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おきあがり  作者: 鳶鷹
四章
129/136

26



「お父さん!!!」


 浩史は床に正座をするように頽れ、痛みを堪える様に上体を丸めて床に頭をつけた。

 ズボンが太腿から膝の方へと、じわじわと色を変えていく。

 血だ。それも大量に流れ出ている。

 ズボンは瞬く間に赤く染まり、染み入る隙間が無くなった血は床へと伝い、広がっていく。

 まるで水溜りの様に浩史の周囲に広がる血に、咲良は悲鳴をあげた。

 浩史に駆け寄ろうとし、桐野の腕に阻まれる。


「桐野くん!離して!」

「駄目だ!」

「お父さんが!」


 血溜まりはどんどん広がっていっている。

 さっきの傷からとはとても思えない。もっと違う傷が、目を離したあの一瞬に出来たのだ。それも、とても大きな傷が。

 早く止血をしないと、取り返しがつかなくなる。

 咲良はゾッとしながら、離して!と叫んで暴れるが、桐野の腕の力は強くなるだけだった。

 このままじゃ死んでしまう。いくら保菌者だからと言って、あれだけの血が流れる傷なんて、再生が絶対に追いつかない。

 

「咲良………」


 ごぼ、と液体を吐き出す音と一緒に呼ばれ、咲良は叫んだ。


「お父さん!」


 ゆっくりと浩史が上体を起こす。

 押さえた腹が見え、咲良は息を飲んだ。

 腕から零れ落ちるように垂れているのは、なに?


「お、お父さ、」

「咲良……近寄るな……桐野、」

「分かってる」


 即座に答えた桐野に、浩史の表情が和らぐ。

 だが咲良にそれを見ている余裕は無かった。

 あれは、浩史の腹から出ているのは?

 真っ赤な血の間に見える、細長くて白っぽい色のあれは?

 

「浩さん、」


 卓己の苦いものを飲み込んだような声に、咲良はようやく周りを認識した。

 浩史から少し離れた位置で、卓己が長山を抑え込んでいる。血塗れの長山の眼前には小町がいて、威嚇の声を上げていた。

 恵美はソファの上から、遼たちは孝志のそばで、凍り付いたように浩史を見ている。

 

「社長、血には、」

「触ってない。大丈夫だ。浩さんは………」


 唇を噛み締める卓己に、浩史は、ふ、と笑った。


「駄目、ですね」

「お父さん!」


 咄嗟に叫んだ咲良にも、浩史は笑って見せた。


「内臓が、やられた。腸、だろうな、これは……」


 その言葉に浩史の腕から零れているものの正体を知る。

 ひゅ、と息をのんだ咲良に、浩史はまた少し咳きこんだ。唇が赤く染まっている。

 血が喉から逆流し、口内に溜まっているのだ。

 

「痛みが、変に、無い。どっかが、壊れたな……」

「そんな……」


 救いを求めて咲良は悦子を見やるが、悦子は真っ青な顔で何も言わない。


「おばさん!」

「わ、私、」

「無理だ」


 誰より早く答えたのは、とうの浩史だった。

 

「縫うために、手を、離せば、内臓があふれる。破れた小腸か、なんかが、もう、出てるんだ。誰にも、どうしようも、無い」

「くっそ!」


 遼が顔を歪めて怒鳴る。


「くそっくそっくそっ!あんた!あんた、なんで浩おじさんを刺した?!」


 今にも殴りかかりそうな勢いで詰め寄った相手は、長山だ。

 唸る小町に並び、遼が長山を睨みつける。卓己に力任せに押さえつけられているらしい長山は、床に額を擦りながら、顔をあげた。


「娘の、」

「ああ?!」

「娘に、食わせるんだ」

「くそが!寝言言ってんじゃねぇ!」

「保菌者は、あの男は、普通に喋ってる。だから、あの男の肉を食えば、娘も―」


 言い募る長山に、カッとなった遼が手を伸ばす。


「っ馬鹿!上野!触んな!」


 慌てて田原が飛びつき、遼を押さえた。


「離せ田原!あいつ殺してやる!」

「やめろって!血がつく!」

「それが―」

「中原さんが止めただろ?!感染するから触んなって!あの人の気持ち無視すんな!」


 部屋中に響き渡る田原の言葉に、咲良は唇を噛み締めた。

 ずっと浩史は自分から感染者が出ない様、気をつけていた。それを台無しにするのは、父の気持ちを踏みにじるのと一緒だ。

 分かっているが心は納得出来ない。今すぐにも駆け寄り、寄り添いたいのだ。それであの大きな手で頭を撫でてもらい、大丈夫だと安心させて欲しい。

 そんな事は絶対無理だと頭では分かっているのに。

 

