲鳴聞こえないですよ?」
ハッと全員の視線が犬舎に集中した。
確かに今聞こえるのは何かがドアにぶつかる音だけだ。女性の声はもうしない。
「ケージってあの犬舎の中に入ってるんですよね?えっと箱の中に箱が入ってるみたいな感じで」
「ええ。でもこれじゃあケージは破られたって考えた方が良いみたいね」
「それって―」
誰かが呟いた瞬間、ドアが限界を迎えた。
激しい音をたててスライドドアがレールから外れ、地面に倒れこむ。
ドアに伸し掛かる様にしていた人も一緒に地面に転がり、歪な動きで立ち上がった。
中肉中背の男だ。どこにでもいそうな中年だが、彼の胸からは木製の柄が突き出している。どう見ても致命傷になり得る傷で、翔太がやったのだろう。
そこからあふれ出ただろう血が、シャツをべっとりとした茶色に染めていた。
「離れて」
静かな由香子の声に咲良はハッとして彼女を見る。由香子は銃を男に向かって構えていた。
離れて、という言葉はそばにいた卓己に言ったものだったのだろうが、聞こえたのは咲良だけでは無かったらしく、ふらふらとしていた男が由香子へと顔を向けた。
次の瞬間、破裂音がし、男が後ろによろめく。
そのままよたよたと二、三歩下がったかと思うと、どっと仰向けに倒れこんだ。
「さすが由香子ちゃん」
誰かの声に咲良が由香子を見れば、由香子は銃を構えたまま、倒れた男に歩み寄っていくところだった。
銃口は倒れた男に合わせたままだ。卓己とルイスも由香子の後に続く。
男がまた起き上がったら即座に撃つために、照準を男に合わせているのだろう。
だから、犬舎のドアが外れた間口から顔を血塗れにした女が出て来たのに最初に気づいたのは、離れた位置にいた咲良たちだった。
「ゆっ」
真っ先に声をあげたのは誰だったか。
分からないままに、けれど自分が呼ばれていると気づいた由香子がハッと顔をあげて、犬舎を振り返った。
由香子と女の目が合う。
あ、と女の口が動き、由香子に向かって手を伸ばし、飛びつく様に前のめりの姿勢になった。
急な動きに由香子が体勢を変えるより先に、女の腕が由香子に届きそうになり、誰かの悲鳴が上がりかかった。
だが、
「大丈夫?」
唐突に女が真横に吹っ飛ぶ。
横合いからルイスが女を蹴り飛ばしたのだ。
ルイスはそのままで倒れこんだ女に歩み寄って、流れる様に銃を構える。
パン、と軽い音がし、ルイスの足の下で女の動きが止まった。
あっという間の出来事に、咲良の後ろで集落の人たちが呆気に取られたのを感じる。咲良だってはじめの頃はルイスのあの気負いの無い発砲に唖然とした。
「……ありがとう」
一番に立ち直ったのは、やはりというか由香子だった。
もの言いたげにルイスを見た後、ふっと息を吐いて礼を言う。
「助かったわ」
「どういたしまして。お役に立てたなら良かったよ」
にこやかに返すルイスに由香子が無造作に近寄ると、咲良の後ろで数人が息をのむのが聞こえた。ルイスは表情を変えずに暴力を振るえる人間だ、とたった今見たばかりだから、由香子の身を案じたのだろう。
だが由香子は気にした様子も無く、ルイスの隣りに並ぶと足元の女性をじっと見やり、もう一度深く息を吐いた。
「良い腕ね。ちゃんと頭を貫通してる」
そう言って、ルイスの肩を軽く握った拳でポンと叩いた。
気安い仲間へする様な仕草にルイスはきょとんとして、由香子と他の人を見渡してから、ああ、と納得した様に小さく声を漏らす。集落の人間がハラハラと自分たちを見ているのに気づいたのだろう。
苦笑してから、真似る様に由香子の肩を軽く叩いた。
「君もね。あの体勢の人間を一発で仕留めるとは思わなかった」
「真っ直ぐこっちに向かってくる相手なら、なんとかなるわ」
軽く答えた由香子に集落の人たちの間から、ほっとした空気が流れる。
ルイスは見た目からして外国人だし、躊躇いなく銃を撃つ。こちらの常識が通じない相手じゃないかと不安だったのが、由香子と普通に接しているのを見て、警戒が解けたのだろう。
それを見計らったかの様に、由香子が軽く手を振って注目を集めた。
