25
浩史の所に駆け寄りたい。
咲良はその衝動を堪えて、ドン!ドン!と衝撃で揺さぶられるドアを押さえ続けた。
死者になった久佳の力は強い。それに浩史は誰かがそばに寄るのを拒否した。
は、は、と荒く息を吐き出しながらも、手を貸そうとした遼を制する。
「遼くんは、さっき怪我しただろ。そこに血が触れたらまずい」
「でもっ」
「今なら、食うのに夢中だから、このまま……首を折れる」
浩史の言った通り、山下は口の中の肉を咀嚼するのでいっぱいなのか、口を開く気配が無い。身体の方は未だに陸に出て魚の様にバタついているが、遼と勇が押さえつけているから、浩史もなんとか体制を保っていた。
じり、と浩史が上半身を移動し、首の上に膝下を乗せる。そのままそこに体重を乗せれば、頸椎は折れるはずだ。
「うわっ」
だが肉を食うのに夢中だった山下も急所を狙われているのは分かるのか、途端に暴れ出した。
遼と勇が、はねる足や腕を抑え込むが、今にも弾き飛ばされそうだ。
「田原さんっ、あっち手伝ってください!」
「無理だ!君一人じゃドア破られる!おばさんたちはっ」
振り返って田原が唇を噛む。
悦子が圧迫している手を離せば、孝志は大量に出血する。今ですら孝志はかろうじて意識がある、という状態だ。典子が抱き留めているから倒れていないだけで、手を離せば床に伏してしまうだろう。
衛生的とは言えない床に倒れこめば傷口に雑菌が入る恐れがあるし、抗生物質すらここには無いのだ。心臓に近い傷が化膿したら、命に係わる。
恵美は泣く赤ん坊を抱えて座り込んでいる。物理的に手が塞がっているのはもちろん、精神的に弱っているだろうから手助けは望めない。
「くそっ他は……うおっ?!」
「っ!?」
突然、ダァン!という破裂音がして驚く。
咄嗟に音源を探してドアを振り返れば、ガラス窓の前にいた久佳が消え、窓に赤黒い飛沫が散っていた。
ぎょっとしたように田原と一緒に身を引いたが、ドアは動かない。
「なに―ひっ!」
流れる赤いものの隙間から向こうが見えないかと目を凝らした咲良は、現れた人影に悲鳴をあげた。
誰かが、いる。
咄嗟にドアが開かないように押さえたが、届いたのは久佳のした様な体当たりの衝撃ではなく、コツコツ、というノックだった。
規則的に一点を叩く、明らかに理性のある人間のものだ。
「だ、誰ですか?」
「俺だ。あー、いや卓己だ。上野卓己」
「社長さん?!」
美優を追っていったはずの人の声に、田原の制止を振り切ってドアを開ける。
立っていたのは確かに卓己だった。
両手でライフルを持っている。足元には、久佳が倒れていた。
血だまりに沈み、ピクリともしない。
「ああ、変異したらしいから仕留めた。頭を破壊すると良いみたいだな」
咲良と田原の視線に気づいたのか、何でもない事のように告げた。
よく見れば久佳の頭部は原型を留めていない。田原が嘔吐きそうになり、顔を背けた。咲良はどこか麻痺したのか、頭が無くても人の区別はつくものなのだな、と久佳だったものを呆然と見やってしまった。
「おい、大丈夫か?」
問いかけにハッとして顔を上げる。
だが卓己が見ていたのは咲良たちでは無かった。
背後を見る視線に振り返り、浩史たちがようやく山下を押さえつけるのに成功したのに気付く。頸椎を折るのは諦めて、暴れるのを止めるのを優先したらしい。
「山下さん、か?浩さん!?出血してるじゃないか!」
駆け寄る卓己を浩史が慌てて止める。
「触らないでください!感染しますよ!」
「だが浩さん」
「なんとかしますから」
「無理だろ!ちょっと待っててくれ」
応接室を見回し、浩史が投げ出した松葉杖を拾う。持ち手の部分を下にし、おもむろに山下に近づくと空を噛もうと開いた口に突っ込んだ。
がっ!という音と共に白い欠片が散る。強引に力任せに突っ込まれた金属で歯が砕けたのだ。
「社長、そのまま押さえててください。首を折ります」
頭部が固定された山下の首に、さっきと同じ様に浩史が乗り上げる。
咲良は恵美にちらりと視線を走らせたが、彼女は呆然と卓己を見ているだけだ。手だけは無意識になのか、赤ん坊たちをあやす様に動いている。
