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くぐもった悲鳴が空気を震わせる。
孝志は銜えた布越しに絶叫していた。
肩に突きたてられたナイフはかなり深く刺さっているのか、それとも筋肉が緊張して刃を締め付けているせいか、または変に刃を傾けて傷を広げてしまわない様にルイスが慎重になっているせいか、中々抜けない。
孝志はもちろん、押さえている遼や桐野も汗をかいているし、典子は孝志の手を握ったままずっと声も無く泣き続けている。
咲良は見ていられなくて目を逸らしては、何か手伝えることがあるかもと視線を戻し、を続けていた。
ピンと張り詰めた空気の中、誰かの大きく吐いた息が聞こえ、ルイスが後ろに大きく下がる。
「孝志!」
「っは、は、」
孝志の口から銜えたナイフが床に落ち、前のめりになったその身体を遼が慌てて支えた。背中側から悦子がタオルを押し付けているせいで、体重が前にかかったのだろう。
圧迫して止血しているそのタオルが、どんどんと赤く染まっていく。
「遼、顔を上げさせて。失神したり痙攣したら教えて頂戴。あと、舌を噛まないようにタオルを銜えさせて。田原くん、そっちのボトルを。咲良ちゃんはそろそろ針と糸の準備。もう少し圧迫して出血が多少治まったら縫いはじめるわ」
テキパキと指示を出していく悦子に、周りはなんとか応じている状態だ。
ルイスは抜いたナイフをテーブルに置き、悦子の補佐に入る。顔色も変わっていない。一番冷静なのはルイスだろう。
悦子ですら緊張でか強張った顔をしている。
「先生、そっちを押さえて、ああ、その前に新しい手袋をして消毒を―」
悦子の指示に咲良は慌ててアルコールを持ち直す。
ルイスが新しい手袋に変えようとして、ピタリと動きを止めた。
「先生?」
「しっ」
静かに、というジェスチャーをした瞬間、ガッと硬質な音が聞こえた。
遠い。部屋の中からではない音に、緊張が走る。
音の発生源を探し全員が息を潜める中、ガガガ、と何かを引きずるよう音が続き、ルイスが静かに立ち上がった。血に濡れた手袋を外し捨て、腰の銃を引き抜いて応接室のドアを潜る。
桐野が後を追い立ち上がろうとして、振り返った。
視線の先は長山だ。
「今の音は?工場のドアを開けた音じゃないな?」
「……倉庫の、ドアを開けた音だと思う」
「倉庫?あのブロックの?」
「耐火用で、二重扉になってる。そのドアだ。だが、あそこは……」
顔を歪めた長山に桐野が何かを問おうと口を開くが、
「眞!」
ルイスの大声に驚き、弾かれた様に桐野はドアへと走った。
消えて行く背中に、残った人間は凍り付いたようにぎこちなく顔を見合わせる。
ルイスが大きな声を出す事は今までほとんど無かった。それが指示も何も無く桐野の名前だけを叫んだのだ。異常があったとしか思えない。
浩史が長山の肩を掴み、睨みつける。
「その倉庫が、なんだ」
「……――残しだ」
「なに?」
「娘の、食べ残しを、入れていた」
「食べ残し……?」
「ほとんどは、裏の崖から捨てた。でも、まだ食えそうなのは、残していた。倉庫に」
は?と誰かが漏らした声に、ドアの外から発砲音と英語の怒声が被った。
乱暴に走る音が聞こえ、ドアから桐野が顔を出し、叫ぶ。
「あいつらが―」
「桐野!」
浩史が長山を床に放り投げて駆け、桐野の腕を掴んで力任せに引っぱる。
入れ替わる様に浩史が身を捩りながら前方へと蹴りを放った。
どす、と鈍い音がして、桐野の後ろから迫っていた人物が向こうへ転ぶ。
派手な音をたてて床に倒れこんだその人物に、すかさず浩史は踵を振り下ろした。
駐車場で聞いたのと同じ頸椎が折れた音がして、赤茶けたズボンを穿いていた足が動きを止める。だが浩史の踏みつけている首の向こうでは、まだ顎が動いていた。
無意味に空を噛み続けている。
起き上がった死者だ。
「すまん、助かった」
浩史が前に出た反動で床に放り出された桐野が起き上がりながら、礼を言う。
「無事なら良い。それより」
「ああ。死者が湧いてきた。多分、そいつの言った倉庫からだ。手を貸してくれ。後はここでバリケードをして立て籠もれ」
言うなり、桐野は銃を取り出して駆け出して行った。
浩史は逆に応接室に戻ってくる。そのまま勇の所まで行くと、勇が差し出した新しい金属製の松葉杖を受け取った。事前に非常事態には武器にする、とでも話し合いをしていたのだろう。
ポケットからハンカチを取り出して、滑り止めなのか持ち手に巻き付ける。
「俺は先生たちの援護をしてきます」
「気をつけて」
「勇さんたちは桐野くんが言ったようにバリケードを作ってください。山下さんの寝てる―」
ソファで、と振り返り、浩史の表情が驚愕へと変わった。
咲良たちが視線を追って振り返るのと同じ速度で、浩史が松葉杖を放り出し駆け出す。
立っていた田原を突き飛ばし、いつの間にかソファの上に立ち上がっていた山下へと、突っ込んだ。
「あなた?!」