「決を採らせて。彼らにここに残ってもらうか、出て行ってもらうか」
賛成なら挙手を、と言った由香子に、集落の人たちがざわめく。小さな声で意見を交わしているのが聞こえてすぐ、パッと誰かが手をあげた。
「賛成」
「圭太」
「その代わり銃の持ち方教えてよ、おじさん。俺、猟銃はまだ持たせて貰えないけど、それなら小さいから持てると思う」
「圭太!」
母親が血相を変えて叱りつけるが、圭太はぷいっとそっぽを向いた。
おじさん、と呼ばれたルイスは由香子に「教えて良いの?」と問うが、由香子もまさか圭太があんな事を言い出すとは思っていなかったのだろう、頭を抱えている。圭太と母親の応酬に卓己が割って入って収めようとするが止まらない。
互いに声が大きくなってきて怒鳴り合いになりそうだった時、そばにいた灯里が「もうっ」と叫んだ。
「銃がどうとかは後で良いでしょ?!今はあの人たちが残るかどうかって話し合いなんじゃないの?」
「口挟むなよ、灯里。俺は、」
「私は賛成。私、お姉ちゃんみたいになりたくない」
きっぱり言い切った灯里に、文句を言いかけた圭太が黙った。
圭太の母親も、卓己も、他の人たちもだ。灯里は陽菜と年が近い。もしかしたら彼女が男の被害に遭っていたかもしれない、と誰もが気づいたのだろう。
苦しそうだったり泣き出しそうな顔をした大人たちを見回し、灯里は強張った顔で続ける。
「由香子ちゃんに誓ったんでしょ?悪い事しないって。ならその人達がいたら安全になるんじゃないの?」
「灯里」
「それにお母さんだってずっと言ってたじゃない。集落に若い男の人がいたら助かるのにって。だから賛成」
灯里の態度につられたのか、木田の妻のそばにいた小学生たちが「さんせー」と手をあげた。
残った大人たちは互いに顔を見合わせる。それから木田がひょいと手をあげた。
「俺も賛成だ。情けないが、俺は人を撃てる気がしない」
さっきも、と倒れている男を見下ろし、頭を掻く。
「こいつが向かってきた時、動けなかった。だから悪いが兄ちゃんたちの手を借りられたら、と思うよ。代わりに猟で食料取ってくるから許してくれ」
「私も、賛成です」
おずおずと手をあげたのは萌絵だ。
「銃とかそういうのもだけど、畑を作るのも手が足りないし……」
「畑?」
思わず、といった風に遼が聞くと、萌絵は困った顔で由香子を見て、代わりに由香子が答えた。
「下の畑に行ける余裕が無いのよ。だから、使ってない家整理して畑にしようと思って」
「下?」
「会社の畑、山をぐるっと回って降りた麓にあるの。今までは車ですぐだったけど、そうそう車も使ってられないし、そもそもゾンビ?あれがうろついてる中、麓の平野で畑仕事なんか出来ないもの。だから集落の中に畑を作ろうと思って」
「あー、なるほど。その方が安全だわな」
遼が納得した声を出すと、圭太の母親が手をあげた。
「私も賛成。息子の言い分はともかく、手が足りないのは確かだから」
「わ、私も」
彼女たちにつられたのか木田の妻も同意すると、彼女たちの夫も迷いつつ頷いた。
全員の同意に、由香子が遼を振り返る。
「全会一致。歓迎するわ」
「やった!」
遼が両手をあげて喜び、咲良も胸を撫で下ろした。
これでようやく落ち着ける。
「じゃあまずは孝志を運んで寝かしてやりたいから、母屋借りて良い?あと、持ってきた食料とか、」
わーっと喋り出す遼を由香子は苦笑して押し留める。
「悪いけど諸々の事は木田さんたちと話し合って」
「?由香子ちゃんは?」
「私は死体を小学校の焼却炉で焼いてくる」
「あー……」
「庭に死体を置きっぱなしにする趣味はないわよ。後のことは、木田さん、お願いします」
「分かった。えっとじゃあ、勇くんたち集まってくれるか」
呼び寄せられた勇に手招きをされ、咲良もそちらに向かった。
集まる人たちの中、由香子がルイスを呼び止めているのが目の端に移る。どうやら遺体を運ぶのを手伝う要請をされているらしい。
うんうん、とルイスが頷き、振り返る。
「眞。ちょっと手貸して」
