27
怒りのまま立ち上がろうとした咲良を押さえたのは、桐野ではなくルイスの声だった。
長山への怒りや憎悪が渦巻く部屋に、きょとんとした顔で入ってくる。
「中原さん?これってどういう状況なんです?」
「俺が、彼に刺されて、な」
「なんでまた」
「娘に、保菌者の肉を、食わせたいんだと。俺の死体を寄越せ、と言われた」
「あーなるほど。それで皆さん、こんなに怒ってるんですね」
なるほどなるほど、と繰り返す飄々とした声に、咲良の爆発しそうだった気が削がれる。遼たちもだろう、今にも飛びかかりそうだった姿勢が少し落ち着いた。
長山もルイスの雰囲気に一瞬怯んだようだったが、すぐに卓己から逃れて浩史へと向かおうと暴れ始める。
「放せっ!俺は娘に肉を食わせるんだ!」
「ふざけるな!」
卓己が押さえ込むが、浩史の返り血がついてる長山は素手で触れるところが少ない。服で指先を覆っても、靴底を使っても、限りがある。
苦労して取り押さえている卓己の前にルイスは頓着なく歩み寄ると、長山の正面にしゃがみ込んだ。
「肉が欲しいんですか?」
「そうだ!娘に、」
「食わせる?うーん、申し訳ないんですが、その娘さん、僕が仕留めちゃったんですよね」
困ったなぁ、と笑顔で告げるルイスに、長山が動きを止めた。
「仕留め……?」
「これ以上色々されたら困りますから、元を絶とうと思って。奥さんも娘さんも、母屋の方でやっつけちゃいました」
長山だけでなく、全員が絶句しただろう。
随分長く戻らなかったと思ったら、ルイスは工場から抜け出して理絵と娘を手にかけてきていたのだ。
「本当はライフルで頭を撃とうかと思ったんですけど、音がすごいでしょ?弾も勿体ないし。だから工場にあった金属製のハンマー借りました。頭を破壊したんで、もう食べる口どころか首から上が無いですね。だから長山さん、無駄ですよ?」
「……う、嘘だ……」
「なんで僕が嘘つくんです?」
「俺に、あ、諦めさせようとして……」
「なんで諦めさせなきゃいけないんですか?」
「それは、」
「僕はあなたも仕留めるつもりですよ?これから死ぬあなたの気持ちなんて、どうでも良いです」
「ネイト!ストップだ」
言うなり手をひらめかせたルイスに、桐野が鋭い声をあげ、ルイスは動きを止める。
長山の目の前に、銀色の刃物があった。刃渡りの長く細い刺身包丁だ。
ルイスはどこから調達してきたのかゴム手袋をしてその柄を握りしめ、切っ先を長山の眼球ギリギリで止めている。
「なんで止めるかな」
「人目をはばかれ」
「今更?」
「……前ふりなくやるな。押さえてる卓己さんに怪我をさせる」
「ああ、うん。分かった」
なんだ、と言いたげに、包丁の向きを変え、木製の柄で思い切り長山を殴った。
ガツっという音と共に長山が意識を失って項垂れる。前なら久佳が何かを言っただろうが、誰も口を開かなかった。
浩史にした行いを顧みれば当然だ、という意識があるのかもしれない。
少なくとも咲良は長山に同情は覚えなかった。
ぐったりとしたままルイスに工場の方へと運ばれて行くのを、睨むように見送る。
「咲良」
咎めるように名前を呼ばれて浩史を振り返る。
顔色は更に悪くなり、紙のように白かった。
「お父さん」
せめて手を、と伸ばすが、緩慢に首を振られた。
近づくな、というジェスチャーをし、浩史は浅い呼吸を繰り返しつつ、ゆっくりと身体を床に横たえる。
一つ一つの動作の度に新たに血が流れる度、浩史が死へと近づいているのが分かり、咲良は手を握りしめた。手のひらに爪が食い込む痛みが、浩史に駆け寄りたいという衝動を制してくれる。
「中原さん、出来る事はありますか?」
悦子の静かな声にハッとして振り返ると、孝志の処置を終えたのか、悦子が蒼白な顔で救急箱を手に立っていた。