恵美の悲鳴と小町のワン!という鳴き声が響く中、浩史は山下と縺れるように組み合いながら、床へと倒れこむ。
「お父さん!なん、」
咲良は、転がった山下に馬乗りになる浩史に叫びかけ、気がついた。
山下がおかしい。
あんなに具合が悪そうにしていたのに動きが俊敏すぎる。上に乗った浩史の腕を指が食い込むほど握りしめ、足は癇癪を起こした子供の様に無軌道にバタつかせている。
しかも小町が浩史の命令を無視し、山下へと駆け寄って威嚇しているのだ。
まさか、と咲良はそろりと位置を変えた。
浩史の背に隠れて見えなかった、山下の顔を確認する位置へと。
「うそ……」
見えた光景は絶望だった。
山下は、あの死者へと変貌していた。
上にいる浩史を噛もうとしているのか、顎を突き出し、空を噛んでいる。あの気弱そうな微笑みも、恵美を庇った時の必死な表情も無い。
「やだ、なんで……あなた……」
恵美の泣きそうな声が聞こえ、彼女にもその光景が見えたのだと分かった。
「っ浩おじさん!俺ら何したらいい?!」
「手伝ってくれ!もたない!」
山下が暴れる度、浩史の身体が浮き上がる。
力負けしているのだ。
「くっそ!パワータイプか?!」
遼が飛ぶように駆け寄り、バタつく足に取りつく。浩史に突き飛ばされて尻もちをついていた田原も、慌てた様に加勢した。
それでも山下の動きは止まらない。咲良も手を貸そうと駆け寄りかけ、応接室の開きっぱなしのドアの向こうに見えた人影に気づき、ドアに飛びついた。
ガシャン!と大きな音をたてて閉めたドアの、透明な窓に、向こうから来た人物が衝突する。
「吉田さん……!」
抉られた頬から覗く血に塗れた肉、痛みも何か感情を映していない虚ろな目。大きく開かれて無意味に閉じる口は、明らかにあの死者たちと同じものだった。
久佳は食事の手伝いの後、長山の娘と一緒にいたのだ。死者の肉を食っていた娘と。
こうなっていても不思議は無かった、と分かっていても、恐怖とやり切れなさで手が震えた。
それでも久佳をこちらに入れるわけにはいかない。
ドンドン、とぶつかってくる衝撃に、咲良は震えながら体重をかけてドアを押し返す。
「父さんこっち!」
「俺は?!」
「お前はあっち!」
遼と田原の叫び合いに振り返る余裕も無い。
久佳は起き上がって力が増したのか、今にもドアが開きそうなのだ。助けを求めようにも、桐野は外にいるし浩史は山下を押さえている。
誰か、と開きかけた口の横に、後ろから手が飛んできて、驚いた。
ちらりと振り返り、その手の主が田原だと気づく。さっきのやりとりは、田原をこちらに移動させてくれるものだったのだ。
「田原、さん、お父さんたちは、」
「上野のおじさんが加勢したから、多分、大丈夫。くそっ!力強いな!」
田原の言葉に、咲良はちら、と後ろを振り返った。
山下の下半身を、遼と勇が二人がかりで押さえつけている。浩史は上半身に乗り上げ、小町が山下の頭の周りで唸り山下の気をひいていた。
山下は小町に噛みつこうとはしないが、声は気になるのだろう。小町がいる方へと忙しく顔の向きをかえている。床に頭が擦って痛そうな音をたてているのに構う様子は無い。
「山下さん!」
浩史の叫び声に、泣いている赤ん坊を二人抱いた恵美が反応する。
「あ………」
震える足で立ち竦んでいる姿を振り返ることなく、浩史は続けた。
「山下さん!旦那さん、もう無理です!」
「っでも!」
「諦めてください!辛いなら見ないで、っ痛っ!」
「お父さん!」
山下の頭を押さえようと伸ばした浩史の手に、山下が噛みついた。
咲良は叫んで足を踏み出しかけ、ドアから伝わってくる衝撃に慌てて手を戻す。全力でドアを押さえつつ振り返ると、おぞましい光景が待っていた。
「ぐっ!う、あああ!」
ぶちぶちぶち、という嫌な音をたてて、浩史の小指の付け根の下の肉が食いちぎられていく。
真っ赤な血が飛び散り、山下と浩史にかかった。それでも山下の口は構わず動き、浩史はもう片方の手を伸ばし山下の額を押さえこむ。
「お父さん!」
「ああああああ!」
ぶち、とひときわ大きな音が響くと同時に、浩史の手が解放された。
音をたてて血が滴る。
その手を浩史はもう片方の腕の脇に抱え込んだ。
「誰も触るな!小町、離れろ!」
見る見るうちに手を挟んだ脇腹の服が流れる血で染まっていく。
脇から腕に、腕から指先に伝っていく血は手の平に到達して、押さえ込んでいる山下の顔を真っ赤に染めていく。
目にも鼻にも血が入っているだろうに、山下は気にした様子も無く、引きちぎった浩史の手の肉を咀嚼していた。
「あ、あ、」
「山下さん!もう諦めて!このままじゃ、浩おじさんが!」
叫ぶ遼の声に、恵美は見開いた目から涙を溢れさせつつ首を振った。
壊れた様に、あなた、と繰り返し夫を呼ぶ。だが山下は恵美の声にぴくりとも反応しない。
「あなた!やめて!やめて!!」
絶叫すら、もう山下には届かないのだ。
無表情に浩史から毟り取った肉と皮膚を食らい飲み込むのを見て、恵美は泣き叫ぶ赤ん坊たちを抱きしめて頽れた。