咲良の後ろにいた桐野は、木田を交えた話し合いに参加しようとしていたのだろう。目を眇めてルイスを見やったが、もう一度名前を呼ばれて観念したらしい。
ため息をついてから、咲良の頭に手を乗せた。
「……ここは安全かもしれないが、気をつけろよ」
「桐野くんも気をつけてね。話し合い代わりに参加しておくから」
抜ける彼らの代わりに家の事など話しておく、と告げれば、くしゃりと慣れた仕草で頭を撫でられた。
「……頼んだ」
「うん。行ってらっしゃい」
「行ってくる」
桐野を見送り、話し合いを、と振り返ると、集落の人たちと目が合う。
微笑ましそうだったり冷やかすような視線に、また恋愛方面に勘違いされたかも、と言い訳をしようとしたが、木田が「じゃあ家の振り分けなんだが」と話しはじめてしまい、タイミングを失った。
今度ちゃんと言えば良いかな、と諦めて、木田の話を聞こうと顔を上げると、灯里と目が合う。思わず見つめ返すと、ふいっと顔を背けられた。
なんだろう、と思ったが、木田に「咲良ちゃんはお祖父ちゃんの家の鍵持ってるかい?」と聞かれて慌ててポケットにいれたキーホルダーを探す。鍵を見つけて顔をあげれば、もう灯里は他所を向いていた。
「じゃあ、寝泊まりする所なんだが――」
話し始めた木田の話を聞きながら、咲良は典子の横に立ち直す。
話が終わる頃には、灯里の視線の事は忘れていた。
* * *
「民兵、ね」
どさ、と運んできた死体を地面に下ろし、由香子が言う。
小学校だという建物の裏手、昔使っていたという古い焼却炉はここ数日の間に何度も使われたのか、中にはいくつもの骨が転がっていた。由香子が死体を焼却したのだろう。
焼却炉の脇の地面には穴が掘られ、そこにも骨が放り込まれている。焼いた後の骨を埋めるために掘ったらしい。
焼却炉にたてかけられた大きなスコップを手に取り、由香子が振り返る。
ネイトは由香子の視線を受けてにこりと微笑み返したが、由香子の表情は変わらず、視線は鋭い。まるで彼女の飼っている猟犬の様な視線だ。
笑顔や相手の思い込みを利用して躱す、という手段は使えないだろう。
「民兵には見えない?」
問い返すと、斜め後ろから眞に蹴られた。だがそれ以上の抗議は無い。彼にも分かっているのだろう。
由香子は他の人間とは違う。容易には騙されてくれない。
それが生まれ持って性質なのか、この混乱が起きてから身に着けたものなのかは分からないが、他の人間に対してした様な誤魔化しをすれば、余計に猜疑の目を向けられるに違いない。
だが『実際には自分たちが民兵の訓練を受けた事が無い』と明言するのも出来ない。
はっきりと口にしてしまえば、由香子から他の人たちに話が行き、今度は彼らから騙したのか、という目を向けられる。
この狭いコミュニティにおいて、それは命取りな気がした。
だからネイトは黙って由香子を見つめ返す。
見つめ合い、というより睨み合いは、由香子が視線を逸らして途切れた。
だが、彼女が追及を諦めたわけでは無いのは、視線の向かう先で分かった。由香子が見ているのは、ルイスが腰のベルトに挟んだ銃だ。
「民兵だとしても、日本に銃を持ち込めるはずが合い。銃刀法違反で捕まって取り上げられる」
「ここに来るまでに警察官から奪った銃だとは、思わないのかな?」
微笑んだまま腰の銃をポン、と叩くと、由香子は冷めた視線でネイトを見上げた。
「日本の警察官の基本装備にその銃は無いわ」
「おや、詳しいの?」
「さっき卓兄が言ってた、人を殺せる可能性があった、山田さん。あの人、警察官だった。山田さん、崖から飛び降りる前に、拳銃を投げて寄越したの」
言って由香子は腰に下げたポーチから黒光りする拳銃を取り出す。
それはネイトが持っている物とは、基本的な形状からして違う。素人が見ても違う銃だと断言出来るだろう。
「僕が銃を奪ったのは、都市部の警察官だったから、じゃ駄目かな?」
もう一度眞に今度は尻を蹴られ、由香子から呆れたと言いたげな視線を貰った。おまけに飼い主の意を汲んだのか、由香子の足元にいるハヤテという犬にすら鼻を鳴らされる始末だ。
