12
頭が痛い。
じんじんと痛む頭に手を当てようとして動かし、ぴちゃん、と水音が聞こえた途端に、一気に色んな音が耳に入ってきた。
雨が路面を打つ音、小町のワンワン!と吠える声、それから、誰かの怒号。
「―なせ!触るな!」
桐野だ。
なんでここに桐野が、と思う間もなく、腕を思い切り引かれて引きずられ、痛みに意識がはっきりした。
「咲良!起きろ!」
目を開けると、雨に打たれた桐野がこちらに駆け寄ってくる所だった。一目で激怒しているのが分かる。
今日も昨日も避けていたから怒ってる?と怯んだが、すぐに桐野の怒りの元が自分じゃないのに気付いた。
咲良の腕を掴んでいる相手だ。
腕から誰かの震えが伝わり、見上げると男の人がいた。浩史より少し若いくらいだろうか。
咲良が見上げているのに気付き、驚いて咲良の腕を放り出して、ぱっと離れる。
路面に叩きつけられそうになって咄嗟に手を前に出した。
「咲良!」
地面についた手が痛い。
けれどそれ以上に状況が分からなくて泣きそうだ。
なんとか庇った上半身に桐野の手が回り、抱える様に起こされる。
「怪我は?ないか?」
「わ、分かんな―」
「動くな!」
突然聞こえた野太い声に、膝をついた桐野と一緒にそちらに向き直ると、大きなスコップを抱えた体格のいい中年男性が立っていた。
男の後ろには、さっき咲良の腕を抱えていた男性がいて、オロオロしながらこちらを見ている。
きつく睨み上げた桐野に、男は怯えて顔を引っ込め、スコップを持った男は睨み返してきた。
「……何の用だ」
「その子置いてどっか行け。そうしたら見逃してやる」
「は?」
スコップを抱えた男の言葉に、桐野がイラッとしたような声を出す。
「寝言は寝て言え。お前らこそ消えろ」
咲良を抱きかかえたまま、こっそりと桐野が背中に腕を回し、何かに気づいたように目を見開いてから小さく舌打ちした。
「桐野くん?」
「銃忘れた」
ぼそりと耳元で呟かれ、今度は咲良が目を見開いた。それに何を思ったのか、小声で弁解される。
「……上野のおじさんから連絡貰って、急いで来たら、お前が車から引っ張り出されてて、慌てた」
悪い、と囁かれたが、桐野が悪いわけじゃない。こうしてきてくれたから、あのまま男に引きずり回されないで済んだのだから。
「あ、ありがと―」
「何ボソボソ喋ってるんだ!さっさとしろ!お前はトランクから荷物出せ!」
ひっと声をあげて、咲良の腕を掴んでいた男が慌てて車の後ろに駆けていく。
「どういうつもりだ。この車はお前らのものじゃない。荷物はこちらのものだ」
威嚇するような桐野の言葉に男は鼻で笑ったかと思うと、いきなり声を裏返しながら怒鳴った。
「見ろよ!お前んとこの車のせいで、うちの車が事故ったんだぞ!」
目をむき出しにして唾を飛ばす姿に、咲良は思わず桐野の腕に縋った。
怒り方が尋常じゃない。目は血走っている様に見えるし、唾が顎にまで垂れていくのに拭く様子が無い。よく見れば男の手はぶるぶると震えている。
そんなにひどいぶつかり方をしたのか、と車の方を振り返れば、中原家の車の向こうに知らない車が停まっていた。予想したよりひどいぶつかり方はしなかったのか、どちらも多少凹んでいるだけに見える。
「ひどいだろ?!だから慰謝料だ!慰謝料代わりに荷物を貰うんだ!何が悪い?」
自分で言った言葉に興奮したのか、怒鳴り声がどんどん大きくなっていく。
その様子が怖くて咲良は黙り込んだが、桐野の方も口を開こうとしなかった。刺激する事を恐れたのだろう。
男はしばらく怒鳴り散らし、息がきれたのか咳きこんでから、ため息をついて少し落ち着いたトーンになって続ける。
「分かるだろ?こんなんなって、もう何日だ?飯だってちゃんと食えてないんだ。女がいないからだ。なぁ、その子、飯作れんだろ?」
その子、と咲良を目線で示す。
「飯が食いたいんだよ、温かい飯が。だから、なぁ坊主、その子を置いてけよ。変な事はしねぇよ。うまい飯が食いたいだけなんだ」
今度は異常に優し気な猫撫で声になる。
咲良はそのアップダウンの差が恐ろしかった。元からこういう性質の人間なのか、それともこの異常事態で精神的に追い詰められてしまったのか。
いずれにせよ、普通じゃない。
何といえば諦めてくれるのか、と悩んだ咲良と違い、桐野が反射の様に呟いた。
「……飯ぐらい自分で作れよ」
「んだと!ガキが!」
正論だが男の神経に触ったのだろう。
脅す様にスコップを振り上げた。
「お前、誰に向かって物言ってるのか、分かってるのか?あ?」
掲げたスコップの先を見せつけてくる。
本来土を掘る金属の部分は、どす黒く汚れていた。降り注ぐ雨が金属を滑り落ちていき、スコップの縁から滴る時には仄かに赤茶けた水になる。
どす黒い汚れは、多分、血だ。血が酸化して、こびりついたものだ。
死者か生者か、あれで何人が傷つけられたのだろう。
ゾッとして桐野を見上げる。反撃する手立ては無い。いくら桐野が強くても、男にはスコップという武器がある。
