30
帽子をかぶり指先まで手袋で包まれた人物は、卓己の持っていたライフルの様な、大ぶりな銃を構えたまま、口を開いた。
「動かないで」
凛としたよく通る声に、勇があっと叫ぶ。
「由香子ちゃんか!」
それを聞いて、咲良も気づいた。
彼女は上野家の本家の一人娘の由香子だ。よく見れば彼女の足元には一頭の柴犬が仁王立ちしている。
茶色のその雄犬は小町の父親のツムジだ。足元の小町は親だと分かるのか、たしたし、と忙しなく足を動かして興奮気味に尻尾を振っている。
だがツムジの方は由香子の指示に忠実に従い、きりっと立ったまま、尻尾も振らずに周囲を警戒したままだ。
「ユカコ?知り合いですか?」
振り返った体勢のまま由香子に銃口を向け返しているルイスに尋ねられ、勇が慌てて答える。
「うちの本家の娘です。敵じゃない」
「敵じゃない、ですか。随分慣れた構えですけど」
「由香子は猟師の免許を持ってるんです。だから猟銃の扱いに慣れてるだけで、悪い子じゃない」
「悪い子じゃない、ねぇ」
銃を向けられてますけど、とルイスが構えを解かずに言えば「そっちもね」とよく通る声が返ってきた。
「悪いけど、銃は下ろせない。卓兄、勇おじさん、悦子おばさん、無事で良かった。遼も典子も咲良ちゃんも」
もちろん小町も、と言い、由香子は足りない人間に気づいたらしい。
「和子ばあちゃんと中原さんは?」
「二人は………」
答えようとして、ぐ、と言葉に詰まって俯いた悦子に、察したのだろう。
「……ごめん。言わなくて良い。おばさんたちだけでも無事で良かった。本当に」
真摯な目に見つめられ、咲良は小さく頷いた。
「由香子。銃を下ろせ」
「卓兄、それは出来ない」
「銃は人に向けるな。そう教えたはずだ」
卓己は由香子の猟師としての師匠だ、と咲良は聞いた事があった。その時はとてもじゃないが信じられなかったが。
由香子は身長こそ平均より高いが、身体はそれほどがっちりはしていない。お化粧が上手くてネイルがお洒落な普通の二十代の綺麗な女性で、普段はペット関連のネットショップをやっている。
山に入る所を見た事が無いから咲良は由香子の腕前を知らないが、集落の猟師がしきりにきちんとしている、と褒めていたから、立派な猟師なのは知っていたが。
「やらなきゃやられる世界よ。卓兄だって分かってるでしょう」
「彼らは敵じゃない。俺たちと一緒に、協力してここまで来たんだ」
「そう……でも、集落には入れられないわ」
銃口をルイスに向けて告げる。
「親戚を助けてくれたのは感謝する。でも悪いけど、他所へ行って」
「由香子!」
咎める卓己の強い調子に怯む様子は無い。
「知らない男は入れられない」
「何をそんなに頑なになってるんだ?俺がいない間に何があった」
「………」
「由香子ちゃん、言ってくんなきゃ分かんねぇよ」
銃を下ろす気配も無く、じっとルイスを睨み続ける由香子に、遼は弱り果てた声を出した。
「俺、友達連れて来てる。男だけど良いやつだよ。信用できる。先生たちだって、何度も助けてくれた。悪い人間じゃない」
「…………」
「てか、男ってだけで駄目なら、俺も駄目じゃんか。父さんも卓ちゃんも」
「あんたたちは大丈夫。遼は生まれた時から知ってるもの。あんたの性根は腐ってない」
「性根て。マジで何があったんだよ?」
由香子ちゃん、と重ねて遼が呼びかけると、由香子はきゅっと唇を引き結び、諦めた様に口を開いた。
「……集落の女の子が、レイプされた」
「誰だ?!」
「陽菜」
名前を告げた途端、卓己が呻いた。
「……あの子はまだ中学生だぞ。誰が、そんな」
「町から避難してきた男よ。既婚者で、奥さんが私の同級生。町のスーパーでパートをしてる。皆知ってる相手だから、信用して集落に入れた」
「陽菜はどうしてる?あの子は翔太と付き合ってるだろ?」
「ずっと泣いてる。翔太は相手を殺しかねないから、翔太の親が見てるわ。相手の男と妻はうちの犬舎のケージに閉じ込めてる」
「……そうか」
「私はモーニングアフターピルを取りに来たの」
「なに?モーニング……?」
聞き返した遼に、由香子は淡々と返す。
「モーニングアフターピル。緊急避妊薬よ。セックスして避妊に失敗した後にのむと、妊娠が避けられる。あの男、ゴムすら使わなかった」
クソが、と誰かが吐き捨てた。咲良も吐き気を覚えて、顔を歪める。
陽菜とは何度かお喋りをした事がある。咲良より三歳ほど年下のはずだ。翔太は陽菜より一つ年上で、二人は揃って小さい頃から将来結婚するんだ、と言っては、集落の大人たちを微笑ませていた。