「駄目かなって言っちゃってるあたり、違いますって自白してるのと一緒よ」
「だよねぇ」
困ったなぁ、と人当たりが良い、と言われる笑みを浮かべてみるが、由香子には通じなかったらしい。心底呆れた顔をされた。
「まぁ、別に民兵だろうが、テロリストだろうが、私たちを害さないなら構わないわ」
「それはまた太っ腹だな」
蹴られた尻を摩るネイトに代わって眞が答えれば、由香子は肩を竦める。
「倫理観がどうの、だの言ってられる状況じゃないもの。それにさっきは助けてもらったし」
「さっき?」
怪訝そうな声をあげた眞を由香子は一瞥し、ネイトを見上げた。
「犬舎から飛び出してきた私の同級生。あの子、あの時はまだ人間だった」
「そうだったかな?」
「見ればわかるわ。起き上がった死者とは目が違う」
はっきりと断言され、ネイトは内心で口笛を吹きたくなった。
由香子が彼女と目を合わせたのは一瞬だ。あの一瞬で生者と死者を見分けられるとは。そばにいた卓己ですら気づいていないだろうに。
「じゃあ撃っちゃったのは悪かったかな?」
ここに来るまで、散々人の甘さを見てきた。
自分に向かってくる死者を突き飛ばす事が出来ず食われる人間、武器を持つ事を怖がり拒否する人間、死者になるとは限らないからと傷を手当てする人間。
ネイトなら自分に害意がありそうなものは片っ端から殺しただろう。生き残るためにそれが一番有効なのは、死んでいった人間を見れば分かる。
吉田という他人に構いたがる女は自ら感染者に食われに行った様なものだし、中原や郷田は時にネイトと同じ様に死者を殺しはしたが、生者に情けをかけて、結局死んだ。
そう考えて、いや、甘さとは違うな、と自分で自分の考えを否定した。
あれこそが普通の人の反応なのだ。普通の人間は生きてるものを殺す事に躊躇いを感じるのが、正しい。自分も本当に小さい頃は、そうだった記憶がある。
由香子は自分と違ってまともに育っただろうから、動く死者は撃てても生者を撃ち殺すのは抵抗があるだろう。
そう思ったから尋ねたのだが、返ってきたのは「馬鹿なの?」という答えだった。
「さっき助けてもらったって言ったわよね、私」
「ああ、うん。言ってたね、そういえば」
「撃ってくれて良かった」
あっさりとやった事を肯定され、ネイトは少し戸惑った。
それに気づいているのかいないのか、由香子は地面にスコップを刺すとネイトが撃ち殺した女の足を掴み、焼却炉に突っ込もうとする。だが由香子とそう身長の変わらない相手だ。引きずる様になってしまう。
女に起き上がる兆しが無いのを確認してから、ネイトは女の腕を持って由香子を手伝った。
「どうせ追い出す予定だったもの、こいつ」
「追い出す?」
「そう。噛まれたから、じゃなくて、陽菜を集落の人間の前で罵倒した以上、あそこには置いておけなかった」
「あー」
「でも集落を出て行ける所なんて無い。こいつの実家の人間はもう死んでるし、そもそも集落を出て他所に辿り着けるはずが無いから、出て行けって言ってもごねただろうし」
「ゴネル?」
「嫌だって抵抗する事。こんな田舎に住んでる癖に車の免許持ってなかったから。徒歩とか自転車で他所の安全圏まで行けるはずが無いって抵抗するのは目に見えてた」
「車でも大変だもんね」
死者たちは車にでも平気で突っ込んでくるのだから、生身の人間だったらすぐに駄目になるだろう。
「らしいわね。その上、噛まれて怪我をしたんだから回復するまで置いてくれって懇願されたでしょうから、正直、あのタイミングで仕留めて貰って良かった、と私は思ってる」
淡々と言う由香子を、ネイトはまじまじと見つめてしまった。
彼の日本語の聞き取りが間違っていなければ、彼女は今、人殺しを容認したのだ。
まだ成人したばかりだろう、日本人の女の子が。
「なによ?」
「ちょっと、意外だなって………」
由香子は見る限り、集落の人間を命懸けで守っている。ネイトの様に倫理観がおかしいわけでは無いはずなのに。
それともパッと見では分からないが、精神に異常をきたしているのだろうか?
