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「お父さん!!!」
浩史は床に正座をするように頽れ、痛みを堪える様に上体を丸めて床に頭をつけた。
ズボンが太腿から膝の方へと、じわじわと色を変えていく。
血だ。それも大量に流れ出ている。
ズボンは瞬く間に赤く染まり、染み入る隙間が無くなった血は床へと伝い、広がっていく。
まるで水溜りの様に浩史の周囲に広がる血に、咲良は悲鳴をあげた。
浩史に駆け寄ろうとし、桐野の腕に阻まれる。
「桐野くん!離して!」
「駄目だ!」
「お父さんが!」
血溜まりはどんどん広がっていっている。
さっきの傷からとはとても思えない。もっと違う傷が、目を離したあの一瞬に出来たのだ。それも、とても大きな傷が。
早く止血をしないと、取り返しがつかなくなる。
咲良はゾッとしながら、離して!と叫んで暴れるが、桐野の腕の力は強くなるだけだった。
このままじゃ死んでしまう。いくら保菌者だからと言って、あれだけの血が流れる傷なんて、再生が絶対に追いつかない。
「咲良………」
ごぼ、と液体を吐き出す音と一緒に呼ばれ、咲良は叫んだ。
「お父さん!」
ゆっくりと浩史が上体を起こす。
押さえた腹が見え、咲良は息を飲んだ。
腕から零れ落ちるように垂れているのは、なに?
「お、お父さ、」
「咲良……近寄るな……桐野、」
「分かってる」
即座に答えた桐野に、浩史の表情が和らぐ。
だが咲良にそれを見ている余裕は無かった。
あれは、浩史の腹から出ているのは?
真っ赤な血の間に見える、細長くて白っぽい色のあれは?
「浩さん、」
卓己の苦いものを飲み込んだような声に、咲良はようやく周りを認識した。
浩史から少し離れた位置で、卓己が長山を抑え込んでいる。血塗れの長山の眼前には小町がいて、威嚇の声を上げていた。
恵美はソファの上から、遼たちは孝志のそばで、凍り付いたように浩史を見ている。
「社長、血には、」
「触ってない。大丈夫だ。浩さんは………」
唇を噛み締める卓己に、浩史は、ふ、と笑った。
「駄目、ですね」
「お父さん!」
咄嗟に叫んだ咲良にも、浩史は笑って見せた。
「内臓が、やられた。腸、だろうな、これは……」
その言葉に浩史の腕から零れているものの正体を知る。
ひゅ、と息をのんだ咲良に、浩史はまた少し咳きこんだ。唇が赤く染まっている。
血が喉から逆流し、口内に溜まっているのだ。
「痛みが、変に、無い。どっかが、壊れたな……」
「そんな……」
救いを求めて咲良は悦子を見やるが、悦子は真っ青な顔で何も言わない。
「おばさん!」
「わ、私、」
「無理だ」
誰より早く答えたのは、とうの浩史だった。
「縫うために、手を、離せば、内臓があふれる。破れた小腸か、なんかが、もう、出てるんだ。誰にも、どうしようも、無い」
「くっそ!」
遼が顔を歪めて怒鳴る。
「くそっくそっくそっ!あんた!あんた、なんで浩おじさんを刺した?!」
今にも殴りかかりそうな勢いで詰め寄った相手は、長山だ。
唸る小町に並び、遼が長山を睨みつける。卓己に力任せに押さえつけられているらしい長山は、床に額を擦りながら、顔をあげた。
「娘の、」
「ああ?!」
「娘に、食わせるんだ」
「くそが!寝言言ってんじゃねぇ!」
「保菌者は、あの男は、普通に喋ってる。だから、あの男の肉を食えば、娘も―」
言い募る長山に、カッとなった遼が手を伸ばす。
「っ馬鹿!上野!触んな!」
慌てて田原が飛びつき、遼を押さえた。
「離せ田原!あいつ殺してやる!」
「やめろって!血がつく!」
「それが―」
「中原さんが止めただろ?!感染するから触んなって!あの人の気持ち無視すんな!」
部屋中に響き渡る田原の言葉に、咲良は唇を噛み締めた。
ずっと浩史は自分から感染者が出ない様、気をつけていた。それを台無しにするのは、父の気持ちを踏みにじるのと一緒だ。
分かっているが心は納得出来ない。今すぐにも駆け寄り、寄り添いたいのだ。それであの大きな手で頭を撫でてもらい、大丈夫だと安心させて欲しい。
そんな事は絶対無理だと頭では分かっているのに。
「ぅ……」
鼻がツンと痛み、目が熱くなった。