あの女の子を、妻もいる男が乱暴したのか。
「好きでもない男に襲われて、その上妊娠なんかしたら目も当てられない」
「それで婦人科のお医者さんを探しに?」
悦子の問いに由香子は小さくため息をついた。
「医者は全滅したわ、おばさん。だから妊娠しちゃったら中絶も出来ない。十か月近く、強姦魔の男の子供を腹で育て続けるの?冗談じゃない」
「ピルは手に入ったの?」
「まだ。パッケージが分からなくて……探してたら小町の声がしたから来たの。おばさん、ピル分かる?」
「低用量のなら昔のんだ事があるから、多分」
良かった、と心底ほっとした様に言い、由香子は声を張る。
「そういうわけだから、あなた達は他所へ行って」
言われた先のルイスは銃口を向けられたまま、自分は構えていた銃を下ろした。
ネイト、とまだ銃を構えている桐野に咎められたが、肩を竦めるだけだ。
「ユカコさん、だっけ。男を入れたくないのは分かったけど、そもそも集落にはどれくらい男の人がいるの?」
「あなたには関係ない」
「僕らは嫌がる相手をレイプなんてしないよ。武器も扱えるから、力になれる」
「武器も力も、あなた達が敵になったら、即こちらの不利になる」
「言いたい事は分かるよ。あなたの警戒は正しい」
「ネイト」
なんで同意するんだ、と突っ込む桐野を横目で見て、ルイスはへらっと笑い、由香子に振り返る。
「でも男は僕たちだけじゃない」
「………」
「世界がこんな風になってから、逃げ回ってる人間はいっぱいいて、彼らも安全地帯を求めてる。僕たちみたいに集団を組んでるのもね。その中の暴力的な集団がここに来ないって保証は無いよ」
「……予想は、してる」
「そういうのが集落を襲った場合、君たちだけで守り切れるの?」
「犬がいるわ。猟犬たちにとって、山は慣れた狩場よ」
「でも全体をカバーするのは難しいでしょ?それに犬だけでとどめを刺すのは難しいんじゃないかな?」
「猟犬は、直接相手を仕留めない。そう育てているからな」
口を挟んだのは卓己だ。
「猟犬は獲物を狩猟者の所に追いやるのが仕事だ。狩猟者の補佐でしかない。由香子、犬に人を襲わせたのか?」
「いつもと同じ事しかさせてないわ。相手はゾンビだけど。とどめを刺したのは私よ」
「町の人間を始末したのは君?」
「ええ」
「君以外は?人を殺せる人は」
由香子は黙り込む。その沈黙で、いない、という事が分かった。
いくら集落の猟師たちが強くても、人間、たとえそれが強盗だったとしても、迷いなく撃ち殺せるはずが無い。
集落は元々人が多くなく、全員が顔見知りで揉め事は避ける傾向にあるから、人間同士が暴力で事を解決する、なんて経験自体がないはずだ。町でだって、揉め事は交番に駐在している警察官が調停してくれる。
そう咲良は思ったが、卓己は怪訝そうな顔をし、由香子に問いかけた。
「山田さんはどうした?あの人は職業柄、肝が据わってる。あの人なら、」
「亡くなった」
「なんで………」
「噛まれて駄目だって思ったんでしょうね。噛みついたやつと他にも何人かのゾンビを道連れに、崖から身を投げたわ」
卓己が絶句する。
崖、というのは集落と町の間にある崖の事だろう。下に川が流れているが、川までが遠く岩も多いため、落ちれば助からない。
数年に一回は自殺者が出る場所で、集落の子どもたちは絶対に崖に近づかない様に言い含められて育つ。咲良も祖父には散々注意された。
「他の、猟師は―待て、由香子。兄貴はどうした?義姉さんは、」
「……父さんも母さんも、死んだ」
硬い声で告げられ、本家の夫婦を知る人たちは息をのみ、ショックに身を強張らせた。
咲良もきつく目を瞑る。本家の夫婦は咲良の事も可愛がってくれた。祖父の家に遊びに行くたび、手料理で歓迎したり、菜園に実った野菜を収穫させてくれた。
「五日前?六日前?母さん、病院に行ったの。風邪っぽいからって。そこで変な人間に手を噛まれたって帰ってきて……次の日、私が仕事に行ってる間に………」
「由香子」
「帰ってきたら、もう、二人とも、駄目になってた。私は犬たちに助けられて、なんとか……」
「そう、か………」
沈痛な面持ちで黙り込んだ卓己や勇たちに、流石にルイスも声をかけない。
卓己にとって本家の主は兄で、勇にとっては従兄にあたり、頻繁に帰省していたから遼や典子にも親しい大人だった。
「……由香子だけでも無事で、良かった」
先程の由香子と同じ言葉を囁く様に告げた卓己に、由香子は小さく「ありがとう」と答えた。