誰の制止も無いまま、浩史が体重をかけていく。
骨が軋む音がし、呆気なく首の骨が折れる音がした。
山下の身体の動きが止まる。
は、は、と浩史の途切れ途切れだが大きな呼吸が聞こえ、咲良は我に返った。
「お、お父さん!手、手は、」
「大丈夫だ。多分、すぐに塞がる。俺は保菌者だから」
安西さんもそうだっただろう?と言われ、思い出す。安西の傷は異常な速さで塞がっていた。
今となっては安西が保菌者になるタイプだったのか、あの後死んで起き上がるタイプだったのかは分からないが、確かにあの時安西はウィルスを保菌していたのだ。
「保菌者……」
ぽつり、と呟かれた声に振り返ると、長山がこちらを見ていた。
食い入る様な瞳に、遼が舌打ちをする。
「あんたの娘とは違うよ。浩おじさんは人を食おうとはしない」
「………」
「ってか、孝志!母さん、孝志は?」
「あの!」
悦子たちの方へと駆け寄る遼につられて動こうとした卓己の前に、恵美が転ぶように立った。
「み、美優は……?」
泣きそうな顔で尋ねた恵美に、気づく。
卓己は一人だ。追っていったはずの美優の姿が無い。
最悪の想像をしているのか、今にも倒れそうな恵美に、卓己が「ああ」と言いながら手を差し出した。
「無事だ。車にいる」
「っ……良かった………!」
ふらついた恵美の肩を卓己が支え、応接室の奥の無事だったソファに座らせた。
「子供で小回りが利いたせいで中々捕まえられなかったが、それはゾンビどもも一緒だな。上手く逃げ回っていたらしい。怪我も無いようだ」
「良かった……!」
わあ、と泣き伏した恵美につられてか、少し落ち着いた赤ん坊たちがわあわあと泣きだす。縋られる形になった卓己は恵美が赤ん坊もろともソファから落ちない様にか、その場に留まった。
咲良は、大丈夫、とは言われてものの、出血が酷い浩史を放っておけず、孝志のそばに集まる人たちの輪から外れ、父の近くへと歩みる。
すぐにそばにいた小町がきゅうきゅうと鼻を鳴らしながら、近寄ってきた。浩史が心配なのだろう。訴えるように咲良を見上げてくる。
「大丈夫、小町、大丈夫だよ」
全然大丈夫じゃない気持ちを押し込め、小町を抱きしめる。
「大丈夫だ。すぐに止まる。そこにいなさい」
浩史も大丈夫とは言い難い顔色ですでに血塗れになっている上着を脱ぎ、手に巻き付けた。圧迫して止血するのだろう。
孝志の止血は終わったのか、悦子がタオルを剥がし、手袋をはめ直している。遼が咲良の代わりにアルコールを差し出して消毒し、針と糸のセットを差し出した。
血まみれの背中をペットボトルの水で綺麗に洗い流し、縫い始める。
途端に孝志が呻いたが、悦子は今にも倒れそうな顔色のまま、機械的な動きで無心に手を動かす。
傷を半ばまで縫ったあたりで、応接室の出入り口に戻っていた田原が驚いたように身を強張らせ、すぐにホッと肩の力を抜いた。
「大丈夫か?」
顔を覗かせたのは桐野だった。
「一応、な。そっちは?」
血塗れで答えた浩史に、桐野は眉間に皺を寄せる。
だが追及しても仕方ない、と判断したのか、ああ、と頷いた。
「殆どは始末出来たはずだ。あの女と娘らしいものはいなかったが」
あの女、とは理絵の事だろう。部屋の隅で長山が肩を揺らすのが見えた。
桐野も気になったのか、そちらをちらりと見た後、確認するように背後を振り返る。
つられた田原が工場を見て、不思議そうにそちらへと踏み出した。咲良もつられてドアの向こうへ目を凝らす。
「先生は?」
「ネイトは………」
桐野は珍しく口篭もりながら、田原へと歩み寄り、何か耳打ちする。
途端に「えっ」と田原が肩を跳ねさせて長山を振り返り、目を見開いた。
「やめろ!」
そして咲良たちの方へと視線を流れるように移す。
田原の驚愕の表情と目が合うのと、腕の中の小町が飛び出すのは同時だった。
咲良はいきなりの小町の消失でバランスを崩して、浩史の流した血溜まりに手をつきそうになる。
「咲良!」
間一髪で後ろから引っ張られ、背中が誰かに触れた。
「桐野く―」
「浩さん!」
卓己の絶叫に振り返ると、浩史が腹を押さえて床へと頽れるのと、小町に飛びかかられた長山が倒れるところだった。