頭は理解している。見て理解出来てしまうだけの怪我だ。大量の血だけならともかく、内臓が出ているのだ。
浩史は、浩史と長山の間に転がっているステーキナイフで刺されたに違いない。刺して、それから引き裂いた。
柄まで赤く染まっているそれは、長くて鋭利で、あんなもので腹を裂かれれば、こんな事が起こる前の世界でだって、助かるかなんて五分五分だろう。
電話をすれば救急車が来てくれて、すぐに見てくれる救急救命医がいない今、もう、手のつけようがない。喋れているのが奇跡なくらいだ。そんな傷だ。
「お父さん、お父さん、」
無意味に父を呼び、涙で滲む目で父を見る。
「咲良、泣くな。小町が、心配してる」
「小町」
遼の横で唸っている小町を見れば、小さな黒い目が咲良を見つめ返してきた。
きゅんきゅんと鼻を鳴らすのに、おいで、と呼びかければ、駆け寄って来る。手を伸ばすと、桐野が呼応するように咲良を抱え直し、屈ませてくれた。
膝をついて小町を抱きしめる。
ふわふわの毛に顔を埋めて涙を堪えていると、浩史のため息が聞こえた。
「勇さん、悦子さん」
「はい」
「後の事、お願いします」
浩史の後を託す言葉に、二人が頷く気配がする。
「遼くん、典子ちゃん、咲良と、仲良くしてやってくれ」
「はい」
「はいぃ」
ぐすっと二人分の鼻をすすりあげる音と一緒に返事が返る。
「社長、すみません。後は、」
「出来るだけ力を貸すよ、浩さん」
「ありがとうございます」
即座に返った返事に、ふ、と息を漏らし、浩史は「咲良」と名前を呼んだ。
「お父さん、やだよ……」
「ごめんな」
「………」
「桃花の所に、行くよ」
「っずるいよ……」
母の事を言われたら、もう頷くしかない。浩史はずっと亡くした妻を思い続けていた。
時に小さい咲良が、後を追うんじゃないか、と不安になるくらい、とても強く。
「ごめんな。小町、咲良を頼んだぞ。桐野」
「ああ」
「お前にも。頼んだ」
「………ああ」
咲良の腹に回った腕に、ぐっと力が籠った。
その腕を、小町を抱いていない方の手で握る。応えるように、桐野は掴まれていない手を伸ばして、咲良の手を上から覆った。
温かい手の平の熱を感じながら、咲良はボロボロと零れる涙越しに浩史を見つめる。
血塗れで傷だらけの満身創痍だ。
でも、いつもの様に優しく笑い返してくれる。
咲良もぎこちなく微笑み返した。ちゃんと笑えた気はしなかったが、浩史は安心したように、ふ、と息を漏らし、それから一度俯いて顔をあげる。
柔らかいまなざしのまま、桐野を見た。
「弾は、まだあるか?」
「………ああ」
「俺の、息が止まったら、脳を、撃て。破壊しろ」
「お父さん……」
「保菌者が死んだら、起き上がるか、は分からない。だが、」
浩史は痛みを感じない、と言っていたが、身体は限界なのだろう。段々と口が開かなくなってきている。重くなった口で、声より吐き出す息のが多い。
それでもこれだけは言わなくては、と思ったのだろう。
「人として、死なせてくれ」
小さいけれどはっきりとした声に、咲良の背後で桐野は痛みを覚えたかのように身体を震わせた。咲良を抱く腕に、手に、力が入り、俯くように肩に顔を埋められる。
「……分かった」
任せろ、と顔をあげた時には、もう動揺の欠片も無かった。
「さっきガソリンの入った缶を見つけた。撃った後、全部、燃やしてやる」
「ありが―」
「っ駄目だ!」
割り込むように長山が叫んだ。
部屋中の誰もが、娘の咲良さえ認めようとしていた言葉を遮り、狂ったように暴れ、叫ぶ。
「駄目だ!燃やすなら娘に食わせろ!」
「ってめぇ!まだ言ってんのか!」
「どうせ死ぬなら肉を寄越せ!」
「お前っ」
怒鳴った遼を田原が押さえるが、田原も怒りで顔を赤くし、長山を睨んでいる。長山を押さえつけている卓己も、孝志のそばにいる勇も悦子も典子も、険しい顔で長山を見ていた。
咲良は呆然としていた。
この人のせいで浩史は死へと向かっているのに。この人が父を手にかけたのに。
悲しみの代わりに怒りが胸を満たす。咲良の変わり身に小町が驚いて身を引いたのに気づかず、咲良は拳を握りしめて長山を睨んだ。
「あなたがっ」
「ただいま戻りましたー、けど、あれ?」