思わずまじまじと由香子を見ると、嫌な顔をされた。
「じろじろ観察するのやめて」
「ええ?そういうつもりじゃないんだけど」
咄嗟に笑顔で誤魔化そうとしたが、あっさりバレた。
「あなた分かりやすいのよ。目が笑ってない。気を付けた方が良いわよ」
「……はじめて言われたよ」
遼や咲良たちは誤魔化せたのに。
「普通は思っても指摘しないわね。空気読めよって言われるし」
「ユカコは空気読まないの?」
「今は読む必要を感じない。ていうか、なんで呼び捨て?」
「駄目だった?」
咄嗟に口をついて出てしまっただけなのだが、そういえば日本人は家族でも無ければファーストネームで呼び合う事は滅多にないんだったか、と思い出した。現に咲良も典子もあれだけ仲が良いのに、ちゃん、という敬称をつけている。
「別に駄目じゃないけどね。あなた見た目完全に外国人だし」
「じゃあ、ユカコで」
即答したネイトに、由香子はしばらく考える様に動きを止め、手を差し出した。
素直にその手に手を乗せると、ひっくり返して手の平に指で字を書かれる。
「由香子のユは自由の由で、カは香り、コは子供の子」
「くすぐったい」
よくこれで銃の引き金が引けるな、という細い指で手の平をなぞられて、くすぐったさに手を引きかけるが、由香子は放してくれなかった。
ネイトに比べれば小さな手で、ぐっと手首を掴み、至近距離から彼を見上げて、言う。
「感謝はしてる。けど、集落の人たちには生きてる人間を撃った事は言わないで」
「嫌われちゃうから?」
「怖がられるからよ。恐怖は人をおかしくする。今でも十分怖い状況が続いてるのに、これ以上は耐えられない人間が出てくるわ。……もう、陽菜や翔太の様になる人間を出したくない」
まっすぐネイトを見上げる視線に、懇願の色はない。
ただひどく強く真摯な瞳を向けられ、ネイトは少しだけ気圧された。いつもの様に笑い返す余裕も無い。
無意識に息を飲み込み、答える。
「……分かった」
「ありがとう」
淡々とした感謝の言葉と共に、パ、と手を離され、小さく息を漏らした。
どうも彼女―由香子は他の人間とは勝手が違う。やりづらい。普通の日本人の女の子に見えるのに、何かが違う。
焼却炉に向かいながらポケットを探っている彼女の背中をじっと見ていると、いきなり後ろから蹴りを入れられた。
「痛っ!眞、やめてよ」
「お前がやめろ」
「?なにを?」
「あんまり凝視するな。今のお前、変質者かストーカーみたいな目だったぞ」
「………僕が?」
日本に来てから、いやその前から自分がジロジロと見られる事はあったが、自分が誰かをそんな風に見た事は無かったはずなのに。
「ストーカーって……そんな」
「無自覚か。余計に性質が悪いな」
「いや、だって、なんか気になるじゃない?彼女」
「別に。怖い女だなとは思うが」
「怖い?とは思わないけど………」
言ってから、確かに怖さに似たものを覚えているのかもしれない、と思う。
怖いもの見たさというか、怖いからこそ目が離せないというか。ただ、眞の言う「怖い女」という言葉とはどうも違う意味での怖さな気がして、ネイトは反論しかけて口を閉じた。
うまく表現出来ない。
「どうした?」
「いや、別に………」
自分の心なのによく分からず、もやっとしたものを抱えたまま、ネイトはもう一度由香子を見やった。
途端に振り返った由香子と目が合い鼓動が跳ねるが、由香子は無言でネイトと眞の間に転がっている男の死体を指さし、持って来いというジェスチャーをする。
「人使いが荒い女だな」
ぼやく眞と一緒に男を担ぎ上げ、焼却炉まで運びながら、由香子について考え続けるが、答えは出ない。
ただただ彼女が気になる。
それだけだった。