「痛み止めとか、薬は……」
せめて何か、と問う悦子に、浩史は床に頭を擦りつつ振る。
もう声を出すのも億劫なのだ。
代わりに視線だけで咲良を見て、笑う。
「お父さんっ………」
途端に溢れる涙が邪魔で父の顔が見えなかった。
握りしめた手で止まらない涙を拭い、浩史の顔を見つめ返す。何度も何度もそれを繰り返す。
傍らで鼻を鳴らす小町も、頽れそうな身体を後ろから抱きかかえてくれている桐野の事も、しゃくり上げている典子たちの事も忘れて、咲良はひたすら浩史を見つめていた。
浅く息を吐きながら、目を開けているのが辛いのか目を閉じた浩史を、ずっと。
だから、息が止まった瞬間すら分かった。
「お、父さん……?」
咄嗟に呼びかける。
だが浩史はもう動かなかった。眠る様に閉じた瞼も、腹を押さえたままの腕も、ついさっきまで微かに上下していた胸も、動かない。
やだ、と震える唇で咲良は呟いた。
「やだ、やだ、やだぁ!お父さん!」
「咲良!」
伸ばす腕を掴まれ、身体を反転させられる。顔が温かいものに押し付けられ、ぎゅっと抱きしめられた。
乱暴に頭を押さえている手は、もう覚えてしまった桐野のものだ。その腕から逃れようともがくが、桐野は放してくれなかった。
「桐野くん!お父さんが、おとうさんは、」
「落ち着け、咲良。落ち着いてくれ」
頭を、背中を宥める様に撫でられる。
温かい体温に包まれ、ボロボロと涙が零れた。
「桐野くん……お父さん、もう、」
意味のある言葉が作れず、やだ、なんで、と繰り返すのに、桐野はその都度頷き返し、慰める様に背中を撫でてくれた。
思わず桐野の背中に手を伸ばし、しがみつく。
手を回した瞬間に指先に掠めた冷たい金属の感触に一瞬涙がとまり、それからまたどっと涙があふれた。
泣いて、しゃくりあげて、泣いて。
身体中の水分が涙として出てしまった頃、顔を寄せていた桐野のシャツがぐっしょりと濡れているのに気づいた。咲良の涙だ。
ぐ、と軽く胸を押すと、桐野は手の力を緩めた。
「咲良?」
「ごめん……服……」
「気にするな」
湿ったシャツをつまみ、それから服の袖を伸ばして咲良の顔を無造作に拭く。力任せなそれに、咲良は思わず「いたい」と情けない声を漏らした。
「ああ、悪い………少しは落ち着いたか?」
「ん……うん」
嘘だ。本当はまだいくらでも涙は出る。
でも泣いている暇はない、とさっき触れた、桐野がズボンの背に挟んでいる銃の冷たさに思い出してしまった。
浩史が起き上がる前に、人として送らなければならない。
「桐野くん、お父さんを……お父さんをお母さんの所に……」
「………ああ」
それだけで言いたい事が分かったのだろう。
桐野は背中に手を回し、ズボンに挟んでいた銃を抜く。
「上野のおじさん。彼の希望通りに」
「ああ」
鼻をすする音に振り返ると、勇が泣く悦子の肩を抱き、涙を零していた。
部屋を見渡すと、誰もが泣いていた。遼や典子も、まだそれほど親しくない田原も。
ソファで赤ん坊を抱いたまますすり泣く恵美の涙は、きっと夫への涙だろう。山下は彼女に最後の言葉を残す事すら出来ず亡くなったのだ。腕の中の悠馬は父親が死んだという事すら、分かっていないだろう。それだけ彼は小さく、幼い。
悠馬が山下のあの変わり果てた姿を覚えていないと良い、と強く願いながら、咲良は銃を点検している桐野に歩み寄る。
「桐野くん、私、何をしたら良い」
「外へ。撃つところは、見なくて良い」
「でも……」
「全員だ。全員、外へ。始末をつけたら俺もすぐ行く」
「出来る事、無いのか?」
遼が問うと桐野は首を振り、車へ、と答えた。
「すぐに出られるように準備を。ここはガソリンを撒いて火をつける」