「ぅ……」


 鼻がツンと痛み、目が熱くなった。

 頭は理解している。見て理解出来てしまうだけの怪我だ。大量の血だけならともかく、内臓が出ているのだ。

 浩史は、浩史と長山の間に転がっているステーキナイフで刺されたに違いない。刺して、それから引き裂いた。

 柄まで赤く染まっているそれは、長くて鋭利で、あんなもので腹を裂かれれば、こんな事が起こる前の世界でだって、助かるかなんて五分五分だろう。

 電話をすれば救急車が来てくれて、すぐに見てくれる救急救命医がいない今、もう、手のつけようがない。喋れているのが奇跡なくらいだ。そんな傷だ。


「お父さん、お父さん、」


 無意味に父を呼び、涙で滲む目で父を見る。


「咲良、泣くな。小町が、心配してる」

「小町」


 遼の横で唸っている小町を見れば、小さな黒い目が咲良を見つめ返してきた。

 きゅんきゅんと鼻を鳴らすのに、おいで、と呼びかければ、駆け寄って来る。手を伸ばすと、桐野が呼応するように咲良を抱え直し、屈ませてくれた。

 膝をついて小町を抱きしめる。

 ふわふわの毛に顔を埋めて涙を堪えていると、浩史のため息が聞こえた。


「勇さん、悦子さん」

「はい」

「後の事、お願いします」


 浩史の後を託す言葉に、二人が頷く気配がする。


「遼くん、典子ちゃん、咲良と、仲良くしてやってくれ」

「はい」

「はいぃ」


 ぐすっと二人分の鼻をすすりあげる音と一緒に返事が返る。


「社長、すみません。後は、」

「出来るだけ力を貸すよ、浩さん」

「ありがとうございます」


 即座に返った返事に、ふ、と息を漏らし、浩史は「咲良」と名前を呼んだ。


「お父さん、やだよ……」

「ごめんな」

「………」

「桃花の所に、行くよ」

「っずるいよ……」


 母の事を言われたら、もう頷くしかない。浩史はずっと亡くした妻を思い続けていた。

 時に小さい咲良が、後を追うんじゃないか、と不安になるくらい、とても強く。


「ごめんな。小町、咲良を頼んだぞ。桐野」

「ああ」

「お前にも。頼んだ」

「………ああ」


 咲良の腹に回った腕に、ぐっと力が籠った。

 その腕を、小町を抱いていない方の手で握る。応えるように、桐野は掴まれていない手を伸ばして、咲良の手を上から覆った。

 温かい手の平の熱を感じながら、咲良はボロボロと零れる涙越しに浩史を見つめる。

 血塗れで傷だらけの満身創痍だ。

 でも、いつもの様に優しく笑い返してくれる。

 咲良もぎこちなく微笑み返した。ちゃんと笑えた気はしなかったが、浩史は安心したように、ふ、と息を漏らし、それから一度俯いて顔をあげる。

 柔らかいまなざしのまま、桐野を見た。


「弾は、まだあるか?」

「………ああ」

「俺の、息が止まったら、脳を、撃て。破壊しろ」

「お父さん……」

「保菌者が死んだら、起き上がるか、は分からない。だが、」


 浩史は痛みを感じない、と言っていたが、身体は限界なのだろう。段々と口が開かなくなってきている。重くなった口で、声より吐き出す息のが多い。

 それでもこれだけは言わなくては、と思ったのだろう。


「人として、死なせてくれ」


 小さいけれどはっきりとした声に、咲良の背後で桐野は痛みを覚えたかのように身体を震わせた。咲良を抱く腕に、手に、力が入り、俯くように肩に顔を埋められる。

 

「……分かった」

 

 任せろ、と顔をあげた時には、もう動揺の欠片も無かった。

 

「さっきガソリンの入った缶を見つけた。撃った後、全部、燃やしてやる」

「ありが―」

「っ駄目だ!」


 割り込むように長山が叫んだ。

 部屋中の誰もが、娘の咲良さえ認めようとしていた言葉を遮り、狂ったように暴れ、叫ぶ。


「駄目だ!燃やすなら娘に食わせろ!」

「ってめぇ!まだ言ってんのか!」

「どうせ死ぬなら肉を寄越せ!」

「お前っ」


 怒鳴った遼を田原が押さえるが、田原も怒りで顔を赤くし、長山を睨んでいる。長山を押さえつけている卓己も、孝志のそばにいる勇も悦子も典子も、険しい顔で長山を見ていた。

 咲良は呆然としていた。

 この人のせいで浩史は死へと向かっているのに。この人が父を手にかけたのに。

 悲しみの代わりに怒りが胸を満たす。咲良の変わり身に小町が驚いて身を引いたのに気づかず、咲良は拳を握りしめて長山を睨んだ。


「あなたがっ」


「ただいま戻りましたー、けど、あれ?」




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