桐野だけなら、逃げられるはずだ。
もの言いたげな咲良の視線に桐野は無言で答え、咲良の頭を抱え直した。
「っ良い度胸だ!クソガキが!」
男の怒声に、桐野が咲良を抱え込んだまま、男に背を向ける。
その行動に咲良は息を飲んだ。
いつだって桐野は前を見て攻撃の隙を伺っていた。相手が人であれ死者であれ、無防備に背中を見せる事なんて、無かったのだ。
思わず咲良は桐野の背中に手を回した。
「ごめん」
小さく声が漏れる。
桐野の事を避けて、変に距離をとった。異母きょうだいかも、なんて勝手な憶測で。
本当の所、桐野が異母きょうだいかどうかなんて分からないし、何を考えて咲良を守るのかも分からない。
けど、どう考えても怪我をしそうな、下手をしたら殴られて死んでしまうかもしれないこんな状況で、身を挺して咲良を庇ってくれているのは事実だ。
異母きょうだいかも、なんて事で頭がいっぱいになって忘れてしまっていたが、学校からこれまでだって、ずっと守ってくれていた。たかが異母きょうだいかも、というだけで今までの行動への感謝を忘れるのは、違うはずだ。
もう一度小さく口の中でごめん、と謝り、少しでも男から遠ざかるように桐野の背中に回した手に力をこめ、咲良は自分の方へとぎゅっと引き寄せた。
驚いたように桐野の腕の力が一瞬弱まり、すぐに強く抱きしめ返される。ぴったりくっついた身体からは、痛いほど早い鼓動が聞こえ、息を飲む。
顔を強引に上向ければ、桐野の肩越しに振り上げられたスコップが見えた。
雨でぬめるような鈍色のそれが振り下ろされるのを見ていられず、目を瞑る。
ひゅ、と風を切る音がして、
「っぎゃ!」
あがった悲鳴に、驚く。
桐野の声じゃない。
がしゃん!と金属が地面を打つ音に桐野の腕が緩み、二人一緒になって男を振り仰ぐ。
「クソはお前だ」
浩史がそこにいた。
は、は、と荒く息を吐き、路面に転がったスコップの横で尻もちをついている男を睨んでいる。
ずぶ濡れの頬を鬱陶しそうに拭うと、拭ったシャツが赤く染まった。頭から血が出ているのだ。
「お父さん!」
「咲良、そこに、いなさい」
怪我をしているせいで意識が朦朧としているのか、瞬きしながらふるふると頭を振る。
「こっの!」
今にも倒れそうな浩史の様子に、男が立ち上がる。
即座に桐野が男に飛びかかろうとしたが、手を離した咲良が地面に倒れこみそうになるのに気付き、抱え直された。
「私じゃなくて、お父さんを、」
「桐野くん、咲良を、頼む」
きっぱりと言われ、桐野は咲良を優先する事にしたらしい。
いきなり脇に手を通されたかと思うと、抱き上げられた。
「桐野くんっ」
持ち上げられたからか、大声をあげたからか、消えていた頭痛が蘇って眩暈がし、そのままぐんにゃりと桐野にもたれかかってしまう。
駄目だ、と無理矢理顔を上げて父を見れば、対峙するようにスコップを持った男が立っていた。
「やだ、お父さん、」
やめて!と叫んだ声を、激しいブレーキ音が遮る。
雨に滑りながら、二人の向こうに見知った外国車が急停止した。
「浩さん!」
ドアを開けて卓己が出てくる。
「なんだ?お前。こいつらの仲間か?」
体格の良い卓己の姿に分が悪いと思ったのか、スコップを握った男が一歩引き、卓己を睨んだ。
「仲間だよ。あんたは誰だ」
「勝者だ。勝者になるんだ。お前もボコボコにされたくなかったら、さっさと消えろ」
構えたスコップを見せつける男に、卓己が立っていたドアの影から出てきた。
にやにやしていた男の顔が凍り付く。
卓己は大きな銃を構えていた。
「お、まえ、」
「自動小銃。分かるか?ライフルってやつだ」
肩に乗せる様に構えた金属の先を、卓己は男に向けた。
「う、撃てるもんか。お仲間に当たるぞ」
男が強がるように言った途端に、卓己がわずかに先を逸らし、撃った。
ルイスの持ってた銃とは違い、派手な音がする。同時に悲鳴が聞こえて全員が振り返ると、中原家の車の横にいた男が尻もちをついていた。咲良の腕を掴んでいた男だ。
手に持っていた荷物や中原家の車の鍵を放り出し、腰が抜けたのか、ひぃひぃ言いながら、両手を地面について後退ろうとしている。
「今のは威嚇だ。次は当てる」
自動小銃を構え直した卓己に、スコップを放り出し、男は両手をあげた。卓己が本気だと分かったのだろう。
「あ、当たるもんか」
「猟師なんでな。これの扱いには慣れてる」
「ひっ!やめろ!分かった!分かったから、銃を下ろせ!」
「あんたらが消えたら下ろしてやる」
行け、と銃の先で示され、男たちは飛び上がる様にして、中原家の車の後方にあった車に駆け寄った。先を争う様にして車に乗ると、エンジンをかけて急発車する。
水を跳ね上げ、横転しそうな勢いで角を曲がり、走り去っていく。
けぶる雨の向こうに消えていった車を見送り、完全にエンジン音が聞こえなくなってから、全員が安堵の息をついた。




